リタイア間近組

 
 
リタイア間近組

セカンドライフ 定年準備と定年後の日々

定年、その後(2011年)  定年後の日々(毎月1日更新)

No.059:人とのつながり (12月31日) ページトップへ

 年を追うごとによりいい関係が構築できている、そんな気がします。週2日働いている個人事務所のボスとの関係です。勤め始めて丸4年になろうとしている、その成果というか結果で、人間関係を築くにはそれなりの時間がかかるということなのでしょう。定年後としては、これ以上を望める職場は無い、と考えています。

 ボスとは、友人仲間のような部分も少しはありますが、基本は仕事仲間、いまの好調な事業内容がベースにあっての良い関係であることは間違いありません。後期高齢者のボスにすべてを依存している事業なので、いつどうなるか分かりませんが、まだまだ頑張るから、とやる気満々なのでもうしばらくはこのまま務めることができそうです。ありがたいことです。

 4年前、ボスの「ITに強い定年退職者募集」が週刊新潮「掲示板」に掲載されたのがそもそもの始まりでした。生まれて初めて買った週刊新潮、同期入社の友人の葬儀に参列すべく新幹線に乗り込む前に東京駅で購入しました。沈んだ気持の中であまり考えずに読めそうだったのが週刊誌だったのです。読んだ後はバッグに中へ、それを帰宅後妻が読んで、「この募集どう?」と教えてくれました。1週間後にボスの事務所で「マスコミの学校」同窓会があったからです。

人とのつながり 同窓会でみんなに話しかける花田紀凱氏(2008.4.5)

 その同窓会で応募の意志を伝えました。ボスのことはほとんど知らなかったし、応募するつもりもあまりなかったのですが、そのときの短いスピーチに共感し「まだ募集していますか?」と尋ねたのです。後で知ったのですが、その時にはすでに十数人の応募があり、中には有名大学の名誉教授もおられたそうです。無事採用となりましたが、「週刊新潮」を買うきっかけとなったは友人の葬儀、これはその友人からのプレゼントだったのかもしれません。

 人とのつながりや流れのなかで今の自分がいます。この同窓会への参加も、「マスコミの学校」時代の若い人たちとの交流が無ければなかったでしょうし、その数年前に通った「編集・ライター養成講座」時代の若い人たちとの交流がなかったら「学校」には入っていません。更には「養成講座」は広告代理店への出向がなければ行かなかったし、アメリカ駐在で知り合ったアメリカ人の友人がいなければ会社人間のままで、会社を出て出向しようとは考えなかったでしょう。人間関係の不思議というか妙を感じずにはいられません。

 今年の総決算です。

 1.ウォーキングは3,334kmでした。距離のピークは2008年の4,789km、翌2009年がほぼ同距離の4,739km、2010年は16%減の4,039km、そして今年は30%の大幅減となっています。母の入居施設への訪問が無くなり、その後続けていた叔母の家への訪問も少なくなり、長距離を歩く機会が減っているためです。事務所からの歩きを増やして下落傾向に歯止めをかけたいものです。電車賃の節約も兼ねて。

 2.健康面では、夏に冷たいスポーツ飲料1リットルを一気に飲んで下痢した以外は風邪もひかず元気です。58kgから59kgと20代のころの体重を下痢以来維持しています。

 3.旅行は、夫婦でのイタリア旅行と北海道東北普通列車の旅があり、一人参加では京都までの500km歩き旅と台北表敬訪問がありました。

 4.東日本大震災では義援金5万円を赤十字を通して被災地に送りました。


 来年は辰年、昇り竜の年です。元気な人はますます元気になって、未曾有の大災害をのり越える推進力となるべきでしょう。私は、せめて邪魔な存在とはならないように頑張ります。

No.058:初体験が続きます (11月30日) ページトップへ

 Tシャツに続き、台湾の烏龍茶を事務所で販売することとなり、ショッピングサイトをリニューアルしました。2回目なのでソフトの中身を少しは理解した上での構築で、われながらよくできた、と一人自己満足しています。細かいソフトのことで誰もわかってくれないでしょうから自画自賛するしかありません。

 台湾の茶園からの直輸入、サイトでの小売で、初めてのことも多く、戸惑いながらも、先週から何とか販売を開始しました。まだ1週間にもなりませんが、早速注文が入っており、そのたびに嬉しい思いをしています。買ってくださる方がいるというのはありがたいことです。自分たちのやっていることが認められたような、そんな気分になります。

