リタイア間近組

 
 
リタイア間近組

セカンドライフ 定年準備と定年後の日々

マスコミの学校(2006年)  最前線で活躍中の方々から学ぶ

修了式    (03月25日) ページトップへ

花田編集長
元木昌彦氏

 卒業課題の最優秀賞は「ヒマラヤを越える子供たち」となった。中国のチベット支配の実態レポートで、WiLLに掲載される。 私は皆勤賞として白川静氏著「常用字解」をいただいた。花田編集長から「もうお持ちかもしれませんが」と言われて手渡されたときは、 知らない辞書だったので内心恥ずかしかった。出席さえすれば誰でももらえる賞だが嬉しい。

 元木昌彦氏が「我々の若い頃はこんな機会(第一線で活躍されている方々と会って話が伺えること)はなく、 パーティなどに行って自ら機会を作った」と話していたが、 確かにこんな機会はあまりないだろう。マスコミの学校に感謝 だ。 最後に花田編集長から「人間関係が最重要」「意欲と意志があれば何でもできる」といった、 編集長ご自身が体現していることを励ましの言葉としていただいた。

 無事修了し、花田編集長、小森さんをはじめとしたスタッフの皆さん、懇親会の幹事さん、 そして受講生の仲間のみなさんすべてに感謝の気持ちでいっぱいだ。半年間の本レポートもこれで修了となる。


追:4月2日(日)に修了生による上野公園でのお花見がありました。 朝6時から場所取りをして、そのまま飲み会となり夜11時近くまで、みんなで大いに飲み、語りました。みなさんありがとうございました。 同じ仲間として、これからもよろしくお願いいたします。

江川紹子氏-特別講演- (03月24日) ページトップへ

江川紹子氏

 日本だけでなく世界でも名の知られたジャーナリスト江川紹子(えがわ しょうこ:1958年東京生まれ)氏は簡素な服装で、 言葉を選びながら静かに語る。TVでの印象そのままの人だ。麻原彰晃について語ったときは「彼はオウムの被害者をつくっただけでなく、 加害者もつくった」「『救う会』で一緒に活動した方の息子さんがオウムでの実行犯となり死刑判決を受けた。複雑な気持ちだ」と激しい口調となり、 今でも怒りが納まらないという印象を受けた。ジャーナリストとして、また坂本弁護士という友人を殺された当事者として当然なのかもしれない。

 オウムの追求はごく私的なことから始まり、ジャーナリストとして注目していたわけではなかった。 「人権問題に関心のある江川紹子」と載った新聞記事を見て、 オウムに入って消息不明となった娘さんを捜しているお母さんが相談してきたのがきっかけだった。 当時オウムのことは知らなかった。友人の坂本弁護士がその親御さんの相談に応じ、そして、それから半年後に行方不明となる。 友人弁護士の行方の手がかりを求めて半ば当事者としてオウムに関わっていった江川氏は、やがてオウムによってまかれたガスで声が一時でなくなる。 いやがらせ、ぐらいに考えていた江川氏だが、後でそれが殺人目的だったことを知ると「え~、本気だったの」と思ったそうだ。 友人の失踪事件ということで、前だけを見ながら進み、自分のことには鈍だったようだ。だからこそあそこまで追求できたのかもしれない。

 1989年11月4日の坂本弁護士失踪事件、 1994年6月27日の松本サリン事件そして1995年3月20日の地下鉄サリン事件と続くなかでオウムを追っていた江川氏は、 同3月22日のオウム強制捜査から7月中旬まで、TV出演要請に可能な限り全て応じた。この機を逃したらもう次はないと考えたという。 ジャーナリストとして1人でも多くの人に真実を伝えたいという想いが一気にかなったのではないだろうか。

 娘さんを捜すお母さんから相談を受けたときは、まさかこんな大事件に遭遇するとは考えてもみなかったようだ。 ジャーナリストの使命感や正義感といった大上段に構えての行動からではなく、人権問題や友人の失踪といった身近な問題に、 熱心に、粘り強く取り組んできた結果、日本でも有数のジャーナリストとなった、という感じだ。 悩みや迷いを持つ若者に言い切り型の答えを与えることで拡大したオウム、そんな団体が今後も生れる可能性はある。 そんなとき、真実を伝えることができるジャーナリストはやはり江川氏のような人なのだろう。

