リタイア間近組

 
 
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セカンドライフ 定年準備と定年後の日々

定年、その後(2016年)  定年後の日々(毎月1日更新)

No.119:十大ニュース (12月31日) ページトップへ

 今年の「私の十大ニュース」です。内容は少しづつ変わってはいるものの、タイトルは変わり映えしません。今年もいつものように無事過ごすことができた、ということのようです。ありがたいことです。

1.家族旅行
 年始にベネルクス 三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)、7月にベトナム・ホーチミン、国内では、4月に会社同期会で箱根、9月は北海道新幹線開通記念切符で函館、10月友人夫妻と車で会津若松とほぼ例年通りのペースでした。

2.仕事
 個人事務所の週2日勤務が来年で10年目、何年か前、あなたが(私のこと)70になるまでは頑張るから、とボスが言っていましたが、70になっても、まだまだ頑張ってくれそうです。3月発売の週刊新潮に、私との出会いを寄稿してくれました。

3.ウォーキング
 年間4,376km、1日平均12kmでした。歩き過ぎは良くない、という本を読んでからは無理をしないように心がけ、かなりペースを落としました。適切な距離を模索中で、来年は1日平均10km前後、年3,650km前後にしようと考えています。

4.東海道歩き旅
 自宅から伊勢神宮までの歩き旅、7回目の今年は何事も無く12日間で完歩、当面の目標70歳まで、は達成できそうです。

5.鎖骨骨折部分完全癒合
 富士山一周の歩き旅で骨折した左鎖骨、1年経ってもつながらず、京都に住む知人の整形外科医には、もうつながらないのでは、と言われました。生活には全く支障ないのですが、将来支障が出ると困るので、PRP療法(自己多血小板血漿療法 )を始めたところ、半年で癒合、レントゲン写真を見た知人は「完全に繋がってますね!!PRP恐るべし」と驚いています。1クルー10万円で3クルー実施しました。

6.実家を売却
 実家に住んでいた姉は都内にマンションを購入し、兄弟にお披露目しました。3階で、隣接する公園の緑が窓の外に広がる素敵な部屋、生れて初めての自分自身の家、目の前のスカイツリーを見ると元気が湧く、と幸せそう、そんな姉を見た兄弟たちもとても嬉しい気分になりました。

7.スキー再開
 昨年は鎖骨骨折で中断、今年再開し、7回目のガーラ湯沢となりました。

8.中学・工業高校の同期会
 中高一貫校だった母校の同期による「古希の会」に参加しました。同期が271名、連絡できたのが半数、出席は40名ほどでした。ほとんどが10年前の「還暦の会」以来です。10年後の「傘寿の会」開催はもうないでしょう。いまだに現役という人が、確認できただけで8人中6人、総務省「労働力調査」(平成23年)では、65~69歳の就業率が46.2%ですから世の中の平均よりも高い率です。そういう人だけが出席した、出席できた、ということもあるのかもしれませんが、中卒や工業高校卒で、頼るべきは学歴ではなく自分自身、というなかで働いてきたからこそ、70歳という高齢でも働く場があるということなのでしょう。それぞれ、特殊技能を持っていたり、国家資格を持っていたり、起業したりしています。

朝日に輝く富士。今年も良い年でした。(12月24日自宅から撮影)<写真へのクリックで拡大できます>

9.住みたい街ランキング上位
 住んでいる武蔵小杉のランキングが上昇中です。今年は「シン・ゴジラ」の舞台にもなり、我家のマンションも写っていて、ソフトバンクのCMにも登場しました。若い人が増え、活気ある街に変貌しています。

10.運転免許返納
 運転免許の更新時期となったのでメガネを作ろうとしましたが、「眼科医の診断書がないとこれ以上強い度のメガネは作れません」と断られました。このため、免許は返納することにしました。23年前、アメリカ駐在直前に取得しましたが、日本では一度も運転していません。小さいころから視力が弱く、親に心配をかけましたが、ここまで無事やって来れました。パソコン作業を出来るだけ減らして、目を少し休ませてあげようと思います。

No.118:4台目の一眼レフカメラ (11月30日) ページトップへ

 一眼レフカメラは持って行く気がしない、との友人の言葉に思わず頷きました。同じカメラを持っているのですが、重くてかさ張るのです。必ず持って行っていた海外旅行でしたが、今年7月のベトナムは小型カメラだけにしました。歳のせいでしょう。それに、パーティのような少し暗い所では、ファインダー越しに人の表情をうまく確認することができず、僅かなシャッターチャンスを逃したりもします。片目での視力がかなり落ちているのです。これも歳なのでしょう。

 そこで、年末年始の海外旅行を前に、世界最小・最軽量のデジタル一眼レフカメラを購入しました。持ち歩きに便利だし、ファインダーだけでなく、液晶モニターでも構図を確認できるので、人の表情を両目で、モニターと同時に直視もできます。身体的機能低下をカメラの高性能化、多機能化でカバーしようという目論見です。それに、今持っているカメラは、カバーが剥がれて内部が見えているところをスコッチテープで補修し、外れた蓋をスコッチテープで留めています。まさに満身創痍の感があり、そろそろ買え替え時でもあるのです。

最初のお出かけは小江戸・川越でした。明るい青空も暗い日陰も表現できるHDR(High Dynamic Range:光の感度幅を広げるデジタル処理。初代モデルにはなかった機能)撮影(上)と通常撮影(下)。<写真へのクリックで拡大できます>

 実際手にしてみると、嬉しさがこみ上げてくる小型軽量さ、今までより重量が63%、縦サイズと厚みは90%,95%ですが、横サイズは82%です。同じモデルですが、13年前の初代と今の9代目の違い、価格も14万円ほどだったのが3万5千円と4分の1に、性能は、解像度が3倍、感度が8倍と飛躍的に向上しています。

 一眼レフを初めて購入したのは大学生のとき、50年前です。長期のアルバイトのお金で買い、学友との旅行や、就職してからのスキーやテニスなどで使いました。オリンパスペンFという世界初のハーフサイズ一眼の初代モデルでした。それから27年後、2台目をアメリカ赴任直前に赴任手当で買い、アメリカでの旅行などで使いました。EOS Kissというエントリークラス一眼の初代モデルでした。更に10年後、3台目を家計費で買い、海外旅行などで使いました。広告代理店に出向し、休暇が取りやすくなり、海外旅行に出かける機会が増えたので、たくさんの写真を気軽に撮れるデジカメとしたのです。EOS Kissデジタル版の初代モデルでした。そして13年後、今回の4台目をお小遣いで買いました。それで買える価格帯となったのです。海外旅行などで使います。EOS Kissデジタルの9代目モデルです。

 この4台目も10年以上は使うことになるでしょう。次の5台目は更なる進化を遂げ、身体的衰えをよりカバーしてくれるに違いありません。でも、課題は、その時点でどれだけ行動しているかです。行動していなければカメラはあまり必要ありません。10年以降も健康で活動的で、5台目が必要となる暮らしであることを願うばかりです。

