今年の我が家の十大ニュースです。振り返ってみると、ありがとう、の多い1年でした。
1.関西の別宅を売却
売却したマンション、買ったのは23年前です。勤務地が変わり、自転車通勤から電車通勤に、仕事も忙しく、朝6時前に起きて家を出て、帰るのはときには夜中の12時、1時という生活が続いたときでした。職場近くに住もうと、妻と二人で住まいを探しに出かけ、駅を降りたところで建設中の駅隣接マンションを見た妻が、ここにしよう、と言い切りました。申込抽選で当たったときには二人で小躍りして喜び、抽選会場近くのうどん屋さんでささやかなお祝いをしています。ところが、住んで1年ほどで横浜に転勤、それ以降貸家としていましたが、今年売却、現自宅近くの新しいマンションを購入するためです。20年以上家賃をしっかり稼いでくれました。ありがたいことです。
2.高齢者の仲間入り
65歳以上の高齢者に市から配布される「すこやか福寿手帳」が1月に届きました。「元気度チェック」のページには、15分位続けて歩いていますか、との質問が。こんな質問されるような歳ではない、と怒りさえ覚えましたが、更にページを進めると、この手帳で毎月1日銭湯無料、とありました。これは嬉しかった。今年3回ぐらい利用しました。
3.JRジパング倶楽部に入会
会社の同期メンバーとの毎年恒例の宴、関西組と関東組が半々なので、ほぼ中間となる浜名湖湖畔のホテルに集まりました。そのうちの何人かが運賃3割引きでやって来たのです。JRジパング倶楽部の特典とのこと、早速夫婦で入会しました。一人が65歳以上であれば二人とも入れます。これで、今年の夏は秋田県角館への新幹線の旅となり、昨年の札幌への普通列車の旅から大幅にグレードアップしました。来年の宴には運賃3割引きで参加、と考えるととても幸せな気分になります。ジパング倶楽部さん、ありがとう。
4.お正月の台湾美食の旅
台湾での数々の美食のうちで、最も印象に残っているは、秀蘭というレストランでの鍋、そこで食べた、魚介類や肉の旨味がしっかり浸み込んだ柔らかい白菜です。明日からの正月もこの白菜をいただけることになりそうですが、初めての時の強烈な印象が薄れてしまうかもしれません。でもまあ、美味しいことだけは確かですから、いまから心踊る気分です。今回も飛行機、ホテル、食事、全て事務所のボス持ち、これも、ありがたいことです。感謝、感謝!
5.大阪でのテレビ収録の見物
事務所のボスが出演する番組を初めて見物しました。いつもは一人でテレビ局に入るボスに、この日は付き人がついていたので、私のお弁当を番組スタッフが控室に届けてくれました。局の手提げ紙袋に、なだ万のお弁当、まい泉のカツサンド、飲み物が入っています。興味半分でついて行っただけなので、少し申し訳ない気持ちです。1時間半番組で収録は2時間、2本収録なので、準備と途中休憩を含めて5時間、高齢のボスにはかなりきついと思いきや最後までとても元気、もともとおしゃべりは好きだし、言いたいことを言っているので疲れる要因はないのでしょう。この日の朝はボスが宿泊する高級ホテルで朝食、パンプキンスープ、クロワッサン、オムレツ、フルーツ、全てが美味、幸せな朝食でした。
6.東海道500キロ歩き旅
毎年恒例になりました。70歳までは続けたい、という当初の想いは変わらず、ここにきて自信も持ち始めました。そのために大切なのは毎日、せっせと歩いています。この目標があるから毎日歩ける、とも言えますが。今年歩いた総計は4,125km(平均1日11.3km)、昨年の3,334kmよりは24%増えましたが、毎日10km散歩を始めた2008年の4,789kmよりも14%減っています。今年ぐらい歩ければ東海道歩き旅には問題なさそうです。来年からもこのペースにしようと考えています。
7.20代体重キープ
毎日の歩きだけでなく、昼食を軽めにしているのも体重キープに寄与しています。今年101歳になった現役医師日野原さんの昼食は牛乳500mlとビスケット2枚だそうです。私はバナナとパンとチーズとジュースですが、100歳になったらビスケット2枚にしようと考えています。
8.尿路結石で尿が出ない
愛犬モモのことです。13年前に生まれ、人間でいうと68歳になります。私の年齢を超えた高齢犬、いろいろなことが起きています。その一つが尿路結石でした。その朝の散歩では普通に放尿していたのに、夜の散歩で放尿できず、苦しそうに背中を丸めて出そうと頑張るだけ。慌てて獣医さんのところに連れて行くと、尿道が詰まっているとのこと。詰まった物をカテーテルで押し込むと尿がドッと出てきました。表情の変化は読めませんが、きっとホットしたことでしょう。レントゲンで石がたくさん確認されました。再発の可能性大です。今は、pHコントロールのドッグフードで石を溶かす、という食事療法中、うまくいくといいのですが。
歳をとって、暑さ寒さに弱くなりました。夏の散歩ではすぐにハアハア苦しそうに息をしてあまり歩きません。少しでも歩かせようとじっと見守るので、散歩に1時間近くもかかります。すれ違う人が「かわいそうに」と一言、決して虐待しているわけではないのですが。冬は朝早く騒ぐようになり、最初は原因が分からなかったのですが、どうも寒さで目が覚めて騒ぐようなのです。ホットカーペットを夜通し点けておくことで騒がなくなりました。朝見に行くと、暖かいカーペットの上で横になって、手足を伸ばして寝ています。
