リタイア間近組

 
 
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セカンドライフ 定年準備と定年後の日々

定年、その後(2014年)  定年後の日々(毎月1日更新)

No.095:関東労災病院 (12月31日) ページトップへ

写真 映画やテレビでしか見たことがない手術室

 手術室に生れて初めて入りました。10月に自宅近くの総合病院で病院祭があり、そこでの見学ツアーに参加したときのことです。入る前に頭と靴を覆うビニールを装着し、手を消毒します。これだけでちょっと厳粛な気分。

 手術室に入るとベッドの上にはパラボラ状の大きな照明器具、横にはメスなどの手術用器具、周辺には端子付きコードが延びた測定機器があります。ときには、命を救うための激しい闘いがある特別な場です。見学者はベッドのクッション具合を調べたり、メスなどを手に取ったりして少し興奮気味、看護婦さんへの質問も飛び交っていました。

 関東地区の医療センターとして厚生省主導で1957年に開院した関東労災病院でのイベントです。災害拠点病院ともなっていて、屋上ヘリポートやビル床下免震装置などがあり、これも見学できます。ヘリポートは柵のない屋上なので怖くて端の方には行けません。免震装置では巨大な建物をゴムやバネが支えているのですが、何となく頼りない感じ、我がマンションも同様のもので支えられているのか、としげしげと眺めてきました。このような立派な総合病院が、自宅から歩いて十分程度ところにあるのは心強いかぎりです。10月に入院したのはこの病院でした。

 イベントでは健康チェックもあって、私の血管年齢は63歳、実年齢よりも4歳ほど若い、という結果、骨密度は同性同年齢比較で104%、20歳男性平均の87%と、歳相応で「普通」という判定でした。しっかり歩いているのでもう少し良いかと思っていましたが、ちょっと残念です。でも体重体組成計では、体内年齢42歳と25歳も若い嬉しい結果でした。まあ、体内年齢が33歳だった妻は「単に基礎代謝量だけで決めてるんじゃないの」といたって冷静でしたが。

 コンサートなどもあって、雨模様にもかかわらず結構な人出でした。地域の人たちに病院をもっと身近に感じてもらおうと始めたこのイベント、今年で3回目とのこと、慣れないイベント運営を熱心に、笑顔で進めている病院スタッフが気持よく、楽しいひとときとなりました。来年の健康チェックでより良い結果が出るように、1年間またせっせと歩きたいと思います。

今年の我家の十大ニュースです。

1.左鎖骨を骨折

 10月3日に自転車との衝突事故で左鎖骨を骨折、仮骨が僅かに出来始めたものの、骨癒合はまだまだです。骨癒合し難い場所であることや高齢であることから時間がかかりそうです。富士山一周の歩き旅の途中でしたが、歩き旅への強烈な警告となりました。

2.複式簿記を開始

 いままで青色申告だとばかり思っていたのが、実は白色申告だったと判り、1月に「開業届」と「青色申告承認申請書」を税務署に提出して複式簿記を始めました。税務署の「記帳指導」(全3回)も受けて、来年3月の青色申告に向けて着々と準備中です。これで少し節税、お金が絡むと頑張れます。

3.男の料理教室に初参加

 地域活性化を目的としたNPOが主催した「男の料理教室」に参加して、67歳にして料理が僅かに出来るようになりました。私にとっては画期的なことです。参加者のなかに81歳の方がおられて、とてもお元気で料理の手際も鮮やかです。一人暮らしで、毎日出かけて良い食材を物色し、買ってきては料理する、3度の食事で忙しい毎日、とのこと、だからお元気なのでしょう。料理することの大きな効用です。ちなみに、習った料理を自宅で復習しましたが、美味しい、と妻の評価は上々でした。不味いとでも言ったらもう作らない、と思っているのかもしれません。

4.夕食後の散歩コースを新設

 「ライフ」というスーパーマーケットが2店舗、方向は違うのですが共に自宅から歩いて3kmほどのところにあります。この2店のどちらかに行って帰ってくるのが妻との夕食後の6km散歩コースでした。11月に3店目がまた別の方向にオープンし、これは歩いて2kmほどなので、少し遠回りをして6kmの新散歩コースとしました。最近はほとんどがこのコースです。ときどき軽い買い物をしてエコポイントを貯めています。

5.ウォーキング1日平均10kmを達成

 今年のウォーキングは3,650.5kmとなり1日平均10kmをかろうじて達成しました。鎖骨骨折となった割には頑張ったほうかもしれません。2008年の61歳から記録し始めて7年、未達成は2011年の1回のみです。母の入居施設への訪問が無くなり、叔母の自宅訪問も少なくなったためでした。歩いて行くべき目標を持つことの大切さを思い知りました。

6.家族旅行を年3回

 1月に台湾、6月にスペイン、9月に長崎を妻と二人で旅行しています。自由な時間もお金もそこそこあって、かつ元気な60歳台は人生のゴールデンタイム、大いに楽しんでいます。70歳台、欲を言えば80歳台もこうありたいものです。

7.東海道歩き旅が5回目

 初めての1日平均50km超え、463kmを9日間で完歩しました。62歳から始めて今年で5回目、来年からはもう少しゆとりある日程にしたいと考えています。

8.日帰りスキーも6回目

 毎年恒例となった日帰りスキー、今年で6回目、体力はそう衰えてはいない、と今年も実感しました。

9.同期会などが7回

 会社、大学、高校とその付属中学それぞれの同期、同僚との飲み会が7回ありました。気の置けない連中との楽しい時間です。ここでも人生のゴールデンタイムを楽しんでいます。

10.携帯がピンク色

 購入して6年目に入った携帯が壊れたのでお店に持って行くと予想外に高い修理代でした。小型なので気に入っていたのですが、もう販売もしていません。そこで、ネットで販売している安い未使用新品を購入したのですが、色がピンクしかありませんでした。私は気にならないのですが、「どうしてピンクなの?」とたまに訊かれます。変なおじさん、に見えるのでしょうか。

No.094:現場検証 (11月30日) ページトップへ

 先月の自転車との正面衝突事故、今月その現場検証に立ち会い、そこで自転車の危険性を改めて認識しました。周囲に明りが全くない暗闇での事故、自転車が私に気付いてブレーキをかけたのは衝突位置のほんの数メートル先でした。しかもそのブレーキ痕は、私を避けるのではなく、私に向かってきていたのです。

