リタイア間近組

 
 
リタイア間近組

セカンドライフ 定年準備と定年後の日々

定年、その後(2010年)  定年後の日々(毎月1日更新)

No.047:2010年の総決算 (12月31日) ページトップへ

 今年は大変な年でした。1月に母が亡くなり、同じ1月に39年間所属した会社を辞め、個人事業の大得意、というよりはほぼ唯一のクライアントを7月に失いました。人生急降下の年、となるべきところを救ってくれたのが3年前からの個人事務所での仕事でした。この事務所が会員制サイトを新設することとなり、今年の後半はその構築に忙殺されたのです。忙しさが、急降下をなだらかな下り坂に変えてくれたと考えています。ありがたいことです。

 このため、ウォーキングの距離は15%ダウン、昨年の4,739kmが今年は4,039kmに、忙しかった8月、9月は40%に近い落ち込みでした。母の見舞いの日も長距離を歩いており、これがなくなったのもダウンの要因ですが、最も大きい要因はサイト構築なのです。大好きな歩きを犠牲にしてまで打ち込んだ、充実のとき、と言うことができます。

2010年の総決算 モモにも白髪が、歳をとりました。

 この歳になると人生下り坂が当たり前、充実した時間を持つことでその下り坂をなだらかに、うまくすれば上り坂にすることもできる、そんな気がします。充実感は人それぞれ、歩く以外にさして趣味のないわたくしの場合は、やはり仕事、現役時代と比べると僅かな収入であっても、やはり仕事なのです。個人事務所の仕事ができるだけ長く続いて欲しい、と願います。幸い、後期高齢者を過ぎた事務所オーナーはいたって元気、言いたい放題の発言で全国各地を飛びまわっています。それが元気の元でもあるのですが、頑張って欲しいものです。わたくしのためにも。

 今年は静岡から京都までを歩き、昨年の自宅から静岡までを入れて、自宅から京都までを完歩しました。お江戸日本橋から京都三条大橋までになぜしないのか、人に説明しにくいじゃないか、と友人に責められ、自宅から日本橋までを歩きました。これで日本橋から三条大橋まで完歩です。来年は自宅から京都まで歩きます。14日間の予定、排気ガスを避けて間道を歩くためのGPS機も使い込んでいて準備万端です。

友人が「My今年の10大ニュース」をブログに掲載していたのでわたくしも。

  1. 母亡くなる:92歳、子ども一筋の母でした。
  2. 39年間働いた会社を退社:結婚し、家を買い、年金をもらう、という人並みの人生が送れているのも会社のおかげです。
  3. 個人事業の主要クライアントを失う:このクライアントのおかげで出向先会社での在籍が7年も維持できました。感謝感謝です。
  4. 静岡から京都までを完歩:来年は自宅から京都です。
  5. 義理の両親との2度目の台湾旅行:美味しいものをたくさん食べてきました。
  6. 20年ぶりの「青春18きっぷ」の旅:3泊4日の東北、普通列車ののんびり二人旅でした。
  7. 夫婦で健康:二人とも風邪をひかなくなりました。二人での6km散歩をほぼ毎日続けている成果です。
  8. 愛犬モモも健康:散歩コースを変えてから、病気知らずになりました。
  9. 二十歳代の体重に:一時、体重60.5kgを記録、ズボンのウエストが85から76に。ウォーキングと噛ミングの成果です。
  10. 薄型テレビを購入:母が残してくれたお金で買いました。母からの最後のプレゼントです。

No.046:上には上が (11月30日) ページトップへ

上には上が 葉がすっかり落ちた1週間後の土手

 多摩川の土手に長く続く桜並木、葉がかなり落ちて心地よい木洩れ日です。夏は葉が生い茂り、涼しい木陰を作ってくれ、秋はこうして適度に暖かい日差しを通してくれます。あと数キロで叔母の家、朝8時前後に自宅を出て歩いて20キロほど、ここを通るのは正午から1時ごろ、1日で最も日差しの強い時間帯に、季節に応じた心地よさを提供してくれる桜並木です。平均すると月3回ほど叔母を訪ねていて、ここまで来たときの足の運び具合でそのときのウォーキング度を知ります。疲れて少しもつれ気味のときは「最近歩いてない」、疲れを感じることなく軽やかなときは「よく歩いている」と。

 1年を平均すると1日13キロ歩き、ウォーキング道にまい進しているわたくしに、妻が教えてくれた新聞記事は「てくてく地球2周分 宮城さん(71)毎日20キロ17年」(琉球新報2010年11月17日)。上には上がいるものです。地球2周分は8万キロ、毎日20キロはかなり大変、「歩いてます」などと少し自慢げに話していたのが恥ずかしい。しかも早朝出かけて午前10時ごろには歩き終わって、ガーデニングや読書、絵、カメラなど好きな趣味に没頭する、とあります。歩く以外にさして趣味もないわたくしとは、ここでもえらい違いです。継続の秘訣は「無理をしないこと」で、「自分に対し厳しくすることなく、楽しむことが大切」だそうです。