耳も遠くなりました。以前であれば雷が鳴ると、どこかに逃げなくっちゃ、とばかりに部屋を走り回って手に負えなかったのですが、最近は何も反応しません。どうも聞こえないようです。これは助かります。これからもいろいろありそうですが、とにかく幸せな老後となるよう見守っていこうと考えています。
9.大幅断捨離
3月に引越す新居が2割以上狭くなるので、大幅な断捨離を実行中です。ダンボール3個のアルバムや写真をパソコンに取り込み、ダンボール7箱の本をブックオフに持って行ってもらいました。妻の嫁入り道具だった和服や和ダンスなどは妻の実家に、と画策していますが、妻の実家がいくら広いといえども、引越しのたびにいろいろなものを送り込んでいるので、許可が下りるかどうかは分かりません。布団は姉に、と考えていますが、これも引き取ってもらえないかもしれません。完全に捨てるということがどうしてもできないで、未練たらたらの断捨離です。
10.新散歩コース
妻と二人での夕食後散歩のコースが変わりました。新しいスーパーができて、それをコースに入れたのです。広くて明るいお店、椅子とテーブルのある休憩コーナーには電子レンジや給茶機などがあり、ここでお茶をいただきます。夜9時半閉店の1時間半ほど前になると、翌日では売れないおかずなどが割引となります。バナナも割引に、変色しているわけでもないのに値引きするのはここだけ、ということで我が家のバナナは全てここで調達するようになりました。ときには50円になることもあり、嬉しい立ち寄りです。
来年春、新居に引越します。駅、飲食店街、スーパー、病院、図書館などが雨でも濡れずに行ける便利なところなのですが、占有面積が2割以上狭くなり、結果として1部屋削減となります。このため大幅な断捨離が必要です。
食器棚を半分にすべく使わない食器を50%断捨離、タンス2個を1個のさらに半分にすべくタンス内の着ない洋服を75%断捨離、本は近くの図書館利用としてほぼ100%断捨離、アメリカ駐在時にたくさん買った飾りの置き物もほぼ100%断捨離、などなどを考えてはいますが激しい断捨離なのでどうなることやら。
すでに少しづつ進めています。まず手を付けたのは愛犬モモの室内ケージです。34%スペース削減の小型ケージに。引越しと同時だと何もかも変わってしまって、気の小さいモモがノイローゼになると困るので寝床だけでも前もって慣れてもらおうという狙いでした。取り替えて嫌がったらどうしよう、との心配をよそに、結構すんなり受け入れてくれて一安心、数週間後に新ケージの中で寝るようになったのを見て、旧ケージを廃棄しました。これでモモの転居は成功です。小さくなったので、いままでケージの中で食事していたのが、半分ほど体を外に出して食べたり、中でのびのび寝てたのが、対角線上に斜め寝となったりしていますが、文句も言わずに自分の家として使っています。
写真は100%断捨離、といってもスキャンしてパソコンに入れます。ダンボール3箱程度のアルバムと写真を処理、ネガのあるものはネガから、無いものは写真から、散歩のできない雨の日などにせっせとスキャンしほぼ終了、偶然にも総数7,777枚、ラッキーナンバーとなりました。デジカメに替わった2003年ごろまでの約55年間の記録、といってもほとんどは就職してからの写真で、それ以前は445枚で6%ほどです。
この6%の中に、全体で最も印象深い写真がありました。大学受験に向けて自宅で勉強している姿です。目の前の張り紙に「1月の時間割」「7時起床」「12:30寝る」などの文字が、スケジュール表には終了した日に太い×印がついています。工業高校だったので受験のための授業は少なく、参考書を使っての独学でした。数校を受験、順に受験、合格発表、入学金納付の日程で進むのですが、入学金納付までには次の大学の合格発表があって、全てに合格したので入学金を納めたのは最後の1校、つまり入学した学校のみで済みました。兄弟から「見直した!!」と言われて嬉しい思いをしています。この受験での頑張りと、得た自信がその後の生き方に大きく影響していて、だからこその思い出深い1枚なのです。
写真に残るのは旅行か何かの集まりがほとんどです。就職してからの写真が7千枚以上、その後のデジカメ撮影まで入れると1万枚近くにはなるのでしょうが、それだけよく遊んだということ、そしてそれはよく働いた証だといえます。シーズンになると毎月のように出かけていたスキー旅行、夏のテニス旅行、職場の課や部の旅行、アメリカ駐在時の2ヵ月に1度ぐらいの頻度での旅行、帰国後も海外旅行にせっせと出かけました。妻と二人で、友人たちと、妻の両親や私の両親と、さまざまなところに出かけて楽しんでいます。多くの楽しそうな写真、1枚1枚を見ても、こんなこともあったなぁ、で終わってしまいますが、まとめてみると、いままで順調だったことをつくづく思い知るのです。