初体験が続きます 発売した台湾烏龍茶

 初体験の一つは輸入、しかも食品です。農産物なので残留農薬、加工食品なので添加物、ティーバッグ入りなのでその包装材成分、などの安全基準を満たす必要があります。台湾側に検査、証明してもらえばよいのですが、家族経営の小さな茶園で輸出は初めて、日本の検疫を本当に通るのか、どんな落とし穴があるか分かりません。その他の通関手続きは何とかできそうですが、それも未経験だからこその判断かも知れず、結局通関業者に依頼することとしました。通関結果を見ると大きな問題はなかったようで、次回からは自分でやろう、と密かに考えています。荷揚げ業者や通関、検疫、運送業者などとのやりとりが煩雑そうですが、面白そうです。

 台湾からの荷物が事務所に届いてから、1ティーバッグの入った小袋のいくつかを箱に詰めて商品に仕上げ、梱包して発送するのですが、そのための箱、そこに貼る食品表示ラベル、梱包材などの手配も初体験です。箱は透明のプラスチックケースと決めて業者に依頼、食品表示ラベルは表示規定を調べて原案を作り消費者庁に相談します。驚いたのは消費者庁の対応です。電話を入れると予想外の懇切丁寧な対応、ラベルを送付しろとか、商品詳細書類を提出しろとか言われると思いきや、最初のこの1本の電話だけで全て確認していただきました。最近のお役所は様変わりしているのでしょうか。なかなか進まない、効率の悪い「お役所仕事」はもう死語になりつつあるのかもしれません。

 柔らかいケースなので、段ボールに入れて発送します。宅配便最低料金となる縦・横・奥行合計60cmであれば2ケース入るはずです。探すと、縦が短かったり、横が長かったり、価格が高かったりで時間はかかりましたが、何とかいいサイズを見つけることができました。1個33円の韓国製で、やや強度不足の感もありますが、まあ使える範囲です。緩衝材は少し厚めの再生紙を手配しました。軽い商品なので紙で十分です。

 ケースの中に入れる商品説明パンフレットも初挑戦、デザインはデザイナーが使うソフトに入っているひな型を使って写真や文章を入れ、印刷は安いオンデマンド印刷としました。出来上がってみると、デザインは野暮ったく感じるし、印刷は色合いや紙質に不満が残ります。デザインはどこかに相談し、印刷はいきなりではなく色校ステップを入れるべきでした。安さだけではだめだ、と反省しています。でもまあ、これも使える範囲なので使うこととします。

 いまの事務所で働き始めてからたくさんの初体験があり、そのたびにスキルアップした気分になっています。この歳でスキルアップしてどうするの、ということもありますが、やってみると結構楽しいのです。

No.057:美食だけなく学びもあります (10月31日) ページトップへ

 週2日働いている事務所ではいろいろと美味しい思いをしていますが、それだけではありません。前回報告した台北はこの事務所の仕事でした。台湾からの巨額の義援金を受けて「ありがとう台湾表敬訪問団」を募集したのです。メールで呼びかけると、67人が集まりました。台北集合、台北解散ですが、出発前日までのメールの交換や当日の参加確認など苦労も多かったのですが、学ぶことも多くありました。

 メールの便利さや威力をあらためて実感できたのがその一つです。メールだけの交換で申込者全員、一人も欠けることなく参加しました。数回のメール交換だけで台北まで一人でやってくるのはきっと心細かったでしょう。「騙されてるんじゃないの」と家族に言われながら日本を発った人もいます。面識のないままにメールだけで信頼関係を築く、そのためには相手の立場や状況を想像できる力が必要だ、そんなことも学びました。

美食だけでなく学びもあります 表敬訪問

 参加される方の意気込みには圧倒されました。北は北海道から南は九州まで、さらにはパリやニュージーランドからも台北に集まりました。パリからの若い女性は、お金を大震災への義援金にするか、この表敬訪問に使うか迷ったそうです。気仙沼から参加された方のメールには「私は被災地に在住しており、台湾への感謝を募らせながら生活しております」とありました。台湾に感謝している、というたくさんのメールが、ときには1日60通以上も事務所に届いたのですが、そんな思いを行動に移した人は少ないようです。思うこととと行動することの間には大きな隔たりがあり、それを越えるためにはそれなりの意気込みが必要なことをあらためて学びました。

 多くの人を引率するような場面もありましたが、初めての体験で戸惑いや失敗がありました。バス2台での移動で、人数確認がうまくできず、一人ぐらい途中でおいてきたかもしれない、とヒヤヒヤしたこともあります。また参加者確認に気を取られて、表敬訪問先へのお土産をホテルに置き忘れたこともありました。こういうときには、できることとできないことを見極めて、できないところには人を手当てする、そんなことの大切さも学びました。

