実家間近にある線路沿いの細い道、毎週、電車から眺めています。ここを過ぎるとやがて下車駅、以前であればその駅から実家へとここを歩くのですが、いまは別の電車に乗り換えて母が入居している施設に向かいます。もうほとんど歩くことがなくなった、懐かしい、とさえなりつつある道、電車が減速し駅に入り始めるころには見えなくなるのですが、それでも目で追いかけているときもあります。さまざまな思いを抱きながら歩いた道です。
1971年に社会人となり実家を出てからほぼ40年、いったい何回この道を歩いたことでしょう。ここまで来ると家はすぐそこ、おやじやおふくろがどんな顔をして迎えてくれるかが楽しみでした。就職先は京都、東京にある実家には出張や正月のときに帰ります。おやじに相談するために帰ったことが1度だけありました。入社数年後でしたが、研究職から営業職への異動の内示を突然受けたときです。不本意な異動への怒りと不安を胸にこの道を実家に向かいました。京都に戻って数日後、「営業の心得」という本だったと思うのですが、おやじが手紙とともに送ってきました。父親として何かできることはないか、考えた末のことだったと思います。離れて暮らしているだけに心配もひとしおだったにちがいありません。結局この内示は取り消しとなり、本は読まずじまいでした。
京都に家を買う報告で帰ったときは、この道を誇らしげに歩いていたでしょう。その後の新婚旅行では成田到着後すぐに実家へ、和食に飢え、おふくろの美味しいおでんを欠食児童のようにがつがつと食べ、旅行の疲れですぐに寝てしまいました。翌日、独りの時は帰すのが嫌だったけど二人なら安心だよ、と言うおふくろの笑顔を後にこの道を駅へと歩いています。いままではいつ何があってもすぐ京都へ行けるようにたんすにお金を入れておいたんだよ、とも聞きました。2軒目の自宅を買ったときは、駅に隣接した新築マンションだったので、自慢げに説明書を持参しています。
1991年に、所属する研究部門が横浜に移転し横浜住まいとなります。そのときの両親の喜びようは大変なものでした。京都に永住、と決めて就職し、両親も覚悟していたのですが、20年後の思いがけない横浜、同じ仕事での、同じ仲間とのロケーション移動でわたしも嬉しく、息子が喜んで首都圏に戻ってきて、両親としては嬉しくかつ心強く感じたことでしょう。そんな報告の往き帰りにも通った道です。横浜に住むようになってからは、京都時代の年数回を挽回すべく月数回通いました。時間に遅れがちな妻と険悪なムードでこの道を歩いたのもたびたびです。
1994年に赴任したアメリカ・シカゴからは年数回帰りましたが、おやじが入院がちだったこともあって、会う楽しみだけでなく不安もありました。シカゴに戻るときは、おふくろが食料品を目いっぱい詰め込んでくれた大きな麻のバックを持ってここを歩いています。あまりの荷物に、成田エクスプレスの新宿ホームまでおふくろが見送ってくれたこともあります。駐在中におやじが亡くなり、知らせを受けてから数時間後に乗り込んだ成田行きの飛行機で「もうおやじとは話ができないんだ」と沈み込み、いよいよ実家間近となるこの道では「落着かなくては」と自分に言い聞かせていたように思います。
おやじが亡くなった年にシカゴから横浜に戻り、数年後にいまの自宅を購入し入居しました。しかし、以前のような高揚感はあまりありません。3回目の自宅購入ということもあるのでしょうが、自慢したいおやじがいないことも影響していたのでしょう。入居の年に出向というかたちで別会社に移りましたが、このときも淡々とおふくろに報告しています。まもなく仔犬のモモをもらい、おふくろを喜ばせようとせっせと連れて行きました。3年半ほど前におふくろが脳内出血で倒れてからはこの道を歩くことはほとんどなくなり、電車の窓から眺めるだけとなっています。
こうしてふり返ってみると、ほとんどのことが会社とつながっています。会社なしの生活はあり得ず、深い感謝の気持ちは言葉では簡単に表現できません。その会社を来月退社します。39年間お世話になりました。いろいろなものに出会い、そして過ぎ去っていく、いままでも、これからも。この道からも会社からも離れたその先には、どんな出会いがあるのでしょうか。良い出会いがあるように頑張らなくては、と心新たにしています。
12月なので、今年の総決算として、ウォーキング結果を報告します。地図上で距離を確認した公式記録で4,739km、1日平均13km、昨年と比べると1%ダウンです。昨年のNo.017で紹介した歩数計「日本一周歩数計の旅」では、羽田を出発して海岸に沿って、本州太平洋側、北海道、本州日本海側と進み、現在は新潟県直江津を歩いています。557日目で8,451km、今年分だけですと365日で5,551km、1日平均15kmとなります。日本一周は18,880kmなので、2011年11月には羽田に戻れそうです。