朝ドラを見るようになって、友人から、少しは人並みになった、と言われましたが、最近新聞も読むようになりました。いままでの日経新聞に加えて産経新聞をとるようになり、この産経を読むついでに、ほとんど読まなかった日経も読んでいます。全体的に、日経のほうが信頼できそうですが、産経のほうが面白い。
最初に見るのが一面にあるマンガ「ひなちゃんの日常」、実にほほえましく、1日のスタートにふさわしい内容です。大好きなスヌーピーの連載も見逃せません。司馬遼太郎作品からの一言を毎日取り上げて解説する「司馬作品で読む日本史」もなかなか味わいがあります。どの一言にも司馬さんの歴史観が詰まっていて、読み応えがあり、楽しめます。作品のほとんどを読んではいますが、若い頃のことなので、その多くは覚えていません。でも読むと司馬さんの世界が広がり、若い頃を思い出すこともあります。仕事に出かけない日は朝食後にゆっくり読み、少しだけリッチな気分の朝となります。
ニュースは主に政治関連を、経済、社会はたまに、といった感じです。勤務先事務所には政治家の方もときどき来られて、お話はしませんが、間近で見て、その人柄に感銘を受けることがあり、そういった方々に関連した記事を読みます。今回自民党総裁になられた安倍晋三さんもそのお一人で、関連記事が最近多いのでよく読んでいます。
先月の総裁選では、「安倍晋三 総裁選決起集会」に事務所のボスとともに出かけました。冒頭に述べた友人も参加したので、ボスに紹介したら、(私に)よく(事務所の仕事が)務まっていますね、といきなり切り出しました。テレビも見ない、新聞も読まない、世の中に疎い、そんな者がよく務まっているなぁ、という意味なのでしょう。友人は、新聞はこまめに読んでいるし、国会中継などもしっかり見ているようで、世の中の動きに敏感です。ボスは、初対面での友人の言葉に少し面喰った様子でしたが、仲がいいのね、とフォローしてくれました。考えたら、世情に疎い私でも何とか務まっている今の事務所、定年後の職場としては最高なのではないでしょうか。
新聞を少々読むようになったからといって疎さが改善されることはないでしょうが、朝のささやかな楽しみとはなっているようです。それに人並みにまた近づいた、ということにもなります。
昨年の夏は「北海道&東日本パス」、普通列車7日間乗り放題1万円の旅でしたが、今年は「大人の休日倶楽部パス」、新幹線も含めた4日間乗り放題1万5千円の旅となりました。普通列車からいきなり新幹線にグレードアップ、昨年9時間以上かかった盛岡が今年は2時間半です。
パスの名称からも分かりますが、ジパング倶楽部会員専用、65歳から入会できるので5ヶ月ほど前に入りました。200キロ以上のJR切符であれば、最初の3枚が2割引、4枚目から3割引となります。6月に京都2回と大阪1回を往復し、今回のパスで4回目の旅行、このうちどうしても行かなくてはいけなかったのは京都だけ、その他はこの倶楽部特典が背中を押しています。まあ、JRの戦略にまんまと乗せられている、あるいは、喜んで戦略に乗っている、ということのようです。
旅行は秋田の角館、見どころは何といっても武家屋敷通り、幅11メートルという広い通りの両側に武家屋敷の黒板塀が続き、その塀を覆うばかりの大きな枝垂桜が屋敷内から伸びています。武家屋敷には樹齢200年もの大木もあって、春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色、などの素晴らしさが想像できます。唯一のシーズンオフが真夏、しかも40年ぶりの猛暑というか残暑でした。でも、3000坪もの武家屋敷が分割もされずに残り、200年前の屋敷が今でも住めるほどに維持されている姿は見ごたえがあります。1976年、岐阜高山の白川郷などとともに最初の重要伝統的建造物群保存地区となったのもうなづけます。「たそがれ清兵衛」など、多くの時代劇のロケ地となっています。
桧木内川(ひのきないがわ)堤の全長2キロにわたるソメイヨシノも有名で、桜の時期には150万人もの人が訪れるそうです。国名勝に指定されています。早朝のひっそりした堤で、心地よい川風を受けながら涼しい木陰をぶらぶらしています。真昼には、堤沿いにあった名物「もろこし」、あずきで作ったラクガンのようなお菓子、の店でもろこしソフトクリームをいただきました。もろこし味とミルクのコンビネーションで美味しさを倍増しています。店頭で食べながらふと道向こうを見ると、ババヘラアイスとあります。お婆さん(ババ)がヘラでシャーベットをバラの花の形ちにしてくれる秋田名物、ソフトに続いてこれも食べました。形ちだけでなく、味もなかなかです。また、ここで手を洗った井戸水、その冷たさ、気持ちよさは格別でした。唯一のシーズンオフであっても、それなりに楽しみがあるのです。昼食の地鶏は味付けが濃くていまいちでしたが、夕食の豆腐料理は大変美味しくいただきました。水が美味しいところなのでしょう。豆腐の味は水で決まるといいますから。