 今回の訪問団は事務所のボスの思いから始まっています。ボスは、訪問先との日程調整で何回も電話したり、参加人数が思いのほか増え、もう1台のバスを急きょ確保したり、本来の仕事で多忙を極めている中で頑張りました。かなりのお金と時間も持ち出しています。どうしてそこまでやるのか、と思うほどです。この高い実行力を間近で見て感じることができた、これが最大の学びだったかもしれません。この歳になって多くを学べるとは幸せなことです。

No.056:ウォーキング海外デビューは台北 (09月30日) ページトップへ

 ここ台北は、昨日までの強い日差しを雲が遮り、蒸し暑さは変わらないものの、まずまずのウォーキング日和です。市内のホテルから北投(ベイトウ)まで約13km、3時間弱の海外街歩きに出かけました。

 北投は温泉地、少し前ですが、加賀屋が日本から進出して日本式"おもてなし"を取り入れたことで話題になっています。東日本大震災への義援金が180億円という、人口2,300万人、平均年収150万円の国からの破格の支援、月収を差し出したという人もいる、世界一の親日国台湾でのウォーキング、海外初挑戦ともなりました。

海外ウォーキングデビューは台北 活気ある市場

 町並みはどちらかというと日本似、看板の漢字も日本似、人々の外見はもう日本人、そして良好な治安、親日、とくれば海外という緊張感はありません。湿気のある暑さ、走り回るたくさんのバイク、道の両側に並ぶ活気あるテントの売店、公園のベンチでのんびり休む老人たち、そんなところに台湾を感じながらの歩きです。いつものGPS機頼りですが、日本国内のような詳細地図はなく、事前入力したウォーキングルートの線が1本表示されているだけです。このため、ルートは航空写真で慎重に検証しています。今回もルート中に歩道のない橋を発見して別ルートに変更しました。そのままだと迂回路が分からないまま、ウォーキング断念の可能性もあったのです。

 亜熱帯気候ですが、9月末で曇り、ということで肌着が少し濡れる程度の汗、日本の夏の曇り、といったところです。途中で飲んだ、大好きなスイカジュースも小杯20元(約60円)で満足しています。シンガポールでは思わずお代りをしたスイカジュースもここでは小杯1杯で十分、やはり熱帯と亜熱帯の気候の違いなのでしょうか。ここでのお勧めは、凍ったミルクで作るマンゴーカキ氷、昨晩の夜市で初めて食べましたが、噂通りの美味しさでした。

 平日だからでしょうか、歩いているとお年寄りが目立ちます。日よけ屋根のある通路に出した椅子で、公園の木陰のベンチで、のんびりくつろいでいる、表情はとても穏やかです。道の両側にテント売店が並ぶ市場を通ったときの活気やざわめきにも、焦ったり、苛立ったりしている雰囲気は感じられません。果物などが並ぶ横では上半身裸の中年男性が数人、椅子に坐って話し込んでいます。結婚式は定刻の1時間遅れぐらいで集まってくる、といわれた昔の台湾、そんな楽天的でゆるいDNAを垣間見た思いがしました。

 スイカ牛乳とホットドッグをコンビニで買ったとき、ホットドッグに付けるケチャップやらマスタードやらの何種類かの小袋を見せて、どれが好みか聞き出そうとします。マスタードらしきものを指すとそれをいくつも持ってきました。言葉の通じない外人のためにどうにか役立ちたい、といった気持ちを強く感じる対応ぶりでした。ゆるいけどあたたかな気持ちの人々、だからこその巨額の義援金だったのかもしれません。

 北投までの13kmを3時間以内、うまくすれば2時間半、とみていましたが結果は3時間半、このため足湯や温泉街の見物を諦めて到着してすぐに帰りの電車に乗り込みました。脇目も振らずに歩くだけのいつものウォーキングとは違い、あちこちを見て歩いたということかもしれません。北投という観光地は見逃したものの、ウォーキング途中で見聞きした人々や風景は観光地以上に心に残るものでした。3泊4日の台湾出張で唯一のオフだった今日の半日、大好きなウォーキングができて満足しています。

No.055:トクトク切符での旅 (08月31日) ページトップへ

 初めての小樽・札幌観光、札幌大通り公園のトウモロコシが楽しみでした。昨年の「青春18キップ」東北の旅の楽しさに味をしめ、今年は「北海道&東日本パス」、普通列車7日間乗り放題1万円での札幌・平泉の旅です。