 妻が見せたもう一つの新聞記事、これはもっと壮絶で、わたしからすると雲の上の更にその上の人です。天台宗大阿闍梨・酒井雄哉さん(84)、比叡山廷暦寺で千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)という荒行を2回も成し遂げています。この修行は1000日で4万キロ歩きます。年100日間、年度によっては200日間、7年間かけての1000日、最後の7年目は200日で、前半100日は毎日84キロ、こうなると睡眠時間は1日2時間だそうです。記事の中で、「なぜ2度も?」との問いに、「ほかに何もすることがなかったの」「2度目もどんどん歩いているうちに、いつの間にかおしまいになった」(日本経済新聞2010年10月2日)とことなげにおっしゃっています。この壮絶な荒行に、「いつの間にかおしまいに」とは驚くべきコメントです。1回目が54歳、2回目が61歳と20年から30年も前のことで、荒行直後であればまた違ったコメントになったのかもしれませんが、沖縄の宮城さん同様に「楽しむ」気持ちがどこかになかったらこの感想には決してならなかったでしょう。

 お二人の言葉の気負いのなさに圧倒される思いです。偉業を成し遂げる人の持続力の凄さを感じるからでしょうか。「無心」になることや「楽しむ」ことの大切さがひしひしと伝わってきます。余計なことは考えずにひたすら歩く、楽しみとして歩く、というわたくしのウォーキング道に似ている、と思ったりもして、お二人のような偉業を成し遂げることはないものの、このままで頑張ればいいんだ、と励まされたおもいもします。

No.045:特上のうな重 (10月31日) ページトップへ

 特上のうな重4,000円、これが昼食、老舗のうなぎ屋さんから取り寄せたお重の大きさは普通、いやむしろ小さめともいえます。でも、厚い肉、脂のほどよいのり具合、とろけるような柔らかさ、秘伝とおもわれるたれの味、まさに極上品です。週2日働いている事務所のボスのおごり、ここではいろいろと美味しい思いをしています。

 先月までは台湾料理のシェフが昼食を作ってくれていたのですが、台湾料理店を開くこととなり今月から来なくなりました。そこで料理は主にボス、これがシェフ以上に美味しい。うな重のような出前は、その日のスタッフがたまたまわたしだけのとき、他のスタッフがいるときには頼みません。それは公言しているのでみんなも知っています。ホームページやメールの処理で家でも働いているのを知っているからこその特別待遇です。他のスタッフがうな重の話を聞きつけて、とても羨ましそうでした。

特上のうな重 牛肉もたっぷりのスープ

 みんながそろっているときのボスの料理は台湾の家庭料理、栄養、ボリュームたっぷりで、飽きるのことない味付けです。先日は具が盛り沢山のスープ、前日から煮込んで柔らかくなった牛のすね肉、北海道から届いたばかりのジャガイモ、大切りのニンジン、とけた玉ねぎ、トマト、味付けは塩だけ、たくさんの肉や野菜から生まれる絶妙な味、栄養満点で、体も心も暖まる特製スープ、食べることに強いこだわりを持つボスならではです。

 前日に浅草今半新宿店まで牛肉を買い出しに行き、長時間煮込んで、翌日にスタッフに振る舞います。前々日は飛騨高山からの夜遅い帰り、その前の2日間は大阪・枚方と浜松で、4日ぶりの帰宅でも休む暇なく買い出し、料理、それに原稿を仕上げて、翌日スタッフと昼食をとったあとは雑誌の取材を受け、夜はあるシンクタンクの総会に出席、とても76歳の後期高齢者とは思えません。自分が後期高齢者となったとき、こんなに元気でいられたらいいなぁ、という思いでいつも見ています。

 そんなボスの元気が詰まった料理は、先月までのシェフの料理よりも確実に美味しい、だいたい材料が違います。美味しいもののためにはお金を惜しまないボス、自分のお金でもないのに節約志向のシェフ、サンマが高いとき、1匹400円近かったころですが、サンマは100円というのが頭から離れず人数分をどうしても買うことができないで、自分1人サンマを我慢したシェフ、同じ台湾出身の二人ですがあまりにも対照的です。ついていくならば当然ボス、次のシェフは、と当初は思ったものの、最近はどうかこのままで、と願っています。何しろときどきは特上うな重が食べれることもあって。

No.044:新ウエブサイトの構築 (09月30日) ページトップへ

 久々、5年ぶりの新ウエブサイト構築です。働いている事務所で会員制のサイトを新たに立ちあげることとなり、全面的にわたくしにお任せ、というよりも誰もわからないので、やりたい放題、とても楽しく作業しています。