角館で1泊して、翌日は盛岡で美味しい冷麺を食べてゆっくりしてから、大宮で上越新幹線に乗換えて糸魚川へ、妻の実家に行きました。新幹線や特急だからこそできる移動です。改札口やみどりの窓口で同じパスを持った方を見かけています。前日の新幹線でも、同じ車両の3分の2ほどの乗客がこのパスの利用者とおぼしき人たちでした。夫婦のどちらかが65歳以上であれば二人とも入会できるためか、夫婦連れが多く、昨年の「北海道&東日本パス」とおぼしき人たちが、初老の男性や若い女性の一人旅、中年女性や若い男性のグループ旅だったのとは少し違う雰囲気です。一昨年の「青春18キップ」、昨年の「北海道&東日本パス」と、普通列車の旅もそれなりに楽しかったのですが、今年新幹線の旅を味わってしまってからは、普通列車には戻れないかもしれません。
朝5時前に起きて築地市場へ行ってきました。さすが大東京の台所、世界一の規模で、見ごたえがあります。
高い屋根に覆われた場内で、幅1メートルほどの狭い通路の両側にずらっと並んだ仲買店、数坪ほどの広さで、全部で1,000軒以上あって、8,000人ほどが働いています。通路は何本もあって、縦横で交差しており、頭上に表示されている番号を覚えておかないと迷子になりそうです。狭い通路を買い物客が行き交い、荷物を運ぶターレーという超小型トラックが走っているので、前後左右、360度で目配りしないと危険というか、迷惑をかけてしまいます。ここをスムースに歩くだけでもコツが要る、ということのようです。
歩いても歩いても魚介類が並び、その種類と量に圧倒されます。これだけのものが1日でさばけるのでしょうか、にわかには信じられません。大都会の胃袋の巨大さを示しているようです。当然ですが、新鮮で、場内に生臭さは全くありません。日本各地から、世界各国から集まってきていて、同じものでも値段はさまざま、おそらく味もさまざまなのでしょう。
今回は寿司屋の親父さんに同行しての見物でした。40年以上、内30年以上は寿司店を経営しながら寿司をにぎってきたおやじさん、愛嬌があって飾らない人柄で周りの人にとても好かれています。私も大好きです。私が働いている個人事務所で年数回開催されるパーティで寿司バーを担っています。この日は、翌日のパーティに向けての事前発注でした。おやじさんがにぎる寿司は極上で、パーティに出席するほとんどの方が絶賛します。誰もが知っている著名な方も多いのですが、またあの寿司を食いたい、とおっしゃるそうです。私もいただきます。ときにはお土産に持って帰ったりもします。だからおやじさんが大好き、ということもあるかもしれません。美味しいものは、人々をつなぐ力があるということですから。
おやじさんに同行して、仕入れの難しさや醍醐味を垣間見ることができました。まずこれだけの仲買がいて、どの仲買から買ったらよいのかが難しそうだし、仲買との付き合いも難しそうです。昔は、お前ら買わなくったっていいよ、という感じで仲買は威張っていたそうです。今ではかなりましになったとのことですが、エビの仲買で、おやじさんが「明日はどうかなぁ?」と尋ねると、「明日はわかんねえよ」とすげない返事、その片鱗を感じます。寿司ネタになくてはならないマグロ、その仲買とは、いきなり買付に入ることなく、まず雑談から始めました。開催中だったオリンピックのメダリストのこと、旬の話題です。そのうち通りがかった顔見知りの買出し人が入って話が膨らみます。頃を見てマグロを品定めする、といった具合でした。いきなり本題にはいるのは、野暮というか、足元を見られるということなのかもしれません。
以前の会社が築地にあったので、昼食などで場外には結構行きましたが、場内の仲買街は初めて、そこには大都会の鼓動を感じることができる、全く別の世界がありました。
「梅ちゃん先生」、いいですね。みんなひたむきで可愛い、お父さん2人も。家族の核となって、子どもたちを甘やかすことなくしっかり見守っている、信頼され頼りにもされている。最近のいじめ報道では学校側ばかりが問題のように言われていますが、こんな家庭ならいじめる子にはならないし、いじめられてもちゃんと親に相談する子になるように思うのですが。
テレビはほとんど見ないのですが、今年になって朝ドラを見るようになりました。それまでは、「え!『ゲゲゲの女房』見てないの。あの国民的番組を!」と小ばかにされたりしましたが、これでやっと人並みということでしょうか。働いている個人事務所でのサイト構築や物品販売がひと段落して、今年からゆとり生活なのです。それで「カーネーション」の後半から見始めて、その面白さで「梅ちゃん先生」も、という流れになっています。
いままでに見た朝ドラは「ひらり」と「さくら」、それ以外にも見ているのかもしれませんが、タイトル一覧を見ても他の内容は思い出せません。この2作、どのような時期に見ていたのかが気になって調べてみました。「ひらり」は20年前の1992年10月から、「さくら」は10年前の2002年4月からで、おお、10年毎に朝ドラを見てるんだ、と思いつつ、どんな時期だったのかと考えると、そのときも結構ゆとり生活だったのです。