 自転車は誰でも運転できる、ということは、どんな人が運転しているか分からない、という危険性があるということ。100メートル以上先から真っ直ぐな見通しの良い道路で、私の持っていたライトの明るさであれば60メートル以上先から認識出来たにもかかわらず直前まで気付かず、しかも気が動転したのか、わざわざぶつかってくる、そんな人でも運転しているということです。

 かなりの速度が出せる割にはライトが弱いのも危険性を高めています。下り坂をマウンテンバイクで走ってきたので時速20キロ以上は出ていたはずで、夜間であれば原付バイク並のライトが必要なのです。ところが、自転車のライトで認識できる歩行者はせいぜい30メートル先、つまり歩行者を認識したとしても、そこまで数秒しかありません。

写真 冠雪し始めた富士山を望む富士宮警察署で

 現場検証のために川崎の自宅を出たのが午後1時ごろ、沼津で途中下車してお寿司を食べてから富士宮へ、警察署に着いたのは午後5時少し前でした。署に入ると、まず目についたのが「夜間歩くときは反射グッズを身に着けよう」という説明イラスト付の大きな掲示板、暗くて危険なところが多い地域なのです。これを事前に見ていたら、と悔やまれます。夜でかつ揺れると点滅するLEDランプ(スイングフラッシュ「かっ照君」)を交通課で販売していると書いてあったので、早速購入しました。

 事故現場へは車で30分ほど、警察車両で移動です。途中、この警察車両を追い越そうとして、速度オーバーしてますよ、と注意される車が数台ありました。怖いもの知らずというか、ちょっとびっくりです。5時半ごろに現場到着、相手は両親と共に乗用車内ですでに待機しており、すぐに現場検証が始まりました。

 私は、道路脇の草地にリュックを背に仰向けで倒れたそうです。草を踏んでみると柔らかくふわふわしています。もしコンクリート上だったら頭を更に強く打っていたことでしょう。相手は、足をペダルに固定しているため、自転車と一緒に倒れ、ほほ骨にひびが入り、アゴがずれ、前歯が折れるという、かなりの怪我を負っています。もうこのような道をこのような時間には二度と走らないでほしいと願うばかりです。私はもう決して歩きません。

 21歳の男性で、25キロほど先の富士急ハイランドからの帰りだったとのこと、気の弱そうな、口数の少ない若者で、高校を卒業して働いているそうです。加害者として書類送検されますが、検察庁の判断となるものの、裁判となり前科者となる可能性が高い、という警察からの説明でした。過失度合が大きいということなのでしょうが、実に後味の悪い結果です。

 現場検証が終了したのは午後7時ごろ、帰りも警察車両で送っていただきました。駅までお願いできますか、とのお願いに、何時の電車ですか、と気さくに応えていただき、まるでタクシー代わりのようで、恐縮しています。

 帰宅したのは夜10時半ごろ、妻がニコニコしながら、「しっかりお灸をすえてもらった?」と期待を込めて尋ねてきました。とんでもありません、ほとんど落ち度のない被害者として丁寧に扱ってもらって帰ってきたわけで、気になっていた手持ちランプの暗さも、遠くから十分に認識できる明るさだったことが分かりました。まあ、歩くべきではないところを歩いた、という反省はあるものの、法律的には何の問題もありません。攻め手を失ったのか、交通課で購入したLED、私のは無いの、と責められ、これには少々困惑しました。まあこれからは心配をかけないように、ゆとりを持った日程で歩くようにしたいとは考えています。

No.093:自転車と正面衝突 (10月31日) ページトップへ

 あまりにも気楽で能天気な暮らしに対する警告なのでしょうか、鎖骨骨折で苦しんでいます。自転車との正面衝突、それは前々回の「過信大敵」どころか、「油断大敵」いや「無鉄砲」ともいえる結果でした。

 暗闇の中を自転車のライトらしきものが近づいてきたので、自分の存在を知らせようと手にしたライトを振ったまでは覚えているのですが、気がついたときには救急車のタンカーに乗せられるところでした。気を失っていたようで、GPS記録によるとこの間約25分です。何人かが集まっている様子で話し声が聞こえます。救急車に乗せられて、頭のこぶ、救急隊員曰く「たまごぐらいあるなぁ」、など目に見えるところの応急手当を受け、身元を訊かれ、妻に電話し、救急隊員が事故概要を妻に説明してくれました。妻はさぞかし驚いたことでしょう。サイレンの音をバックに、事故を聞かされたのですから。私は生まれて初めての救急車の中で、いったい何が起きたのか考えましたが、意識がなかったので何も分かりません。

 21歳の男性が乗っていた自転車との正面衝突とのこと、全容はいまだに分からず、いづれ行われる現場検証ではっきりすることでしょう。10月3日、富士山一周100kmの1泊2日歩き旅での1日目、御殿場を出て50kmほど、あと数kmでホテルでした。ホテルは朝霧高原のゴルフ場にあり、だいぶ前から周囲には明かりがほとんど無く街灯も無いので、まだ19時だというのに道は闇の中です。東海道歩き旅で夜は慣れていたものの、これほどの暗さは経験ありません。奈良在住の友人が、夜は暗くて歩けない、といっていたので一応気にはしていたのですが、予備のライトを100均で買ったぐらいでした。もっと強力なライトかチカチカライトを用意すべきでした。

 搬送された富士宮市の病院で、頭はCT検査で問題なかったのですが、痛みのある左肩のレントゲンで鎖骨骨折と診断されました。それに、気を失っているときに路上の異物が喉に入り込んだのか、喉が痛みます。頭を打っているので様子見の入院、左肩と喉の痛みであまり眠れないまま、翌日退院して家に帰りました。土曜日だったので、月曜日を待って近くの総合病院へ。丁度台風が静岡に上陸した時間で、道路がちょっとした川状態となる大雨、弱り目に祟り目です。

写真 我が闘病生活

 頭はMRIで後日診ていただくようお願いして、左鎖骨骨折は固定バンドで骨がくっ付くのを待つこととなったのですが、喉は奥が大きく腫れていて、このまま大きくなると息が出来なくなる、と脅かされ、そのまま入院となりました。抗生物質と消炎剤を1日5時間ほど点滴する、点滴入院です。30年ほど前の痔の手術以来の入院、点滴だけなので気は楽、闘病生活を撮ろうと、カメラ持ってきて、と妻に頼むほどの余裕、もちろんパソコンも。歩けて、パソコン操作さえ出来れば気持ちは元気でいられるようです。腫れが引いて退院するまで5日かかりました。後半3日間は、点滴の合間に家に帰って仕事メールを処理しています。とにかく暇で暇で困ったので。