No.117:友人夫妻との旅行 ー 人生を幸せにするのは何?  (10月31日) ページトップへ

 友人夫妻との旅行、以前はちょくちょく一緒に出掛けていたのですが、今回は5年ぶりです。友人に、孫ができたり、同居していた叔母さんが高齢となったりで、なかなか出かける機会がありませんでした。昨年に双子の孫が生まれ、お祖父ちゃんとして忙しい日々が続いているのですが、思い切って出かけることにしたようです。久しぶりなので、泊りがけ、2泊3日の旅となりました。

 大学時代の友人で、1971年に大学院を一緒に卒業し、私は京都、彼は東京で就職しました。12年後の1983年に彼が岡崎に転勤となり、その翌年に家族3人で京都に車で来てくれました。4年後の1987年に彼が転勤で東京に戻るまで、毎年のように京都や奈良を一緒に見物しています。それから4年後の1991年、今度は私が横浜に転勤となり、城ケ島、銚子、川越などに一緒に遊びに行くようになりました。2005年からは年2回から4回というハイペースで、しかも小布施、善光寺、富岡製糸場、足利学校など遠方への車での日帰りで、早朝からときには深夜まで、1日たっぷり遊び歩いています。7年ほど続いて、2011年の鎌倉が最後でした。

 一緒に旅行して楽しめるご夫妻は貴重な存在、時間があり、話題があり、同じような価値観や金銭感覚を持つ、長い付き合いの気心の知れた友人だからこそでしょう。それに彼は車で出かけるのが好き、運転しない我々夫婦が簡単には行けないところに連れて行ってくれます。青森の鶴の舞橋が今回の彼の希望、吉永小百合さんの広告を見て行きたくなったのでしょう。でも750キロもあり、車で8時間から9時間かかります。それを苦とは思わないのです。70歳になったというのに。

 ドライバーさん最優先、希望通りの鶴の舞橋で2泊3日としましたが、出発直前になって台風18号が東北地方に迫ってきたので、会津若松と米沢の観光に急きょ変更しました。結局、台風は熱帯低気圧に変わり、2日目の夜、寝ている間に通過し、3日間とも雨に降られることなく楽しむことができました。

会津若松と日光・今市を結ぶ会津西街道の宿駅、大内宿<写真へのクリックで拡大できます>

 1日目の磐梯朝日国立公園では、吾妻小富士頂上で身体ごと吹き飛ばされそうな強風に出会い、五色沼・毘沙門沼で青緑色に光る神秘的な水面に、2日目の会津では、塔のへつりでいろいろな塔の形をした断崖に、大内宿で歴史情緒ある茅葺き屋根の民家群に、3日目の米沢では、トトロに見える神社の森に、北山原(ほくさんばら)殉教遺跡で江戸時代の初期に57人のキリシタンが殉教した聖地に、上杉神社ではケネディ大統領が最も尊敬する日本の政治家・上杉鷹山の像に出会うという、盛りだくさんの旅でした。

 宿泊は2泊とも日本秘湯を守る会の宿、風情があり、食事も対応も温泉も大満足でした。特に2泊目の白布(しらぶ)温泉では、築約200年の茅葺入母屋造りの宿で、豪快に流れ落ちる源泉に打たれ、これぞ秘湯、という体験をしています。観光、宿泊共に車ならではの旅です。

 帰りは、福島県を縦断して日光二荒山(ふたらさん)神社に行くことにしました。曲がりくねった山道が多く、その上、道の駅に2つも出くわして、そのたびに果物や野菜などを買い込んで、日光に着いたときにはすっかり暗くなってしまい、日光見物はできませんでした。でも、東京に戻り、スカイツリーや都心の夜景を高速道路から楽しんでいます。緩やかな計画の中で、心安らぐ友人夫妻とゆったり楽しむ旅、観光も買物も食事も入浴も全てが楽しい時間でした。車のトランクいっぱいの果物や野菜を積んで、わが家まで送ってくれました。このため40キロ以上離れている彼宅への帰宅は深夜になっています。ありがたいことです。感謝、感謝です。

 

追:このコラム掲載後、近くの総合病院のイベントでの講演で「75年間の追跡調査で分かった、幸福で健康な人とは」という興味深いお話しがありました。その関連スピーチサイトがあったのでここに転載させていただきます。

「75年間の追跡調査で分かった、幸福で健康な人とは」を表示/非表示

*「ロバート・ウォールディンガー 人生を幸せにするのは何? 最も長期に渡る幸福の研究から TED Talk TED.com」からの転載となります。。

 

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ロバート・ウォールディンガー氏講演

 一生を通し、私達を幸福で健康にするものは何でしょう?名声や富 ―そう考える人はたくさんいます。しかし、心理学者ロバート・ウォールディンガー(ハーバード大学医学部臨床教授。1938年から続くハーバード成人発達研究の第4代責任者)に拠ると、それは間違っているのです。75年に渡る成人発達に関する研究のディレクターであるウォールディンガーは、真の幸福と満足感に関する無類のデータを基に、この研究結果が私達に教える3つの重要な教訓と、昔からの知恵、幸せな長寿の秘訣を、このトークで語ります。

<ロバート・ウォールディンガー氏講演内容>

0:11 :一生を通して私たちを健康で幸福にしてくれるのは 何でしょう? 最高の未来の自分に 投資するなら 自分の時間とエネルギーを何に使いますか? 新世紀世代を最近調査し 最も大切な人生の目的は何かと訊ねました 80%以上の答えは 主な人生の目的は富を蓄える事で その同じ若者の50%の もう1つの大きな目的は 有名になる事でした

0:49 :(笑)

0:51:働き 更なる努力をしもっと成果を出すようにと 常に求められている世の中です 良い人生を送る為にはそうする必要があると 誰もが思わされています 自分の全人生を? 自分の選択がどう人生を描いて行くかを予測するなんて 殆ど不可能です 人の人生に関しての凡そは その人の過去を思い出してもらう事で分かりますが ご存知のように それはあまり頼りにはなりません 過去に起きた内の膨大な量は忘れ去られ 時には完全に創作された記憶さえあります

1:35:では ある人の全人生が展開されるのを 観察しながら 記録できないものでしょうか 人々を10代の頃から老年まで追い 幸福と健康の持続に 本当に何が必要なのか探索しようと始めたのが 我々の研究です

1:56:ハーバード成人発達研究は 史上最も長期に渡って成人を追跡した研究です75年間724人の男性を追跡し 休むことなく 仕事や家庭生活健康などを記録しました 勿論 その期間中 我々は彼らの人生がどう展開するかは 知る由もありませんでした

2:24 :この様な研究は非常に稀です こんな計画は10年もしない内に頓挫してしまいます あまりに多くの人が途中でプロジェクトを降りてしまう 研究の資金が不足して来る 研究者達が他の事で忙しくなったり 亡くなってしまう などが原因で進行が止まってしまうからです 我々の場合は運が良かった事もあり 数世代の研究者達の根気強さのお陰で この研究は生き残りました 元の724人の内の約60人が 未だ健在で 今も研究に参加しています その殆どが90歳代です 新しく研究に 2千人以上の彼らの子供達にも参加してもらっています 私は4代目の研究責任者です

