ドイツのクリスマスマーケットを楽しんできました。クリスマスシーズンの活気ある街の雰囲気だけでも楽しいのですが、広場などにできるクリスマスマーケットの屋台での可愛い工芸品や暖かい食べもの飲みもの、そこに集まってくる多くの人びとの明るい表情が旅の楽しさを何倍にもしてくれるのです。
アメリカのような家々のイルミネーションといった派手さはないものの、中世のたたずまいをみせている建造物がならぶ街並みなどからは、昔からの暮らしに根付いた伝統的で落ち着いたクリスマスが感じられます。
世界一有名といわれるニュルンベルクのクリスマスマーケットも見物しました。この都市は15年前に仕事で訪問し、その美しい街並みに感動したところです。今回、その感動はあまりありません。この15年間で、ヨーロッパの多くの美しい町々を訪問したためかもしれません。ただ、再びここにきたという感動にもにたものがありました。ここへの出張が、その後のアメリカ駐在を決定づけたと考えているからです。あのとき、夏休み直前の海外出張だったので、仕事のあとの夏休みを妻とともにロンドンで楽しみました。それはかなり大胆な行動だったようで、夫婦ともに海外駐在の適正ありとみられたようです。その後のアメリカ駐在によって多くのことを経験し人生の幅が広がり、しかも、このように二人だけの海外旅行が楽しめるまでに海外慣れし、定年後の旅行の選択範囲も広がりました。まさに人生のターニングポイントとなったともいえるニュルンベルク出張だったのです。
今回は、フランクフルト、ケルン、ニュルンベルク、ヴュルツブルク、ハイデルベルグ、バンベルクのクリスマスマーケットを見物しました。ニュルンベルクの2泊以外はフランクフルトからの日帰り旅行で、移動はすべて電車です。二人だけの、自分たちのペースでの気楽な旅となり、たまたま通りかかった雑貨屋をゆっくり見てまわる時間のとれる、いままでのツアー旅行とは一味違う楽しさがありました。こんな旅であればこれからも、という想いもあって旅行中にスーツケースを購入しました。頑丈そうな金属製で、10年以上は使えそうです。15年前と同様に、ニュルンベルクへの旅がこれからの15年間の新たな出発点となるのかもしれません。
ニコンの最新コンパクトデジタルカメラCOOLPIX S51cを入手しました。これがなかなか優れもので、その優れぶりをニコンのホームページに萩原稔レポートとして掲載します。このため、いまはつねに持ち歩き写真を撮りまくっています。モデルとなるわが家のお犬様モモや、友人、仲間は迷惑していることでしょう。
散歩でも立ち止まることが多くなり、周囲から見た変なおじさんぶりがエスカレートしています。その結果、カメラマンの福田文昭(ふくだ ふみあき)氏が「マスコミの学校」で強く勧めていた「いつもカメラを持ち歩く」ことの大切さ、楽しさがあらためて理解できた気がします。ズボンのポケットに入れて、歩いても、座っても異物感のない大きさ、重さのこのカメラであればこそ実現した、私の新たな楽しみです。
入手して最初に撮ったのはわが家のお犬様モモです。ズーム、しかもレンズの飛び出さないスマートなタイプ、を使って少し離れたところから撮ります。あまり近くから撮ろうとするとすぐ寄ってきてしまうので写真にならないのです。散歩の写真もズームで、しかもアングルを工夫している余裕がないので、撮ったあとに欲しいアングルでトリミングします。このトリミングもカメラだけでできるのが嬉しい機能です。5年前に買った小型デジカメとは便利さで隔世の感があります。まあ進歩の早いデジカメであれば当然なのかもしれませんが、わたしにとってはとても新鮮な体験です。