「ひらり」は、20年ほどの京都勤務から横浜勤務となった1991年4月の1年半後、数年にわたる大きな開発が終了し、TOEICアップ目指して英会話を勉強していたときです。「さくら」では、30年ほどのメーカー開発業務から広告代理店広告制作業務に出向となった2000年1月の2年後、広告代理店にも慣れて、「編集・ライター養成講座」を受講していました。そして、このときの勉強がその後の転機のきっかけとなっています。英語の勉強がアメリカ駐在につながり、講座の受講がいまの個人事務所勤務につながった、とも言えるからです。そう考えると、いまのゆとり生活で何かをやれば先々チャンスを掴めるかもしれません。あらためてパソコンの勉強を始めていますが、もう歳が歳なので、さてどうなることか。
新聞も読むようになりました。まだ見出し読み程度ですが、朝刊小説だけだったいままでからすると進歩です。これもちょっと人並みに。小説もいままで以上に読めるようになりました。朝刊小説の「等伯」が面白かったので、その流れで同じ安部龍太郎作品の「信長燃ゆ」を図書館から借りていま読んでいます。これも同じ新聞の朝刊小説なので読んだはずですが、あまり記憶にありません。1999年7月から2000年5月の連載で、広告代理店への出向前後でゆとり時期ではなかったためでしょう。この「信長燃ゆ」も期待を裏切ることなく面白いので、他の作品も安心して読めそうな予感がします。どの作品でもあるレベル以上は確実、という作家は少なく、安心して読める作家が見つかれば、こんな嬉しいことはありません。もしそうだとすると、ゆとりのおかげでいい出会いがあった、ということになりそうです。
20年ぶりの再会です。若い頃の職場の先輩2人、後輩1人と昼食をとりながら、話が弾み3時間近くも、それでも話題は尽きず、なごり惜しい気持ちのまま散会しました。3人は関西在住、関東在住の私が会える機会は、いままでも、そしてこれからもほとんどありません。それだけに濃縮された時間だった気がします。
別れる少し前になって、もう会えないかもしれんなぁ、とか、次に会えるのは俺の葬式のときかなぁ、そのときは遺影の後ろから見てるよ、といった弱気含みの冗談が飛び出しています。亡くなったり、病気がちだったりのかつての同僚の話も出ていて、自分の歳をあらためて考えさせられるひとときでもありました。
長時間の昼食会、かなりの時間を私がしゃべっていたように思います。京都までの歩き旅のことを得意げに話すと、スゴイを連発してくれて、面白げに話すと、大笑いしてくれて、調子に乗って、アメリカでの生活のことや、いまの個人事務所のことなどを話すと、それもしっかり受け止めてくれて、私の気分は最高、楽しさで溢れました。後になって思うと、それは先輩が後輩を暖かく見守る姿だった、そんな気がします。こんな歳になっても、若い頃の関係のままで応援してくれたようで、とても嬉しい気持になりました。私の性格もよく分かっていて、飾ったり、背伸びしたり、緊張したりすることなく、いまのこと、昔のことを自在に、思うままに話ができました。先輩2人ともが、昔と変わらないね、と言ってくれました。若い頃から前向き、いまも前向き、そんなところを見てくれたのでしょうか。まあ、進歩してない、という意味もあるのかもしれませんが。
この再会は今月28日、滋賀県の草津にある持家が売れ、その引渡しのために出かけたときでした。家を買ったのは23年前、勤務地が京都から草津となり、仕事の忙しさに加えて、自転車通勤から電車通勤となってしまったので、歩いて通えるところに新築マンションを購入したのです。その後の横浜転勤のため、住んだのは2年間たらずでしたが、居住性の良さ、駅直結の便利さ、比叡山や琵琶湖を臨む眺望の良さなどで満足できる住まいでした。マンションは初めてでしたが、その快適さに、それ以降国内での住居はマンションとしています。
関東に移って20年、持家を関西から関東に移したい、と以前から考えていました。今回、縁があって売れることとなり、その思いが一歩前進しています。引渡しが無事終了して、新幹線で帰る車中、大きな入金金額が記帳された預金通帳を眺めて、重い荷物を降ろしたような、とても軽やかな気分を味わいました。関西に住んでいたのもやはり20年ほど、そこの持ち家が無くなる寂しさはありますが、その間に一緒に働いた仲間はまだまだ健在で、会えば楽しい時間となります。家はなくなったけど、仲間が残っている、それで十分でしょう。
3回目の京都への歩き旅、自宅から京都まで11日間で498キロ、1日平均約45キロ、もう一歩も歩きたくない、という瞬間を今回初めて経験しました。その日、妻に電話で報告すると、普通の人はそうなのよ、と軽くいなされましたが。
原因はマメ、それも最も歩きにくい足裏です。1日目が川崎の自宅から小田原までの67キロ、翌日が雨の予報だったので歩けるだけ歩きました。2日目、お昼前に雨がやんだので小田原を出発、途中で小雨になりましたが、そのまま箱根越え、三島へ37キロ、ここで靴の中が濡れたまま歩いたのがマメの原因となったようです。3日目の由比までの41キロでマメができました。4日目の藤枝までの47キロで、マメの痛みと、それをかばっての変則的な歩きで足親指の関節が痛みだし、もう歩きたくない、となったのです。