3:14 :1938年以来 男性の2グループを追跡しています 1番目のグループは研究が始まった時 ハーバード大学の2年生で 第2次世界大戦中に大学を卒業し 殆どが戦争に行きました 2番目のグループには ボストンの極貧環境で育った少年達が この研究の為に選ばれました 1930年代のボストンで 最も問題の多い貧困家庭出身の 人達だからという理由からです 水道設備もないような安アパートに彼らの殆どが住んでいました

3:53 :研究が始まるとすぐ 10代の彼らをインタビューし 健康診断を受けさせました 我々は彼らの家に行きご両親達もインタビューしました その少年達が今大人になり 様々な人生を歩んでいます 工場労働者や弁護士レンガ職人や医師になったり 1人はアメリカの大統領になりました 中にはアル中になった人や統合失調症になった人もいます この様に社会の底辺から這い上がり ずっと上まで登り詰めた人もいる一方 それとは反対の方向に人生を辿って行った人もいるのです

4:34 :この研究の創始者達は 思いもしなかった事でしょう 75年後 今日ここに私が立って 研究は未だに続いている事をこうして話しているなんて 1年おきに我々の仕事熱心な忍耐強い研究スタッフが 参加者に電話をし彼らの生活に関しての 質問表を送っても良いかと訊ねると

4:59 :ボストンスラム街の男性の多くはこう問い返します 「なぜ俺を研究し続けたいんだ?俺の生活は面白くもないだろう」 ハーバード群からは決して出ない質問です

5:10 :(笑)

5:19 :彼らの生活をしっかり把握する為 質問表を送るだけが仕事ではありません 参加者の居間でインタビューしたり 彼らの医者から医療記録も手に入れます 血液検査をし脳画像を撮り 子供達からも話を聞き 彼らが妻と最も気がかりな事に関して話し合っている所を撮影します 約10年前 参加者の妻達にも研究参加をとお願いすると 彼女等の多くは こう言いました 「そう言ってくれるのを待ってたわ」と

5:49 :(笑)

5:50 :これから分かった事は 彼らの人生から得た何万ページにもなる情報から 分かった事は何でしょう? それは富でも名声でも無我夢中で働く事でもなく 75年に渡る研究からはっきりと分かった事は 私たちを健康に幸福にするのは良い人間関係に尽きるという事です これから人間関係に関して3つの大きな教訓がありました

6:25 :第一に周りとのつながりは健康に本当に良いという事 孤独は命取りで 家族 友達 コミュニティと よく繋がっている人程 幸せで 身体的に健康でつながりの少ない人より 長生きするという事が分かりました 孤独は害となるという 研究結果が出たのです 孤立化を甘んじて受け 生活している人は あまり幸せに感じていないのです 中年になり健康の衰えは早く 脳機能の減退も早期に始まり 孤独でない人より 寿命は短くなります 悲しい現実ですがこれから先 いつでも アメリカ人の2割以上は孤独だと回答するでしょう しかし 群衆の中や結婚生活の中でも

7:20 :孤独を感じることはあります つまり ここで重大な事は 友人の数だけがものをいうのではなく 生涯を共にする相手の有無でもないのです 重要なのは身近な人達との関係の質なのです 争いの真っただ中で暮らすのは健康に悪い事が分かっています 例えば愛情が薄い喧嘩の多い結婚は 健康に悪影響を及ぼし恐らく離婚より悪いでしょう 愛情のある 良い関係は人を保護します

7:56 :我々は参加者全員を追跡し 彼らが80代になった時 中年の彼らを振り返り 誰が健康で幸せな80代になったか 予測してみたかったのです 彼らが50才の頃に得た彼らのデータを全て 集めてみると 中年のコレステロール値等とは関連性はなく どの様な老年を迎えるかは 当時の人間関係の満足度で予測される事が分かりました 50才で最も幸せな人間関係にいた人が 80才になっても一番健康だったのです 親密な良い関係が クッションとなり 加齢過程での様々な問題を和らげてくれてるようです 中でも特にパートナー共に幸福だと感じていた人達は 80代になり 身体的苦痛があっても 精神的に幸福だという報告が出ています しかし不幸な関係にある人達は 身体的苦痛がある日には 精神的苦痛でその身体的苦痛が更に増幅されていました

9:03 :人間関係と健康に関して分かった3つ目の大きな事は 良い関係は身体の健康だけでなく 脳をも守ってくれるという事です 堅固な良い関係をしっかりと 80代にまで持ち続ける人はその関係に守られています そういう関係にいる人-- 何かあった時本当に頼れる人がいる と感じている人の記憶ははっきりしています 一方 パートナーには 全く頼れない と感じている人には 記憶障害が早期に現れ始めます 良い人間関係といっても波風がない訳ではありません ある80代のカップルは明けても暮れても小言を 言い合っているかも知れませんが お互い頼り合えると感じている限り 彼らが苦難に遭遇した時 口論しても後々まで残るという事はありませんでした

10:00 :この教え-- 親密で良い関係は 包括的に私たちに益となっているという教えは 今に分かった事ではありませんね 何故そんな関係は築き難く無視され易いのでしょう 誰もそうですが 私たちは手っ取り早く 手に入れられる 生活を快適に維持してくれるものが大好きです 人間関係は複雑に込み入っています 家族や友達との関係をうまく維持して行くのは至難の業です その地道な努力は地味で その上その仕事は死ぬまで続きます 75年間に渡る研究で定年退職後 一番幸福な人は 仕事仲間に代わる新しい仲間を自ら進んで作った人達です 最近の調査での新世紀世代のように この研究の参加者の多くは彼らが青年期に入った時 名声や富や業績が良い生活をするには 必要なものだと本当に信じていましたが 75年もの間 我々の研究で繰り返し繰り返し示されたのは 最も幸せに過ごして来た人は人間関係に頼った人々だという事でした それは家族 友達や コミュニティだったり様々です

11:20 :あなたはどうですか? 今 あなたが25才 40才 60才なら あなたが人間関係に頼るとはどういう事なのかでしょうか?