田口久美子氏:書店員から見た売れる本づくり (03月18日) ページトップへ

 今までであれば本など読まないような女の子や男の子が本を買っていく、 と日本一の広さを誇るジュンク堂池袋本店の副店長 田口久美子(たぐち くみこ:1947年東京生まれ)氏は書店での最近の傾向を語る。 それは必ずしも喜ばしい現象ではない。売れる書籍の内容やレベルが、コミックと同じようになり、コミックコーナーに置いたほうが売れる書籍すらあるのだ。また、本から多くを学ぼうという人をあまり見かけなくなったということでもある。本を売る現場で長年働いてきた田口氏にとっては残念なことだ。コンビニやブックオフ、Amazon.comなどで大きく変わりつつある書店業の現状を伺うことができた。

有田芳生氏:ノンフィクションを書く (03月17日) ページトップへ

 有田芳生(ありた よしふ:1952年京都府生まれ)氏は統一教会、オウムだけでなく、 都はるみやテレサテンなどの人物ノンフィクションにも取り組んでいる。花のある人を書くときはディテールが重要という。 そのときに窓の外は雨だったのか晴れだったのか、といったディテールだ。 また、私が共感する山田ズーニーさんの書籍を有田氏が読んだというのを聞いて親近感が持てた。新鮮な感じもした。 花田編集長と本屋で偶然出会い、今回の講座を依頼され、花田さんでは断れない、と引き受けた。 「話はなんでもいいんだよ」と言われて今日来たらテーマが設定されていて少し戸惑ったようだ。 本学校が成り立っているこうした花田編集長の人脈に感謝だ。

山田ズーニー氏:文章力③<私のWillを表現する> (03月11日) ページトップへ

山田ズーニー氏

 山田ズーニー氏文章力ワークショップ3回目、最終回だ。1回目(11月12日)が「自分の想いを表現する」、 2回目(1月21日)が「一人の人に伝える」、そして3回目は「多くの人に伝える」が主題となる。 最終講座が近づき、卒業課題の提出も終わったためか受講者が前回よりも少なかった。こんな貴重な講座なのにとても残念だ。

 今回の発表テーマは、「自分のWillを表現する。<自分を社会にデビューさせる企画>」だ。 時間内でまとめ切れなかったと感じている人が多かったように思うが、 山田氏からは「このテーマでつまづく人が多いが、今回はみんな高いレベル」との評価をいただいた。

 自分が目指す職業と、やりたいテーマを挙げる。しかしそれだけでは自分のWillを描ききることはできない。 「実現したい世界観」があって初めて具体的なWillが見えてくる。 編集者になって参考書を作りたい、といってもそれで何を実現したいのかがなければ具体的なWillは見えてこない。 職業やテーマは自分の世界観を実現するための手段にすぎないからだ。 ワークショップでは二人ペアの相互インタビューで「自分のやりたいこと」「自分の世界観」を明確にしていく。 来年会社を卒業する私にとって、新しい社会へのデビューを考える良いチャンスとなった。

 ワークショップに入る前に山田氏のやりたいこと、世界観について1時間あまり話があった。 自分の体験や心の動きを何回も掘り下げた結果と思われる嘘のない山田氏の話は、 時に涙声になってしまうほど全身全霊をかけた言葉で溢れていた。日本一の編集者になろうと張り切っていたこと、 自分の企画が通らずに悩んだこと、高校生との対話の中で、読者の目線で考えていない独りよがりの企画だったことに気がついたこと、 新しい小論文の参考書が多くの高校生に支持されたとき「日本一の編集者などはどうでもいい、読者がいることが分かった。 私にはこの高校生たちがいる」と思ったこと、充実した日々のなかで突然担当替えになったこと、 自分の心に正直に「(会社を)辞めます」と言ったとたんその高校生たちを失ったこと、 会社を辞めてから頼まれた「おとなの小論文教室」サイトでそれまでの経験や知識を全て無償で書いたこと、 仕事探しをしている惨めな自分が「おとなの小論文教室」を偉そうに書いても嘘になってしまうこと、 同じ境遇にあって共感してくれる人が一人はいるはずだと「おとなの小論文教室」で惨めな自分を表現し始めたこと、 そして本の執筆依頼がきたこと、最初の書籍「あなたには書く力 がある」を書いて、 失っていた高校生たちだけでなく社会人も含めた多くの読者を再び得たこと、などをそのときのエピソードや心の動きを交えて語ってくれた。 山田氏が大切にしている「嘘のない言葉」が重要な局面で人生の方向を決めているように思う。 山田氏に励まされた多くの読者が自分の想いを伝えようと頑張り、伝える力、書く力が伸びていく、 それが氏の世界観なのではないだろうか。