 この5年間で急拡大したブログ、この技術を活用する、会員申請情報の保護や、会員からの信頼確保のためにセキュリティを強化する、申請内容の自動チェック、自動メール返信、会員管理、メールマガジンの発行などの機能を組み込む、などほとんどが初体験です。全て既存技術なので、勉強して使いこなす、そこが今回のチャレンジ、遅くまでの作業が連日続いています。

 ページ表現はデザイン性よりも機能性重視です。この5年間で、パソコン画面も多様化し様々なサイズが出現していますし、携帯閲覧が当たり前になっているし、iPadのように縦長でも横長でも閲覧できるようになっています。どれでも快適に閲覧できる、そのためには表示サイズが変わっても横スクロール操作不要で、文字サイズも選択できる、といった自由度の高いページ表現が必要です。文字サイズや配置を固定化しないと実現できないようなデザインは採用できません。

 グーグルなどの検索エンジンに引っ掛かりやすくする仕組みも重要です。検索でサイトにたどり着く人が多く、特に初めての訪問者のほとんどがそうでしょうから。検索エンジンのロジックは公表されていなので、憶測が乱れ飛んでいますが、表の中の文字は検索にかかりにくい、などとの情報もあり、可能な限り表を使わないページ表現としています。ページの中に別のページを組み込む、フレーム構造といわれるものも不利だといわれており、ブログでは使われていません。ブログが検索に引っ掛かりやすい理由の一つのようです。

新ウエブサイトの構築 夜遅くまでの作業が続く

 わたしにとっては多くのチャレンジ項目を抱えた新サイト構築、佳境に入り、連日遅くまでの作業が続いています。当然のことながら、初めてのことが多く、そのたびにインターネットで解説や体験談を読みながら進めており、1つのことを解決するのに1日かかってしまうこともしばしばです。でも楽しいのです。それにお金にもなる、この歳でこんなチャンスはめったにありません。ここで最新技術を習得しておけば、今とは別の仕事につながるかもしれない、といった淡い期待もあります。眠いけど、充実した日々です。

No.043:夏の旅 (08月31日) ページトップへ

 夫婦二人だけでの国内観光、宿泊する旅は何十年かぶりです。勤務先事務所のボスがハワイ旅行で、ボスの居ぬ間にどこかへ行こうと、最初はイタリアでしたが参加人数が少なくツアー成立せず、慌ててトルコツアーに申込みましたが、今度は事務所以外の仕事が入りキャンセル、その後仕事がキャンセルとなってしまい、結局落ち着いたのが東北旅行でした。JR1日乗り放題で2,300円「青春18きっぷ」の旅は、ゆったりとした行程と美味しい食事でとても楽しいものとなりました。

 川崎の自宅最寄り駅を朝6時15分に乗車、普通列車を乗り継ぎ6時間8分かけて喜多方へ、会津若松で1泊、仙台で2泊、仙台から6時間34分で自宅最寄駅に戻りました。上りと下りが別通路のさざえ堂、日本三景松島の島めぐり、1015段の階段を上る山寺など、福島、宮城、山形の3県を巡り、喜多方ラーメン、会津わっぱ飯、塩釜の寿司、山形のだしそばなど、地元ご自慢の料理をいただきました。宮城の牛タンは店頭試食で済ませましたが。時間に縛られないゆるゆるの旅、二人のペースで、観光も食べ物もしっかり満喫できました。

 毎日快晴、強い日差しがじりじりと照りつける中、大汗をかきながらの、夏らしい観光です。仙台の真夏日が、統計が残る80年間で最多となった日、「閑(しずか)さや岩にしみいる蝉(せみ)の声」の芭蕉の句で有名な山形の山寺で1,000段以上の階段を上ったときには二人ともびっしょりの汗、それだけに上りきったときの景色の素晴らしさ、風の爽やかさは格別でした。参拝者も少なくはありません。昼は暑くても、夜は結構気温が下がるので、東京のような寝苦しさはない様子、日本の夏は思ったよりは旅に優しいのです。

夏の旅 会津盆地と磐梯山

 緑と青の風景も日本の夏ならではでしょう。仙台から山形の山寺に向かう仙山線、山間部を右へ左へとくねくね進みます。遠くの山々は淡い青、近くの山は力強い緑、電車に日陰を提供している間近の木々は深緑です。会津若松から郡山に向かう磐越西線、会津盆地をのどかに進みます。手塩にかけた稲が一面に広がり、輝く草色の絨毯、その向こうには青緑の磐梯山が立ちはだかります。船で島々を巡る松島、空は輝くような青、海はまさに紺碧、島々の岩肌は白く、そこに生える松は濃い緑でした。それぞれに素晴らしい風景、ゆっくりの旅だからこそ堪能できた日本の夏です。