 パワーアップした今年の旅、自宅を朝7時に出て、宇都宮、黒磯、郡山、福島、仙台、一ノ関、盛岡、八戸と普通列車を乗り継ぎ、青森22時42分発寝台急行「はまなす」を使って翌朝6時に札幌、乗り換えて7時に小樽に到着しました。青森ではたくさんの若者がこのパスで「はまなす」に乗り込みます。若い女性も多く、幅広い人たちが利用するパスとなっているようです。比率的には少ないものの中高年も多く見かけます。時間的余裕のない子育て年代と、リッチな高齢者はさすがに見かけません。我々のような二人旅はごく僅か、中高年男性と若い女性の一人旅と若い男性のグループ旅が目立ちます。中高年は時刻表を持ち生真面目に、若い女性は小さな旅行バッグを持ちスマートに、若い男性グループは大きな荷物で仲良く、それぞれが旅を楽しんでいます。みんな元気で愉しげ、こんな旅をサポートするこのパス、ありがたいの一言です。

 乗り継ぎ時間4分というところもあったものの、全て順調で24時間かけて予定通り小樽に到着しました。この高い信頼性、ここでも日本の鉄道ありがとう、です。小樽の市場でお寿司の朝食、かつての繁栄をしのばせる運河近辺でソフトクリーム、トウモロコシの食べ歩き、店頭で差し出されるチョコレートやチーズケーキの試食、などでお腹は北海道でいっぱい。「あれからニシンは どこへ行ったやら オタモイ岬の ニシン御殿も 今じゃさびれて オンボロロ オンボロボロロー」(石狩挽歌:昭和50年、北原ミレイ歌、なかにし礼詩、浜圭介曲)と唄われた贅を尽くしたニシン御殿を見学してから札幌へ、夜は居酒屋でのホッケやホタテ、と大満足の初日でした。

 翌日からは札幌、盛岡、平泉、と南下の旅、秋雨前線も一緒に南下しての雨の合間の観光となりました。雨のため、札幌のトウモロコシは食べれなかったものの、盛岡で美味しいトウモロコシを、さらに盛岡三大麺のじゃじゃ麺、仙台のずんだ餅、宇都宮の餃子、とB級グルメを満喫し、普通列車のB級トリップを楽しむ、そんな旅が性に合っているのか、毎日が愉しく、あっという間の6日間でした。

トクトク切符での旅 雨模様、緑が美しい

 もちろん、食べるだけなく、サッポロビール創立の地で北海道開拓史を学び、雨上りの札幌大通り公園でライトアップされたテレビ搭を眺め、宮沢賢治や石川啄木の青春の地、盛岡をぶらぶらと歩き、平泉の金色堂で藤原三代の栄華を偲び、芭蕉の句に思いをはせた旅でもあります。念のため。車窓から眺めた雨模様のなかでの緑の美しさも印象的です。日本は緑が美しい。

 若いころに1度だけ乗ったことのある寝台列車、揺れと騒音であまり眠れませんでした。それに、もう夜行列車の歳ではありません。来年は夜行を使わない、函館までの旅となりそうです。普通列車で移動し、歩いて観光する、こんな旅ができるのは元気なうち、いつまで続けられるか分かりませんが、こうして各地を少しずつ見て、食べる旅、これからも続けたいものです。

 今回は車中も含めて5泊6日、パス最終7日目は自宅から横須賀に海軍カレーを食べに行きました。おまけです。それにもう一つ、東京が一番暑かった1週間を不在としたため、今月の使用電力が昨年比45%減という嬉しいおまけもつきました。

No.054:ウォーキングの低迷 (07月31日) ページトップへ

 ウォーキングが低迷しています。先月は88㎞、記録を開始した2008年以降最低の距離、昨年までは月平均400㎞ほどでしたからかなりの落ち込みです。ショッピングサイト構築で忙殺されたためですが、この先月だけでなく、福島原発放射能漏れで3月も199㎞と低調、もともと、母が入居していた施設に週2回行くときの歩きがなくなった昨年1月から長期に低迷していて、叔母の家への週1回の歩きがなくなった今年1月からは更なる低空飛行となっています。

 このままではまずい、という危機感から今月は頑張ろう、と歩き始めたのですが夏の暑さであえなくダウン、下痢が1週間以上も続きました。日差しの強い日に歩き、冷たいスポーツ飲料をたくさん飲んだのが直接原因ですが、その日以前にも「今月は頑張ろう」と少し無理をしたようです。強い下痢ではないのですが、途中でトイレに、という不安から歩きは遠のきました。こんな長い下痢は初めてで、さすがに不安になり大腸の内視鏡検査を受けました。結果は異状なし、それで心強くなったのか、まもなく完治、それ以降毎日20㎞以上の強行軍を重ね、今月は315㎞でした。