 ところで医療費、相手の自賠責特約で全て支払うことになっています。それも余裕の一因かも知れません。保険はありがたいものです。保険会社からご丁寧なお見舞いの言葉と、全額支払うとの電話がありました。もちろん相手の両親からも同様の電話が。本人からは一言もありませんが。現場検証のときにとくと顔を見てやります。もっとも相手もそう思っているかもしれません。真っ暗な中を一人で歩いているなんて、いったいどんな年寄りだ、と。自転車から落ちて怪我をしたらしいし。

 骨折して今日で4週間、骨がくっ付く気配はまだありません。年寄は時間がかかるそうです。骨折部分の痛みはもう無いのですが、寝たときに腕が痛みます。寝始めはなんともないのですが、2時間ぐらいすると痛みで目が覚めてしまい、1時間ぐらい起きていて痛みが引くと寝るのですが、また2時間後ぐらいに痛みで目が覚めてしまいます。毎日、もう3週間続いています。左腕を使わないので五十肩状態になっているようです。

 事故の2日前に大学時代の友人たちと飲んだとき、ウォーキング趣味少々やり過ぎ、とやんわり注意されたのですが、真っ暗な中を歩くなど、まさにやり過ぎでした。これからはもう少しゆとりあるウォーキングにしようと考えていますが、性格上それができるかどうか。

追:これを事前に読んだ妻が、反省が足りない、と少々お怒りです。富士山一周も、1泊2日ではなく2泊3日にしろ、と妻は言っていたのに、聞く耳持たぬ、私だったので返す言葉がありません。

No.092:長崎・軍艦島 (09月30日) ページトップへ

 「ここでの暮らし、独身者は必ず脱落する、と言われていました」とのツアーガイドの言葉が印象的でした。長崎港から南西に約19km、縦480m、幅160mほどの小さな細長い島に鉄筋コンクリートの建造物が所狭しと立ち並んでいて、その姿が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれている島でのことです。

 いまは無人島ですが、かつては海底炭鉱の出入口があり、最盛期には5,400人もの人が住んでいました。明治日本の産業革命を推進した最前線現場、地下1000m、気温30℃、湿度95%という過酷な環境での掘削作業、狭い島での暮らし、それは家族という守るべき人がいる者だけが耐えることができたところだったのです。

 長崎旅行を計画したものの、「軍艦島」はあまり関心ありませんでした。ところが、出発数日前の新聞一面ツアー広告に大きな文字で「軍艦島」とあり、これだけアピールしているのだからきっと面白いに違いない、と行くことにしました。インターネットで見ると、数社の「軍艦島上陸ツアー」があるのですが、どこも満員、やはり大人気のようです。やっと予約できたのが旅行2日目午後のツアー、その名も「軍艦島クルーズ株式会社」という社員3人の会社で、小さな高速船を一艇持っています。

軍艦島 長崎・軍艦島<写真をクリックで拡大>

 当日は小雨、港に行くと大勢のツアー客、小さな船にこんなに乗せて大丈夫か、と妻と顔を見合わせましたが、近畿日本ツーリストのツアー客もいて、それならまあ大丈夫か、と二人で乗り込みました。60分の上陸見物を入れて3時間ほどのツアー、近づく島の姿は確かに「軍艦」でした。風が強い日は上陸できないという小さな桟橋に無事停泊、上陸するとそこは一面の瓦礫と崩れかけた建物の廃墟、これだけでもインパクトがあるのですが、ガイドの方の説明でより印象深い見物となりました。日本最古の7階建て高層鉄筋アパートが建ち、学校、病院、商店、映画館、パチンコホール、海水プール、神社などがあり、電力を海底ケーブルで、飲料水を全長6.5kmほどの海底送水管で供給していたそうです。

 痛々しい廃墟となったいま、かつて住んでいた方がツアーで再び訪れることも多いとのことですが、この変わり果てた姿を目の当たりにすると、複雑な思いがこみ上げてくるようで、写真をあまり撮ろうとはしないとのこと。そういう方々みなさんが「一カ所だけ昔と変わらない」と言うのが、炭鉱出入口への階段だそうです。石炭が付着した靴で踏み固められ真っ黒になっています。その黒さが今でも変わらないと。廃墟の中で剥き出しになっている、表が単に黒いだけの階段ですが、過酷で危険な作業から帰ってきた安堵感や喜びの思いが詰まった場所なのでしょう。

 旅行1日目のハウステンボスは、軍艦島とは対照的な美しいオランダの風景、人の暮らしの気配や匂いのない所詮は作り物ではありますが、ハウステンボス歌劇団公演、4時間ノンストップダンス、3Dプロジェクションマッピングと、結構楽しめました。3日目の長崎市内観光では、グラバー邸や大浦天主堂でそれぞれの物語を感じることができてとても有意義でしたし、天主堂前に軒を連ねるお土産屋さんでは試食のカステラをたくさんいただき大満足です。長崎中華街でのちゃんぽんや皿うどん、市内をぶらぶらしながらの、名物おじや、一口餃子、角煮饅頭、一口香という外見はお饅頭、中は空洞というお菓子など、いつもの楽しいB級グルメ旅も健在でした。でも何と言っても2日目の軍艦島が最も印象深く、貴重な体験だった、行ってよかった、とつくづく思っています。

No.091:過信大敵、風邪をひきました (08月31日) ページトップへ

 風邪らしい風邪をひいたのは何年かぶりです。数年前の風邪もそうでしたが、何年も風邪をひかなくなったので油断というか、過信がありました。過信大敵です。

 炎天下で自宅と新宿を往復して32kmほど歩き、汗びっしょりで帰宅したにもかかわらず、寝る前まで着替えをせずに身体が冷え込みました。翌日、喉が少し痛かったのですが、世田谷美術館に出かけ、9kmほど歩き、やはり寝る前まで着替えをせずまた冷え込み、翌々日、咳が出始めていましたが、友人夫妻との昼食に横浜に出かけ、翌々々日の4日目、ついに37度3分の熱が出て本格的な風邪となりました。ひいて当然だったかもしれません。治るのに1週間以上かかりました。

 自分の体力を過信してひどい目にあった、ということです。昼食を一緒にとった友人に言われました、健康のために歩いて健康を害していては意味ないじゃん、と。一言もありません。まあ、そのときのイタリアンはとても美味しかったし、友人夫妻との会話も楽しかったので、無理してよかったという一面もあるにはあったのですが。負け惜しみついでに、世田谷美術館での「ボストン美術館 華麗なるジャポニズム展」もとても充実した展示で、これも行ってよかった、と思いながら帰宅しています。それらの代償が少々大きかったのですが。