ホテル手前5キロぐらいのところ、でも歩く以外に方法はなく、何とかホテルにたどり着いたものの、翌5日目の磐田までの43キロでは、最初は妖怪のようなゆっくり歩き、東海道歩き旅と思われる、中年の夫婦に、老人男女4人に、若い男性2人に、追い抜かれました。追い抜かれたことなどあまりなく、とてもみじめな気分でした。それでも、15キロほど歩いて大井川を渡り、日坂への山を登り始めると痛みが和らいできて、何とか歩き切りました。
6日目の浜名湖西の新所原までの42キロ、7日目の岡崎までの45キロと歩くうちに、マメの痛みは和らいだものの、腰が痛くなり、真っ直ぐな姿勢で歩くことができなくなりました。ここが限界、と8日目は1日中ホテルで休養です。この日、天気予報通りに小雨と強風の1日となり、おかげで気分的な焦りも出ずにゆったりできました。歩ける天候なのに歩かないのは嫌なものです。この休養が功を奏して、9日目の名古屋市内までの36キロ、10日目の鈴鹿までの47キロはまあまあの歩き、11日目の水口までの45キロは普通の歩きとなり、12日目の京都までの48キロの、特に前半24キロは昨年同様の楽しい歩きとなりました。
GPS記録でも、もう歩きたくない、と思った4日目が時速4.2キロ、朝追い抜かれてみじめな思いをした5日目が3.9キロ、疲れが限界となった7日目が4.3キロで、普通では考えられない速度です。いつもは2時間半あれば余裕で行ける10キロに、3時間近くかかるなぁ、などと思いながら歩いていました。通常は時速4.5キロぐらい、今回でも初日で5.0キロ、最終日で4.5キロでした。
今回のことで、前回、前々回がいかに順調だったのかを思い知りました。何か事があればとんでもない苦行にもなりかねない歩き旅となるのです。マメはもちろん、歩けなくなる要因となる足腰の不調や体調不良、それに事故、特に暗さや疲れでのつまずき転倒、などには十分すぎるほどの注意深さが必要だとあらためて認識しました。歩道のない道路を歩いていて、通り過ぎる車を見ながら、いま転倒したら車にぶつかってしまうなぁ、などと考えたこともあります。何事も甘く見ない、特に、かつてうまくいったからといって。そんなことを身をもって実感した歩き旅でした。この歩き旅は「大江戸ウォーキング」でも報告しています。ご覧ください。
中学同窓生との会話が予想外に楽しい。45年間ほとんど交流がなかった割には、共感や納得が多々あるのです。考え方や生き方が似ているためかもしれません。2年前から飲み会を始め、今月初旬に3回目がありました。初回は少しぎこちなさがありましたが、3回目となると最初から本音トーク、それも楽しい一つです。そのうちの一人は大学教授で、大学院を出て就職した大学で今も頑張っています。特に彼と話が合うのですが、それは私も、大学院を出て就職した会社で定年まで務めた同じような道のりだったからかもしれません。
彼が若いころにやっていた予備校講師のアルバイト、それは厳しいものだった、との話がありました。受講する生徒の数で収入が決まる、人気のない講師は収入も少なく、不人気が続けば辞めざるを得ない、そんな中で、友人の授業は受講待ちができるほどの、いわいる行列のできる授業だったそうです。教えることには自信がある、と言い切ります。
大学の先生になったときに、研究分野ではなく教育分野で勝負しようと考えたそうです。研究では勝てないと。そんな彼にとって、予備校講師の経験はいい経験だったと言います。自分の居場所を確保するために頑張るのは誰しも同じでしょうが、競争の激しい団塊世代はその思いがより強いような気がします。椅子取りゲームのようなもので、取れそうな椅子があればすかさず取る、それも遠くにあるリスクの高い椅子よりも、近くの確実な椅子を。私も、就職するときに、これなら勝負できるという会社と職種を選びました。関東ではほとんど知名度のなかった関西の電機メーカーでしたが、やっていることの将来性と、ここなら自分の実力を十分に発揮できる、勝負できると考えたのです。彼同様に、確実な椅子を取りに行ったのです。
工業高校だったので、大学受験のための授業はありません。助けてくれる先生がいたものの、基本は自分自身で受験勉強するしかないのです。そんな経験を経て大学で教えるようになった彼は、授業への出席よりも、生徒自身でどれだけ勉強したかを重要視しています。自分で勉強さえすれば、授業には出なくてもいい、と生徒に言っているそうです。大学受験の成功で得た自信がそんなやり方を取らせているのではないでしょうか。そのとき得た自信の大きさが、同じような環境下で受験経験をした私には想像できるのです。私の場合は、そういった自信がその後の人生を前向きなものにしてくれました。彼にもそんなことを感じるのです。
大学教授の定年は70歳、1コマ90分授業などはなんともなかった若いころとは違い、最近はしんどい、と言いつつも、早期に退職した同僚が辞めて数年後に亡くなったのをみて、やはり現役を続けよう、と考えているようです。私も、週2日といえどもまだ働いているので、まだまだ彼と同じような道を歩んでいるのではないでしょうか。これからも共感や納得のできる会話が楽しめそうな気がします。楽しみです。