11:30 :あなたに出来る事は実際 無限にあります テレビやPCの前の時間を人と過ごす時間に充てる 新鮮さを失った関係を活気づける為何か新しい事をパートナーとする 長い散歩とかデートなどです また何年も話していない家族に連絡を取るのも1つの方法です よくある家族の いざこざは 遺恨を抱く人々に ひどい悪影響を及ぼすからです

12:03 :最後にマーク・トウェインの言葉を引用して終わります 一世紀以上むかし 彼は人生を振り返り こう書きました 「かくも短い人生に 諍い 謝罪し 傷心し責任を追及している時間などない 愛し合う為の時間しかない それが例え一瞬にすぎなくとも」

12:33 :良い人生は良い人間関係で築かれます

12:38 :ありがとうございました

12:39 :(拍手)

No.116:北海道新幹線開業記念 大人の休日パス (09月30日) ページトップへ

 函館から先は全列車運休です、との車内アナウンスに唖然としました。迷走台風、10号が日本海に抜けた翌日の秋晴れの日、ルンルン気分で乗り込んだ北海道新幹線はやぶさ号新函館北斗行でのことです。北海道での台風被害は知っていましたが、函館から先が不通だとは、全く知りませんでした。他の被害が大きく、運休はニュースにもならず、東京駅でのお知らせもありませんでした。

 「北海道新幹線開業記念 大人の休日パス」、新幹線を含めた東日本・北海道JR全線5日間乗り放題の旅、函館から先に行けなければ意味ありません。車内では、同じパスでの旅らしき同年代の人たちが目立ちます。函館駅に着くとたくさんの人、線路被害情況と復旧見通しを駅員が総出で説明していました。今日は函館泊なので、明日運行されれば問題ないのですが、明日のことは夕方にならないと分からないとのことです。

 駅では、足止めをくらった人たちが今日の宿を懸命に探しています。ホテルに着いたときも、札幌からの電車が来ないので空く部屋があるだろう、とフロントに詰め寄っている人がいました。函館はどこも満室なのかもしれません。ホテルロビーにあるパソコンを見ながら、これからどうしようかと考えていたとき、同年代と思われるご夫婦が隣のパソコンを操作し始めました。話しをしてみると、やはり大人の休日パスの旅でした。函館は2泊目なので、宿がとれるのであればレンタカーで札幌まで行こうかと二人で相談しています。我々も一緒に、と言おうとしましたが、帰れなくなると困るのでやめました。

 函館を半日観光して、夕食後駅に行くと、やはり明日も全列車運休、明日の旭川、明後日の函館のホテルをキャンセルして、青森のホテルをとりました。これで、旭山動物園の筒状水槽内を上下するアザラシも、のんびり走る富良野・美瑛ノロッコ号も、ファーム富田のメロン・ソフトクリームも、富良野町でのオム・ソーセージカレーも、全て夢と消えました、残念。

三内丸山遺跡、遠方に八甲田山<写真へのクリックで拡大できます>

 急きょ立寄った青森での観光は三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)、縄文時代中期の集落を再現しています。縄文時代は1万年以上、次の弥生時代に入ってから現在までが2300年ですから、とてつもなく長く続いた時代で、世界史でも他に例がないそうです。遺跡には集会場と思われる大型竪穴式住居や見張り台と思われる高い塔もあります。500戸余の大集落、狩猟文化でこのように大規模な集団生活が維持できたのは奇跡、とも言われています。豊かな自然と共に生きる日本人の気質、知恵があったからこそ、という専門家の見解があり、日本人の原点がここにある、という気がします。新潟・糸魚川のヒスイが発掘されているのも驚きです。

 5日間パスなので残りは2泊3日、最後に1泊する予定だった糸魚川の妻の実家に行くことにしました。2年ぶりです。新幹線乗り放題だからこそ長距離でも気軽に移動できます。飲み放題、食べ放題の魅力は歳とともに薄れていますが、乗り放題はありがたいシステム、旅行と帰省が同じ切符でできるのです。函館と青森で美味しいお寿司をいただき、妻の実家で団らんを楽しんだ旅行となりました。

No.115:抜歯 (08月31日) ページトップへ

愛犬モモの抜けた歯(右)<写真へのクリックで拡大できます>

 「抜歯になると思います」と歯医者さんに言われて慌てました。2年ほど前に抜歯して、自分自身の歯がいかに大切かを知ったからです。歯ぐきに白い点が2つでき、レントゲンを撮ると、かなり昔に神経を抜いた歯の根元が化膿し、骨を溶かし、歯ぐきを突き抜けて細いトンネルができていました。セラミックの被せ物を取り除いて、神経を抜いた跡の根元内側の空洞をきれいにして、殺菌し、1週間様子を見ましたが、1つは消えたものの、もう1つが消えません。

 こうなると、歯の根元外側から治療する必要があるが、化膿が消えないので、おそらく歯自体が損傷しており抜歯が必要となるだろう、と言われました。抜歯などとんでもない。前回の抜歯、インプラントにすればいいや、と軽く同意してしまいましたが、その後、抜歯箇所が狭いのでインプラントはリスクが大きく、ブリッジや差し歯は健康な両隣の歯を弱め、ドミノ倒しのように歯が抜けていくリスクがあることを知り、悔やんでも悔やみ切れない思いをしているのです。

 本当に抜歯しかないのか、別の歯科医に意見を求めました。1人目は、「二度と入れ歯や差し歯を入れたくない」人のために、とホームページにあったので行ってみました。これがどうみてもひどい歯科医、助手とのコミュニケーションが悪く、治療中に怒鳴るし、狭い治療室には所狭しと物が置いてあり、無造作に置かれた治療器具に清潔感はなく、私の胸に掛けられたタオルには血が付いています。「頼れる歯科医9人」という本で紹介されている1人なのですが、とても頼れる医者ではありません。後でネットを見ると、この出版社はその多くが自主出版らしいのです。いわいる宣伝本で、ある本では薬事法違反で告訴されています。

 2人目は、「『削る・抜く』から『守る』へ」とホームページにあったので行きました。スウェーデンでの歯のケア方式の素晴らしさなどを丁寧に説明、このため診察は1時間半近くに、週1回来ているアルバイト先生で、時間給だからなのでしょうか、たまたま次の患者がいなかったのでしょうか、時間をあまり気にせずにべらべらしゃべる先生を信頼することはできませんでした。それに、前回抜歯した奥歯について、狭い場所へのインプラントであれば埋め込む土台を長めにすればよい、と自信たっぷりでしたが、神経などが近くを通っている奥歯での長めの土台がかなり危険であることを後から知りました。信頼できない、という直観は正しかったようです。

 2人の歯医者ともに、根元の情況によっては抜歯、そうしないと隣の歯にも影響する、という意見でした。それで、仕方なく今までの歯医者さんに3週間ぶりに行きました。すると先生が、あれ、良くなってますね、と。私にはよく分からないのですが、先生には分る様で、この状態であればもう少し様子を見ましょう、ということになったのです。それから5週間後、歯内側の処置をして新しい被せ物が完了したときには、細いトンネルはすっかり消え、骨と肉に戻っていました。

 殺菌してから1週間すれば腫れは引く、という標準の人に対して、私の場合は1週間以上かかった、ということのようです。お伊勢さんへの歩き旅で疲れ、免疫力が極端に落ちていたために化膿し、殺菌してもなかなか腫れが引かなかったのではないかと推測しています。医者は、それぞれの個体差や生活状況までは分からず、平均値や経験値で判断せざるを得ません。

 2年ほど前の抜歯では、被せ物がぐらついたので診てもらったとき、様子を見ましょうと言われ、その後の食事で歯本体が折れ抜歯となってしまいました。歯本体が折れる可能性に全く言及しなかった先生を、基本的には信用していません。今回もあのままだったらほぼ間違いなく「抜歯」の勢いでした。かといって他に良さそうな先生は見つかりません。お医者さんも所詮は人、判断ミスも当然あるわけですから、重要な決定は立止まって冷静になって熟考することが大切なのだと思います。自分のことは自分で守るしかないのです。