 言い訳がましいのですが、世田谷美術館は、招待状をわざわざ送ってくれた友人の美術館勤務日で、私の都合と合致する唯一の日だったので出かけたもので、友人夫妻との昼食は1ヵ月前に約束していたことです。それに、汗をかいた下着を替えなかったのは、夕食後の妻との散歩でまた汗をかくから、ということでした。着替えなさい、と妻はしつこく言っていたのですが。無理をすると風邪をひく、ということで、しばらく風邪をひかなかったのは、歩いて体力がついたから、ではなく、無理する必要のない暮らしになったら、ということなのかもしれません。無理せざるを得なかった現役時代は年に1度は風邪をひいていましたから。

 風邪が治りかけたころ、妻が風邪をひいてしまいました。夜、咳が止まらず、そのうち38度4分もの熱が出てきてかなりの重症です。治るのに1週間以上かかっています。妻がベッドでひたすら休んでいる日々、私はウォーキングを再開し、夕食は外食となりました。妻に食欲が出てきたところで、お寿司や焼き鳥などを買ってきて一緒に夕食としました。

写真 1年半かけていっぱいになったポイントカード。初めてなのでモモに報告。

 おかげで、それまでに貯めていたお店のポイントカードが一杯になり1食分ゲット、夕食後の妻とのウォーキングがないので毎晩ビール、昼歩いてシャワーを浴びた後のビールはまさに至福の味でした。健康でさえあれば、どんな時でも喜びを見いだせる、ということのようです。健康第一、過信大敵、これをしっかり心に刻み込みました。

No.090:我家の貴重な野菜直売畑 (07月31日) ページトップへ

 大好きな枝豆、このところ毎日食べています。ご近所、といっても1.5kmほど歩くのですが、そこに畑があって65歳前後のおやじさんが一人で野菜を作っていて、お願いすればその場で採ってくれます。おやじさんが畑仕事をしているときしか頼めないのが難点でしたが、最近は朝いるときが多いのでせっせと枝豆やトマト、キュウリ、ナスなどを買って帰る機会が増えました。

 美味しい枝豆です。採れたて新鮮、ということもあるのでしょうが、飲み屋や食堂で出てくる味のない枝豆とは大違い、野菜の旨みがあるというか、甘味があります。昨年、兄の一家が来たときに出したら、美味しい美味しいと大好評、食いしん坊の兄貴を喜ばすことができて鼻高々でした。先日事務所に持って行ったときも、自他ともに認めるグルメの同僚が、枝豆が好きで時々買うけどこんなに立派で美味しいのはなかなかない、と嬉しそうでした。枝豆ひとつでみんなが喜ぶのであれば、往復3kmほどの道のりもなんのそのです。

写真 この日、枝豆はわずか2うねとなりました。

 畑は、40から50戸ほどのマンションは建つであろう1,500㎡ほどの広さで、枝豆エリアは6分の1ほどでしょうか。妻と二人での夕食後の散歩のときにも通るのですが、たくさんあった枝豆が日々どんどん抜かれていきます。おやじさんをつかまえることができた朝に訊いてみると、1人3束とか6束とか買っていく人もいるし、15束も頼まれるときもある、町会で使うらしい、とやはり大好評なのです。

 おやじさんと話をしていると、ご近所のおばさん方が集まってきます。逆に、おばさん方がいるので、お!今日はおやじさんがいるな、と遠くから分かるときもあります。なかには、やって来るなりいきなり畑の中に入って行って、一周してから「今日はナスのいいのがないわね」などと、まるで自分の畑のように振舞う人もいます。おやじさんの家は畑に隣接しているので、家に押しかけて行って、おやじさんを畑に引っ張り出して買っていく人もいます。まあ、たまたま居合わせた私はラッキーでしたが。まだ小さいネギを、自宅に植えて大きくするから、と半ば強引に引っこ抜いていく人もいます。まるでご近所共有畑のよう、おやじさんの気のいいというか、鷹揚な人柄ゆえなのでしょう。古くからの農家で、アパート経営などもやっていて、趣味とまでは言わないまでも、あまり商売っ気はありません。

 先日、珍しく若い男性が買っていました。子どもがいるので安心できる野菜を食べさせてあげたくて時々買いに来る、とのこと。おやじさんの人柄からも間違いなく安心野菜だし、ご近所がいつも注目していて、そろそろネギが食べごろね、と言われるような畑ですから下手なことはできません。安心、美味しい、安い、と三拍子そろった、我家の貴重な直売畑です。夜、妻との散歩で通るたびに野菜のでき具合、減り具合を二人でチェックしています。まるで我家の畑のように、キュウリが採りごろだね、枝豆が大きくなってきたね、とか言いながら。

 おやじさんは13代目、江戸時代から続いている農家だそうです。息子さんたちは会社員となり継ぐ人はいない様子、そうであれば、おやじさんにいつまでも元気で頑張ってほしいと願うばかりです。我家の豊かな食卓のためにも。

No.089:苦労が多かった旅 (06月30日) ページトップへ

写真 バスからの風景。オリーブ畑の先には禿山が

 スペインに旅行してきました。6月、ベストシーズンです。空に広がる濃い青のスパニッシュブルーと地上一面に咲き誇るひまわりが印象に残った旅でした。紫外線は日本の4倍だとか。肌を刺すような強い日差しですが、日陰に入ると涼しく、空気が乾燥しているのがよく分かります。雨がほとんど降らないとのことで、土地は痩せています。水を引くことができたところだけが緑となり、オリーブ、オレンジ、ブドウなどが栽培され、その向こうの山は剥き出しの岩肌、そんな風景が続きました。

 羽田からパリ乗継でバルセロナへ、帰りはマドリッドからパリ乗継で羽田という、10日間のツアー旅行でした。バルセロナからマドリッドまでは、各地を観光しながらのバス旅行、5日間で1,960kmほど走りました。サクラダファミリアのあるバルセロナから水道橋のタラゴナ、ラ・ロンハという15世紀の商品取引所のあるバレンシア、アルハンブラ宮殿のグラナダ、白い村ミハス、カテドラルのあるセビージャ、巨大モスクだったメスキータがあるコルドバ、白い風車のラ・マンチャ地方、そしてプラド美術館などのマドリッドです。