 我々のような在来線普通列車の旅人を結構見かけました。帰りは仙台から川崎まで3回乗り継ぎましたが、車内のほとんどの人が同じ列車に乗り継ぎ、東京まで一緒だった人も何人かいます。時間のある人にしか許されない、考えようによっては贅沢な旅です。新幹線を使わずに節約できたお金で妻がバッグを買いました。大きなアウトレットに隣接するホテルを手配した妻の作戦勝ちです。

No.042:平山先生を偲んで (07月31日) ページトップへ

 中学生のときに大好きだった国語の先生、平山先生が5月に亡くなりました。享年85歳、わたしが中1のときは34歳ということになります。とても優しい先生で、国語の時間が楽しみだったのを覚えています。

 数年前、40年以上も会っていないわたしをみて「よう、XX君」と名前を呼んで話しかけてくれました。生徒一人ひとりをしっかり見つめてきた先生、あのころ大好きだった理由が少し見えた気がしたものです。そのとき先生が特攻の生き残りであることを知りました。先生の教育に対する真摯な姿勢の根元には、カトリック信者ということとともに特攻経験者ということもあったにちがいありません。そんな先生の教え子だったわたしは幸運でした。

平山先生を偲んで 中学2年生のときの校舎

 そのとき知ったもう一つのこと、それはわたし自身に関係したことで、幸運だったという思いをさらに強くするものでした。カトリックのサレジオ会が運営していた工業高校の付属中学に入学したわたしは卒業後そのまま工業高校へ、卒業したら就職、と考えていた母の思いをよそに、大学を目指すようになります。50人ほどのクラスで進学希望者は数人、専門教育中心の工業高校に受験教育などはありません。そこで倉本先生という方が受験勉強のための私塾を開いてくれました。週何回か先生のご自宅に伺い数人で指導を受けます。これがなかったら大学受験にはおそらく失敗していたでしょう。この私塾、平山先生が倉本先生にお願いして実現したということを数年前のそのときに知りました。中学を卒業して担当から離れた後も、高校で学ぶ我々をしっかり見つめていてくれたのです。深い感謝の念とともに、大好きになったのは当然だったとも思えるのです。

 先日、学校跡地にいまも残る教会で追悼ミサがとり行われ、360名もの参列者で満席となりました。ミサ終了後、教会に隣接した会館での追悼集会となり、みなさんが亡き平山先生の思い出を語ります。わが校の有名人に水戸黄門うっかり八兵衛役の高橋元太郎さんがいて、仕事の都合で参列できないと思っていたが、突然時間ができたので出先から駆けつけた、先生に歌をやれと言われ、リサイタルを来年開くはこびとなったが、先生にぜひ来ていただきたかった、と会場をしんみりさせました。真の教育者であることをあらためて感じる集会でした。

 この集会で45年ぶりに再会した友人と、同じ仲間だったあと2人が集会に参加していなかったので、この2人を誘ってミニ追悼集会をやろうということになりました。4人の都合で、9月開催となりそうですが、とても楽しみです。お互い家に遊びに行ったりした仲間ですが、高校卒業後の交流は途絶えており、ここにきて再開となりそうです。「また仲良くやれ」と平山先生がおっしゃっているのかもしれません。

No.041:等々力渓谷 (06月30日) ページトップへ

等々力渓谷 昼なお暗い等々力渓谷

 そうだ 等々力渓谷、行こう。我が家のお犬様、モモの朝の散歩中に思い立ちました。日差しの強い日が続く中、その日は曇り、風がとても爽やかで久々のウォーキング日和です。調べてみると我が家から歩いて6.8km、往復13.6km、まあまあ適度な距離です。

 都区内にある渓谷ということで、ビルに囲まれた小さな谷を想像していましたが、両斜面の樹木に覆われ、ビルはおろか、民家も見えず、外界から遮断された別世界、大自然の中で澄んだ川の流れと湧水を楽しみながら歩く、といった趣がありました。わずか1km足らずの渓谷ですが、これからはときどき出かけて、四季折々の景色を楽しもうと考えています。ただ歩くだけの無味乾燥ともいえるわたしのウォーキングに、少し彩りを添えてくれるかもしれません。

 初めてのコースなのでGPS機、それにカメラ、携帯、財布、ハンカチを全てズボンのポケットに入れ、UVカット布を周りに垂らしたキャップを持って家を出ました。旧日本兵を連想させるこの帽子、少し恥ずかしいので家から離れたところでかぶります。手ぶらですが、ポケットが一杯で、少し重い。自宅から2.5kmほどの多摩川の丸子橋を渡って東京側へ。ここから、多摩川に沿って流れる丸子川を上流に3.4kmほど歩くと、等々力渓谷を流れる谷沢川、ここでは川と川が直角に交差しています。江戸時代初期に造られた農業用水路である丸子川が谷沢川の上を跨(また)いでいた、というのが昔、今は丸子川上流側は谷沢川に流れ込み、丸子川下流側には汲み上げられた谷沢川の水が流れています。川が川を跨ぐ昔の風景、見応えがあったのではないでしょうか。谷沢川を上流に少し行くと等々力渓谷です。

