リタイア間近組

 
 
リタイア間近組

セカンドライフ 定年準備と定年後の日々

定年、その後(2008年)  定年後の日々(毎月1日更新)

No.023:年末は1年の総決算 (12月31日) ページトップへ

今年の決算報告です。

決算項目1:健康
 毎日の歩行距離を10km以上にしても問題なく、われながら元気だ、と思う日々です。
 今年の歩行距離は、地図上で距離を確認した公式記録で4,789km、一日平均13km、No.017で紹介した歩数計「日本一周歩数計の旅」では、192日間で2,900km、一日平均15km、東京都の羽田から青森県の津軽半島東海岸にある蟹田までの海岸沿いを歩いたことになります。日本全国の海岸総延長は18,880kmだそうですから、このペースでいくとあと1,060日、約3年で日本一周です。
 一日3時間以上歩くという、歩き三昧の日々ですが、江戸時代の人々は日々の暮らしの中で一日15km歩いていたといいますから、やっと江戸時代のスローライフに近づいたということでしょうか。自宅の川崎から銀座、新宿ぐらいまでは「徒歩圏内」となりつつあります。


決算項目2:仕事
 新たな仕事が加わり、少ない収入ながらも充実した日々です。
 ホームページ制作が主な仕事で、会社のクライアントのサイト、ご近所の高校のサッカー部サイト、ソフトウエア技術者のコミュニティサイトに加えて、今年から作家・評論家の某氏のサイトも制作・運営・管理を担当しています。本ホームページも含めて、なにがしかのやるべきことが毎日発生し、散歩の合間をみての自宅での作業です。いくつかのサイトの作業が重なり夜中の3時、4時となるときもありますが、苦になることはありません。お金になると思うとついつい力が入ってしまいます。
 また、週2日ほど某氏の事務所に行き、ホームページ以外のお手伝いもしています。社会と深くかかわっている某氏との会話は楽しく、刺激的で、美味しいものもたくさんいただきながら、充実した時間を過ごしています。爆笑問題といった時の人の話が出てくるので、わたしの知らない世界を垣間見ることができます。まあ、だからといって自分の暮らしに関係しているわけではなく、別世界のことなのですが、とても楽しいのです。


決算項目3:家族
 妻もウォーキングを始めました。
 毎日二人で6kmほど散歩しています。妻が自分の健康を以前よりも気遣うようになり、それまで気分や気候次第だった散歩が毎日の日課となりました。運動嫌いの妻としては上出来です。

年末は1年の総決算 台湾旅行

 また、妻の両親との海外旅行が3年ぶりに実現しました。10年前から毎年一緒に旅行するようになりましたが、2年半前に私の母が脳出血で倒れてから中断していたのです。今回は台湾旅行でしたが、お父さんも80歳となり、さすがに歩くのが大変そうになりました。3年前のヨーロッパ旅行ではとても元気にチェコ・プラハの街を歩きまわり、7年前のモンサンミッシェルでは、駐車場から山頂の教会までを歩くなど、さらに元気だったのです。それでも歳のわりには元気なことは確かなので、これからは国内の温泉旅行でのんびり、がいいのかもしれません。


決算項目4:友人
 大学時代の友人との交流がますます充実しています。
 No.016:「学生時代の友人たち」に書いた通りなのですが、最近ますます充実度が増しています。みんな会社勤めをやめたからでしょうか。こんなにリラックスできる友人はもうできないでしょう。大切な友人たちです。
 会社の同期の友人たちとの年1回の会食もできました(No.014)。京都、奈良、近江八幡、川崎、横浜、三島から集まります。1年ぶりでもみんなうちとけて言いたい放題の泊まりがけなので楽しみです。次回は京都での会食となります。家族ぐるみの、やはり大切な友人たちです。


決算項目5:総合
 総じて良い年でした。来年もこんな年であればいいなぁ、と願っています。

No.022:江戸庶民の色彩感覚 (11月30日) ページトップへ

 江戸時代の色彩は、とても自然で穏やかなものだったようです。昨年「NHKスペシャル 歌麿 紫の謎」で浮世絵にかける歌麿の徹底したこだわりを知りました。放送は、ボストン美術館で封印され、100年近くものあいだ光が当たることなく保存されていた浮世絵、スポルディングコレクション、そのデジタル化映像によって新たな真実が浮かび上がってきた、というとても興味深い内容でした。