 サクラダファミリアやアルハンブラ宮殿は見応えがありましたが、自由時間に妻と二人で出かけて見た、モンセラットの黒いマリア様の優しげな顔、セゴビアのローマ時代の巨大な水道橋の迫力ある造形美、トレドの古い街並みの高台からの素晴らしい眺望などがより強く印象に残っています。旅は手作りの方が思い出に残るということでしょうか。その分苦労も多かったのですが、だからこそ強い思い出となったのかもしれません。

 苦労や困難、つまりトラブルはトラベル、旅の語源だそうです。今回見舞われた多くのトラブル、少々長いのですが、個人的な記録として以下にまとめてみました。興味ある方はお読みください。

 

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 最初のトラブルは、日本を飛び立つ前です。羽田へは川崎でJRから京急に乗換え、少し歩きます。雨なので地下街を通らざるを得なかったのですが、早朝のためエスカレータが止まっていました。20キロ以上あるスーツケースを持って階段を下りて上がって、京急のホームに着いたときには電車が出た後でした。自宅から川崎へは、早めの4時55分発始発に乗ったので、集合時間羽田6時5分には間に合っています。

 飛行機では、羽田を発った直後から大揺れ、主翼の先がしなるほどです。それが1時間近くも続きました。数えきれないほど飛行機に乗っていますが、これほど大きくかつ長い揺れは初めてです。妻は酔ってしまい、着陸したときに乗務員から、空港ドクターに行きますか、と言われるほどの憔悴ぶりでした。その後2日ほどはほとんど食べられない状況ではありましたが、観光はしっかり楽しみました。せっかくのスペイン、飛行機酔いなどに負けてはいられません。

 ツアー旅行なので添乗員さんと一緒のときはトラブルらしいトラブルは無く、自由時間のときにヒヤヒヤする場面がいろいろとありました。

 最初はバルセロナからモンセラットという、山の上にある教会に二人で行ったときです。午前中市内観光で、昼食後に自由行動なのですが、解散が遅れて15時となり乗車予定の電車まで36分となってしまいました。その時間で、解散場所から地下鉄に乗り、予定電車に乗換えなければなりません。地下鉄も電車も初めて、路上の地下鉄出入口を探すのにうろうろ、切符購入にもたもた、地下鉄乗車ホーム探しにおたおた、地上に出て乗換電車駅を探すのにまたうろうろ、切符購入にのろのろ、乗車電車確認にあたふた、ととにかく冷や汗の連続となりました。

 特に焦ったのは、モンセラット行切符の購入です。券売機の操作が分かりません。発車まで5分ほどしかなく、慌てて駅員とおぼしき人に訊いたのですが、今から行ってもすぐ帰りの終電となり観光できない、と操作を説明してくれません。日本で調べた終電時刻であれば大丈夫、と説明するともう一人の駅員を呼んで相談しています。発車まで数分となり、1本遅れで行っても観光時間がないし、モンセラット行をあきらめなくてはいけないのか、などと考えていると、その駅員が券売機の操作を素早くやってくれました。電車に無事乗り込んでホッと一息です。

 モンセラットからの帰りは幸運でした。17時8分に着いて、もう遅いためか観光客も少なく、メインの黒いマリア像を短時間で拝観することができ、帰りは終電1本前の18時15分に乗れました。バルセロナ市内からホテル送迎バスが20時に出ますが、バス発車場所の地下鉄駅到着が19時59分、1分前です。ツアー客が遅れて、バス発車が遅れることを願いつつ地下鉄を出ると、広場の反対側、200メートルほど先にバスが何台か止まっています。とにかく二人で走りました。これに乗らないと、ホテル最寄駅から1キロほど歩くこととなり、暗くもなるので犯罪に巻き込まれる心配があったのです。止まっているバスの中に送迎バスを見つけたときは、思わず、ヤッタという気持ちでした。

 マドリッドからセゴビアという、ローマ時代の大きな水道橋のある街に行ったときも大変でした。このときも午後の自由時間、昼食が14時に終わりすぐに地下鉄で新幹線駅チャマルティンに向かいました。予定新幹線は15時発、ところが切符売場に行くと長蛇の列です。並んでいたら間に合いそうもないので、券売機で何とか買おうとしたのですが、いろいろ試しても15時発の便が出てきません。そうこうしているうちに発車時刻が近づき、慌てて警備員に相談し、教えてくれたサービスカウンターに行くと、切符購入の列に並ぶしかない、とのこと、しかたなく並んだときにはもう発車10分前でした。結局予定よりも40分ほど遅い新幹線となりました。30分ほど並んで買えたので、最初から並んでいれば間に合ったはず、急がば回れ、券売機などに固執せず、とにかく訊きまくって「並ぶしかない」と早く気が付くべきでした。反省。

 これに懲りて、セゴビアからの帰りに、世界遺産の街トレドへの翌日の切符を買うことにしました。20時50分着でチャマルティン駅に戻り切符売場に行くと閑散としています。これならすぐ買えそうだと喜んだのですが、受付番号発行機のボタンを押しても番号レシートが出てきません。実は20時で受付が終了しており、番号レシートを持った、順番待ちの人だけが残っていたのです。うろうろしていると、若いカップルが、どうしたのですか、と親切に尋ねてくれました。明日の切符を買いたい、と説明すると、番号レシートが2枚あるから1枚あげる、と。おかげで切符を買うことができました。旅先で受ける親切のありがたさ、嬉しさを改めてかみしめたのです。

 トレド観光では、往きの地下鉄や新幹線、それにトレドでのバスなどはスムース、だいぶ慣れてきた感じでした。街はキリスト聖体祭のパレードで大賑わい、お祭りで大聖堂の見物もできそうもなく、予定の新幹線16時18分発よりも1本早く帰ろうと、14時40分発のバスに乗って新幹線駅に行こうとしました。ところが、いくら待ってもバスが来ません。同じ新幹線便のチケットを持ったスペイン人カップルが、このお祭りで30分ほど遅れるようだ、とか言ってバス待ちをしているので、我々も一緒に待っていました。でも来ません。そのうち、もう来ないらしい、ということになり慌ててトレド駅に向かって歩き始めたのです。駅までの距離、時間が分からず不安でしたが、意外と近く20分ほど、15時30分には到着し、教会のような素敵な駅舎でゆっくりすることができました。

 最後のトラブルは羽田で。出てきたスーツケースのキャスターが1つすっぽり取れて無くなっていました。おかげで3つのキャスターで重いスーツケースを運ぶはめになりました。でも、より丈夫なキャスターに保険で交換できそうなので、かえって良かったのかもしれません。