No.114:驚きが多かったホーチミン (07月31日) ページトップへ

 4泊5日で滞在したベトナム・ホーチミン、驚くことが多い街でした。バイクの多さとマナーの悪さにはびっくりです。歩道を走る、歩行者専用の横断歩道を青信号で渡っている前後すれすれを横切る、左折と対向右折が無秩序に入り乱れる、あちこちでクラクションが鳴り響く、といった具合、車のマナーも似たようなものです。それに、どこへ行ってもたくさんのバイクが走っており、排気ガスが気になります。

 歩道では、料理して食事している、商品を満載した天秤棒を担いで来て商売をしている、公園では通路に直接座り込んでみんなで話し込んでいる、市場では狭い通路に商品が迫り呼び込みも激しい、街歩きを楽しむという気分にはなれません。この無秩序や活力を楽しむのであれば別ですが。ベトナムでこうですから、東南アジアのもっと貧しい国々では更に驚かされるに違いありません。

 空港と市内を結ぶバスが25円、と聞き嬉しくなってベトナムへ出かけました。結果、物価の安さと食事の美味しさにはほぼ満足でした。タクシーは初乗60円から市内ならばかなり遠くでもせいぜい250円、レストランはビールが100円、スイカジュースが150円、牛肉のフォー330円やカニの爪のフライ1,150円と嬉しい価格、飲まず食わずでひたすら歩き回る我々のいつもの観光とはまるで違いました。雨期なので雨合羽などを持参しましたがスコールに出会うことも無く、最高気温も31℃、32℃で、旅行中東京では36.7℃になる日もあり、日によっては東京よりも涼しく、天候にも恵まれています。

楽しい水上人形劇<写真へのクリックで拡大できます>

 ツアーや観劇も安く、マングローブなどが迫る狭い水路を小さな手漕ぎボートで進むメコン川クルーズ、ベトナムの神話と伝説を題材にした数々の巨大像があるテーマパーク、竹製小道具を使ったアクロバットパフォーマンス、歌とベトナム楽器に合わせての水上人形劇など、エンターテイメントにも毎日出かけています。いずれもベトナムに行かないと楽しめないものばかりです。

 観光地であればどこにでもある絵葉書がほとんど見当たりません。やっとのことで見つけたのは、お婆さんが歩道で売っているものでした。フランス植民地時代の大聖堂や郵便局の建物が少しあるものの、多くは農村風景の絵葉書です。ホーチミンには観光すべきところはほとんどない、ということなのでしょう。あるのは"安さ"、でも雑貨や衣料に興味のない私にとっては、また行こう、というほどの魅力はありません。

 ぼったくり、ひったくり、スリなどが日常茶飯事のようで、空港からホテルへの送迎バスの中で散々注意されました。ぼったくり対策として、流しの自転車タクシー(シクロ)やバイクタクシーには乗らない、タクシーはVINASUNとMAILINH以外には乗らない、バイクのひったくり対策として、バッグをたすき掛けにする、スリ対策は、ズボンのポケットに財布を入れない、パスポートは絶対に持ち歩かない、といった具合です。被害は、シクロ、タクシー、ホテル、みやげ物店、レストランと多岐にわたり、片時も油断できない様子、安全、安心の日本とは全く違います。

 私も被害を受けました。思い出すと相手にも自分自身にも腹が立つのですが、自分への戒めとしてここに書き記しておきます。長文ですが、興味ある方はお読みください。

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 タクシーの運転手に釣りがないと騒がれ、丁度の金額で支払おうと、不慣れな上に種類も多いドン紙幣を妻がチェックしていたときのことです。運転手が、あなたは持っていないのか、という感じで私のポケットを探りました。親切を装って、途中で助手席に乗せられていたのです。財布を見つけ出し中身を見た直後に、突然新聞紙を取りだし何かわめきましたが、すぐおとなしくなりホッとしているところで財布を返してきました。

 冷静に考えるとこれで十分に危ういのですが、不思議にも何の疑いも持ちませんでした。釣りが必要な高額紙幣しかないことが分かってくれただろう、などとむしろ安堵すらしています。日本であれば、運転手に財布を確認してもらっても、まあそんなことは起きませんが、十分安心安全、そんな環境にすっかり慣れていて、ボケていたに違いありません。それに、運転手の親しげな態度にすっかり騙されました。車を降りて、妻に言われて財布を確認すると現金がなくなっていたのです。1万円以上の被害でした。

 観光初日でした。まずタクシーで旅行会社へ。ホテルからはVINASUNタクシーで安心でしたが、何回か停車して旅行会社の場所を尋ねていたので、頼りなさを感じていました。降りてからスマホで現在地を確認すると、全く違う場所、どうしよう、困った、というところにタクシーが止まり、話しかけてきたのです。とても親しげで親切そうな態度に、場所の間違いに気付いた運転手が戻ってきてくれた、と勝手に勘違いして乗り込んだのが運の尽きでした。とんでもない悪質運転手だったのです。違う運転手だったことを妻は知っていたようですが、思い込んでいる私には分かりませんでした。

 車が少し動いたところでスマホを見ると目的の旅行会社近くを走っていたので安堵し、運転手をますます信用してしまいました。後で妻が言うには、このときは1ブロックか2ブロックを周って元のところに戻っただけ、とのこと、結局、最初に降りたところは正しかったのです。「全く違う場所」はスマホの誤表示でした。スマホだけに頼り、表示を信用して慌ててしまった自分が情けなくなります。慌てたときにとんでもない判断と行動に出る、それはオレオレ詐欺被害そのもの、私も要注意のようです。

 料金は35,000ドン、175円程度、妻が、慣れないドン紙幣を探しているときを狙っての犯行でした。後で考えると、一周しただけにしては高すぎます。かなり走った最初のタクシーが40,000ドン、200円程度でしたから、メーターに細工があったのかもしれません。それにこれも後からですが、最初のタクシーが目的の旅行会社を尋ねるために停車したとき、この悪質運転手がやって来て、勝手にドアを開けて手に持った何枚かのお札を振り回してわめいていました。何だったのかさっぱり分からないのですが、このときから「不慣れな観光客」と目を付けていたのでしょう。

悪質運転手。感情線が上下に分かれているのは「優しい笑顔の下には、想像もつかないくらい激しい、鬼のようなもう一つの顔を持っているかも」だそうだ。<写真へのクリックで拡大できます>

 翌々日、水上人形劇チケット売場近くで、この悪質運転手を妻が見つけました。すぐに近寄って行って、金を返せ、と迫り、至近距離でカメラを向けると手で顔を隠し、停まっている車の陰に逃げ込みました。金を返せ、と何回か大声で叫び、追いかけようとすると、妻が危ないからやめろと手を引っ張ります。それもそうか、とその場を離れたのです。逃げて車の陰からこちらを窺っている様をみていると、所詮はコソ泥、という気がして、それに罵声ともいえる大声を相手に何回か浴びせたこともあって、少しは気が晴れました。