 摺りたてともいえる浮世絵からは江戸時代の生きいきとした断片が見えるにちがいない、と考えぜひ観てみたいと思っていたのです。今月、それが実現しました。高度なデジタル映像技術と印刷技術によって、色彩はもとより、その質感までをも再現した印刷物が出版されたのです。

江戸庶民の色彩感覚 スポルディングコレクションが我が家に

 歌麿の浮世絵8点セットで、早速手にいれてじっくりながめてみました。歌麿が作り上げた色彩は、日本の自然にも似た、落ち着きのある、穏やかなものでした。現代の出版物には強い主張の色があふれていますが、やや控え目なこの色こそが日本人本来の色彩感覚のような気がします。観ていて、落着く、飽きのこない色合いなのです。自然と共にあるつつましい当時の暮らしぶりが感じられます。人びとが好んだであろうこの色合いを、歌麿は苦労して作り上げたのでしょう。

 歌麿が特にこだわった紫、民衆が憧れた紫、8点セットには内容によって微妙に異なった紫が使われています。現代に残る浮世絵のほとんどからは変色し失われている紫、それが残っているスポルディングコレクションは貴重な歴史遺産でしょう。それが、高度な印刷技術によって再現され、我が家にもやってきたのです。色彩だけでなく、描かれた内容からも多くの物語を想像させてくれます。浮世絵に人生をかけた歌麿とそれを楽しんだ人びとの姿を思いながら、大いに楽しませてもらうこととします。

 江戸時代はわたしの憧れでもあります。ゆったりとした時間、穏やかな暮らし、物質的には貧しくても心は豊かな時代、そんなふうに考えているからです。そんな勝手な想像を、この浮世絵はさらに掻き立ててくれます。8点を順番に飾って、ながめて、想像して、楽しむことができそうです。手元に置くことで、これからの楽しみがまた一つ増えました。

No.021:川崎での生活 (10月31日) ページトップへ

 「川の水も奇麗な様子で驚いた」そんなメールが京都に住む友人から届きました。かれの息子さんが、川崎にあるわたしの家から3kmほど離れたところに住むこととなったので、その周辺の写真を送ったのです。「川崎」という地名が必ずしも良いイメージではない様子がメールからうかがえます。京都郊外の西山、小高い緑の山々、そのふもとで生まれ育った息子さんが安心して住める所なのか、親としては気がかりなことでしょう。

 川崎の悪いイメージといえば、公害裁判にみられる大気汚染があります。大気汚染源が工場から自動車へと変わってきているので、川崎だけではなく、大阪・西淀、尼崎、名古屋、東京などでも同様の裁判が発生しています。1998年の川崎公害訴訟判決では「12時間あたり1万台(約4.3秒に1台)以上走行する道路」から50m範囲が公害救済範囲とみなされました。大量の車の走るところに大気汚染ありなのです。

川崎での生活 大気汚染測定1kmメッシュに地図を重ねてみました<写真を拡大>

 川崎市議会議員いのまた美恵氏(59)ホームページコラム「北部に増える子供の喘息(2005年7月)」によると、川崎北部での小学生喘息罹患率が3年ぐらい前(2002年ぐらい)から急増(多摩区A小学校では4年間で、14.5%から17.2%となり川崎市ワースト1位へ)しているそうです。「幹線道路が交差する周辺で地形がやや低い所、そしてゴミ焼却場の風下にあたる高台などで罹患率が高くなっているように思う」と氏は分析しています。「大気汚染測定かわさき連絡会・発足のつどい」ホームページにある2006年12月度の大気汚染測定1kmメッシュを見てもその傾向がうかがえます。この測定では幹線道路が多摩川を渡る橋のたもとでも高い汚染度を示しています。

 散歩中、幹線道路沿いで台地が迫って壁となっている場所や、多摩川に架かる橋のたもとなどで空気の汚れを感じることがありますが、気のせいではなかったようです。できるだけ幹線道路から離れた道を歩いているのですが、台地が迫るような場所や橋では幹線道路を歩かざるを得ないのです。