散歩していて、川のほとりにある小さな木の優しげな紅葉が気にいりシャッターをきりました。2週間後に行ったときには、すでに色あせ、多くの葉は落ちていて、あのときに撮っておいてよかったと、ポケットにいつも入れておけるありがたさを実感したのです。写真の左が最初に見たとき、右がその2週間後で、最初の出会いが右写真の、紅葉の美しさを失った時期であれば撮らなかったでしょう。カメラに慣れてきた右の写真のほうが、接写とズームを組み合わせて撮る工夫はできているのですが、気持ちは乗っていません。
このカメラには、カメラ単体でインターネットとつながるという特徴があって、このことが「撮る」意欲を盛り上げてくれます。萩原稔レポートではそのあたりを書こうと考えていますので、興味のあるかたはぜひご覧ください。いまのところ、最も気にいった、手ばなせないわたしのオモチャです。
わが家の必需品、それはインターネットです。とても重宝しています。 DVDレコーダーを、ネット情報をもとに、安い家電量販店よりもさらに3割以上安く買いました。 クリスマスシーズンのドイツを旅行しようとネットでパッケージツアーを調べましたがコースや滞在日数が気にいらないので、飛行機とホテルをそれぞれネット予約しました。 カスタムメイドなので割高を覚悟していましたが、激安パッケージツアーよりもさらに安いのです。
自分の気にいった場所と日程で安くいけるのであれば、今後はこの手にかぎります。 ちなみに、旅行を企画・提案した妻がすべてを手配しています。インターネットは夫婦ふたりの必須アイテムとなりつつあるのです。 私の在宅時間がふえたので、各自のパソコンをはさんでふたりで向かい合うことも多くなりました。静かで平穏なひとときです。 私の画面は、読書やウォーキングに向けての情報収集や自作ホームページでの情報発信といった趣味関連が主ですが、 妻の画面は、株売買、銀行手続きなどといった実用的なものが主となっています。 安いものを探す道具、趣味や実用の道具としてインターネットを活用しているのです。
最近、読む書籍の範囲が広がり、いままで知らなかったことがらや著者に出合い、何か人生の幅が広がったおもいがしています。 お気に入りの著者に偏りがちだった書店での書籍選びから、ネットでの書籍選びに変えたのです。 同じ選択時間であれば、選択範囲は飛躍的に拡大し、未知の内容や著者にたどり着くことができます。 図書館のネット予約を使って、気楽に借り出しができることも大きく貢献しています。
ウォーキングでも、何気ない風景が価値ある風景となり、楽しさが倍増しています。 現代、明治、江戸の地図を重ねることができるインターネットページを見つけてからは、古い時代を想像し、感じながらの歩きとなったからです。 残念ながらそのページは閉鎖されたため、同様機能のソフトを購入しました。 歩いた距離を測ったり、各場所のいわれや歴史を知るのにもインターネットが威力を発揮します。 また、このホームページの定期更新は、ともするとだらけがちな自分を律する道具となり、暮らしのリズムを保つ助けともなっているのです。 読んでくれる人がたとえ少なくても、「読まれている」というおもいが緊張感とやる気を与えてくれます。自分の想いや印象を整理するよい機会でもあるのです。
インターネットには、100人いれば100通りの活用法があり、そのなかには犯罪や自殺といった物騒な活用もあって、使う人の気持や姿勢があらわれます。 私の場合、定年後の暮らしを少しでも豊かなものにしたいという想いで使っていますが、いまのところは楽しく使っており、うまく活用できているのでしょう。 しょせんは道具ですから、振り回されることなく、錆びさせることもなく、うまくつきあっていきたいものです。
仕事が閑散期に入って暇となり、読書の時間が増えました。 繁忙期になれば少しは忙しい生活にもどるので、いまは仕事が完全になくなる将来の疑似体験期間といえそうです。 だらだらした張りのない生活を想像していましたが、そうでもなさそうです。