今年は海外旅行はありませんでした。7月から妻が大忙しで海外どころではなく、来春までは忙しそうです。今年はどこも行かなかった、と義理の母がつぶやいていたとのこと、来年はまたみんなで旅行を、と考えています。
気がつくと校歌を口すさんでいる、そんな日が続きました。卒業してから30年間歌った覚えはなく、在学中もあまり歌わなかった校歌、久しぶりに母校を訪問した先日以降のことです。
母校の新校舎で卒業生の集いがあり、校歌斉唱があったのですが、歌詞をみても全く歌えませんでした。1片たりとも覚えていないなんて、とショックを受け、その日いただいたCDを帰宅後に1回だけ聴きました。驚いたことに、それだけで全くよどみなく歌えるようになったのです。30年前と全く同様に。人の記憶というものはすごい、と自分のことながらびっくりしています。
約70年ほど前に北原白秋が作詞し、山田耕筰が作曲したこの曲、あらためて聴いてみるとなかなかの味です。わたしが4年間学んだ校舎の前身を詠んでいるだけに親近感があり、イメージも膨らみます。
朝日に輝く 風と潮(うしお)
雄大、空あり、雲は移る
仰げよ校旗の 翩翻(へんぽん)たるを
白亜の殿堂ここに聳(そび)え
われらが工学、英気鐘(あつ)む
創立が1927年、当時の写真がCDに付いていました。校舎は東京・山手線田町駅の海側徒歩2,3分のところ、江戸時代、山手線位置まで海だったといいますから、明治以降に埋め立てられた土地で、海は間近だったにちがいありません。輝く朝日の中、校旗が潮風で翩翻(へんぽん)と翻(ひるがえ)っている白亜の殿堂はモダンな3階建、周りには高い建物はなかったでしょうから空はどこまでも広く大きく、そこに聳(そび)えるわが校舎には優れた気質、英気を持つ若者たちが集まってくる、工学を学びに。そんなことを想像しながら小声で、ハミングで校歌を歌います。作詞したとき北原白秋は病闘生活中でした。ですから、彼が心の中で見た風景をわたしが想像しているだけかもしれません。
とても楽しい気分です。それは、学生時代に歌っていた気分とは違います。学生時代には、歌詞の意味など考えず、どちらかというと緊張し高揚して歌っていたような気がします。リラックスして楽しんでいるいまが余裕なのでしょうか。若いころは次から次へと楽しいことがあり、校歌などを楽しんでいる暇はなかったということかもしれません。いまはこんなささいなことが喜びになる、そんな静かなときなのでしょう。
学生時代に友人5人で1週間ほど北陸旅行をしました。そのときの写真を、先日の卒業生の集いに持ってきた友人がいます。みんなも見たいにちがいないと考えたのでしょう。各自の親戚の家などを転々とした貧乏旅行でしたが、それはそれは楽しい旅行でした。毎日の食費もかなり切り詰め、途中で会社訪問した際にお寿司を振舞われて5人とも大興奮したのを覚えています。何をやっても楽しかった時期だったのかもしれません。その5人のうちの4人が定年後の遊び仲間です。でも集まっての楽しみ方は昔とは違います。やはり余裕でしょうか、1カ所をじっくり見学し、お風呂に入ってから食事を楽しむ、一つひとつをゆっくり楽しむのです。
余裕のある静かな生活となればそれなりの楽しみがある、老いとともに若いころには味わえなかった楽しみが見出せる、そんな気がします。そして、それはいままでコツコツと積み重ねてきた人生経験の厚みがあるからこそ、だとも思うのです。これからも楽しみの経験を積み重ね、それがまた新たな楽しみを生みだす、老いとともに楽しみは尽きない、と願いたいものです。
叔母が大切にとっておいてくれた26通の絵葉書、アメリカ駐在中に旅行先からわたしが送ったものです。丁寧な保管状況からは、葉書が届くたびに目を細めて読んでいる叔母の姿が想像できます。駐在3年半で26通、だいたい1ヶ月半に1通という頻度、多い時には毎月のように旅行していたことを思い出しました。残業や休日出勤はなし、休暇は1週間から2週間、それが当たり前、という時間に恵まれた暮らしのなかで旅行に精がでるのは当然だったのかもしれません。
住いにも恵まれ、会社まで車で15分、芝生に囲まれ、ときどきウサギやリスが遊びに来るという環境でした。自分の時間と住いに恵まれたこの生活は帰国と同時に失われました。当然と思う半面、少しでも取り戻したいという思いは常にあり、帰国して半年後に職場全体が移動し、新幹線通勤を余儀なくされて1年半後、都内の広告代理店に移りました。