 友人が言うように、川の水は綺麗になりました。多摩川にはアユが戻っています。同じように、大気汚染も早くなくなってほしいものです。ハイブリッドカーがその決め手になるのでしょうか。友人の息子さんが住むアパートは、わが家同様に幹線道路からはかなり離れており、それが少しは救いです。

 京都西山よりも優れている点は、便利さでしょう。買い物、遊び、仕事に便利だし、レストランや病院もたくさんあります。息子さんにとってはそのメリットのほうが大きいにちがいありません。わたしはそうです。10月28日のasahi.com「都市部の人は『よく歩き、肥満も少ない』食育白書」によると、成人男性の1日の平均歩行数は神奈川県が8,371.5歩で全国1位、全国平均よりも846歩多いそうです。ちなみに2位が兵庫で8,281.2歩、3位が東京で8,237.8歩でした。地方での歩数の少なさ、そして肥満が目立つようで、それは車の利用が多いからだ、と分析されています。交通の便が良く、車なしでも移動できる都市部には、歩くというメリットもあるのです。

No.020:おいしい生活 (09月30日) ページトップへ

 美味しいものに恵まれたおいしい生活です。今年は果物に恵まれています。スイカ、メロン、マンゴー、モモ、ブドウ、ナシと途切れることなくいただきました。スイカは叔母の家のちかくの八百屋さんから、メロンは北海道から、ブドウは岡山から、それぞれ叔母に届けられたものです。

 マンゴーは台湾から、モモは岡山から、ナシは二十世紀が鳥取から、普通のナシが千葉から、週2日働いている個人事務所に届きました。それらをいただいてくるのですが、その美味しいこと、スイカを除いてはいただきもので、送り主の気持ちがこもった高級品なのです。

 スイカは、叔母が50年以上ひいきにしている八百屋さんからのもので、いつも美味しい野菜や果物を届けてくれます。スイカ大好きなわたしのために叔母が買ってくれるのですが、叔母のそんな優しさがスイカをますます甘いものにしてくれる、そんな気持で味わっています。メロンやブドウが叔母に届いても、「わたしは食べないから」と押しつけるようにわたしに渡すのです。「自分で食べなよ」などといいながら、ついついもらってきてしまいます。母もそうですが、叔母も、美味しいものは自分で食べるより子供や甥・姪に食べさせる、昔からそうです。

 マンゴーは、我が家ではとても珍しい果物になります。東国原知事が1個1万円の完熟マンゴーを宣伝していましたが、本場台湾産ですから味は負けてはいないはずです。それを2つもいただきました。なかなかできないことです。太っ腹です。その太っ腹の人に届けられるモモやナシにしても、送り主が自信をもって送ってくるものだけに、丹精込めた洗練された深い味わいがあります。モモは早くいたむ、ナシはすぐ味が落ちる、などと言いながら、送られてきた箱から出しては手渡していただきました。

 恵まれたのは果物だけではありません。友人からは美味しいクリが届きます。たくさんあって、栗ごはんや渋皮煮で半月ぐらい楽しめるのです。収穫作業も大変でしょうが、年間を通しての栗の木の世話も大変だろう、でも定年になって時間もあるし、農園趣味だからいいか、などと自分勝手なことを考えながら美味しくいただいています。これも感謝、感謝です。

 大好きなスイカを今年ほどよく食べた年はありません。暑い夏は涼しくなる晩に妻と散歩に出かけ、1時間半ぐらい歩いて、家の近くの生協で買い物をするのですが、切ったスイカがときどき安売りされており、それを買って帰ります。安売りのないときは買いませんが、それでも時期のときには週2回ぐらい買えました。散歩の後のスイカはまた格別です。

おいしい生活 大きな新高梨と普通のナシ、ともに美味しい

 こういった恵みは、生活スタイルの変化がもたらしてくれたものです。独り住まいの叔母のところは週1回顔を見に行くようになり、太っ腹の人のところでは週2日仕事をするようになり、家庭農園の友人とは数カ月に1回は会うようになり、健康を気にし始めた妻とは毎日散歩に出かけるようになりました。人との関係で生活スタイルが変わり、そこに美味しいものがついてきた、そんな感じです。美味しいナシを食べながら、これも結構おいしい生活だなぁ、などと考えたりしています。これを書いているときに、叔母から大きな新高梨が届きました。これがまた美味しいんです。まだまだおいしい生活が続きそうです。