「のんびり」はしていますが、「だらだら」はしていません。読書とウォーキングで一応はやりたいことがあるからでしょうか。 「張りのなさ」はある程度あるようです。何しろ膨大な時間をかけてきた仕事がなくなってしまうのですから。 予想外だったのは気持ちの変化です。普段であれば見逃してしまうような小さな変化なのですが、疑似体験中の身としては気になります。 それは散歩で出会う人々への印象の変化で気付きました。
道路工事で汗まみれで働いている人をみると、ろくに働いていない負い目からか、「ご苦労様です」の気持ちが自然と湧いてきます。 いままでは、こんなところで工事なんかするなよ、ぐらいに思っていたのに。 不自由な身体を引きずるように休みながら歩くお年寄りをみると、明日はわが身と身近に感じるのか、懸命さに心打たれます。 「お婆さん、じゃまだよ」ぐらいに思ったときもあったのに。 散歩している同年代とおぼしき男性をみると、競争心からか、俺はあんたより歩いているとおもうよ、と心のなかで意味のない虚勢をはったりします。 いままではさして気にもとめなかったのに。 気弱にもなっているのか、タバコの煙をまき散らしながら歩いている男性への怒りは以前よりも弱まり、 楽しそうに話しながら手をつないで歩いている小さい子とお母さんへのほほえましい気持ちに、 ああいう子供時代が自分にもあったんだとの感傷的な気持ちが入り込むようになりました。
全体的に気持ちが萎えているような気がします。仕事を失うということはそういことなのでしょうか。 長い間かけて積み重ねてきた仕事の代わりはありません。 別の仕事では代わりにはならないでしょう。ましてや、読書やウォーキングといった私の軟弱な趣味ではとても代わりになりそうもありません。 でも、仕事に限らず何でも、失ったものの代わりなどない場合がほとんどでしょう。 代替のない大切なものをいくつか失いながらもこの歳まで無事に暮してきたのですから、 時間がたてばこの萎えを超えて十分な気力がよみがえってくるはずだ、と楽観的に考えてはいるものの、 自立してからの仕事無しの暮らしは初めてなので気になっています。 まあ、じたばたしてもしかたなく、しばらくはこののんびりした暮らしを楽しんでいればいいのかもしれません。 取り戻せない、大きなものを失ったときは「時が薬」ともいいますから。
定年後、財布の厚みが倍以上になりました。原因は電車の回数券で、残念ながら、お金ではありません。 毎週決まっている出かけ先は、母が入院している病院と会社で、それぞれ2電鉄づつ計4電鉄を利用しています。 昼間だけ使える時差回数券や休日だけ使える土休回数券などを使い分けて運賃の10%-40%を節約しているので、 全部で8種類となり、最大で94枚の回数券が財布に入ることになります。
便利だけど割引のないスイカは「もったいない」ので使いません。種類が多いので、休日なのに平日の回数券で入ってしまうこともあり、 そんなときは駅員さんに誤入挟印を押してもらい後日使います。 健康のためのウォーキングも「もったいない」生活に貢献しています。 通勤時は11km歩いて2電鉄乗るところを1電鉄で済ませているし、新宿と秋葉原に用事があった先日は新宿から秋葉原までを歩きました。 本は図書館で借りて読みますし、古いパソコンも工夫しながら使っています。暇人だからこそできるのですが、結構楽しく、充実感すらあるのです。 私の中にある「もったいない」精神が生きいきと活動しているからでしょうか。
「もったいない」という言葉は環境保護の視点から見直されています。 資源の無駄使いをしないリデュース、修理して使い切るリペア、人が使ったものをまた使うリユース、再生して使うリサイクル、 といったエコの概念を一語で表すこのような言葉は他言語には見当たらないそうです。この「もったいない」の模範生は江戸時代の人々でしょう。 日の出とともに活動し、日の入とともに休んで油などの照明用資源の消費を抑え、 炬燵(こたつ)、算盤(そろばん)、下駄、鍋、瀬戸物といった日用品ごとの専門修理業が成り立つほど修理が盛んで、 中古も多く流通し、古着販売などは業者も多く、主要産業ともいえる繁盛ぶりだったし、人の排泄物のほぼ100%が有機肥料として再生利用されていたのです。 これらのことは石川英輔(いしかわ えいすけ)氏著による「大江戸リサイクル事情(1994年講談社刊)」で詳しく紹介されています。