 日曜日なので、家族連れや若いカップルで賑わっています。渓谷での人気は等々力不動、ここには不動の滝があり、その音が渓谷に響き渡り「轟いた」ことから「等々力」となったとか。さすがに、滝の音が「轟く」ほどの静けさは現代にはありません。いたるところに湧水があり、幼少時の弘法大師(空海)を祀った稚児大師堂の手水にも湧水が引かれています。心地よい冷たさでした。飲むのはちょっと遠慮しましたが。渓谷出入り口の長い階段を上がると商店街、そこはもう都会の一角です。すぐ近くに東急大井町線等々力駅があります。

 四季を感じることができるであろうこのウォーキングコース、定年後始めた11kmウォーキングに3年半ぶりに加わった新コースとなります。初めての道でも安心して歩くことができるGPS機がなければ行かなかったことでしょう。これからはいろいろな新コースが開発できそうです。

No.040:ハンディGPS機 (05月31日) ページトップへ

 「え!こんな細い道」、住宅街からいきなり、人ひとりがやっと通れる細い山道のような上り坂に出たのです。ハンディGPS機に登録した徒歩ルートによるとここを登ることになります。

 少し不安を抱きながら登ると、左が草木の茂る斜面、右が畑といった丘の中腹を進む細道で、さらに進むと下りとなり住宅街に入りました。丘を越えるための正しいルートだったのです。道を1mも外れようものなら、画面上の現在位置が登録ルートから外れる、GPSが正確に誘導してくれます。このGPS機さえあれば全国どんな道でも迷わずに歩ける、と確信しました。

 このハイテク機器、先月の静岡から京都までの歩きで悩まされた排気ガスへの対策として今月購入しました。排気ガスを避けるためには車の通らない細めの道を歩けばよいのですが、かさばる詳細地図が必要な上、道の確認も難しく迷いがちとなり、どうしても車の多い幹線道路に頼ってしまいます。しかしこのGPS機があればどんな細い道でも間違うことなく進むことができるのです。4万3千3百円とちょっと高めですが、江戸時代のように京都まで12日から15日で歩こうとしているわたくしには強力な助っ人です。江戸時代にはないハイテク機器ですが、排気ガスのない江戸時代であれば必要もなく、なにやら複雑な気持ちではありますが。

 細い道の選定は、これまた優れモノのグーグルマップサイトを使います。出発点と到着点を指定すると、最適な歩行ルートを検索してくれます。先の丘越えの細道は、自宅から友人宅までを検索した結果の約10kmルートの一部でした。エリアによってはエレベータを通る最短ルートや、どの信号で横断すべきかといったことまで示してくれます。最適ルートに幹線道路が入ってくる場合には、グーグルマップ画面上を手作業で変更します。このルートデータをGPS機にダウンロードし、歩きながらルートと現在位置を確認して進むのです。

ハンディGPS機 優れモノのGPS機を手に(東京・日本橋にて)

 購入前にネットで機能を確認しようとしましたが、詳細が分かりません。京都までの詳細ルート全データを格納できるのか、GPS機に内蔵できる2万5千分の1の地図にない道でもルートとして登録できるのか、これができないとわたくしには役に立たないのです。販売店に電話すると、女性の方が的確に答えてくれました。ルートデータは1万点プロットまで格納可能、地図とは無関係に自由にルート設定可能、鉛筆で絵を描くように、とのこと。京都までは約500km、1万点あれば50mごとのプロットでルート表現ができので十分な精度だし、地図にない道でもルートとして登録できるのであればどんな細道でも選ぶことができます。

 問い合わせたのは立川にあるGPS機器専門店ベルク、信頼できそうな店なので、電話の後にすぐ買いに出かけました。1時間ぐらいで到着すると、さほど大きな店ではなく、電話で答えてくれた若い女性が一人で対応しています。先程電話したものですが、と伝えると、日本橋から三条大橋までは3千7百ポイントほどですから登録可能です、と即座に教えてくれました。電話の後に調べてくれたのです。さらにいくつか尋ねましたが、どんな細かいことでも即座に答えが返ってくるし、関連した注意事項も教えてくれる、「詳しいんですね」と感心すると、「よくご存じのお客様からのご質問で鍛えられていますから」とのことでした。