アメリカでの駐在経験は、わたしの人生観を変え、帰国後の人生を変えました。恵まれた生活を体験したというだけでなく、アメリカ人のライフスタイルや考え方を見つめるなかで、会社最優先の考え方も変わりました。それまでは会社への忠誠心も依存心も高い、典型的な会社人間でした。それが一定の距離を置いて会社を見るようになったのです。仕事は生きがいとなっても、会社は必ずしも生きがいとはならない、と。それが正常な姿だ、と考えるようになったのです。視野に入ってきた定年後の生活、そこでの生きがいを考える時期だったこともあります。若いときであれば会社を移ることはなかったでしょう。
広告代理店での仕事は快適でした。忙しさは移る前以上のときもありましたが、少人数で完結する仕事で、自分の能力で給料を得ているという実感と、会社には従属していないという気概を持つことができ、また、いままでのしがらみが全く無く、自分自身の考えで自由に行動することができました。ここでの仕事は世の中と直結しており、自分の能力のうちの何を強化したら世の中の役に立つのか、言いかえると何がお金になるのか、ということを考えるようにもなりました。以前であれば「世の中の役に立つ」ではなく「会社の役に立つ」ということであり、そこには内向きの視野の狭さがあったように思います。
自分の能力を磨くために学校にも通い、そこでの仲間もでき、それが新しい仕事を得るきっかけともなりました。その仕事は更に快適で、広告代理店の仕事も続いていますが、軸足は新しいその仕事に移ろうとしています。天地人というのは、天の時、地の利、人の和、だそうです。大胆にリスクをとることができる定年前後の時、働く場や学ぶ場の多い東京の地の利、学校などで広がる人との輪と和、アメリカからの帰国以降のそんな状況をこれからも大切に生かしていきたいと考えています。
体重が3キロほど減りました。率でいうと4.6%減、6月ごろから減り始め、ズボンがかなりゆるくなっています。最も増えたアメリカ生活での体重と比べると13キロ、17%減で、今や20代のころに戻った感があります。まあ、体重だけですが。
6年以上前から続けているウォーキングで徐々に減ってきた体重もここ1年間はあまり変化しませんでした。それがわずか数カ月で3キロ減、食事のときによく噛むようになってからのことです。よく噛むと痩せる、ということを実感しています。歳の近い4人兄弟で育ち、激しい競争の中、早く食べないとなくなる、と身に着いた早食い、サラリーマン時代は時間に追われての早食い、それを還暦を過ぎてからやっと改善したことになります。
きっかけは、胃が荒れている、と健康診断で毎年言われるようになったことです。そこで、わたしなりに考えた対策が、「よく噛む」でした。胃の負担も減って良くなるだろう、と。それに、競争もなく、時間もあるいまはゆっくり食べることができるはず、と。しかし、そのような理屈や条件だけでは長年の習慣を変えられなかったかもしれません。大きな力となったのは、「食べることの大切さ」を実体験で感じたことでした。
1年ほど前から仕事で通っている事務所での体験です。家庭的な雰囲気の個人事務所、お昼はそこで料理してみんなでいただきます。本格的な台湾料理のできる火力の強いガスコンロ、厳選された食材がそこで調理されます。食材にも、調理方法にもこだわり、できた料理を楽しい会話とともにゆっくり味わう、そんな贅沢なお昼です。食事は素早く済ますもの、だったわたしとしてはとても新鮮な体験で、「生きることは食べること」「食べる喜びは生きる喜び」といった感じを受けました。
次は何を食べるか、使う食材は、いまあるものは、いま旬のものは、いただきものは、と続く真剣な協議、そして当日、料理が始まると事務所中に広がる美味しそうな匂い、いただくときのゆったりとした楽しい時間、そういった体験から「食べることの大切さ」をあらためて感じるのです。食事には1時間弱かけます。早食いだったわたしはさっさと済ませてパソコンに向かっていたのですが、食事に時間をかけることに違和感がなくなったころ、「よく噛む」ことを思いつきました。ここでの体験がそれを思いつかせ、実行させ、続けさせていることは間違いありません。
当初、筋肉痛なのか顎が痛くなったり、食事時間配分にとまどったりしましたが、いまではすっかり定着し、「よく噛む」ことが当たり前になりつつあります。体重減の実績がそれをさらに後押ししています。定年後に勤め始めた、学ぶべきことが多い個人事務所、これもひとつの大きな成果です。
久しぶりの学校です。2006年末から中断していた「マスコミの学校」がまた始まり、その再開校記念講演会、計4回講演が開催されているので受講しています。この記念講演会後に本格開校となります。3年前に受講したこの学校がきっかけで、いまの仕事や仲間があるわたしにとっては、たいへんお世話になった母校です。受講の楽しみと、懐かしい人に会える期待で申し込みました。