 このままだと今年は月平均が200㎞台になりそうです。歩きが好きだといっても、仕事の忙しさや下痢には勝てず、それ以上に、毎日あるいは毎週の決まった行動がなくなると歩かなくなる、ことをあらためて思い知りました。川崎の自宅から京都まで歩いた、といい気になっていてはいけません。「歩き第一優先」の初心を思い出し、またせっせと歩こうと考えています。「歩きすぎ」と後ろ指さされようと。

ウォーキングの低迷 20歳代の体重に戻りました。

 ところで、下痢で体重が58㎏にまで減りました。まさに20代のころの体重です。下痢で減ってもあまり意味ないのですが、体重計を見たときには思わず嬉しくなり写真を撮ってしまいました。それから2週間以上経たいまでも50㎏台をキープ、下痢完治後も「腹八分目」を心がけているからのようです。長生きDNAはだれでも持っているがOFFのままでは長生きできない、ONにする方法は「腹八分目」、つまり飢餓状況だとONになって若さを保とうとする、とNHKが放送していました。何十年にもわたる猿の実験で分かったそうです。わたくしもこの調子が続けば長生きできるかも。長生きは必ずしも望みませんが、死ぬまで元気でいたいという強い望みはあります。

No.053:ショッピングサイトの構築 (06月30日) ページトップへ

 あともう少し、これだけ、などと思いながらパソコンに向かっていると、やがて白々と夜が開けてきます。そんな日が何日かあってショッピングサイトが完成しました。無料で開放されているショッピングサイト構築ソフトEC-CUBEをダウンロードしたのが1ヶ月前、それをカスタマイズ、つまり変更して、今日で終了です。実に様々なことを学びました。

 働いている個人事務所でTシャツを売ろうということになり、その購入申込サイトを作りました。商品の在庫、出荷、売上などの管理や宅急便との連動もできる本格的なサイトで、商品種別が将来拡大しても十分に使えます。利用するソフトの構造や仕組みを勉強する時間も根気も資料もないまま、やみくもに変更していく姿は、よく知っている人から見たらかなり無謀だったかもしれません。

 頼りになるのは先人がインターネットに残してくれた記録です。「EC-CUBE ・・・を変更」で検索すると実に多くの方がそのための記録を残してくれています。でも悲しいかな、内容が理解できない、その通り変更しても動かない、このため1つの変更テーマに数日はかかります。最も多く参照したのは「EC-CUBEフォーラムサイト」で、困っている多くの人が質問し、良く知っている多くの人が回答しています。すでに商売中のところからは「どうやっても・・・ができない、どなたか助けてください」といった切羽詰まった深刻な質問もあり、カスタマイズを仕事としているところからはヒントはあっても「これ以上は有償で」という冷たい回答もあります。中身を知らないまま使って実稼働で困っている質問を見ると、明日は我が身、と思い、その通りやって解決した親切な回答に当たると、感謝と尊敬の念でいっぱいになる、そんな繰り返しの1ヶ月でした。

ショッピングサイトの構築 EC-CUBE開発コミュニティ(ここにフォーラムがある)
<写真にマウスを置くと拡大します>

 EC-CUBEは自由参加の技術者たちがインターネットでつながりながら共同開発・改良を進めている、いわいるオープンソースです。リリースして3年後の2009年6月で推定4000店舗が利用しており、日本発オープンソフトとしては最も成功しているものの一つでしょう。作る人、利用する人、店舗を運営する人、お客、と実に多くの人が、直接的あるいは間接的にこのソフトを支えています。今回、かなり完成度の高いサイトが構築できたことで、EC-CUBEの素晴らしさと、このような成果物を生み出すインターネットという媒体の凄味を実感しました。

 昨年9月に利用したブログ構築ソフトに続いての今回のショッピングサイト構築ソフト、共に無料ソフトであり、今後何かと活用できるのではないか、何らかの収入につながるのではないか、とかすかな期待を持っています。ちなみにブログ構築ソフトは今回のこのサイト移転に多大なる貢献をしています。収入にはまだつながってはいませんが、そのうち....