No.019:夜の繁華街 (08月31日) ページトップへ

夜の繁華街 渋谷駅前のスクランブル交差点。もう秋の装い。

 東京の夜の繁華街を歩くと、行き交う若い人たちから元気をもらえる、そんな気がします。今年の夏は若い女性の肌の露出度が高いとのこと、若さが印象に残るのもなおさらなのかもしれません。

 今年の5月から、新宿御苑近くの事務所で週2回働いており、涼しくなる夕方に事務所をでて自宅まて歩くことがあります。新宿、原宿、渋谷といった繁華街を通るのですが、そこは若い人たちの世界です。新宿では若い男女の会社員グループが目立ちます。アフター5のお楽しみに向かうのか、仕事が終わってのリラックスした様子で、弾むような会話が聞こえてきます。

 原宿ではアニメの世界から飛び出してきたような少年少女に出会います。派手な服装で、華やかな雰囲気があり、隣街の代々木で行き交うアニメ学校の生徒らしき若者の、地味な服装で、寡黙な雰囲気とは対照的です。アニメを作る側と、それを楽しむ側とでは対照的な個性の持ち主のように見えます。隣接した街に異なる個性が集う、モザイク都市東京ならではのことなのでしょう。

 渋谷に入ると若いカップルが多くなります。二人の、とても自然で幸せそうな笑顔を見かけると、なにかこちらまで幸せな気分になります。渋谷からは東横線沿いに歩き、住宅街がしだいに増えていきます。人もまばらな田園調布などでは、繁華街が懐かしくなるときもあります。田園調布の高台からの夜景は美しく、静かで落着いてはいるのですが、寂しさだけを強く感じてしまうのです。そんなとき、元気をもらうのは繁華街にかぎる、などと考えてしまいます。

 若い人たちとの交流が元気の素、というお年寄りも多いことでしょう。そんな機会はできるだけ逃がさないようにしたいものです。街で行き交うだけで元気をもらえるのですから、交流があれば更なる元気がもらえることでしょう。

 田園調布を過ぎると多摩川となり、川風にあたりながら川を渡ると、やがて我が家となります。わたしのこの通勤路、普通の人よりは歩き、時間もかかりますが、楽しさもあり、少しは考えることもあって、幸せなひとときです。

No.018:第二の人生の達人、伊能忠敬に学ぶ (07月31日) ページトップへ

第二の人生の達人、伊能忠敬に学ぶ 富岡八幡宮にある伊能忠敬の像

 第二の人生の達人は第一の人生の達人でもありました。49歳の隠居後に天文・歴学を学び始め、55歳から14年間、日本全国を歩いて精度の高い日本地図を完成させ、当時の平均寿命が40-50歳といわれるなかで73歳の長寿をまっとうした、第二の人生の達人、伊能忠敬のことです。

 伊能家に婿入りしたかれは、家業の酒造業を中心に事業を盛んにし、名主・村方後見などを務めた第一の人生の達人でもありました。隠居後に学び始めた天文・歴学では、観測機器の製作や書籍の購入に多額の私財を投入し、さらに蝦夷への測量の旅には、現在のお金にして3,000万円ほどの自費負担をしています。第一の人生の成功ぶりがうかがえます。

 わたしの第一の人生は「まずまず」だと勝手に考えていますから、うまくすれば第二の人生も「まずまず」まではいけるのでしょう。そうなるために忠敬から学ぶべきことは大いにありそうです。

 天文・歴学を学び始めた忠敬は、隠居宅に天文観測施設を設置し、歴作りに必要な太陽や恒星の動きを観測していました。日が暮れてくると自分の荷物も置き忘れて浅草天文台を飛び出すように隠居宅に帰ってしまったり、隠居宅では寝る間も惜しんで観測に励んだりしていたといいます。隠居後、夢中になれるものが見つかったのです。

 正確な歴作りのために地球の大きさを測ろうとした蝦夷への測量の旅は、その地図が高く評価されたことで、かれの大きな転機となりました。細部にわたって実測にこだわったかれの地図は、精度よりも地名や地形を重視したそれまでのあいまいな地図とは違う、科学的で次世代を予見させる新たな地図と評価されたようです。そこには科学者的な精度へのこだわりがありました。強いこだわりと粘り強い実践力がかれに転機をもたらしたのです。