8月8日のジャーナリスト・田原総一郎氏が最初で、22日がノンフィクション作家・小松成美氏、29日幻冬舎代表取締役社長・見城徹氏、そして最後が9月5日の作家・大下英治氏となっており、いつもながら豪華な講師陣です。こういった第一線で活躍されている方々とじかに接する経験は非日常的で刺激的であり、そのときの印象は後々どこかで蘇ってきて、大事な方向付けをしてくれる、そんな気がします。
それにしてもこの講師陣、校長の花田紀凱(はなだ かずよし)氏の人脈力のなせる技です。田原氏は「無いに等しい講演料だが、・・・・」、見城氏は「1日6件ぐらいくる講演依頼は全て断っているが、・・・・」、お二人とも「花田さんの依頼であればしかたがない」と、そして小松氏は講演メモを用意するほどの熱心さで花田氏の要望に応えています。
卓越した能力を持ちながらも、謙虚で飾らない月刊『WiLL』編集長・花田氏は来月9月で67歳、週刊文春の黄金期を築いた「ミスター文春」は、いま「月刊『WiLL』の目標は『文藝春秋』だ!」とますます意気盛んです。ゲラの校正中についうとうとすることもあるらしいのですが、大好きな雑誌作りにいつまでも熱中し、生涯現役を貫く様子、多くの人がそうありたいと願う、羨ましい人生です。
そんな花田氏を近くで見て、話を聴き、身近に感じることで「そうありたい」という思いはより具体的となり、少なくとも氏が現役で頑張った歳まではいまの仕事で頑張りたい、という気になります。3年前にはなかったそんな気持ち、2年前に会社という後ろ盾が無くなり、自分の力で生きている氏を少しでも見習いたいという思いがあるのかもしれません。そうだとしたら、これが今回受講の最大の成果となりそうです。
ところで、同じ編集者である見城氏が、花田氏のいいかげんさに散々な思いをしてきた、今回も講演依頼の電話が1回あっただけで、2回目からはいきなり事務局からの連絡、頼んだ本人が最後までやるべきだ、会場に来てみると知らない間に講演テーマが決まっていて、許可も出していない写真が使われ、しかも、しかも、受講料を3,000円もとるという、と語気を荒げる場面がありました。それに対して花田氏は「見城さんにはいつも叱られるんですよ」とケロッとしたもの。このお互いの信頼関係を羨ましく思うと同時に、そんな物怖じしない、大雑把な花田氏にますます親近感が強まりました。
足のマメは困ります。足指にできるのはまだしも、足裏にできると歩くのがつらく、以前に1週間近くウォーキングを中断したことがあります。わたしの経験では、20kmほど歩くとマメができる危険性が高まるようです。江戸時代の旅は毎日40km程度歩くとのことですが、マメはできなかったのでしょうか。
マメは、靴が足を圧迫するためにできる場合が多い、といわれています。圧迫されることがない、通気性のよいワラジは、江戸時代という徒歩社会の知恵の結晶なのかもしれません。消耗は早いものの、材料となるワラは豊富で、簡単に作れ、当時16文というそば1杯の値段で買える安さで、しかも使い古しは肥料として再利用していました。しかし、固い舗装道路の現代では少しクッション不足でしょうし、靴で育った現代人には緒にすれる足の痛みには耐えられないでしょう。江戸時代の人ですら、「草鞋食い」と言われたその痛さには悩まされたようですから。
現代ではどうしても靴ということになります。いま使っている靴は幅広で圧迫されることが少なく、表がメッシュなので通気性もある程度いいものです。おかげで、4月に自宅から静岡駅まで毎日40km以上歩いてもマメはできませんでした。ウォーキングを始めて6年半、いろいろな靴を履いてきましたが、1年半前に出会ったこの幅広タイプがこれからのウォーキング生活を末永く支えてくれそうです。
1年半を経て、最近3足目を買いました。最初の1足目はかなりくたびれていますが、まだ現役です。底のかかと部分は最大で2cm以上も減ってしまい少し歩きにくくなり、表のメッシュには亀裂が入ってそこから靴下が見えます。もうそろそろ引退と考えて3足目を買ったのですが、なかなか捨てられません。
2足目はまだ無事で電車などでのお出かけのときに使っていますが、色がくすんできました。3足目の新品と比べてみるとくすみ具合がよく分かります。お出かけ用としては引退の時期です。この引退の方が早くきそうで、そうなれば3足目のデビューとともに、玉突き的に1足目は完全引退となります。ほぼ完全償却で引退となるこの初代、踏まれても踏まれてもじっと耐えてここまできた初代、本当にご苦労さまでした。ありがとう。