 若い人の、その熱心な姿に感銘すら受けました。GPS機のプロともいえる知識、その姿勢や意欲、なにかとてもすがすがしい気分です。気持ちの良い機器購入となりました。丘越えの細道でその有用性が確認できたいま、来年の京都までの歩き旅が楽しみとなっています。

No.039:京都までの334km歩き旅 (04月30日) ページトップへ

京都までの334km歩き旅 8日間の行程、マーク間が1日の行程。GPSトレースデータより自動作成された行程。<詳細地図を見る>

 今年は静岡から京都までを8日間かけて334km歩きました。自宅から静岡までを4日間で168km歩いた昨年のほぼ倍となります。来年はいよいよ自宅から京都までを一気に歩くことができそうです。

 ただひたすら歩くだけの旅、途中の名所や名産を楽しむこともなく、京都に到着しても数時間後には東京行の新幹線に乗り込む旅、それでも心ウキウキ、この日のために毎日歩いてきたという思いだけでなく、やはり旅に出るという解放感、楽しみがあります。京都の三条大橋では友人夫妻が出迎えてくれ、達筆で大きく書かれた「祝 東海道完歩」の友人手作りの幕とともに写真を撮りました。少し恥ずかしい思いでしたが、出来上がった写真を見ると何か誇らしい気持ちです。「(歩くのが)いやにならなかった?」と訊かれましたが、そんなことは全くありませんでした。自分の足だけで京都まで行く、それが目的である以上は辛いときでも嫌になることなどありません。辛いけど楽しい、そんなスポーツ感覚のある旅といえるかもしれません。

 来年からの課題も見えてきました。最大の課題は足裏のマメです。5日目でしたが、73kmの歩きとなりました。翌日の天気予報が雨だったので、出来るだけ移動して翌日ゆっくりしようと張り切ったのです。これがマメのひとつの原因と考えています。翌日の雨の中では14.2km、軽い歩きでしたが雨のため靴がずぶ濡れ、濡れた足のままで4時間弱歩いたのもマメの原因かもしれません。翌々日の7日目の午後になって足裏に痛みを感じ、見るとマメです。前日洗った靴の紐がほどけたままで歩いていたのが直接の原因とも考えられます。翌8日目は最終日だったので何とか歩きましたが、来年は12日以上あり、マメができたらおそらく途中で帰ってくることになるでしょう。油断せず、歩く時の靴のチェック、歩いた後の足のケア、そしてなによりも無理をしない、あまりの長距離や雨での歩きを避ける大切さをあらためて思い知りました。

旧東海道の松並木 旧東海道の松並木は、いまでも木陰を旅人に提供してくれる

 車の排気ガスも大きな課題です。東海道の国道1号と伊勢街道の国道23号が主なルートとなりましたが、時間帯によっては車が途切れることがなく、排気ガスの中を長時間歩くこととなります。出来るだけ小さな道をと思いながらも準備不足のため安易なルートとなってしまうのです。旧東海道にもときどき入りましたが、車は少なく、人々のぬくもりや歴史を感じることもできて楽しい歩きでした。次回は可能な限り旧東海道を歩こうと決めています。日数もかけて。

 江戸時代の京から江戸への約125里の旅は12日から15日と認識していましたが、日経朝刊の連載小説「韃靼(だったん)の馬」(辻原登著)によると、順調にいけば16日、天候不順などがあると18日ほど、とあります。これは李氏朝鮮の日本使節団が移動する場合のことですが、集団で移動するこのくらいのペースがよさそうです。来年はもう少し楽しい旅としたいものです。

江戸時代の旅体験(静岡から京都)にもう少し写真があります。ご覧ください。>

*参考:日経朝刊の連載小説「韃靼(だったん)の馬」(辻原登著)2010年4月24日、25日掲載より抜粋
 洪はさらにたずねた。
「私たちは船で淀川を遡(さかのぼ)って京へ向かいます。京から江戸まで約125里と聞いておりますが、江戸に着くのは何日後になるでしょうか?」
 兵藤は瞬きをひとつして答えた。
「はい。仮に1日、8.2里の速度で進むといたします。朝辰(たつ)の刻五つ(午前8時)に出発して4時間歩き、午(うま)九つ(正午)から2時間休憩して、再び4時間歩いて酉(とり)の刻六つ(午後6時)に宿に入るとして、順調にゆけば、京を発って16日目の朝巳(み)の刻(午前10時)前に、品川宿に着きますでしょう。もし天候不順のために、1日半分の行程、つまり4.1里しか進めない日が5日間あるとすると、18日目の申(さる)の刻七つ(午後4時)前には同じく品川宿に到着します」

No.038:大都会のナイトライフ (03月31日) ページトップへ

 横浜みなとみらい万葉倶楽部に宿泊したときのことです。夜中の12時過ぎだというのに200席以上ある大広間に人々があふれ、みなさんそれぞれに食事やお酒を楽しみ、従業員たちもキビキビと働いています。その活気には圧倒され、びっくりもしました。若い女性客も多く、初めて見る風景、とても不思議な真夜中の光景でした。