No.088:チャレンジの東海道歩き旅 (05月31日) ページトップへ

 東海道歩き旅、5回目の今年はお伊勢参り、463キロを9日で歩いています。今回はいくつかの新たなチャレンジがありました。1つは、初日に75キロ歩いたこと、自宅から箱根湯本までです。2つ目は、6日間連続で1日平均55キロ歩いたこと、雨で1日休んだ遅れを取り戻すためでもありました。3つ目は、途中2時間の仮眠をはさんでの96キロ歩行、112キロ歩行の予定でしたが、途中で雨となったので96キロとなりました。4つ目は、全体で1日平均50キロ超え、初めてです。

 これらは、足腰が丈夫なうちに試しておきたかったことです。初日の75キロ、休憩時間などを除いた、歩く時間だけで17時間ほど必要なので、慎重を期して、途中での仮眠を考え、前日夜7時前に自宅を出ました。でも仮眠の必要はなく、朝7時ごろ朝食をとったときに1時間ほど休憩しただけで、午後3時前に箱根湯本に到着しています。宿が、急坂さらに急階段の上にあったので、最後の最後で疲れ切ってしまった感がありますが。

 6日連続での1日平均55キロ、連日でそれだけ歩きとおせるのか、それに、疲れてペースが遅くなれば歩くだけで14時間から16時間、睡眠8時間としたら、食事、風呂、洗濯はおろかトイレに行く時間もなくなるのではないか、との不安はありました。GPS記録によると、6日間の1日の平均歩速は、初日が4.6km/h、2日目以降4.5km/h、4.3km/h、4.3km/h、4.3km/h、4.1km/hで、55キロだとすると歩いた時間は13時間ほどとなり、余裕はないものの睡眠その他を何とかこなすことができています。ただ、6日目はかなりペースが落ち、歩いていて体がしだいに斜めになってくるほどの疲れ様、翌日の伊勢神宮までの25キロでも同様の歩き方で、歩速も同じ4.1km/hでした。まあ、6日連続は無理、せいぜい3,4日連続、ということのようです。

 3つ目のチャレンジは、2時間の仮眠をはさんでの96キロ歩行、6日連続の途中、翌日午後から雨との予報だったので、58キロ歩いて夜10時頃知立のホテルに到着し、2時間ほど仮眠してから出発しました。雨が降る前に次の54キロを歩いてしまおう、と考えたのです。合計で112キロでしたが、幸いというか、38キロ歩いたところで雨が降り出し雨宿りとなったので、仮眠をはさんで96キロ歩行となりました。さすがに、雨宿り直前は疲れと眠気とで少し辛い思いでした。雨が降り出したところが丁度長島温泉だったので、温泉に入り、仮眠して、食事をゆっくりとって、4時間ほどの雨宿りで元気を取り戻し、小雨になってから出て、午後6時半ごろ予定の四日市のホテルに到着しています。

写真 ひたすら歩く中、ときには美しい景色に立ち止まります。(松阪の手前で)

 歩き旅全体で1日平均51キロ、昨年までは1日平均45キロ程度で、しかも、それまでに歩いた45日のうち1日50キロを超えた日は7日だけでしたから、これもひとつのチャレンジでした。まあ、東海道歩き旅自体が、何歳まで続けられるかのチャレンジです。当面の目標は70歳まで、あと3回ですが、その後も続けたいとは思うものの、どうなるかは分かりません。いまは、あと3回がとても楽しみです。

 いくつかのチャレンジ、その間にいくつかの出会いもありました。2時間の仮眠をとってホテルを出るときに、真夜中にリュックを背に年寄が出て行くのを見て哀れに思ったのか、ホテルのおばちゃんが黒砂糖入の飴玉を3つくれました。おばちゃんの暖かい気持ちがこもっていたのか、とても美味しい飴玉でした。また浜松辺りを歩いているとき、隣を歩いていたおばちゃんに話しかけられたこともあります。ここは旧東海道なの?、どこまで行くの?、え!今から新所原まで、もう豊橋じゃないの!、そこからどこかへ行くの?、え!お伊勢さん!三重じゃないの!立派だね!、と。ちょっと嬉しい気分でした。浜名湖手前の住宅街では、軒下の水道から水をもらった際、え!今から新所原まで?今日中に行けるの?、と。気の毒に思ったのか、大きな甘夏を2つくれました。この甘夏も美味しかった。みんなおばちゃんでしたが、ありがたいことです。何かと充実した東海道歩き旅でした。

 お伊勢参りの次の週に会社の同期会が松本で開催されました。若い頃にスキー旅行やテニス旅行を楽しんだ仲間との毎年の宴、みんなが還暦となるのを待ってから始めて、今回で8回目、毎年楽しみな宴です。

No.087:今年の「桜を見る会」 (04月30日) ページトップへ

 安倍総理大臣が主催する新宿御苑での「桜を見る会」、朝8時半開場なので軽く食べて出かけ、会場の軽食をしっかりいただきます。その後に見物場所を確保、良い場所を取ろうと昨年よりも早めに出かけました。

 それでも入口はもうたくさんの人です。招待状を見せて妻と二人で入ろうとすると私たちだけ別の受付に連れていかれ、総理との懇談がございますのでご案内いたします、と告げられました。招待を受けたのは我が事務所のボスで我々ではないので少々慌て、いえ、代理ですので、と言ったのですが聞いてくれません。どうしよう、このままでは朝食にありつけない、などとしょうもないことも頭に浮かびます。でも幸いなことになかなか行こうとしません。そこで、分かってますから(ご案内不要です)、と逃げ出し、大勢の流れの中にまぎれ込みました。

 今年は八重桜が見事な満開でとても綺麗、雲一つない青空と御苑の芝生や木々の緑と相まって、まさに「桜を見る会」日和です。早速、焼き鳥や巻き寿司をいただき、安倍総理が挨拶されるメイン会場前に陣取りました。昨年は、メイン会場につながる通路の一つだったので、全ての有名人を見ることができませんでした。今年は、メイン会場で総理と懇談する全ての有名人をゆっくり観賞できる、ひょっとしたら「あまちゃん」や「ごちそうさん」の面々が来るかもしれない、そんな期待をしたのです。

複式簿記はじめました 安倍総理のご挨拶

 ところがメイン会場に集まったのは政治家ばかり、芸能人は別のところで、いま輝いている人たちを見たい、という期待は見事に外れました。まあ、後でニュースを見る限りでは、どうしても見たかった芸能人はいなかった、ということではありますが、残念です。その代り、いま勢いのある政治家をたくさん見ています。みんなが盛んに握手を求めていました。日本を背負っている方々ですから、こちらも輝いてはいるのですが、ときどき事務所に来られる方も多く、感激はあまりありません。