No.052:京都への歩き旅 (05月31日) ページトップへ

 川崎の自宅から京都まで、11日間連続で歩いて合計510km、1日平均46kmの旅が終わりました。1日の最高は56.6km、宿の確保ができずに先にあるホテルまで15kmほど予定外で歩いたときです。最低は36.5km、雨が降ったりやんだりで、雨宿りしながらの歩きとなった日です。江戸時代であれば14日前後の旅、今回11日ですから、江戸時代の人を追い越した、といったところでしょうか。

写真 グーグルが選ぶ最短ルートにはこんな道もある

 江戸時代にはなかった「電気」が現代の最大の強みのような気がします。ほとんどの道で夜でも歩けるので、宿がないとか雨とかいった予定外の事態でも夜の歩きで対応できます。雨雲の動向予測で効率よく歩けるし、GPS機器で間違いのない最短の道を進める、ホテルの検索や予約、ホテルのコインランドリーでの洗濯、などあらゆるところで「電気」に助けられています。

 こういった高い効率や便利さの代償でしょうか、人との関わりはほとんどありません。その必要がないのです。江戸時代であれば、地元の人に道を尋ねたり、水をもらったり、その土地の情報を得たり、旅の情報を与えたり、といったことで、そこに人と人の交流があったにちがいないのです。ホテルでも、食堂でも、コンビニでも、お互い無機的な関わりだけで、気持ちが通うような交わりはありません。静岡県袋井のレストランで食事を終えて出ようとしたとき、「ペットボトルにお茶でも入れましょうか?」とわざわざ声をかけてくれました。こんなこと初めてです。思わず嬉しさがこみ上げたのを覚えています。それが印象に残るほど、人との関わりが少ないのです。

 安全性にも課題ありです。静岡県の島田市内を歩いているときに後ろからきた自転車に引っ掛けられて転びました。大きな道路の、広い歩道を歩いていたときです。男子高校生は通学電車の時間に間に合わせようと急いでいました。瞬間の出来事で、気がつくと倒れていて何が起きたのかすぐには理解できません。顔を怪我して血がでていたので、病院で手当てを受け、歩きを再開しました。歩道のないところはもちろん、歩道であっても気を緩めることができません。交通事故は現代の大きなリスク、車の排気ガスの健康リスクとともに、江戸時代にはなかったことです。

 江戸時代は京都まで歩いたんだ、すごいなぁ、できるのだろうか、と考えていました。今回歩いてみると、歩きが少々辛かったのは4日目のみ、その他の日々は疲れはするものの、翌朝にはとれてまた元気に歩ける、京都に着いたときも、まだまだ歩ける、といった感じでした。平均で毎日15kmは歩いていたという江戸時代の人にとって、歩き旅はごく日常的なことで、特別なことではなかったのでしょう。もちろん、旅先での健康や治安への不安、出会う風景や人への期待などは非日常的で特別なものだったのでしょうが。江戸時代を実感できた旅でした。(大江戸ウォーキングに写真を掲載しましたのでご覧ください。)

No.051:放射能漏れ (04月30日) ページトップへ

 京都への歩き旅に明日出発、仕上がりは順調、と言いたいところですが不安はあります。3月、4月とあまりトレーニングができていないのです。主な原因は福島原発の放射能漏れ、トレーニングは6時間以上も外を歩くので、飛んでくる放射能物質を吸い込んだり、その放射線を浴びたりするのが怖かったのです。

 川崎市が放射線量を発表し始めたのは3月11日大地震4日後の15日、いきなり年平均毎時0.035マイクロシーベルトの6倍もの瞬間値を記録しています。その後3倍以上の瞬間値が何回かあったものの、全体的には2倍前後で推移していましたが、21日の雨で4倍以上に跳ね上がり、なかなか下がらず、3倍を下回るようなったのは4月3日です。この雨は東京都水道水の放射能汚染も引き起こしています。

写真 放射線量を毎日チェック<写真を拡大>

 この間ほとんど歩かず、トレーニングを再開したのは4月4日でした。毎日にらんでいた放射線量が毎時0.10マイクロシーベルト程度になってからです。これなら年間で876マイクロシーベルト、呼吸によって同量を内部被曝したとしても倍の1752マイクロシーベルト、年間2400マイクロシーベルトが自然被曝の世界平均ですから、まず安全でしょう。

 再開のきっかけはもう一つあります。屋内でも屋外でも放射線量はあまり変わらない、というデータがあったのです。放射線の強さや家の状況で違うのでしょうが、我が家でもそうなら歩いても歩かなくても一緒です。確かに、花粉症でくしゃみが出るのは屋内でも屋外でもあまり変わらないのを考えると、花粉同様に放射能のチリも屋内外変わらずに舞っているのかもしれません。

 知識不足、見えない、致命的な健康被害、などから放射能への恐怖はなかなか拭えず、ネットでのもっともらしい書き込みや、極端な拒否反応があります。わたくしのトレーニング中断もそんな愚かな不安からなのかもしれません。福島原発事務本館南の放射線量はいま毎時500マイクロシーベルト程度、川崎の6千倍、原発北西30km地点では毎時22マイクロシーベルト程度、川崎の220倍、そんな環境で作業され、生活されている方々のことを考えると、全くお恥ずかしい限りです。どんどん歩いて、元気になって、「がんばろう!!日本」に僅かながらでも寄与しないと。でも、放射能漏れ、早く何とかして欲しい。