わたしのウォーキング歴が続く限り靴の代替わりも進むわけで、これから何代まで続くか、楽しみです。
定額給付金は小型デジカメと決めました。欲しいデジカメの価格はぴったし給付金二人分、妻との共同出資となり、色選択権は妻、選んだのはピンクでした。ピンクと聞いて少し引けましたが、まあ、写ればいいか、そんなにどぎついピンクでもないし、と買ってみると、これがかなりのすぐれもの、さすが最新鋭モデルと感心しています。
人の顔を認識してピントや露出を合わせるのは当たり前、逆光や夜景であることを検知して、背景と顔の両方が綺麗に写るよう、感度、シャッター速度、絞り、ストロボなどを自動調整してくれます。こういった場面で何回も失敗してきたわたしとしては「ありがたい」の一言です。手ぶれ補正も優秀で、夜景がクッキリ、ハッキリ写ります。だいぶ暗くなった鎌倉八幡宮で、手ぶれ補正のないカメラで地面に這いつくばるように撮影している友人を横目に、さりげなくシャッターを切っています。とにかく、楽に綺麗な写真が撮れるのです。
近づいてくる人の顔を追いかけてピントを合わせ続けたり、シャッターを切ったときに誰かが目をつむっているとそれを教えてくれたりもします。フィルムカメラでは考えられない機能で、デジカメにしかできない進化です。1988年に出現したというデジカメ、いまや一家に一台、いや一人一台かもしれません、というほど普及し、そのことが急速な進化を後押ししています。この進化はさらなる普及を後押しすることでしょう。カメラの難しい知識などなくても綺麗な写真が撮れる場面が飛躍的に拡大している、そんなことを実感しています。ありがたいことです。
2007年の11月に入手した小型デジカメもすぐれものでしたが、冬の日本海で、迫ってくる波を撮影中、突然大きな波に襲われて慌てて逃げる際に転んで石に叩きつけてしまいました。波でびしょ濡れになった靴やズボンのまま立ち上がってすぐカメラを操作してみると何の反応もありません。壊れたのです。外見上は小さなへこみが1カ所あるだけのカメラを手に、後悔しきり、靴の中の海水を捨てて、情けない思いで浜辺を後にしました。その後、2003年1月に購入した古い小型デジカメを使っていましたが、カメラサイズも写りも気にいらず、定額給付金を機に新規購入したのです。これが大正解、給付金ありがとう、そんな気持ちです。でも、その給付金、デジカメを買ってから1ヵ月以上も後の、先日やっと入金されました。そこは少し誤算でしたが。
今年もカルガモが生まれました。12匹のカルガモっ子たちが、わたしの散歩コースにある遊歩道沿いの川で元気に泳ぎ回っています。わき目もふらずにひたすら歩くわたしでも、さすがに足が止まります。小さなカルガモたちが、一直線になって進む姿や、団子になって寝る姿は実に愛くるしく、見ていて飽きません。遊歩道を行きかうほとんどの人は立ち止まり、見守っています。
初めて見たときです。近くに大人のカルガモが2羽いました。つがいのようです。例年であれば、子どもを見守る親は1羽、それはメスらしく、オスの姿はありません。2羽に違和感を感じてながめていたとき、1羽がカルガモっ子たちを突然攻撃し始めました。見ていた人たちから、「あれは親じゃないんだ」「子どもたちはベランダで生まれ、親は帰ってこないんだ」「かわいそうに」という声がきこえてきました。親無しっ子なのです。
さほど執拗な攻撃ではなく、自分たちの領域に入ってきた親無しっ子たちへの威嚇のようですが、逃げ惑う小さなカルガモを見ると可哀そうで、大きなカルガモ憎しの感情が湧き起こってきます。それまでそのカルガモが占領して子どもたちを寄せつけなかった岩場に、2羽の子どもが隙をみて這い上がると、まわりの人たちから拍手がおきました。まるで、時代劇の弱い良民と強い悪代官を観ている気分です。帰りにこの場所を通ったときは、2羽の憎たらしい悪代官がいるだけで、12羽の可哀そうな良民の姿はありませんでした。
その数日後、カルガモっ子たちの元気な姿がありました。親はなくても子は育つ、みんなで岸についている何かを懸命に突いています。2羽の大きなカルガモもあきらめたのか威嚇はしません。逆に子どもたちが集団で後を追うと、わたしはおまえらの親じゃない、といわんばかりに逃げるように飛び立ってしまいます。カルガモっ子たちたくましく生きてるな、とほっとした気分で数を数えると11羽しかいません。他の人からも「1羽いない!」という声がきこえます。
翌日も11羽でした。しかも1羽は右足をだらりと投げ出したまま、左足だけで、みんなから遅れながらも懸命に泳いでいます。何かに攻撃されたのかもしれません。見守る親のない子鴨たちの厳しい現実です。