我が家にもやって来ました、タブレット、iPadに代表される最先端機器です。ソニー銀行が定期的に実施している抽選で当たりました。当然、ソニーのタブレットです。新聞配達所の各種チケット抽選でも、めったに当たらない第一希望チケットが当たったり、そこそこの倍率のあったマンションが無抽選で買えたり、小さいことから大きなことまでツキが回ってきている気配です。ツキは使い切ったら終わりだよ、と言う人もいますが、いやいやツキに乗って楽しくやっていればまたいいことがあって、ますますつくんだよ、と言う人もいます。後者だといいのですが。
このラッキーなタブレット、テレビのコマーシャルではかなり楽しそう、早速試してみました。と、とたんに厳しい現実に直面、インターネットにつながりません。自分でいろいろ調べて、接続用機器を買い替えたりしてみましたがダメで、ソニーの相談窓口に電話しました。何回かかけてやっと出てきた窓口の方はとっても親切、タブレットに不慣れな私に根気よく対応してくれました。相談は実に1時間弱に、途中、他の問合せの方に申し訳ない、といった後ろめたさや、これ本当にフリーダイヤルだろうな、という不安を抱えながらも、インターネットにつながらなければタブレットは役に立たないただの箱、とばかりに言われるままに試行錯誤を繰り返しました。インターネットが無事開通した最後になると、信頼関係がお互いに芽生え、会話もスムース、気持のよい相談となったのです。これもツキのうちだったのかもしれません。
そのタブレット、インターネットやメールではかなりの優れものでした。電源を入れれば素早く立ち上がるし、画面をタッチしながらの直観的な操作で取扱いマニュアルはほとんど必要ありません。製品には、梱包品リストや電源の入れ方といった写真中心の小さな2枚の説明書がついてくるだけ、他の説明はタブレットで読むようになっています。それほどまでにマニュアルは不要なのです。パソコンではこうはいきません。たくさんのゲームもあって、少しのぞいてみましたがあまり年寄り向きではなさそうでした。それに、プロ野球チームを買えるほど儲けている携帯ゲームサイトや、電車の中でいい大人がゲームをしている姿には嫌悪感すら感じるので、そんな不快なものには近寄らないほうがいいとも考えています。ツキを持続するためにも。
さすが最先端と感心するのは音声検索、スマートフォンに「♪恵比寿アートギャラリー♪」と歌うように話しかけると場所が表示されるコマーシャルがありますが、まさにそんな感じです。これはグーグルの音声検索で、発声者を選ばない認識率の高さは驚異的とも言えるのではないでしょうか。慣れたキー入力の方が便利、という私のような者にとっては宝の持ち腐れですが。何かと注目度の高いタブレットといえども、所詮はツールですから、やりたいことと合致すれば使えばよいのであって、ツールがあるからといって無理やり使う必要はありません。ツールに惑わされることなく、やりたいことをやりたいようにやる、そうすればツキも尽きることはないだろう、と勝手な理屈をつけています。
いよいよ高齢者の仲間入り、まだ前期高齢者ですが、市から「すこやか福寿手帳」が届きました。気分悪いなぁ、と思いつつもめくってみると毎月1日は銭湯が無料とあります。早速、行ってきました。
自宅から300mほどのところにあり、どんな銭湯なのか前から興味があったのです。夕方だったので全員、といっても3,4人ですが高齢者、後期高齢者とおぼしき方もおられます。広い湯船で手足を伸ばして、のんびり、ゆったり、心身ともにリラックスして、夕食のビールがおいしかったこと、いやー最高でした。
でも65歳は高齢者じゃないよなぁ、と思っていたら、「高齢者『65歳以上』見直しを、内閣府の有識者検討会」(2月23日産経ネットニュース)の見出しが。65歳以上を高齢者と決めた50年ほど前の平均寿命は男性63.60歳、女性67.75歳(1955年)でしたから違和感はなかったのでしょうが、いまは男性79.64歳、女性86.39歳(2010年)と、65歳といえどもまだまだ元気で、高齢者と呼ばれるのには抵抗があります。
このニュースの見出しに我が意を得たりと記事を読むと、これが結構深刻な内容でした。世界に前例のない少子高齢化社会に突入した日本、社会保障制度で支えられている高齢者も支える側にまわらなければいけない、ということなのです。15歳から64歳の現役世代が65歳以上の高齢者を支えると考えた場合、50年ほど前は高齢者1人を11.2人が支えていた(1960年)のですが、いまは2.8人(2010年)、将来は1.3人(2055年)になると見込まれています。
65歳以上でも働く、稼いで社会保障制度を支える側にまわる、そんな意欲は多くの高齢者が持っているはずなのですが、実現は難しい。暑い日も、寒い日も、雨の日も、雪の日も、朝早くから満員電車に乗って通勤し、夜遅くまで、休日もろくにとらずに働き、嬉しいことも多いが、ときには胃が痛むほどの深刻な事態にも陥る、それが「働く」イメージです。それに耐えうる体力と気力は残念ながらもうありません。体力や気力に応じてマイペースで、楽しくできる仕事があったとしても収入は少なく、社会保障制度を支える側にまわるのは難しいでしょう。