 もの足りないので、新たにオープンした大きな温室を見物することに、その後御苑を出ました。スタバで休憩し映画館へ、TV番組を映画化した「猫侍」を観ることに。TVとは違うストーリーですが、同じようにコミカルな時代劇、映画も久しぶりで、楽しむことができました。「桜を見る会」後に飲まず食わずで帰宅した昨年とは違い、スタバに行き、映画を観て帰った今年は丸1日のお楽しみとなったのです。二人とも少し疲れましたが。

 後日、友人との飲み会で「桜を見る会」が話題となり、一人が、「安倍晋三 (自民党)総裁選決起集会」(2012年9月)に参加し安倍さんと握手までしたのにの招待状が来なかった、とぼやきました。まあボヤキではなく、ボケかもしれませんが。こんなところでも楽しい話題を提供してくれる「桜を見る会」、来年もチャンスがあればぜひ行ってみたいものです。

No.086:複式簿記はじめました (03月31日) ページトップへ

 これは白色申告です、と言われてびっくりしました。生れて初めて行った税務署の確定申告相談でのことです。白色申告など知らず、唯一知っていた青色申告だとばかり勝手に思い込んでいました。知識の無さに唖然とするばかりです。

 いままで全て妻任せでしたから当然かもしれませんが。そんな状況で、自宅を貸して得ている不動産所得関連で訊きたいことがあり出かけたのです。結果、壁紙の張替などで経費が掛かった昨年分はさほどではないのですが、今年分からはそこそこの税額となります。納税は国民の義務、この歳で額が増えるのはありがたいこと、なのかもしれませんが、でも出て行くお金は少ないほうが嬉しいに決まっています。

 個人事業主となって青色申告すれば特別控除があり、不動産所得からも控除されるので税金が少なくなる、と教えてくれたのは40年以上も付き合っている、かつての会社の同僚でした。自由が丘のフレンチレストランで夫婦4人で昼食を楽しんでいたときのことです。同じサラリーマンだった彼が税に詳しいなんて、初めて知りました。しかも簿記2級だとのこと、長い付き合いですが、考えてみたら税金の話などお互いしたことがなかったかもしれません。昔から何かと頼りになる友人でしたが、いまでもこうして貴重な助言をしてくれる、持つべきものは友です。

複式簿記はじめました インターネットは多くを教えてくれます

 そこで早速「青色申告承認申請書」と「開業届」を税務署に提出しました。これで長年の白色申告を卒業して、来年からは晴れて青色申告です。開業したのは得意のインターネット関連、同じ町の高校のクラブから頼まれているホームページ制作を個人事業として申請しました。まあ、最終的に事業として認めてもらえるか否かの不安はあるのですが、とりあえず開業です。問題は「複式簿記」、これが必須となります。小遣帳のような単式簿記も付けたことがない者がいきなり複式簿記です。でも意欲満々、お金がからむと強い、インターネットで勉強し、無料簿記ソフトをダウンロードして、とにかく記帳をスタートしました。

 簿記もやり始めると結構面白い。分からないことの答えをインターネットで見つけたり、自分自身で考えついたりしたときには嬉しいものです。まだまだ見よう見まねで表面的な理解でしかありませんが、先人の多くの知恵が詰まっている、奥深そうな複式簿記ですからやりがいがあります。もう50年来になろうという別の友人が公認会計士目ざして勉強していますが、何が面白くて会計なんか、と冷ややかに見ていましたが、そのうち彼の気持ちが分かるかもしれません。

 この歳で新しいことにチャレンジする、それは楽しいこと、欲がらみとはいえ、いや、欲がらみだからこそ頑張れる、面白い、ということでしょう。趣味がひとつ増えた気分です。

No.085:男の料理教室 (02月28日) ページトップへ

 料理らしい料理は小学生のとき授業でカレーライスを作って以来です。男の料理教室、4人が1組となり簡単料理を勉強します。先生の説明、実演が終わると、私以外の3人は材料や包丁を手にテキパキと下ごしらえを始めました。

 後で分かったのですが、3人ともベテランなのです。このままでは勉強にならない、と一瞬焦る私に、大根を剥いてください、と一人が言ってくれました。これでやっと仲間入りできた思い、ぎこちない手つきで大根の皮を剥いていると、じょうずですね、と嬉しい言葉、以後、自分でやれそうなことを見つけては作業し、料理を楽しく勉強できました。

 メインメニューは「大根と鶏団子のあっさりスープ煮」、とても美味しくできて、といってもベテラン3人のおかげですが、同時に作った「大根と人参のきんぴら」「昆布茶を使った浅漬」「生姜とちりめんじゃこの炊き込みご飯」などで、4人で和気あいあいと楽しくいただき、満足な初料理教室となりました。主催は「エリアマネジメント」という、私が住む地域のコミュニティ活動の核となっているNPO法人で、参加者は16名、ほとんどが定年退職した人たちでした。私のグループは全員が退職組、1人は81歳で一人暮らし、8年前に奥様を亡くされてから自炊生活、3度3度の食事をちゃんと作っていて、買物などで毎日外出している、とてもお元気で、見た目も動作も齢よりもずっと若々しい方です。あと2人は私と同じぐらいの年代で、1人は、家族全員の食事やお弁当を毎日作っている、もう1人は、1年間のミラノ単身赴任のときに自炊をして料理を覚えた、とみなさんベテランでした。

 食事後はアルコールが入っての懇親会、81歳の男性に、奥様が亡くなられてお一人住まいはお寂しいでしょう、と話しかけると、8年も前だし、それに3度3度の食事を作って食べるのが結構大変で、寂しいなどとは言ってられません、とのことでした。良い食材を求めて近所の商店街をぶらぶらしている、とのこと、こうしてやることがあるから元気なのだ、と再確認しています。そんな人たちと知り合い、刺激を受ける、「男の料理教室」もいいものです。

 この教室は、ポストに入ってきたチラシで知り、申込みました。久しぶりに会った大学時代の友人から、仕事を辞めてからは家族全員の食事を作っている、と聞いたばかりだったので受講する気になったのです。妻は「みんなの足手まといにならないように」と少し心配気味、事務所のボスは何故か大喜び、事務所では作ってくれる昼食を食べるだけで、料理はできないし皿洗いはやらないので、これが少しは改善されるかもしれない、という期待からかもしれません。妻の見解は「あなたの失敗談を期待してるんじゃないの」というもの、それもうなずけます、自分でも不器用だと思っているので。