 失敗はこれだけではありません。帰国した翌日の夕食後にお腹が少し痛くなりトイレに行きました。下痢気味でした。やや不調のまま3日後、大学時代の友人たちとの飲み会があり、飲み食いをかなり控えめにしたつもりでしたが、下痢が悪化してしまいました。その後お粥の毎日、普通の食事に戻したのは帰国から8日目、ほぼ完治と思われたのは16日目でした。こんなに長く続くお腹不調は近年なく、原因はベトナムに間違いありません。友人が東南アジアでひどい目に遭っていたので、かなり注意していたのですが、やられました。

No.113:実家の売却 (06月30日) ページトップへ

取り壊される前に記念写真を<写真へのクリックで拡大できます>

 部屋に入るなりいきなり、「タヌキはどうしたの!!」と驚いたように姪が尋ねました。背丈70センチほどの信楽焼きのタヌキ、実家の玄関に26年間鎮座し、来訪者を歓迎していましたが、いなくなったのです。実家の売却が決まり、取り壊されることとなり、兄貴家族全員と我々夫婦が実家に集まったときのことです。

 姪は小さいころからよく遊びに来ていて、お婆ちゃんお爺ちゃんに大歓迎され、ご馳走が出て、遊園地などに連れて行ってもらえる、楽しい思い出の家です。そんな父親の実家の玄関にいて、最初に出迎えてくれるタヌキは、これから始まる楽しい出来事を期待させてくれる存在だったに違いありません。

 タヌキは無事で、我家で横になり休んでいます。昔、妻と妻の両親みんなで遊びに行った信楽から実家に送ったもので、思い出もあって我々が引き取りました。妻の実家で第二の人生を送ってもらうつもりです。義父が小さいのを買ったのですが、家に置いてみて「もう少し大きいのを買えばよかった」と言っていたそうです。義父はもう亡くなりましたが、大きなタヌキをやっと届けることができます。

 実家には、大学、大学院時代に両親と一緒に住み、京都に就職してからは年に2回ぐらい、25年前に横浜転勤となってからは多いときには月2回から3回訪問しています。19年前に父が亡くなり、10年前に母が入院、その後施設に入ってからはほとんど行かなくなりました。両親がいなくなってからは、実家は思い出だけの場所となったのです。

 一番の思い出は、家族全員が集まるお正月でしょう。京都在住のときは1年ぶりの全員との再会です。大晦日の団らん、お正月のご挨拶とご馳走、夜遅くまで尽きない四方山話、絶えない笑いがありました。家の中で一番狭い茶の間にみんなが集まって、こたつを囲んで夜1時、2時まで話に熱中していると、先に寝た親父が2階から降りてきて、早く寝ろ、と急き立てます。この茶の間、ある人が一目見て、ここには福がたくさんいる、と言ったそうです。今で言うパワースポットでしょうか、楽しい団らんの部屋でした。親父の最初の見取り図にはなかったのですが、お袋がどうしてもと、台所の隣に追加してもらったそうです。お袋の先見の明がここにもありました。

 建てる時、模型を自作して嬉しそうだった親父、自慢の家と庭が取り壊されるのはさぞかし寂しいことでしょう。でも、子どもたち4人全員が自分の家を持ち、お互い仲たがいすることもなく、みんな元気で、その子供たちも自立し、子供を育て、社会で活躍しています。家が果たす役割というものがあるかと思いますが、それを立派に果たしたといえるでしょう。

 引渡しの日、銀座・歌舞伎座タワーにある不動産会社オフィスに集合した兄弟4人、うち上2人が登記識別情報通知書、いわいる権利書を持参してきませんでした。4人全員の通知書がないと引渡しできません。そんな書類がいるなんて聞いてない、とか、見たこともない、とか言いながら急いで家に取りに帰り、3時間遅れでの引渡し完了となりました。一番上が75歳、一番下の私が69歳、緊張感のない暮らしが続いており、まあまあが許されない不動産売買は苦手、これからますます苦手になるでしょう。売却するいい潮時でもあったのかもしれません。

No.112:東海道歩き旅、完歩しました。 (05月31日) ページトップへ

伊勢神宮到着<写真へのクリックで拡大できます>

 自宅から伊勢神宮まで、467キロ、11泊での東海道歩き旅でした。今年で7回目、6回目の昨年は足のマメの悪化や歩いているうちに身体が"く"の字に曲がるなどで歩けなくなり、一度帰宅し、また出かけ、3回にわたってやっとの思いで完歩しました。今年も1回で完歩できなければ目的地変更が必要か、と考えていたのでホッとしています。この「お伊勢参り」、年間目標として可能な限り続けたいので。

 この歩き旅、家にいる妻のサポートが必須でした。雨の予報を見てもらい翌日の目的地を決め、宿を予約してもらったり、歩いている途中で雨が降り出すと、いつ上がるのかを調べてもらったりして、ときには妻のかなりの時間を割いてもらっていました。そんなサポートが今回は全く不要、妻への電話は毎日の宿到着連絡だけでした。スマホを持参したおかげです。WiFi専用にしているので、通常のスマホのようにいつでもどこでもというわけにはいきませんが、宿やコンビニで使うことができ、天気予報の確認や宿予約ができます。

 5泊目の朝から7泊目の昼までの3日間、歩いている静岡県と愛知県を西から東に雨雲が移動しました。このため、泊まるたびに、33時間雨雲予報で雨の降り出す時間とやむ時間を確認し、雨の合間に歩いています。驚くほど正確な予報だったので、雨に降られることなく3日間歩き通すことができました。4泊目の藤枝を午前0時に出て、5泊目の掛川に午前8時到着、その直後から雨、5泊目掛川を翌午前7時に出て、トイレ、昼食、冷えた炭酸で休憩の3回、計37分中断のみで6泊目の浜松に午後3時前に到着、やはりその直後から雨、6泊目の浜松では翌午後1時に予報通り雨がやみ、歩きだして湖西市新所原に午後8時に到着、この日のみ当初計画の豊橋を手前の新所原に変更しました。それ以降は雨が無かったので、10泊目の鈴鹿までに遅れを取り戻し、当初計画通り11泊で完歩しています。

 今回、気分よく歩けたときが以前ほどなかったように思います。日々のウォーキングでも速度が遅くなったり、疲れが残ったりするときがあります。気分よく歩けなければ、何のための歩きかわかりません。『やってはいけないウォーキング』(青栁幸利著(SB新書))によると歩き過ぎもよくない、とのこと。ウォーキング記録で、歩き旅の前1年間を見ると、今回が4,980キロで、2年前以前よりも20%~39%増えています。歩き過ぎなのかもしれません。

 特に、歩き旅前3ヶ月間では、今回が1,827キロで、2年前以前より49%~138%増えています。ちなみに、2回も中断し3回目もやっとのことで完歩した昨年ですが、その前1年間は3,838キロで2年前の7%減だったものの、前3ヶ月間は1,412キロで2年前以前の15%~84%増となっています。昨年の身体が"く"の字に曲がる原因は結局不明のままですが、鉄道での移動後すぐ歩き出したので腰を痛めたのでは、と勝手に推定しているものの、直前3ヶ月間での歩き過ぎも原因だったのかもしれません。今後、歩き過ぎに、特に直前3ヶ月間は要注意と心します。とにかくまだまだ歩きたいので。