いまの生活を支えてくれている年金、もともとは自分で積み立てたお金、という部分はあるものの、多くはいまの若い人たちが働いて稼いでくれているお金です。そうでなければこの高利率や生涯での支給は無理でしょう。支えられている身の上であることは確かなのです。だからといって「働け、稼げ」と言われても、「働き蜂」以外の働き方を知らない年代にとってはそう簡単ではありません。65歳になっても「働き蜂」となって働き体調不良となった友人がいます。いまは週休3日でややマイペースとなっていますが、悲しいかな、仕事を続けている限りは再び「働き蜂」となってしまう可能性は大でしょう。仕事である以上、手を抜く、ということがなかなかできないのです。
でも、65歳以上の高齢者1人を1.3人で支えなければならないという少子高齢化社会では、65歳以上も働き手とならざるを得ないでしょう。そのときには「働く」ことが、「楽しい」「面白い」「幸せ」で「高収入」となっていてほしいと願います。それが無理であれば、「支える」のは無理としても「支えられる」ことをできるだけ軽くする、可能な限り自立することを考え、「高収入」ではなく「低収入」である代わりに、楽しく働く、という選択肢になりそうです。
今月はスキーを楽しみました。気ままな友人たちと、朝の新幹線でビール、スキーで運動して、温泉でゆったりして、帰りの新幹でまたビール、ここ数年の年中行事となった至福の1日です。近年にない寒さで、リフト上では顔が凍傷になるのでは、と心配になるほどでしたが、雪の上を滑る快感は十分に満足できるものでした。支えられている高齢者であっても、こんな楽しみがあってもいいでしょう。健康を害したら、もっと支えてもらうことになるのですから、健康維持のためのスキーとでも考えればいいでしょう。
明日1日は銭湯無料の日ですが、友人たちと東京で勉強会&会食です。食事前にいつも銭湯に行くのですが、川崎市の「すこやか福寿手帳」は東京では通用しないようです。念のため手帳を確認しました。残念です。
今年は豪華なお正月となりました。事務所のボスが年末年始を台北で過ごすので、我々夫婦も元日に台北へ、ボスと共に三日三晩の美食の日々となったのです。宿泊もボスと同じ高級ホテル、広々とした部屋、高級なアメニティ、1日2回のベッドメイキングなどがグレードの高さを実感させます。2回目のベッドメイキングは寝るためのもの、高級ホテルでは普通のサービスらしいのですが、初めての体験です。
到着した元日は、新年零時にビル全体が花火と化す台北101、その近くの高層ビルにある会員制クラブでの夕食でした。シックな内装の落ち着いた部屋で、美しい夜景が眼下に広がる中、フカヒレの姿煮、北京ダックなどをいただきました。我々夫婦には縁のない高級感あふれる雰囲気と料理です。
2日、ホテルの朝食はボス用に特別予約されたテーブルで、バラエティ豊かなビュフェ、好みの具で料理してくれるオムレツや熱々の汁ビーフンのコーナーもあります。ボスは特別注文の朝食、少し分けていただきました。焼きたてのクロワッサン、ホテルご自慢の味で、ボスからの「美味しいパンを」という要望を受けて、帝国ホテルから製パン職人を招いて指導してもらった成果だそうです。前日から仕込むフレンチトースト、これもこだわりのボスに応えての料理なのでしょう、柔らかな食感やバターの風味は絶品でした。それに上品な甘さの新鮮なパパイア、どれも極上の味、1日の始まりとして朝食を大切にしているボスらしい内容です。
夕食は上海料理、おそらく台北一の味でしょう。企業の幹部が利用する、以前はなかなか予約が取れなかったお店、いまは比較的取りやすいとのこと。利用するビジネスマンたちの活動が中国に移りつつあるからだそうです。豚肉、魚、鶏の3つの鍋、角煮のように煮込んだ豚の大腿骨、とくに鍋にあった白菜は柔らかく甘みがあり、豚肉などのうま味もしみて絶妙の味、白菜は大好きでたくさん食べてきましたが、これほど美味しいのは初めてです。台湾の人たちの食への情熱的なこだわりは、ケージに入ったたくさんの生きた鶏を、街角の市場で売っているのを見ても分かります。そんな台湾の、しかも上級ビジネスマンたちが客となって育てた味、日本では体験できない美味ではないでしょうか。
最後の3日の夕食は海鮮料理、店先にある水槽から食べたいものを選びます。カニ、海老、魚、白子などをいただきました。料理はシンプルで、素材の美味しさが引き立ちます。高給取りの日本人駐在員でも高くてなかなか来れないというお店、素材の確かさがあります。最後に担仔麺と汁ビーフンを、そのスープは日本のだしとはまた違う美味しいものでした。
三日三晩の大ご馳走、ボスが今まで散々食べたなかから、確かな店と料理を選んでくれました。なにしろ、母親が残した家を売ったお金を妹と二人で分け、自分の分は全て友人たちと食べてしまった、というほどの食いしん坊ですから、その選択眼に狂いはありません。ボスに出会わなければ体験することは生涯なかったであろう味の数々、豪華なお正月、というだけではなく、ボスの人生を垣間見た貴重な経験でもあったようです。ちなみに、我々二人の飛行機、ホテル、食事、全てボスが支払いました。食いしん坊で太っ腹のボスでよかった。