No.050:東日本大震災 (03月31日) ページトップへ

 そのときマンション5階の自宅でパソコンに向かっていました。激しく揺れて、照明が消え、部屋がギシギシと音を立てています。さほどの恐怖感はないものの、大きな揺れが一向に収まらないので、テーブルの下へと移動、近くにいた愛犬モモを引き寄せて一緒に地震が通りすぎるのを待ちました。

写真 我が家の停電対策グッズ(携帯バッテリー、携帯TV用アンテナ、小型懐中電灯)

 揺れが止まってからすぐに携帯でTVをみると宮城県沖を震源地とした巨大地震、余震も何回かやって来ます。銀座にいた妻から電話があり、無事とのこと、TVの地震情報を伝え、電話中にも余震があったので、早く安全なところに避難するように言いました。携帯が通じたのはそのときが最初で最後です。外に出てみると信号も消えています。明るいうちに懐中電灯を買っておこうと近くの100円ショップへ、かろうじて売れ残っている小さなLEDランプを購入しました。みんな電池をたくさん買っています。駅周辺地域には電気がきていたので、携帯の充電場所を探しました。唯一の情報源であり連絡手段である携帯がバッテリー切れになると、目も耳もふさがれた状態になってしまいます。

 電話会社のショップに行くと、今日はもう閉めます、と入れてくれません。こんな時こそ開けてみんなの役に立つべきでは、と思いつつ歩いているとありました、充電できるところが。マックです。カウンターテーブルに電源コンセントが付いています。初めて知りました。でも食べたいものは何もない、かろうじて食べれそうな100円のパンケーキを買って充電させてもらいました。マックさん、ありがとう。

 充電が終わって外に出るとすでに暗くなっており、食事をしようとしましたがどこもたくさんの人が並んでいます。充電前は行列などどこにもなかったのに、完全に出遅れています。行列に並んでラーメンを食べて家に戻りました。散歩をせがむモモを連れて真っ暗な中で階段を下りるときの危うさはもう経験したくはありません。我が家はガスコンロからIHコンロにしたばかり、お湯も沸かせません。お風呂も、電話も、TVもだめ、寝るしかありません。寒さの中で携帯を枕元に置いて眠りに着きました。

 電気が復旧した翌日以降、TVの映像は悲惨さを日々増していき、日本国中を悲しみのどん底に叩きつけました。どうしたら良いのか分からない、そんな感じを多くの人が持ったのではないでしょうか。こんなときこそ生きるための日々の営みをしっかりやる、強い人はその強さを維持して、家族を失い、家財を失って弱者となってしまった人たちを助ける、さほど助けにならない人はせめて人の邪魔はしない。とにかく、元気な人までも落ち込まない、それが大切なのではないでしょうか。わたくしはどちらかいうと「あまり助けにはならない」方です。ですからいまできることは、節電する、買占めしない、そして義援金を出す、といったところでしょうか。

No.049:花田紀凱氏 (02月26日) ページトップへ

 終電での帰宅、久しぶりです。5年ほど前に通ったマスコミの学校、その仲間の一人が結婚したのでお祝いの飲み会がありました。

 東京田町で、夕方5時からがリハーサル、立ち飲み用の小さな丸テーブルが狭い店内にいくつか並び、注文の度にお金を払う気軽な立ち飲み屋で超貧乏人のためのウイスキーとか幻の酒とか言われるホイスを飲み、6時から本番、重厚な扉のあるお洒落なレストランでイタリアンのフルコースを、料理の説明とシェフのご挨拶を受け、スパークリングワインやワインとともに楽しみました。本番後、居酒屋に移り数々の焼酎を飲みながら話をしているうちに終電時間となりました。

写真 新婚さんからタオルのプレゼント

 1年ぶりの再会、いつもの楽しい仲間、ライターや編集者への思いを持って入校し、望みを果たした人、他の仕事で頑張っている人、それぞれですが同じような志でつながっているだけに話は尽きません。終電で帰れた今回はまだいいほう、かつては朝帰りとなるときもありました。翌日は決まってガラガラ声、声を枯らすほど何を話したのやら、リラックスしたとりとめのない四方山話こそ最高の時間なのです。