 共感してくれる人が一人はいるはずと信じて、惨めな自分を表現していたときが一番輝いていた、と語る山田氏、 多くの共感者を得ている今のほうが輝いているように思うのだが、それが山田氏らしさなのだろう。 自分の深層心理を何回も掘り下げ、嘘のない言葉を全身全霊を込めて探し出す、まるで修行者のような山田氏、 そのワークショップへの参加経験は、 多くのことを得た「マスコミの学校」受講経験のなかでも最も貴重な財産になった思う。

篠田博之氏:最近の出版界事情 (03月04日) ページトップへ

 ここ数年で本の概念が変わるのではないか。従来であれば評価されないような作品でも、 TV、映画との連動による話題性だけでメガヒットとなるし、あまり考えずに先へ読み進むことができるケータイ小説もヒットしている。 「世界の中心で、愛をさけぶ」(片山恭一著)「Deep Love」(Yoshi著)などのヒットがその実例なのだろう。 月刊「創」(つくる)編集長篠田博之(しのだ ひろゆき:1951年茨城県生まれ)氏は本の内容や質以外のものがヒットの条件となっている現状から「本の概念が変わる」と考えているようだ。

 本全体の売上が落ち続けているなかで一部の本がメガヒットとなっている。 そんな本の後を追って、内容や質を追う以上に話題作りや手軽さを追う傾向が強まっているは淋しい思いがする。

 出版界での就職は他の業界とはかなり異なるようだ。ごく僅かな設備と資本で開業できるので小さな会社が多く、 必要なときに募集するアルバイト採用や中途採用がほとんどで、定期採用や新卒採用は一部の大手が実施しているのみだ。 主な大手は講談社、小学館、集英社で、4,600社ある出版社の全売上の20%強をこの3社が占めている。 ちなみに社員10人以下の会社が51%あるそうだ。電通、博報堂、エーディケーの3社で全体売上の35%強を占める広告業界に似た構造だ。 全体から見ると僅かな人数採用となる大手にこだわるよりも、中小で経験を積むことを優先したほうがよいのかもしれない。

 1971年に総合誌として創刊された「創」は、篠田氏が編集長となった1981年にマスコミ専門誌へと方向転換した。 バックもない出版社で1つの雑誌を30年以上にもわたり発刊し続けられるのは業界通であり続けているからなのだろう。 出版界の現状を僅かだが垣間見ることができた。

西村幸祐氏:言論の自由/表現の自由 (03月03日) ページトップへ

 コピーライターからスポーツライターへそして歴史認識問題などに取り組むジャーナリストへと変遷してきた西村幸祐(にしむら こうゆう:1952年東京都生まれ)氏がご自分の変遷のきっかけを語ってくれた。

 学生時代に「三田文学」の編集に夢中となり大学を中退してしまう。 その話のとき「このようなこと(中退の経緯)を公の場で話すのは初めてだ」とおっしゃっていた。 こういった場はあまり得意ではない様子だ。表情も内容も堅くぎこちない感じがした。 しかし内容は、自分をごまかさない実直さがにじみ出た好感の持てるものだった。

 コピーライターの時代に広告と連動したF1特集企画を産経新聞に持ち込んだのがスポーツライターとなるきっかけとなった。 1989年のことだ。当時、F1をほとんど取り上げない新聞への不満が西村氏を動かした。 その後91年の日本グランプリあたりからモータースポーツのブームとなり、世界中を取材してまわる生活となる。 2002年の日韓共催サッカーワールドカップの取材経験を機に歴史認識問題などに取り組むこととなる。 サッカーの試合中に明らかに不公平と思われることが起きていても、何も報道されない、 日韓友好に反するような事実は全く報道されない、それはおかしい。そんな思いが氏を動かした。 広告コピー、スポーツ、そして国際問題と書く内容が大きく変るきっかけは西村氏の不満、怒り、疑問であり、 そういった思いをごまかさず妥協しない氏の強さが大きな変化を実現したようだ。花田編集長が笑いながら「筆が遅い。 納期を守らないんだょ」と紹介していたが、納得した記事が書けるまで粘るためなのだろう。こんな紹介のときにもニコリともせず緊張の様子だった。 とても真面目な印象を受けた。