その後、このカルガモっ子グループに別の親無しっ子たちが合流しました。一緒にいた親が3匹だけを連れて道向こうに行ったまま帰ってこないとのこと、親無しっ子どうしで生きていこうとしているようです。いつもの岩場は超満員となりました。
数日後、岩場にブロックが置かれて広くなりました。おまけに、はい上がりやすいように、足場となる石が横に置かれています。無事に育ってほしい、と願いつつ川のなかにブロックや石を運んだのでしょう。とても嬉しくなりました。けなげなカルガモっ子たちとそれを暖かく見守る人びと、散歩で出会ったちょっとしたドラマです。
静岡までの168kmを4日で歩きました。1日平均42kmです。江戸時代には495.5kmの東海道を12日から15日かけ、1日平均40km前後で旅したそうで、それにならっての歩き旅、次は「京都まで」が狙えそうです。
川崎の自宅から中原街道(45号線)を茅ヶ崎まで40km、そこから国道1号線沿いを静岡まで128km、合計168kmの地図上での距離を、歩いた軌跡を自動記録する携帯電話のGPSトレース実測で175.5km、1日平均43.9km歩きました。1日30kmほど歩いたことはありますが、40km超えは初めてで、しかも4日連続です。江戸時代の東海道15日間歩き旅が将来できるか否かの試金石となる旅でした。
「40km超え」の課題は初日にクリア、自宅から茅ヶ崎の旅館までの実測43.8kmを、想像していたよりも楽に歩いたことで自信がつきました。課題が残ったのは「毎日」です。最終4日目、太ももの筋肉痛で、階段を普通に降りることができず、1段1段休みながらゆっくり、となりました。もし5日目があったら、少し休養が必要で、同じペースでの継続は無理だったでしょう。
箱根越えで太ももを酷使したのが主な原因のようです。2日目の約10kmにわたる嶮しい上りと3日目の約20kmにわたる長い下りで、4日目の筋肉痛となりました。箱根・橿木(かしのき)坂の説明パネルには「『東海道名所日記』には、けわしきこと、道中一番の難所なり、おとこ、かくぞよみける。『橿(かし)の木の さかをこゆれば、 くるしくて、 どんぐりほどの 涙こぼる』」とあります。長い石段を、手すりにつかまりながら、足を休め、荒々しくなる息遣いを鎮めるために立ち止まり立ち止まりしながらやっとのことで登りました。峠までそんな個所がいくつかあり、峠からは自然と踏ん張っての4時間余りの歩きとなり、普段とは違う太ももの使い方となったのです。天下の嶮、箱根越えはゆっくりと、その後の休養も考えて、というのが次回への反省点となりました。
反省点は他にもあります。箱根では関所跡を、三島では湧水で有名な柿田川公園を目の前にしながらも素通りしています。歩くこと以外に楽しみのない旅でした。次回は事前調査をしっかりして、寄り道のある旅としたいものです。トラックや乗用車が切れ目なく走る幹線道路を歩くのも問題です。排気ガスのなかを歩くのは精神的にもよくありません。次回は、これも事前調査をしっかりして、時間がかかっても脇道を歩きたいものです。帰った翌日、痰がからんで困りましたが、排気ガスが原因にちがいありません。
もちろんいいこともありました。1日目、30kmほど歩いて昼食と休憩に立ち寄った神社では、屋根の下の涼しいベンチで1時間ほどゆっくりしましたが、人の姿はまったくなく、木々に囲まれた広い境内を一人占め、あと10kmで宿という安心感もあって、普段味わうことのないのんびりした、嬉しい時間となりました。1日目の、30kmほど歩いて昼食、休憩、10kmほど歩いて宿、のペースがこれからの基本となりそうで、まだ暗い朝4時頃出発し、11時頃昼食、まだ日の高い午後3時ごろ宿入り、5時ごろ夕食、8時には就寝となります。まさに、江戸時代気分の旅といえるでしょう。歩きながら迎える夜明けはすがすがしく、ときに幻想的ですらあり、日の高いうちから宿に入り風呂で手足を伸ばす爽快さは、歩いた達成感とともに、非日常的なものです。江戸時代の人々も味わった楽しさだったのかもしれません。
今回の旅で、自分の足だけでかなりのところまで行けることが分かり、ひとつの自信となりました。毎日のウォーキングのおかげです。将来の東海道15日間歩き旅をめざして、また毎日を励むこととします。(もう少し詳細と数枚の写真を「大江戸ウォーキング 2009年」に掲載しています。)
東大阪市にある司馬遼太郎記念館を見学しました。司馬遼太郎氏の小説をさかんに読んだのは入社したてのころです。そのころは時間があり、早い帰宅の途中で本を買っては家で読んでいました。