 途中から、校長で、WiLL編集長、元週刊文春編集長、ミスター文春こと花田紀凱(はなだ かずよし)氏がいらっしゃいました。ビッグサプライズ、みんな大喜びです。それはそれはお忙しい方なのに、6人ほどのこじんまりとしたわれわれごときの飲み会においでくださるなんて。この気さくさ、フットワークの良さ、これこそ68歳のいまも第一線でご活躍されている秘訣なのでしょうか。たくさんの異なる才能を集め、それを結び、面白い記事を作り上げる、そんな力、何事にも謙虚で白紙で臨む姿勢、あくなき興味を持ち、「面白い」をキーワードに積み重ねてきた実績、社会に大きな影響力を持つ人物なのも当然なのかもしれません。

 人材を育てたい、そんな花田氏の熱い思いがマスコミの学校には込められているような気がします。修了した受講生の行く末が気になる、だからこその今回の飲み会への参加なのでしょう。結婚した二人は共に学校の受講生でした。分かっているだけでもこの学校から誕生した夫婦は4組です。花田氏の現在の奥様も受講生の一人でした。レストランに到着してすぐにお祝いのシャンペンを頼み、途中で目立たないように全員の勘定を済ましてしまう、かっこ良すぎです。しかも知的でお洒落、渡辺淳一「失楽園」の主人公のモデル、と言われる所以でしょう。そんな氏を身近に感じて、刺激を受ける、それは幸せなことです。生涯現役を公言する氏に習って、少しでも近づけたら、と気持ちを新たにした飲み会となりました。

No.048:南イタリア旅行 (01月31日) ページトップへ

写真 アマルフィ海岸

 ナポリの王宮やチボリの貴族の別荘をゆっくり見物すれば気分は中世貴族、アマルフィの太陽を浴びて海岸の街をそぞろ歩けば気分は陽気なイタリア人、そんな南イタリア10日間の旅、夜はホテルでパソコン操作の日々でした。仕事です。休暇中も仕事が頭から離れないワーカホリックのようですが、本人はバカンスも仕事も楽しんでいるつもり、定年後の気楽な仕事だからでしょう。

 仕事先の事務所にはパソコン操作のできる人がいないので、大切なメールには返信して事務所にFAX連絡しておく必要があるのです。わたくしの休暇中はメール処理の人を手配するのですが、メールの少ない1月ということで、「担当者不在のため、お急ぎの方はFAXにてご連絡ください」との自動返信で乗り切ろうということになりました。しかし、それだけでは不安なので、海外でのメール処理をトライしたのです。これがうまくいけば、今後はいつでも休暇がとれる、そんな魂胆もあります。

 宿泊するホテル全てに無線LANのWiFiによるインターネット接続サービスがあります。これが使えるはずですが、念のためインターネット接続を世界中でサービスしているiPassに加入し、日本で接続テストを済ませてから出かけました。ホテルでの接続だけに頼るのは危険と考えて、保険のつもりでしたが、このiPassが大活躍、空港でのメール送受信だけでなく、ホテルでも、一晩3から5ユーロ(350円から580円ぐらい)、ホテルによっては10ユーロ(1,150円ぐらい)、という接続料金を60円程度で済ませたりしています。FAX送信はインターネット経由、1ページ10円のPamFaxに加入し、これも日本で送信テストを済ませました。

 もくろみでは、朝ホテルでメールを送受信、移動中のバスで返信作成、翌朝ホテルでメール送受信とFAX送信、というサイクルでした。しかし、8時間の時差のために夜の方が大切なメールが多く入ってくるので、夜の返信作成、朝のFAX送信、というパターンに、夜が遅かったときはバスでの睡眠となりました。もくろみが外れたのはこれだけではありません。ホテルの部屋にWiFiの電波が届かず、電波を検知できる廊下で真夜中にパソコン操作したり、iPassサービススポットまで早朝に出かけたが電波が検知できず無駄足だったり、飛行機の搭乗ゲートを通過した途端に接続していたWiFiが切れたり、といった貴重な体験がありました。今回の実績で、少なくとも1月であれば海外旅行が遠慮なくできることとなり、iPadサイズのモバイルパソコンを購入し、イタリア事情を調査し、日本でリハーサルした、というもろもろの苦労が報われました。

 パソコンは天気予報のチェックなどにも役立ち、これからの必須アイテムです。持参したもう一つのハイテク機器、GPS機、これも必須アイテムとなりそうです。行きたいところを事前に登録しておけば、確実に到達できます。アナウンスの全くないバスや電車に乗っても安心、初めての街を歩いても迷うことはありません。これほど役に立つとは思いませんでした。

 ハイテク機器を使って効率よくバカンスを楽しみ、仕事もこなす、自分としてはいままでにない新しいスタイル、この歳になっても進化している、と自画自賛です。だれも褒めてくれないし、気にも留めてくれないので。