 ここは、午前10時から翌朝9時まで、2、620円で浴衣、タオル、バスタオル付でお風呂に入れて、リラックスルームにある飛行機のファーストクラス席のようなテレビ付リクライニングシートで寝ることができます。お風呂のアメニティは完備していて、女性風呂には化粧品もありホテル以上、全くの手ぶらで、仕事帰りでも気軽に泊まることができるのです。それに露天風呂は温泉で、万葉倶楽部が所有する湯河原や熱海の源泉から毎日輸送しています。

 午前11時30分から翌朝8時45分まで食事ができてお酒が飲める、リフレクソロジー、マッサージ、ビューティサロンなども朝5時まで利用でき、ヘアカット&スパやネイルサロンもあります。こういったサービスやお風呂で、真夜中でも大広間を埋め尽くす人々が集まるのです。新しい夜の過ごし方を提案し、受け入れられた、そんな気がします。真夜中のフロントでは、若い女性客数人がチェックインの手続き中でした。

 朝5時前に大広間を通るとさすがに人はまばら、リラックスルームを覗いてみると、500以上あるシートのほとんどが平坦なリクライニングとなりみなさん毛布をかけて寝ていました。暗く静かな室内にテレビモニタの明かりが点々と見え、部屋をぐるっと囲んでいる窓が僅かに明るくなろうとしています。まるで巨大な飛行機に乗っているようで、楽しかった夜も終わりそろそろ着陸、といった感じです。

 大都会ならではの新しいナイトライフを垣間見ることができたこの宿泊、毎年恒例となった同期入社仲間の宴でした。還暦後に始めて今回で4回目、昨年の会場が関西でしたので今年は関東、この横浜みなとみらいとなりました。メンバー9人のうち3人欠席でしたが、2人の特別参加と奥さん方の参加を得て総勢12名、我々の宴や寝床は和室でごく普通の宿泊でしたが、宴に続く楽しい会話が終わった真夜中、部屋からお風呂に行く途中で見たこの光景にはみんなが驚きました。

大都会のナイトライフ 同期入社仲間と横浜散策

 翌日は横浜を散策し、港を一望する大桟橋のレストランで昼食をとり解散となりました。また万葉倶楽部で、という声はさすがに聞けませんでした。機能的で効率的なここでの楽しみ方、我々にはあまり馴染めないようです。「それなりに人生を歩いてこられた方々ばかりですので(来年は)情緒ある企画にしたいと思います」とのメールが次回の幹事から届いています。来年は関西で、静かで落ち着いた所での同期会となりそうです。

No.037:リタイア組スキーヤー (02月28日) ページトップへ

 昨年の25年ぶりスキーの楽しさに味をしめて今年も行ってきました。昨年の話を聞いて今年はおれも行く、と言ってきた友人と二人、共にリタイア組、月曜日午前9時30分東京駅集合です。

 30分前に東京駅に着いて予約していたツアーチケットを受け取ります。ガーラ湯沢駅への新幹線往復と1日リフト券で8,700円、正規料金であれば17,700円、何と50%オフです。チケット窓口が混んで時間がかかると困ると思い早めに行きましたが、窓口のおじさんが一人暇そうにしているだけ、予約番号を伝えるとすぐにチケットを渡してくれました。早すぎる受取りに、どうしようかと集合場所に行くと友人がすでに来ています。これまた早い到着です。二人で30品目バランス弁当850円とビールを買って待合室へ、待合室はガラガラ、乗り込んだ新幹線もガラガラでした。

 列車の席取りのために長時間並んだり、長くて重いスキー板やスキー靴などの荷物を持っての移動だった昔とはえらい違いです。席はガラガラで手荷物は弁当とビールと傘だけ、気分は上々、さっそく乾杯です。空いている平日にゆったりとスキーに出かける、これぞリタイア組スキー、苦労のない分楽しみも少ないのかもしれませんが、刺激のあまりないいまはこれで十分に非日常的な活動、心躍ります。1時間半ほどでガーラ湯沢駅に到着、インターネット限定20%オフで予約していたスキー一式を借り出し、ウエアを着て、靴を履き、板を持つと、動きはぎこちないものの気持ちは逸(はや)り、ゲレンデへ向かうゴンドラでは、山々の雪景色に意気込みが高まります。