入社した1971年の私の「1ヵ月生活プラン」には、スローガン「良き書に親しむ」、本代月3,000円とあります。大卒初任給統計データ1971年43,000円と2004年198,300円(「経済統計は語る」)の4.6倍を考えると、いまでいえば本代月13,800円相当となります。このプランに対する実績記録はありませんが、かなりの本を買って読んでいたことは確かで、そのうち最も多かったのが司馬氏の歴史小説でした。
その「1ヵ月プラン」には、「(手取り約5万円+残業代)最低必要経費4万円、残り(10,000円以上)は半分貯金、半分がこずかい、ただしこずかいは1万円を超えない。1万円以上になったら残りは貯金」とあります。こずかいは友人たちとの飲み代や行楽代です。本代は別勘定で必要経費内なのですが、これがこずかい(5,000円以上)と勝負できる額であることからも、つつましい暮らしの中で、読書が大切な娯楽だったことがわかります。司馬遼太郎氏の、まだ読んでいない本や連続ものの本を買って帰るときのわくわく感は格別のものでした。
記念館は司馬氏宅の庭に建てられており、庭からは、ご自宅にある書斎を窓越しに見ることができます。その書斎の書棚には、未完に終わった『街道をゆく 濃尾参州記』で参考となるべき資料がそのままの状態で保存されています。3面の壁を覆う書棚いっぱいの資料、多くの資料を参考にして執筆する、それが氏の執筆スタイルであることがわかります。
氏の蔵書は6万冊だそうで、そのうちの2万冊が、記念館の高さ11メートルの書棚いっぱいに展示されています。これらの蔵書が、小説に視野の広さと深みをもたらし、質の高い楽しさを与えてくれた大きな要因だったのでしょう。氏の小説を読んだ後に他の著者の時代小説などを読むと、とても薄っぺらく、物足りなさを感じたりしたものです。
司馬氏が「街道をゆく 台湾紀行」(1993-94年『週刊朝日』)を書くときに、台湾での案内役となり、すっかり親しくなった司馬氏から「老台北」と呼ばれた蔡焜燦(サイ・コンサン)さんが「台湾人と日本精神」(1990年日本教文社刊)という本を書いています。そのなかで、司馬氏が「小生は七十になって、自分は『街道をゆく』の『台湾紀行』を書くために生まれてきたのかな、と思ったりしています」と何度か語っていた、と書き記しています。このことを最近知り、台湾への興味を持つようになったこともあって、以前から考えていた記念館訪問を決めました。
『台湾紀行』で司馬氏は、「帰途、日本にはもう居ないかもしれない戦前風の日本人に邂逅(かいこう:思いがけなく出あうこと)し、しかも再び会えないかもしれないという思いが、胸に満ちた。このさびしさの始末に、しばらくこまった」という記述があります。台湾取材を終えて、台湾人・蔡さんという元日本兵と別れたあとの感想でしょう。最後の台湾からの帰国は1994年4月2日でした。このときすでに通院していた司馬氏は、その約2年後の1996年2月12日に亡くなります。72歳でした。
戦前、戦中、戦後を体験し、日本とは、国家とは、日本人とは、いったい何なのかを追い求めた司馬氏、膨大な資料をさぐり、多くの土地を訪ね、数え切れない人と会い、思いを綴り続けた生涯で、若いころにもっていた価値観を共有できる同胞ともいえる人々と台湾で出会い、書かずにはいられない気持ちで書いたのが「台湾紀行」だったのでしょう。
ちょうど、同期入社仲間との年1回の宴が京都で開催されるタイミングでした。ちなみに昨年7人だったこの宴参加者は、今年は8人となりました。まだまだ続けていけそうです。若いころの価値観を共有している仲間との宴は楽しく、これに似た楽しさや心地良さを司馬氏も味わい、それが「台湾紀行」を書く原動力となったのではないか、そんなことをふと考えたりしていました。
雪のゲレンデを滑る多くの若者をリフトから眺めながら、おれもまだまだ若い、と一人満足していました。ガーラ湯沢、ここは新幹線直結のスキー場で、東京から1時間半、日帰りでスキーが長時間楽しめ、駅には宅配店や大きなレンタル店があって、手ぶらで遊びに来れます。新幹線に乗り込む人々は、スキー板も持たず、街角で出会う人々の姿とあまり変わりません。私もその一人でした。
入社してから10年ぐらいは、シーズンになると毎月のようにスキーに出かけました。夜行列車で行って、夜行列車で帰る、そんなときもあり、若いからこそできたのだと今更ながらに思います。ゲレンデや宿でみんなとはしゃぐ、そこには遊ぶお金と仲間を得た社会人の楽しさがありました。
そんな若いときを思いながら、一人でスキーに出かけたのです。一緒にはしゃぐ仲間はいないものの、銀世界のなかでの滑降は「楽しい」の一言でした。短い初心者コースで足慣らしをしてから、長い初心者コース、そして中級者コースへと移っていきます。なにしろ25年ぶりですから慎重です。最初は八の字に開いていたスキーも、しだいにパラレルとなり、まあかなり開き気味のパラレルではありますが、エッジを外して方向転換する感どころも取り戻しました。中級コースの急斜面でのスピード感、流れる足元、身体で感じる滑降面の凹凸、広がる雪山の景色、それは快感そのものです。