 この蝦夷海岸地図がきっかけとなり、全国海岸地図の作成へと進んでいきます。全国測量中、天文学の第一人者でかれの師である高橋至時(よしとき)から「いま天下の学者は、あなたの地図が完成するときを日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の歴学の盛衰にかかっています」と手紙で励まされています。熱中できるものとの出会い、そこに導いてくれる師との出会い、その価値を認めてくれる人々との出会い、そしてそういった出会いをものにしていくこだわりと実践力がかれを第二の人生の達人にした大きな要因でありエッセンスのような気がします。

 熱中できるものを、その価値を共有できる人々を、大切にしていくことが第二の人生を成功に、わたしの場合は「まずまず」にしていくコツなのかもしれません。そして、こだわりと実践力を持つこと、そこに他の人とは違う個性や存在価値が生まれてくる、忠敬からそんなことを学びとることができるようです。

No.017:日本一周歩数計の旅に出ました (06月30日) ページトップへ

日本一周歩数計の旅に出ました 6日目に千葉を通過しました。

 東京の端にある羽田から、海岸沿いを北に歩き今日で6日目、100km歩いて、千葉を過ぎました。歩数計「日本一周歩数計の旅」のなかでのことです。

 羽田を出て、北海道から沖縄までの日本全国の海岸沿いを歩いて、また羽田に戻ってくるのに18,880km、昨年同様年間3,200km歩くとすると6年かかります。途中でこの歩数計が壊れてしまうと、わたしは路頭に迷い、羽田には戻れません。そんな機器頼りのバーチャルな旅に出たのです。

 4日目の朝は荒川でした。もうすぐ千葉県だ、と思うとウォーキングにも力が入ります。雨模様の日でしたが、インターネットで調べた小雨の時間帯を歩き千葉県の浦安に到着したのです。東京都を抜けるとき歩数計が「県境」と表示したのを見て、たわいもなく喜んでしまいました。

 「荒川」のような場所表示が全国1,258個所、平均で15km毎にあり、歩くうえでの励みになるし、名産品も表示されるので各場所を楽しくイメージできます。ちなみに「荒川」の名産品は下町の味「もんじゃやき」、「千葉」はわたしの大好物「らっかせい」でした。なかなかの優れものです。

 週刊文春元編集長の花田 紀凱(はなだ かずよし、65歳)氏も歩数計を使っていて、それは初期設定した1日のノルマを達成していくとキャラクターのジェル君が天使に育っていき、達成率があまりにも悪いとジェル君は家出してしまうそうです。「これははまるんだよ」とのことでした。「達成感」が「はまる」大きな要因なのでしょう。雑誌編集という仕事で多くの達成感を味わってきた花田氏が、健康維持というこれからの大切な仕事でも達成感を得る、そのためのツールとなっているようです。お世話になったマスコミの学校の校長で、少し身近に感じられる方なので、歩数計で頑張ろうとしているわたしにとっては励まされる思いがします。

 バーチャルな旅とはいえ、歩くのはリアルです。浦安は小雨だった、とか、千葉のときは暑いので夕方間近になってから歩いたなぁ、などといったリアルな歩き旅もどきの思い出も残ります。6年後に「日本一周おめでとう」が表示されたとき、どんな思い出ができているのか楽しみです。

No.016:学生時代の友人たち (05月31日) ページトップへ

学生時代の友人たち 夢中になれる子供時代

 子供時代を心豊かに暮らすために、なくてはならないもののひとつが友達でしょう。定年後も同じような気がします。充実感を得る糧が、仕事から遊びや趣味に移り、子供時代のように時間を忘れてそれらに熱中するには、一緒に遊んでくれる友達や趣味の価値を分かちあえる友達が欠かせないからです。