リタイア組スキーヤー 意外と様になってる友人

 しかし、残念ながらゲレンデはかなりの濃霧、先がよく見えないので滑っても楽しくありません。やはり景色を見ながらでないと、などと思いながらも1日リフト券がある以上、霧が晴れるまで休憩しよう、などとは考えません。何十年かぶりのスキーとなる友人はこれでも十分楽しそう、それに思ったよりうまい、全く転ばない、先が見えずによく転ぶわたしとは対照的です。トイレタイムは1回だけ、とにかく二人で滑りまくりました。そのうち霧も薄くなり昨年のスキーの楽しさが戻ってきて、帰るころには、たっぷり遊んだという充実感が出てきました。

 駅に戻り、スキー靴を脱いで、服を着替えたときの解放感は格別です。そのまま駅にある温泉へ。広い湯ぶねで手足を伸ばすと、これが何とも言えない最高の気分、スキーと温泉のいいとこどりの1日、といった感じです。風呂から上がって広間でしばらく休憩して新幹線に乗り込みます。車中で乾杯、駅で買ったカニ飯弁当とビールの美味しかったこと、幸せな気分で東京に戻りました。

 アクセスも、レンタルも、ゲレンデも、温泉も、ガーラ湯沢は全てが便利、その便利さを満喫しました。原田知世主演の映画『私をスキーに連れてって』(1987年)から3年後にできた、世界初の駅直結ゲレンデ、当時はスキーブームで、列車の座席確保は難しく、リフトは長蛇の列だったにちがいありません。ブームの去ったいま、思い立ったときに出かけることができ、リフト待ちもない、そんな便利さが堪能できます。来年もお世話になることと思います。

No.036:母のこと (01月31日) ページトップへ

 「沼津の学校に行くかい?」、母が尋ねたのはわたしが小学生のときです。電車の中でした。外の景色をドアのガラス越しに見つめながら「うん」と同意したのを覚えています。虚弱体質の子どもや知恵遅れの子どもを寄宿舎生活で鍛える沼津の学校と知っての返事でしたから、それ以前に母から説明を受けていたのでしょうが、このときのことしか覚えていません。子ども心にも、それだけ深刻な決意の瞬間だったのでしょう。

 自転車にぶつかっては骨折、姉と相撲をとっては骨折、といった弱い身体、それに弱視、成績も悪い、そんなわたしを心配しての母の決断です。結局、「そこまで必要ありませんよ」という担任の先生の意見によって、取りやめとなったのですが。先日、兄弟4人全員が集まったとき母の昔話となり、この話も出て、兄から「それで担任の先生が、黒板の字がよく見えるようにと席を一番前にしてくれたんだ」と初めて聞きました。そういえば一番前の席だったことは、数少ない小学校での記憶のひとつです。先生の顔が迫り、はっきり見えたのを覚えています。きっと字もよく見えたことでしょう。それ以降、授業に集中できるようになり、成績も上がったと記憶しています。そんな席替えのきっかけが母の強い思いだったとは、いままで知りませんでした。気付かない多くのところで母に守られていた、あらためてそう思います。

母のこと お正月の一家だんらん(高校時代)

 その後中学受験を経て、私立の工業高校付属中学へと進み、高校卒業まで上位5位以内の成績だったのも、この席替えが1つの契機だったような気がします。みんな公立中学卒の兄弟のなかでわたしだけが私立中学卒、わたしのことを「工業高校を卒業したら電気屋でもやらせるから、弟の面倒をみるんだよ」と兄二人に母が頼んでいたことも先日の兄弟での話題となりました。結局、電気屋とはならず、工業高校、大学、大学院を経て電機メーカに入社、兄弟の世話になることもなく今日を迎えています。兄弟で集まったその前日が63歳の誕生日、前々日が39年間勤めた電機メーカ退職日でした。ここまでこれたのも子どもを思い、その将来をいつも考えていた母のおかげです。

 その母が今月3日に永眠しました。92歳でした。11月3日に肺炎で入院、すぐに熱も下がり比較的元気だったのですが、1月2日午後に突然40度の高熱を出し、激しい心拍数が続き、翌3日夜亡くなりました。熱でうなされるように息が少し荒くなることがわずかにはあったものの、ほとんどはとても安らかな顔つきで、すやすやと眠るような最後でした。3年半前に脳内出血で倒れてからは、認知症なども出て、本人としては不本意な日々だったとは思いますが、「歩かないと寝たきりになっちゃうよ」と言うと「歩くよ」とわたしにつかまって歩き出す、強い意志と根性は最後まで変わりませんでした。

 葬儀では、親戚やご近所からの別れを惜しむ方々の多さに、母の面倒見の良さを思い、子ども全員、ニューヨークにいる孫娘を除く孫全員がそろい、小さな曾孫が斎場をうろうろする姿からは、母から子ども、孫、曾孫へと引き継がれる命を思い、母の生きる力の強さを思う、そんなときとなりました。母のことを思い返すと、そこには感謝、感謝、感謝があるのみです。これからは、いつでも、どこにいても、母がしっかり見守っていてくれる、そう信じています。