男の料理教室 自宅で復習

 料理教室の翌日、家で復習、全部を自分でやってみました。ほとんどの材料はすでにあるので、買物は鶏の挽肉だけ、妻お勧めのスーパーではすでに売り切れ、別のスーパーでなんとか買うことができました。午後4時前だったのですが、前日が45年ぶりの大雪で、買物ができなかった人たちが、晴れたこの日に買いあさったからでしょうか。スーパー5店舗が200m範囲内にある自宅はやはり便利です。4時15分から料理をスタートし、5時半ごろ終了、何事もなく順調でした。というのも、妻がいろいろとアドバイスしてくれて、やはりベテランは違います。反省点はいろいろとあるものの、まあまあ美味しくいただきました。

 料理教室の翌週、東京でまた大雪となった日に毎年恒例となったガーラ湯沢日帰りスキーに出かけました。スキー場も当然雪でしたが、さほどの雪ではなく、風もないのでまあまあのコンディションです。午後から3時間、トイレ休憩もなしでみっちり滑りました。毎年一緒に行く大学同期の2人は休憩しながら楽しむスキーで、今年は2kmの下山コースではなくリフトで降りる、とやや疲れ気味でした。いつものように、温泉で体を休めて、新幹線で冷えたビールを楽しみながら3人で帰っています。

 ところがこの日、大雪で交通機関が乱れ、自宅最寄駅到着は3人とも遅れた上に、友人2人は駅からの歩きとなりました。1人は雪の中を4kmほど歩くこととなったのです。駅に直結したマンションに住む私は、幸い雪道を歩くことなく帰宅できました。しかも、雪で横須賀線が止まってしまいましたが、東急線で迂回して自宅へ、なにしろ13路線も利用できる駅なのでこんなときも便利です。今月は、我がマンションの便利さを何かと実感することとなりました。

No.084:正月台湾旅行 (01月31日) ページトップへ

 美しい初日の出に今年の健康を祈願しました。羽田空港、搭乗ゲートを通過して機体ドアに向かう途中の大きな窓から拝んだ日の出、昨年は雲で隠れて見ることができませんでした。幸先のよい正月台湾旅行です。今年は事務所のボスがバリ島へ、それからの台湾なので一緒の夕食は1月3日のみ、このため1月1日、2日と夜遅くまで気ままな外出を楽しむことができます。

 台北のホテルに到着したのは午前11時ごろ、年末からこのホテルに滞在している京都市宇治在住のご夫妻とともに圓山飯店の圓苑へ、ここはライスケーキが美味しいところ、美味台湾が早速始まりました。その後4人で迪化街へ、乾物屋がどこまでも続き、たくさんの人でいつも賑わっています。ここで昔懐かしいポン菓子作りに出会い、あの爆発の瞬間を、子どものころに味わったトキメキ感を思い出しながら見物しました。台湾では多くのところで昔懐かしい日本を見たり感じたりすることができます。夕食は極品軒というところでの上海料理、柔らかい豚の角煮が絶品でした。

正月台湾旅行 十分駅でランタンを揚げる

 2日は前日と同じ4人で十分という町へ、江ノ電と観光提携している平渓線という単線でのんびり走ります。駅では、ランタンという小さな熱気球に願いを書き込み空高く飛ばしました。願いは、今年80歳の傘寿となる事務所のボスの更なる長寿、それで私も長く働ける、という魂胆です。帰りに九ふん(にんべんに分という漢字)に立ち寄り、明りが灯った「千と千尋の神隠し」の町の情緒ある夜景を楽しみました。ボスとの夕食もいいのですが、こうして夜の観光を楽しめるのもいいものです。

 人が多くて帰りのタクシーがなかなか捕まらなかったのですが、1時間ほどかかる台北市内まで、ということで何とか確保できました。夕食は江浙(上海)料理の秀蘭、最もお気に入りのお店の一つです。白菜獅子頭鍋をいただきましたが、ボスと一緒のときは大きな鍋なのですが、4人なので小さな鍋でちょっと迫力不足でした。でも、旨味をたっぷりと吸い込んだ柔らかい白菜と大きな豚肉団子はやはり最高です。

 3日は陶器の街、鶯歌陶瓷老街へ、またまた同じメンバー4人で。もうすっかり意気投合し、楽しい街歩き仲間となりました。ここにある陶瓷博物館は地上3階、地下2階のモダンで立派な建物、展示内容も充実しており、しかも嬉しいことに入場無料、日本語ガイド端末の無料貸出まであります。台湾の陶器は日本統治時代に進歩した、などと紹介されています。昔の夜市で使われていたという口の大きな丼では、見た目たくさん入るように見えるが、実はあまり入らない、という説明がありました。日本語の解説で当時のイメージが広がり、とても楽しめます。

 夕食はいよいよボスからのご馳走、今回はアンバサダーホテルでの北京ダック、丸々と太った2羽を11人でいただくという贅沢ぶりでした。ここは、司馬遼太郎さんが「台湾紀行」で老台北と親しみを込めて呼んだ蔡焜燦(さい こんさん)さんご自慢の北京ダックのお店です。中国嫌いの蔡さんは台北ダックと言い直すらしいのですが。ホテルの料理は専門店に比べるとやや落ちる、というのがボスの感想でしたが、確かに昨年ご馳走になった北京ダックほどの味ではなかったものの、美味しい部類に入ることは間違いありませんでした。

 4日は帰国日、宇治のご夫妻は午前中の便で関空へ帰られたので、我々は2人で龍山寺へ、人気の胡椒餅を食べました。狭い路地にある店で、今まで見つけることができなかったのですが、今回も、ダメだからもう帰ろう、と私が言った直後に妻が見つけました。私のGPSよりも、妻の勘の方が優れていたようです。30分後に出来上がる、とのことだったので、龍山寺周辺をぶらぶらして、出来立ての熱々をいただきました。胡椒が適度にきいた美味しい肉まんです。台湾では、店頭や屋台でいろいろなものを売っていますが、どれも美味しく、外れはあまりありません。

 午後からは買物をして、夕方にホテルで荷物を受け取って空港へ、ボスからの預かり荷物を含めて5個、当然タクシーという妻の主張を退けて電車としました。ホテルから駅まで600mほど、4つの荷物を抱えた姿を写真に撮ってもらい、根性だね、と妻から褒められています。帰国してからボスに、空港には電車で、と伝えると、とても信じられない、との反応でした。歩ける以上は当然だと思うのですが、価値観の違いでしょうか、体力の違いでしょうか。今年も元気に過ごせそうです。