 そんな遊び仲間に大学時代の友人たちがいます。卒業してから定年間近までの30年以上の間は一緒に遊ぶことなどほとんどなかったのですが、最近は数か月に1回のペースで遊び、飲むようになりました。東京大空襲を思い浅草へ、下町情緒を楽しもうと巣鴨へ、とらさんの世界を見ようと柴又へ、戦前戦後の暮らしを知ろうと昭和館へ、最先端のプラネタリウムで宇宙を学ぼうと科学未来館へ、富士山に沈む夕陽を見ようと東京タワーへ、そして先日は、懐かしい電車に乗ろうと交通博物館へ出かけました。それらのあとの飲み会が主な目的ではあるのですが、一応はテーマを決めて行動します。そこが団塊の世代らしいところでしょうか。

 子供時代の友達がそうであるように、興味や生活環境が似ていないと遊び友達にはなりにくく、大学時代の友人はまさにぴったしなのです。同じような歳、職業歴、経済感覚で、クラブも一緒で、学生時代を家族と同じぐらい長い時間一緒に過ごした仲間で、友達としてのルールができていてリラックスできます。少しは我慢しなければいけないこともありますが、そこは子供時代の遊び仲間と同じです。

 先日もちょっとした事件がありました。交通博物館の後は近くにある大宮大成鉄道村での飲み会でしたが、まず風呂に入ってから飲み、いい気分になったところでもう一度風呂に入りました。飲んだ後だから風呂はやめるという慎重派1人が残り、その他の楽天派3人が風呂に行ったのですが、1時間半経っても戻らず、心配した慎重派が探すと、なんと3人はすぐ近くでぐっすり寝入っていたのです。さんざん待たされた慎重派の怒りが爆発したことはいうまでもありません。でもそこは我慢、3人へのきつい説教でその場は落ち着きました。

 他の場面では、別の人が我慢することになります。若いころを一緒にすごした、我慢するに値する大切な友人たちだと考えているからこそでしょう。ところでこの慎重派、酔って風呂に入る危険性をホームページで翌日早々訴えていました。楽天派3人はホームページでも説教されたわけです。でも、そんなことも楽しい思いとなってしまう、そんな仲間なのです。

No.015:渋谷のお子様ランチ (04月30日) ページトップへ

 渋谷駅がよく見える窓側の席でお子様ランチを喜んで食べていました。50年以上昔の渋谷食堂でのことです。わたしの弱視を診てもらうために母に連れられて行った病院からの帰りでした。

 ケチャップライスでできた半球の小山、頂上には日の丸の旗、ふもとには千切りキャベツ、ナポリタン、から揚げ、ソーセージが豪華にならんでいたと記憶しています。日の丸がとくに嬉しい存在でした。数種類のおかずが盛り付けされ、飾りまである食事など、兄弟のだれも食べたことがないのです。夢のような、というのはおおげさですが、当時のわたしにとっては十分に非日常的な食事で、日の丸はその象徴でした。家に持ち帰って自慢したようで、「一人だけ、旗のついた食事をした」といまでも姉が言います。

お子様ランチ 写真右端の「TSUTAYA」のところに渋谷食堂がありました。左正面が道玄坂で、「109」のあたりから左にカーブしています。

<写真を拡大>

 そんな思い出のある食堂や病院の場所を、インターネット検索や渋谷区郷土博物館の資料でたどってみると、「渋谷の記憶 写真でみる今と昔」(2007年12月渋谷区教育委員会発行)に「渋谷食堂」の看板が左端に写っている昭和31年当時の写真がありました。昔の地図を郷土博物館で調べているときに、館員の方が教えてくれたのです。TVの天気予報などでよくみる渋谷駅前のスクランブル交差点に面したところでした。

 病院は坂の途中にありました。坂を下りたところに食堂があったので、スクランブル交差点から伸びる道玄坂がその坂だったようです。しかし、当時の地図をみても、道玄坂の古くからの商店で尋ねても、結局それらしい病院の手がかりは見つかりませんでした。道玄坂を歩きながら、この坂の傾斜や曲がりぐわいこそ子供のころに歩いたものだ、などと思いをめぐらせることであきらめたのです。