使える資源が少なかった江戸時代ではこういった「もったいない」は当然だったのでしょう。 それに対して、一人当たりのエネルギー消費が江戸時代の100倍と言われ、資源を湯水のごとく使い、捨てている現代では、 電灯をつけて夜活動したり、壊れたら捨てて新品を買ったり、他人の古着を嫌がったり、化学肥料を利用したりすることが、当然のこととなっています。 江戸時代には考えられないような、高い生産性と利便性を追い求めた結果なのでしょうが、あまりにも違う「当然」です。 経済成長が、250年以上にわたってほとんどゼロだった江戸時代と常に成長し続ける現代、 それは、成長なしでも成り立った江戸時代と成長なしでは成り立たない現代 でもあり、ゆっくりとした江戸時代にこそ、常に何かに追われる現代にはない心の豊かさがあったのではないでしょうか。 個人的なゼロ成長となる定年後、江戸時代の暮らしはできませんが、その心は見直してもいいでしょう。「もったいない」もその一つです。 独断と偏見の私なりの「もったいない」生活ですが、これからも楽しくまい進して行こうと考えています。
定年後毎日2時間以上歩き、67kg台だった体重が64kg台となり、疲れを感じることも少なくなり、歩くことが健康に良いことを実感しています。 定年前の通勤時の4.4kmウォーキングに代わり、雨の日は小雨の時間帯を、日差しの強い日は涼しい時間帯を狙っての11kmウォーキングです。 この半年で約1,470km、江戸日本橋から京三条大橋までの東海道495.5kmで換算して1往復と往路終点近くまで歩きました。
早いスピードと高い効率が求められる現代では、時間がかかって非効率な歩くという移動手段は極力排除され、趣味の領域となりつつあります。 歩くことが主要な移動手段だった江戸時代、人々は東海道を15日から12日で旅したといいますから、毎日33kmから41km歩いたことになります。 私にはとてもできません。当時の人々が日々の暮らしの中でもかなり歩いていたからこそできたのでしょう。 江戸時代とはいわず、つい最近まで人々はよく歩いていたのではないでしょうか。私の父は約2kmの徒歩通勤だったし、叔母のデートは約6kmの散歩でした。 戦時中、叔母は重い荷物を担いで中野から浅草まで歩いたこともあるそうです。 1964年の東京オリンピックのころから始まったといわれる車社会、それが本格化したころから人々はあまり歩かなくなったのではないでしょうか。
現代のメタボリック症候群などは、徒歩中心の暮らしであれば社会問題にまではならなかったでしょう。 車社会での便利さの代償として失ったものも少なくはないのです。 50年にも満たない車社会での暮しよりも、人類誕生以来延々と続いていた徒歩中心の暮しのほうが我々の身体には合っていて、 結果として身体に優しい暮らしなのではないでしょうか。人の身体がそんな短期に新しい環境に適応できているとは考え難いのです。 ウォーキングを続けるなかでそんなことを感じています。
こう理屈っぽいことを書くと、いかにも深い考えを持ってウォーキングを始めたようですが、きっかけは健康上の不安からでした。 いつ痛風になってもおかしくない高い尿酸値が何年も続いたときに、「薬を使わずに(ウォーキングで)尿酸値を下げた」という友人の言葉に引き込まれたのです。 それまでウォーキングに興味などありませんでした。結局、1年続けても尿酸値は下がらず薬に頼り始めたのですが、ウォーキングは習慣のようになって残りました。 体調が良くなったのを実感していたからです。趣味のような楽しさはないのですが、かといって仕事のような義務感もありません。 一つの習慣のように淡々と歩いています。ときどき、歩いた距離を計算したり、無い知恵を絞ってこのような理屈を考えたりして自分自身を励ましながら、 さらには「やりすぎよ!いつかころんで怪我するわよ!」との妻の冷ややかな励ましの言葉を受けながら。