 伊勢神宮はG7サミット直前の厳戒態勢でした。内宮鳥居前広場で、足元に荷物を置いて、写真を撮ろうと慣れないスマホをもたもた操作していると、私服と制服の警察官2人がぴたりと後ろについて監視していました。観光客とは違う怪しいやつ、と見られたのでしょうか。

No.111:同期入社の仲間 -9年後- (04月30日) ページトップへ

 「写真を見ましたが、皆さん楽しそうですね。(中略)来年の同期会にはぜひ参加したいです」とのメールが全員に届きました。毎年開催している会社の同期会に今年ただ1人、海外での仕事のために参加できなかったメンバーからです。メールで行き交うみんなからの写真をカンボジアで見ての思いが綴られていました。

 1971年に電機メーカーに入社した同期のうちで、遊び仲間となったのが10名、同期ではないが遊び仲間に入ったのが数名、同期の10名全員が還暦を過ぎた2007年に京都嵯峨野『嵐亭』に同期会として集まりました。以降毎年1泊2日で開催し、今年で10回目です。関西在住と関東在住が半々なので、開催地を関西、関東、中間、と変えながら。今年は箱根でした、同期の一人が亡くなっているので9人、内8人が参加、それに遊び仲間3人、奥さんが5人の計16人、その楽しさは遠いカンボジアにも伝わったようです。

 若いときに、飲み会、テニス、スキーを家族ぐるみで楽しんだ遊び仲間ですが、そのころの楽しさをいまだに持ち続けています。もうかなりの歳になろうというのに、不思議なものです。同じ時、同じ場、同じような仕事や暮し、などを若いときに共有した仲間はいまだに理解し合える貴重な存在、みんながそう思っているから、楽しく続いているのでしょう。

 今年の幹事は関東在住者、初めての幹事役で緊張した様子、昨年終了直後に「自分なりに全力で取り組みたいと思います。よろしくご指導お願いします」とのメールがありました。宿の手配、費用算出、部屋割り、特に宴会翌日の行楽は大変で、場所だけでなく、箱根なので車の手配も必要で、全ての手配が終わった直後に「これで精一杯です」とのメールが届きました。

箱根の関所で<写真へのクリックで拡大できます>

 宴会も行楽も実にきめ細やかに計画されていました。宴会は、他のお客さんに遠慮することなく楽しめるように我々だけの宴席、朝食は、大きな窓越しに富士山を望む素晴らしい席、行楽コースも、江戸気分が味わえる旧東海道杉並木や箱根の関所、満開の桜を楽しめた離宮跡地の恩賜箱根公園など充実、小高い公園に上れない人には迂回路を勧める気配り、昼食も事前に予約し、そこの駐車場を半日利用して行楽とするなど、至れり尽くせりでした。

 帰宅後、楽しかった、幹事さんありがとう、とのメールがみんなからあって、本人も「皆さんからのお礼の言葉を聞くにつけ本当に運よく計画以上にスムースに進行してビックリしたほどでした」と嬉しそうでした。事前に下見をしたとのこと、そんな努力が実ったのです。

 何人かの幹事は下見をして頑張ります。昨年は京都八瀬でしたが、ホテルに出かけて下見と打合せをしています。しかも3人で、待合せ場所でラーメンを食べてからホテルに向かったと話していました。一昨年は信州松本浅間温泉で、このときの幹事は前年夏に信州に出かけその宿に泊まって下見をしています。

 みんなに楽しんでもらいたい、みんなと楽しみたい、そんな思いからでしょう。幹事だけではなく全員がそんな気持です。だからこそ、いつまでも楽しい仲間なのだと思います。来年は金沢、やはり初めての幹事役、同期会の翌日「29年度の幹事役を担当することになりました」とのメール、やはり少々緊張気味の様子です。

No.110:小学生時代の通信簿 (03月31日) ページトップへ

小学生時代の通信簿<写真へのクリックで拡大できます>

 「幾分気が弱いのではないかと思われる。そのために栄養も良くない。つとめて健康に留意されたい。勉強の方はあまりあせらずにいてよいと思います」、小学1年1学期の通信簿通信欄での記述です。私は、虚弱体質で勉強のできない子でした。最近実家で見つかったこの通信簿を見ながらつくづく思うのは、よくぞここまで無事これたものだ、ということです。今は、健康に恵まれ、今のところお金に困ることもなく、生活を楽しんでおり、まあまあ幸せな日々と言えます。

 身体も頭も弱かった私を母は心配し、沼津の特殊学校に入れたい、と小学校の担任の先生と相談しています。そこまでする必要はない、というのが先生の意見だったようですが。将来はおまえたちが面倒見るんだよ、と兄たちに言い聞かせてもいたようです。近視だった私が一番前の席に移ったのは、母が先生に相談した結果でした。黒板の字がはっきり見えるようになり、少しづつ勉強意欲が出てきました。通信簿でも、「授業中もぼんやりしていることが多い」(3年1学期)だったのが、次の2学期では「前学期に比べ目立って学習意欲が出てきました」(3年2学期)、更に1年後は「努力のあとが見られます」(4年2学期)となり、2年後「仲々がんばって勉強するようになりました」(5年3学期)、卒業直前には「学習態度はりっぱであり すすんで研究するようになった」(6年3学期)となっています。

 とはいうものの、5段階評価中最高の「まさる」は6年間で2つ、社会と理科、最低の「おとる」が4つ、体育が3回と図画工作、という成績、大学はもちろん高校受験も無理だろうと考えた母は、私を工業高校付属の私立中学に進学させました。中学受験では分厚い参考書が薄汚れてしまうほど勉強しています。入学後、3年間のほとんどが100人中10番以内という成績で、ここで大きな自信をつけました。バス、電車で片道1時間以上かけての通学では往復3km以上歩き、身体も丈夫になりました。この時期に今の基礎ができたのだ考えています。母のおかげです。

 ダウン症の女流書家金澤翔子さんの、2015年3月20日ニューヨーク「世界ダウン症の日記念会議」でのスピーチをテレビで見ましたが、母親への感謝の気持ちであふれていました。ダウン症の我が子の将来を案じるお母様の努力が翔子さんの今日の成功をもたらしたようです。次元やレベルは全く違いますが、私と少し重なるところがある、と思いながら番組を見ていました。「『うまく書こう』とか『だれかと比べて』などの欲がないから(素晴らしい書となる)」とお母様の泰子さんがおっしゃっていますが、ダウン症のため多くを望まなかったお母様の気持ちが、そんな翔子さんに育てた、という気がします。翔子さんは天真爛漫でとても幸せそうです。「欲のない」「ありのままの自分」でいられるからなのでしょう。心理学者アドラーは「ありのままの自分を認める勇気を持つことが幸せへの第一歩」といった主旨のことを言っています。