 少し疲れた足取りで道玄坂を下りるとき、渋谷食堂のあった場所を眺めながら母のことを考えました。わたしの視力の弱さをとても気にしていた母、一緒に出かけると、先にある電信柱広告の文字をわたしによく質問していました。それは視力検査のようで、大きな文字からしだいに小さな文字へと質問が移っていきます。いい眼科医がいるときけば、電車に乗り、坂を上り、診てもらう、でも進展はありませんでした。そんな子を思ってのお子様ランチだったのかもしれません。外食といえば、プロレスのTV中継を見るために近所のおそば屋さんでたぬきうどんを食べさせてもらうのがせいぜいでしたから、とにかく特別の外食だったのです。お子様ランチを喜んで食べているわたしを、母はどんな思いで見つめていたか、そして、そのとき母がなにを食べたのかなどを、坂を下りながら考えていました。

 渋谷食堂が安さをうりにした大衆食堂であることを、今回、インターネットではじめて知りました。子供ひと筋の母がわたしのためにできる精一杯のことが、ここでの食事だったにちがいなく、そんなことを子供心に感じていたからこそ、いまでも忘れられない思い出となっているのかもしれません。わたしにとってはどこよりも素晴らしいレストランであり、なによりも高級なお子様ランチでした。

No.014:同期入社の仲間-1年後- (03月31日) ページトップへ

同期入社の仲間 同期の仲間と伊豆・修善寺を散策

 同期入社の仲間が1年ぶりに集まりました。昨年3月は10人全員の参加でしたが今回は6人です。メールからは「みんなに会いたい」という気持ちが伝わってくるのですが、海外出張、父親の病気、インフルエンザでの高熱、突然の入院といった、自分ではコントロールできない様々な事象が参加を阻みました。還暦を過ぎたとたんにいろいろな課題が出てきた感があります。

 海外出張以外は、両親もしくは自分自身の健康問題です。高齢の父親が病気ともなれば、泊りがけの同期会への参加は難しいでしょう。もうひとりのインフルエンザは他の参加者に迷惑ともなります。インフルエンザや風邪などで休んだことなど、この10年間なかった者で、参加できない口惜しさはかなりのものだったようです。自営業として独立した直後で、仕事での無理がたたったとのことでした。

 突然入院した仲間は脳血栓でした。幸い、命は助かっています。入院を知らないまま彼を待っていた同期会の酒宴の席に知らせがはいったときは、みんな言葉を失いました。参加できなかった仲間からの知らせでした。到着遅れを心配して、彼の妹さんと連絡をとってくれて初めてわかったのです。

 参加できたメンバーでも何らかの健康問題をかかえています。健康がこれからの最大課題であることをあらためて認識させてくれた同期会となりました。残念なことですが、同期の仲間が身をもって教えてくれたことです。

 今回の解散まぎわに、参加者が二人になるまで同期会を続けよう、という話がありました。長期的にみれば、参加できるひとはしだいに減ることでしょう。しかし、「みんなに会いたい」という気持ちを全員がもっていることは確かなことで、最後の二人は全員のそんな気持ちを担っての参加ということになりそうです。

 二度と戻ってこない若いころ、その時期を共有した貴重な仲間です。昨年の京都、今年の伊豆につづいて来年は浜松の予定となりました。来年の参加者は、今年よりひとりでも増えてほしいと願うばかりです。


追:
 これを書いているときに、入院中の仲間が亡くなりました。病院内を車椅子で元気に移動していたのに、病状が急変したのです。やさしい、気づかいのある、静かな男で、頼りになるおとなのひとでした。今回の同期会への参加を入院前には楽しみにしていたことや、同期会での写真を入院中にみて喜んだことなどを、京都での葬儀に参列したとき知りました。同期会が少しは元気付けになったのかなぁ、となぐさめたりもしています。

No.013:歯が欠けました (02月29日) ページトップへ

 左下奥歯が欠けました。コンブ飴を噛んでいるときで、なめていれば欠けずにすんだのでは、と少し後悔しています。12年前にアメリカで虫歯治療した歯で、かぶせてあるセラミックが欠けたのです。歯医者さんに診てもらうと、横が欠けているが機能には影響ないとのことで、しばらく様子見となりました。
 その数日後、同じ歯がさらに欠けました。お餅をたべているときです。これで差し替えが決定し、現在治療通院中です。