「遅かったじゃないか」、5時からの食事会に5時少し前に現れた姉に叔母が文句を言ったそうです。 叔母は4時前から会場で待っていたのです。 叔母の姉である私の母も同様の時間感覚で、一緒に旅行するときに待合せ時刻の1時間ぐらい前から待っていたときもあります。周りが迷惑です。 そんな母の不思議な時間感覚を理解するのは難しいのですが、歳とともに母の性格を引き継いでいる自分を発見しつつある私としては気になるところです。
日本人の時間厳守の気質、母のそれは度を越してはいますが、それは必要性から生れてきているのでしょう。 世界に類を見ない日本の鉄道の定時運転のルーツは江戸時代にある、と「定刻発車」(交通新聞社)の著者清瀬六朗氏は推定しているようですが、 そうなると時間厳守気質のルーツも江戸時代にありそうです。江戸時代以前の時刻の共通認識は天体観測による不確実なものでした。 江戸時代になってから時の鐘などの時報システムによりかなり正確な時刻の共通認識が可能となったのです。 特に江戸では全国で唯一複数の時の鐘が設置され、江戸府内全域に24時間時刻を告げていました。 当時世界でも有数な大都市となった江戸ではそういったシステムを必要としていたのです。 それは人々の生活や仕事を効率よく進めるために必要で、少ない資源でより多くの人々が暮らしていくための知恵だったのではないでしょうか。 より正確な時刻の共通認識が必要だったということは遅刻や時間厳守といった概念も江戸時代に確立したと考えられます。
若くして父親を亡くし一家の稼ぎ手となった母は、稼ぎを少しでも増やすために常に効率を追っていたようです。 自宅での鼻緒のミシン縫いで稼いでいた母は、お棚(元締め)が用意する翌日の鼻緒の布地を夜叔母に偵察に行かせ、 その報告で翌日もらってくる布地を叔母に指示し、翌朝叔母がもらって帰ってくるとすでに布地に合った色の糸をミシンに通して待っていたそうです。 母の段取りのよさ、効率のよさは小さい頃から見ています。食事のときの手際のよさはかなりのものです。 そんな母の効率の追求が少し度を越した時間厳守を生んだのに違いありません。全国に先駆けて時報システムが充実した江戸、 その中心ともいえる浅草で育った母であればなおさら納得できそうです。
定年後、それまであった多くの枠組みがはずれ、本来の自分が現れてきているように感じています。 それは多くの部分で母の性格と重なるのです。今後ますます母に似てくるような気がしています。 そんなこれからの自分を理解するためにも母の時間感覚の不思議を考えてみました。母親譲りの身勝手な解釈かもしれませんが、自分で勝手に納得しています。
「団塊格差」(三浦展著、文春新書)を読んで両親への感謝の気持ちが更に強くなりました。 団塊世代の大学卒業者は22%だそうです。文部科学省「2006年学校基本調査報告」では、 私が大学進学した1965年の高等教育機関(大学・短大・専門学校)への進学率は18%程度で、 現在の76.2%(2006年)とは進学状況に大きな違いがあったのです。 兄2人が大学に進学しており、それを当たり前のように考えていましたが、世間一般以上の両親の努力があったことをあらためて知りました。