 期待されなかった、注目されなかった私は、「人から良く思われたい」とか「人に褒められたい」といった欲はあまりありません。他人の価値観や見方はあまり気にならないのです。自分自身で考え、「ありのままの自分」で生きてきたように思います。勤務先の個人事務所のボスは、私を「素直」だと評します。だから仲良く仕事ができる、と。「ありのままの自分」を直視し、「ありのままの境遇」、「ありのままの他人」を直視している、そいう意味合いもあるような気がします。電機メーカーの研究開発に30年近く従事し、53歳で、何のつながりも無い広告代理店に出向して10年以上務め、ボスとも今年で9年目、歳をとってからの異分野勤務が長く続いたのは、「素直」さがあったからなのかもしれません。

 「教科書を忘れて来る時が非常に多いので注意願います。えんぴつも持たずに登校しています」と小学4年3学期の通信簿連絡欄にあり、その傾向は今もあまり変わりません。そんな私がここまでこれたのは、母のおかげで「人生の基礎」ができたことと、「素直」さががあったからだと改めて思います。その「素直」さも母のおかげだったのかもしれません。母の強い思いに、翔子さんと同様、ひたすら感謝です。

No.109:上級者気分のスキーでした (02月29日) ページトップへ

最高のスキー日和でした<写真へのクリックで拡大できます>

 久しぶりにスキーを堪能しました。鎖骨骨折で昨年は行けなかったので2年ぶりです。行こうかどうしようか少し迷いましたが、かなりの寒気団が来て東京でも雪になるとの予報、これは行かなくては、と出かけました。

 ガーラ湯沢スキー&新幹線の日帰りツアーをネットで申込み、駅の指定席券売機でチケットを受け取れば、前日18時まで申込可能なので、雪が止む日を狙って購入して。当日は快晴、前日までの新雪で狙い以上のスキー日和、特に午後3時半を過ぎて陽が傾き始め気温が下がると益々のパウダースノーとなり、超が付くベストコンディションとなりました。こうなるとスピードを出してもスイスイとターンできます。気分はもう上級者、雪の上を滑るスピード感と楽々ターンのコントロール感はもう最高、その爽快感は何とも言えません。上機嫌です。2.5㎞下山コースは最終4時なので、ゴンドラで下山することとし、そのままゲレンデで滑り続けました。

 リフトで上ってノンストップで下りて1時間に4回ほど滑れます。午後0時30分から4時30分までの4時間ほどで16回滑りました。ほとんど休みなし、スキー板を外したのはトイレに行った数分間の1回だけでした。転倒して外れたことは何回かありましたが。それくらい楽しいスキーでしたが、4時30分ごろに、リフト終了の5時まであと30分滑れる、などと思いながらスピードを出していると、突然大きく転倒しました。陽が傾き始めてからは全く転倒しなかったのに。そろそろ潮時か、と下山ゴンドラに乗り込みました。

 年1回のスキー、2009年に25年ぶりに再開してから今回で7回目、ガーラ湯沢スキー場の便利さのおかげで続いています。手ぶらで、朝9時に家を出れば、午後から4時間以上滑って、午後7時少し過ぎには家に帰ることができます。ゲレンデのメインリフトに乗ると、初級、中級、上級の3コースが楽しめますが、今回は中級コースのみとしました。毎年一緒だった大学同期の友人2人が参加できず私独り、気を付けて、と友人に言われて出てきたので慎重を期したのです。その甲斐あってか、事故も無く、体力の衰えを感じることもなく、楽しいスキーとなりました。

 友人2人は、急な設定だったので参加できず残念です。下山ゴンドラでガーラ湯沢駅に着くと、1時間に1本の新幹線が出発間近だったので、温泉に入らず新幹線に乗り込みましたが、仲間がいれば温泉をゆっくり楽しんだに違いありません。新幹線での独りビールでも、味気なさを味わっています。その帰りの新幹線ですが、以前は乗る人がほとんどいなかったのに、今回は改札前に長蛇の列、びっくりです。多くが外国人のようで、車両はほぼ満席、隣の席はインドネシアからのご夫妻でした。雪が観光資源となりつつあるのを実感しました。

 体力チェックにもなっている年1回のスキー、翌朝の16km歩き通勤も問題なく、体力は維持できているようです。

No.108:ベネルクス3国の旅 (01月31日) ページトップへ

ブリュッセル市庁舎前広場で新年の瞬間を祝う人たち<写真へのクリックで拡大できます>

 「本当に行くの?」「無事の帰国を祈る!」といった言葉に見送られて出かけたブリュッセル、新年の3日まで開いているクリスマスマーケットをはじめとして街中が大変な賑わい、テロに対する人々の懸念は全く感じられません。

 そのため出掛ける前の緊張はすっかり薄れ、いつもの旅行と何ら変わることなく大いに楽しむことができました。ブリュッセル在住の日本人女性によると、ここはそういう人たち(テロリストに近い人たち)が住むところ、ここでテロが起きる可能性は小さい、とのこと、妙に説得力がありました。もちろん自動小銃をもった兵士が街中で警戒しています。だからかえって安全、と言う旅行者もいます。

 今回の目玉はブルージュ、「屋根のない美術館」と言われるだけあって、街中いたるところが絵になる風景です。ヨーロッパの古い街並みのほとんどが狭い範囲に限られるているのに、ここはまさに広い街全体、どこもかしこも中世の雰囲気を持っていて、最高の街歩きができました。チョコレートやレースのお店がたくさんあり、どちらにも大いに興味のある妻はあちこちに立ち寄っています。レース博物館では展示品の一つひとつに感心しながら見入っていました。

 美術館も今回のお目当でした。アムステルダムのゴッホ美術館では3時間以上かけてゴッホ絵画の変遷を観て、国立ミュージアムでも4時間以上、レンブラントやフェルメールをゆっくり鑑賞しました。デン・ハーグのマウリッツハイス美術館にあるフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」や「デルフトの眺望」なども心行くまで鑑賞することができました。オランダの美術館がこれほど充実していることに驚いています。ルーブルやエルミタージュだけが美術館ではないのです。

 ベルギー・アントワープのノートルダム大聖堂ではルーベンスの最高傑作と言われる大きな宗教画があり、そのうちの一つ「キリストの降架」では、「フランダースの犬」の少年ネロが、念願だったこの絵を見ながら息絶えていくさまを、日本人のツアーガイドさんがとても興味深く説明していました。二人で、ツアー参加者のような顔をして図々しく付いてまわっています。

 ベネルクス三国を制覇しようと、ルクセンブルグにも出かけました。ブリュッセルからの日帰り、往復6時間半ほどでしたが、行った甲斐がありました。断崖絶壁の上に建つ城塞都市は、日本の城下町には無い厳しさが感じられました。

 前回年末年始の南フランスのときは事前に調べたレストランが冬の長期休業だったり開店が夜7時半からだったりで利用できず、行き当たりばったりの夕食が多かったのですが、今回は事前調査のレストランでしっかり食事をとることができました。フランスと違って気軽なレストランが多いようです。どこも評判通り美味しかったのですが、最後に食べたムール貝が格別美味しかったように思います。でも、8泊10日の8泊目、胃も疲れ気味のときにホテルで食べたインスタントのカレーヌードルも記憶に残る美味しさでした。