 この歯医者さんに12年前のアメリカでのレントゲン写真をみていただいたところ、歯周病で失っていた歯の土台となる骨が、いまは一部再生しているとのこと、おもわず嬉しくなりました。当時、歯周病の手術も受け、そのときは、失った骨が再生するとは考えもせず、悪化しなければ上出来と思っていたのです。
 12年前の日本であれば、健康保険の制限から、これほど丁寧な歯周病治療はしなかったでしょうね、との歯医者さんの見解にまたまた嬉しくなりました。アメリカ駐在のメリットがこんなところにもあったのです。

歯が欠けました 自宅前で(アメリカ・シカゴ)

 父が総入歯になったのは歯周病が原因でした。わたしも、渡米直前の検診で歯周病といわれ、総入歯を意識するようになりました。
 しかし、今回10年ぶりに歯医者さんにみていただき、上手に手入れすればまだまだ大丈夫といわれたのです。ありがたいことです。アメリカの優しかった歯科医や、口をあけて話せないわたしにさかんに話しかけたり、明るく鼻歌を歌ったりしながら処置してくれた陽気な歯科助手を思い出しながら、感謝の念をあらたにしています。

 歯がだめになっていくのは60歳ぐらいから、つまりいまからのようです。60-64歳での歯の残存本数は平均20.4本、75-79歳で平均9.01本となります(平成11年(1999)厚生労働省歯科疾患実態調査)。60歳以降、年1本近い、4年に約3本の歯が失われていくのです。
 20本以下になると硬いものが噛みづらくなり、10本以下では細かくしないと噛めなくなる、といわれています。60歳はそういった入口にいるわけです。入歯をすればよいのですが、自分の歯で食感をえたほうがおいしくいただけるでしょう。残存本数20本を80歳まで持たそうという「8020」を目指して、歯磨きにちからのはいるこの頃です。

No.012:散歩好き (01月31日) ページトップへ

歩き大好き この幅広靴で歩いています

 散歩好きがエスカレートしています。銀座での新年会に、電車であれば1時間前に自宅を出れば間に合うのに、4時間前に出て自宅から銀座までの約20kmを歩きました。また、会社のある築地まで、友人との待合せの浜松町まで、やはり自宅から3、4時間かけて歩いたのです。
 時間があり、金も使わず、体力のあるわたしとしてはある意味自然なのですが、大切な時間をそんなことに使う人はあまりいないので、変なおじさんの部類に入りつつあるといえるのかもしれません。
 決して無理はしていません。浜松町まで歩いたあとに東京タワーの大展望台への階段を上り下りしても、翌日に残るような痛みや疲れはありません。妻からは「歩いた分の電車賃を貯金したら」という、ありがたいアドバイスをもらっています。実行していませんが。


 今年の年賀状に「昨年は3,200km歩いた」と書いたら、「それは日本縦断の距離だ。なんでそんなに歩けるか?風邪気味の日も歩くのか?メリットはなにか?」との友人からの質問メールが入ってきました。風邪気味の日は歩きません、でもそんな日は昨年はありませんでした、風邪をほとんどひかなくなったのがメリットでしょうか、などと返信を書きながら「なんでそんなに歩けるのか?」を考えました。


 健康維持を目的に歩き始めたのが、習慣となり、やがて好きになった、という感じなのですが、「なぜ好きなのか」がうまく説明できません。
 わが家のお犬様モモの散歩大好きと同じで、外に出て歩くことを身体が喜んでいるのでしょうか。わくわくするような楽しさがあるわけではないのですが。人びとが歩かなくなったのは40年ぐらい前から始まった車社会になってからで、それまでの1万年以上は歩くことが当たり前だったわけですから、身体が喜ぶと考えてもおかしくはないのかもしれない、などと考えているときに、プロスキーヤー三浦雄一郎さんがゲストのTV番組をみました。


 お父様のプロスキーヤー三浦敬三さんが99歳のときの毎朝のウォーキング映像をみながら、雄一郎さんが「(父は)好きですから」とポツリと言ったのです。75歳になっても毎日のトレーニングを欠かさないご自分の素直な気持ちでもあるのでしょう。共感し、納得した一言でした。
 「好きだから歩ける」それだけで十分なようです。それ以上のことを考えても後付け理由だけがでてくる気がします。
 スポーツとは違って、特別な支度も、相手も必要なく、思い立ったときにすぐ歩ける、しかも自分のペースで無理なくできる、そんな気楽で自然な歩き、これからも末永いお付き合いとなりそうです。