息子3人全員を大学に進学させたときに「いったいどこにそんなお金があるの」と同じような暮らしぶりの近所仲間から言われたそうです。 仕事や家事の目的は子育て、自分たちのお金や時間は子供たちのために使う、そんな子供一筋の両親だったと思います。 父は10年前に他界し、母は90歳で健在ですが、1年前に脳内出血で倒れてからは身体の自由があまりきかなくなっており、 記憶力や思考力もかなり低下しています。それでも気になるのは子供たちのことのようで、 横でうたた寝している私に気がつくと、不自由な身体にもかかわらず自分の布団を掛けてくれたりします。 「(子供たちを育てるのが)大変だなんて一度も思わなかったよ。楽しんで育てたんだよ」とも言います。
「団塊格差」では「団塊世代で定年後比較的裕福な人は27%」(注1)と分析しています。私の兄2人の世代も団塊世代に近いので同じような%でしょう。 そうであれば、両親が育てた息子3人全員が各世代の比較的裕福な27%に入るのです。 裕福といった実感は私にはありませんし、このデータが実態を正確に表現しているとは思いませんが、3人全員が少なくとも平均以上であることは推測できます。 両親からもらった教育機会や、体力、気力が平均以上のものだったということなのでしょう。 もし「素晴らしい両親」というデータがあったならば、上位27%に入るはずの誇るべき両親なのです。
「団塊格差」で浮き彫りになった格差(注2)は、還暦後の暮らしぶりが様々に枝分かれすることを予感させます。 「60前はみんな同じようだったが、60を過ぎると様々な暮らしぶりに分かれる」と65歳をすぎた従兄弟が実感を込めて話してくれました。 これからが本当の自分、裸の自分が試される時期なのかもしれません。 そんなとき、人生の選択や方向付けで影響を受けてきた両親の生き様や考え方は大きな拠りどころとなるでしょう。 誇るべき両親であれば、その拠りどころは確たるもののはずです。
注1:「下流社会」の著者三浦展氏の株式会社カルチャースタディーズ研究所が文藝春秋の協力を得て行った「団塊世代2000人調査」
(2006年3月、1947年1月ー1949年12月生れの男女2,156人(有効回答数)にインターネット調査)
結果を分析した氏の著書「団塊格差」によると、夫婦の貯蓄1,500万以上、退職金予定2,000万円以上、
遺産相続予定1,000万円以上で3つとも該当する人は男性の7.2%、2つに該当する人が19.3%と合わせて26.5%、いづれにも該当しない人は43.2%となっています。
氏は2つ以上に該当する人26.5%を「定年後比較的裕福」としています。
今回のサンプルは大卒以上54%、中卒2%と、団塊世代の実態である大卒以上22%、中卒30%以上とはかなりかけ離れています。
しかもインターネットアンケートということもあって、団塊世代の実態にどれだけ迫れているかは不明です。しかし大まかな参考にはなりそうです。
注2:「団塊格差」で浮き彫りとなった団塊世代の男性間格差は、夫婦の貯蓄2,000万以上19%/500万未満39%、 退職金予定2,000万以上28%/500万未満47%、遺産相続予定2,000万以上17%/なし38%となっています。 その他に「子供の自立」「人生の満足度」などについても格差という観点から分析しています。
樋口一葉の「たけくらべ」の舞台となった浅草吉原界隈を、物語の場面を想像しながら歩いてみました。 読書とウォーキングという好きなことを組み合わせて、それぞれを倍楽しもうという魂胆です。 おかげで、最後まで興味深く読み、何気ない風景も楽しみながら歩くことができました。