天候は軽い雪でした。少し積もった新雪を滑る気分の良さは格別で、4人乗りリフトで隣り合わせた人たちの会話、「いい雪だ。北海道の雪と変わらないよ」にうなづきながら、久しぶりのスキーは当たりだった、と独り満足していました。午後の4時間半あまり、リフトが止まるぎりぎりまで、2回のトイレ休憩を除いて滑りっぱなしで、滑降してリフトに乗る間隔が約15分なので、16回以上リフトに乗りました。「今日は1回だけだったよ」という若者の会話を帰り際に聞きました。どうやら1回リフトに乗っただけで、あとは休憩所で休んでいたようで、思わず「おれもまだまだ元気だ」と微笑んだのです。
平日だったので、仕事の電話が2回入りました。仕事中の仲間とスキー場から仕事の話をするなど初めてです。定年になったからこそでしょう。おかげでその日は帰宅後深夜2時頃まで仕事となりましたが、遊びあり、仕事ありの充実した一日でした。その後、筋肉痛もたいしたことなく、翌々日とその次の日、会社から家までの18kmほどを歩いたりもしています。日頃歩いているたまものでしょう。
大学時代の友人が「スキーに行きたい」と独り言のように話していたし、近江八幡在住の友人はスキー旅行を楽しんだことをミクシイ日記に書いています。スキー人気は下降の一途をたどり、スキー場来場者はピーク時の3,4割に落ち込んでいるそうですが、私や友人たちには、若いころに楽しんだスキーへの特別な思いがあるようです。
ところで友人のミクシイ日記ですが、スキー宿と思われるところで女性2人と楽しそうにしている写真がありました。奥さんに先立たれての独身であることをいいことに、楽しい青春真っ只中なのでしょうか。温泉にも入ってゆっくりしたようで、独りで、ただひたすら滑って帰ってきただけの私とはえらい違いです。若いと思っていた私、でもそれ以上に若い友人、これはもう脱帽するしかありません。
久々の徹夜でした。マスコミの学校仲間である若い世代との飲み会、二次会が夜明け前に終わって、原宿から川崎の自宅まで歩いて帰る途中で夜が明けました。
暗かった空がしらじらと明け、雲ひとつない青空に変化していく様は見ごたえのあるものです。東側のビルや家々の背後から明るくなりはじめ、濃い蒼から薄い蒼へ、そして薄い朝焼け、やがて青へと変化していき、それに少し遅れて西の空が明るくなっていく、そういった変化、大空に広がるグラデーション、周囲の寒気や静寂が、荘厳なショーを演出します。これで気分爽快、といきたいところですが、朝日がさしはじめるころになると眠気が襲ってきて、徹夜の疲れもあって足取りが重くなりました。やはり「この歳で徹夜はまずい」ようです。
そんな足取りで歩きながら、若い人たちとの飲み会には体力がいるなぁ、とか、でも楽しいからいいかぁ、などと考えていました。女性の独り暮らし、同棲、離婚などに違和感のない世代というか、それも自然だと感じる世代で、私とは異なる価値観を持っていますが、違う世代へのお互いの興味のためか、お互いを傾聴するいい関係ができています。それに、年長者として一目おいてくれてもいます。まあ、こっちが一方的にそう思い込んでいるだけなのかもしれませんが、楽しいからいいでしょう。
夕方6時半過ぎに始まった宴は、あっという間に11時過ぎとなり、原宿に移動しての飲み直しは、たちまち3時、4時となりました。マスコミの学校で学ぶという共通の志といったものが、楽しい会話を弾ませるのでしょう。私の誕生日が今月、というのが話題となり、「私の父と同じ歳だ。父だったらこのような飲み会には絶対来ない」と言われました。娘からみた父親は、それが普通かもしれません。親子ほどの歳の差があっても仲間ですから、こんな飲み会が成立するのでしょう。
この日、朝5時ごろに渋谷駅前を通ったとき、渋谷で夜をあかし、始発電車とともに帰宅しようとする多くの若者に出会いました。私が学生のときの、新宿歌舞伎町で夜をあかし、始発で帰ったときの風景に似ています。ただ、40年前にはほとんど見られなかった女性やカップルがとても多いのには少し驚きました。若い世代の女性は元気、そんなことを実感します。女性の独り暮らし、同棲、離婚などが特別ではなくなったのも、女性の元気を示しているように思います。そういえば、飲み会のラストオーダーが、男性軍のお茶に対して、女性軍全員がビールだったことを思い出しました。この飲み会が楽しいのも女性が元気だから、ということも言えそうです。