母が生まれ育った浅草は義理人情の下町、という漠然としたイメージでしたが、 「たけくらべ」によって私のなかでより鮮明なものとなりました。 『お前の父さんは馬(付け馬:客に付いて回る遊興費の取立て役)だね』(『』内は「たけくらべ」より)と子供でも知っているほど、 親の仕事ぶりや家族の暮らしぶりがみんなに筒抜けで隠し事ができない町、 『一軒ならず二軒ならず』多くの家族が酉の市の熊手作りに関わり『住む人の多くは廓者《くるわもの》(吉原で働く従業員)』と、 みんながどこかでは仕事でつながっている町、祭りとなれば子供といえども『そろひの裕衣《ゆかた》』と団結力が強く、 『帶は腰の先に、返事は鼻の先にていふ物と定め、にくらしき風俗』の子供でも鳶(とび)の頭の子であれば子供組の大将となる序列のはっきりした町、 そんな町だったようです。義理人情は、そういった環境で人々がうまく暮らしていくための知恵だったような気がします。 人々の暮らしぶりや関係が変わってきた現在では、義理人情も薄らいでいるのではないでしょうか。
母が生まれたのは物語の20年ほど後ですが、同じような様子だったに違いありません。 近所は熊手作りではなく鼻緒作りで、母は鼻緒のミシン縫いをしていて結婚当初は父よりも稼いでいたというのが母の自慢でした。 米や醤油がなくなれば隣に頼るのは当然だった、近所何軒かの分業で鼻緒を作っていた、祭りのためにみんな仕事をしていたようなものだった、 鼻緒作りの元締めは大切だった、などという叔母の話と「たけくらべ」とが微妙に重なります。とても身近な物語として興味深く読むことができたのです。
ウォーキングで最も興味深かったのは美登利が住んでいた大黒屋寮のあった場所です。 時雨の中、鼻緒を切って難渋している人を大黒屋寮の家の中から見かけた美登利が布の切れ端を持って門のところまで出て行き、 その人が想いを寄せる信如であることを知って立ち尽くす、信如も後ろに美登利がいることに気づき動けなくなる、 顔を合わすこともなく、言葉を交わすこともなく時間だけが過ぎていく美しく切ないシーンはこの物語のクライマックスともいえます。その舞台となったところです。
大黒屋寮のモデルだといわれている松大黒寮は吉原の揚屋町の跳橋近くにありました。 当然のことながらその場所に当時の面影は微塵もありません。 吉原を囲っていたお歯黒どぶ、それに架かる跳橋、簡素な格子門のある寮などを想像し、 浅草田町の姉のもとへ行くとき、通らなくてもすんだ大黒屋寮の前の道をわざわざ歩いていた信如のいじらしさを思い、 中田圃(なかたんぼ)にある太郎稲荷に朝参りしていた美登利も通らなくてもすんだ信如の住む龍華寺前の道をわざわざ歩いていたかもしれないなどと考えながらたたずんでいました。 いつものウォーキングにはない楽しさが加わったのです。
物語の舞台の多くは一葉が営んでいた駄菓子屋の近所にあり、身近な人々を見つめながら「たけくらべ」を書いていることがわかります。 また、一葉宅跡裏手にある一葉記念館には、いくつかの異なる構成での下書き原稿などが展示されていて、 一葉がいかに考え抜いてこの物語を創ったかが実感できます。 完成後1年もたたずに病死した一葉は、まさに命を削りながらこの作品を創り上げたのではないでしょうか。 このような名作で、自分のルーツともいえる母が育った環境を垣間見ることができ、ウォーキングを楽しむことができたのは幸運でした。
何十年ぶりかの再会でも、たちまち若いころの楽しさが蘇えってくる仲間がいます。白髪などが増えて外見が変わってきているように、さまざまな経験を経て中身も変わっているはずなのに、若いころの主客、強弱といった微妙な相互関係が会った瞬間から再現され、各自が一番居心地のよいポジションに収まって楽しい場となる、そんな感じです。久々の試合で、何の指示もないのに各自が守備位置に着いてそこをしっかり守る、全体として強固なチームワークを示す野球チームのようで、チームワークの良さが楽しさを更に大きくしてくれます。
同期入社仲間10人が還暦を機に集まりました。若いころ、飲み会、テニス、スキーなどで盛り上がった仲間で、全員が集合するのは25年ぶりです。テニス、スキーなどのコーチ役も駆けつけました。週末にはテニス、夏はテニス旅行、冬はスキー旅行、そんなことが入社後十年以上続いたのです。家族が増えたり、転勤などがあったりしてしだいに疎遠となりましたが、何でも言い合える気心の知れた心安らぐ仲間であることには変りありません。 若いころから馴染み深い京都嵯峨野での集合となりました。
話題は、子供、孫、仕事、趣味、病気と何でもありの言いたい放題、この仲間だからこその会話が弾みます。若いころを共にし、家族ぐるみでの付き合いにもなっている仲間だからこそです。あらゆることが無遠慮に、でも暖かく話題にあがります。表面的な話では終わらない、でも深追いをして傷つけることもない、そんな絶妙なバランスをみんなが心得ているのです。安心して何でも話ができる、心を裸にしてリラックスできる、そんな場には楽しさがあふれています。悲しみや苦しみを味わいながら今日まできたみんなだからこそ、優しさや包容力は若いころ以上なのかもしれません。
お互いがライバルで、刺激し合う関係は今でも変りません。昔は、昇進や結婚、家の購入などで刺激を受けましたが、今は、家族や趣味、健康などに聞き耳をたてます。同年輩で同じ会社、同じ職種、同じような家族構成で、あらゆることが他人事ではないのです。黄昏どきにもたとえられる還暦からの人生、景色は急激に変わっていくことでしょう。そんなときにこの仲間はお互いに知恵や励ましを与えるに違いありません。変化の激しかった若いときにそうであったように。
温泉旅館での深夜に及ぶ会話、翌日の嵯峨野散策での会話などが楽しく過ぎて、1年後の全員集合を決めて解散となりました。とても大切な仲間であることをあらためて確認できた全員集合でした。
定年の日は感激も、感動も、感傷もなく終わりました。 TVで見るような職場での花束や拍手、自宅での豪華な食事などはありません。 仕事で忙しい日々が続く中で、自宅でのそれらしい会話といえば「定年なのに何んでこんなに忙しいんだ」という私のぼやきに「仕事があるだけいいじゃない」という妻の返答があったぐらいです。
定年後も同じ職場に勤めるので節目という感じがあまりしないのは確かですが、勤務時間や収入は大きく変わります。 それでも特別な日としなかったのは、夫婦二人で気楽に暮らしてきた私たちにはそれが自然で、 これからも形にとらわれることなく二人でのんびり暮らしていこう、という暗黙の了解だったのでしょう。
そんな定年の日を機に思いました、「俺のような者がよくここまでこれたなぁ」と。 自然体というと聞こえはいいのですが、要するにボケーとしているのです。 それでも若いころは仕事の実績を上げてきましたが、管理職になるころからそうはいかなくなりました。 担当する商品開発が大幅に遅れ、自部門や関連部門に大変な迷惑をかけるようになったのです。 もう少し頼りになる人間であればしっかりした計画で遅れなど出さず、もし遅れたとしても早めに手を打っていたに違いありません。 そんな頼りない私を部下や上司が支えてくれました。だからこそここまでこれたのです。私の上司や部下はさぞかし迷惑だったでしょう。 でも、なぜ支え続けてくれたのでしょう。自分なりに出した答えは「どんなときでも俺は前向きだったかなぁ」ということです。 そうか、これからも前向きで行こう、これが定年を機に考えたことです。
その日から1ヶ月が経ちました。それまで4kmだった通勤ウォーキングを11kmにしています。 「前向きで行こう」の一つのつもりです。健康のためにある程度の距離を歩こうと始めたのですが、続けるなかで面白さを感じるようになり、 出勤日以外でも朝11km歩く日がでてきました。朝2時間のウォーキングなので、時間に縛られていた定年前では無理だったでしょう。勤務時間の少ない定年後だからこそです。 職場に急ぐことなくのんびり歩いていると、俺も定年になったんだなぁ、と実感することもあります。 仕事中の会社員らしき人たちに途中で出会うと、その感を更に強くして、少し寂しい思いもあるのですが、 自分のやりたいようにやれる喜びは大きく、そんな寂しさを十分に埋めてくれます。今のところは....