大下英治氏:作家になるまで (02月25日) ページトップへ

大下英治氏

 「なさけない」と送金指示メール問題での民主党永田寿康衆院議員、 前原誠司代表への憤りから始まった作家大下英治(おおした えいじ:1944年広島県生まれ)氏の、開講式(2005年10月15日)に続く2回目講座は前回同様に氏の凄みを強く感じるものだった。 政治は血を流さない戦争(毛沢東)であり、殺るか殺られるかの世界だ。そんな認識がなければ手ごわい金正日などと戦えない。 政治は学問ではないのだ。と30分にわたり一気にまくし立てた。やくざや政治家を多く見てきた大下氏の言葉だけに迫力がある。

 この確固たる立ち位置が氏の作品を読み応えのあるのもにしているのだろう。メールを入手した永田議員は「ヒーローになれる」と興奮し、 メール受取人への接触もせずに国会の場でいきなり私人を攻撃した。様々な情報を集めたうえで、取捨選択しながら慎重に書く大下氏からみると、 まるで子供なみの判断力と行動のように見えるのだろう。そんな人間が国会議員などをやっていることに強い怒りさえ抱いている様子だった。

イメージ図

 週刊文春の記者だった頃に取材先から帰ると「良いエピソードはとれたか」と訊かれたそうだ。 丁度営業員が「注文はとれたか」と成果を訊かれるように。「良いエピソード」とは「絵になる、目の前に絵が浮き出てくるエピソード」だ。だから、 取材相手の態度、話し方、語尾、服装、持ち物や周辺の調度品などのディテールも重要となる。 この頃に習得した書き方のテクニックは「出だし3行で読者を引きつける。 背景などの説明は後回しにしてとにかくまず読者を引きつけ、その後簡単に背景を説明する。 この背景説明は読者が飽きやすくなる部分なので短く。 その後本題に入り『もっと読みたい』と読者が思うような高まりまで持っていったところで終わらせる(図の曲線のようなイメージ)」というものだそうだ。

 2回目の講座だが新鮮で充実した内容だった。 取材と執筆を精力的に続けている大下氏の多様で豊富な経験と高い見識がうかがえる。 現在10冊以上の本を同時執筆中という多忙と、歯が腫れて万全の体調とはいえない状態で、 しかも今日の朝11時に花田編集長から急遽電話依頼されての講座となったという。 一緒に仕事をした人たちとそれほど強いつながりを維持する花田編集長の凄さをまた再認識した。

品田英雄氏:ヒットメーカーに学んだ、仕事の取り組み方・捌き方 (02月24日) ページトップへ

 事実を述べるだけの文章では商品価値は上らない、自分の考えを入れた文章こそ商品価値を上げる、 つまり自分の立ち位置によって商品価値が上る。 「日経エンタテイメント」発行人品田英雄(しなだ ひでお:1957年東京都出身)氏は「商品価値」といったビジネス用語を使い、 受講者によるロールプレイングなども取り入れたユニークな講座を展開した。 「この講座が終わった時に、受講者みんなが『明日から頑張ろう』という気持ちになるようにしたい」と、話す内容ではなく、 話す目的を最初に述べたのも印象的で、編集者であると同時に大きな組織で働くビジネスマンといった感じだ。

 「アエラ」と「女性セブン」を取り出して、どちらの表紙が「おしゃれ」かを受講者に質問し、なぜ「おしゃれ」なのかを更に訊いた。 写真や文字の数、大きさ、色使いなどを具体的に、できれば定量的に回答することが求められる。 そうしないと「おしゃれ」にするための具体的な指示ができないからだ。 また、写真撮影を想定したロールプレインでもカメラマンやモデルに対する具体的な指示が求められる。 「知性」を感じる写真を狙う場合、目線はカメラ目線か遠くを見る目線か、全身か上半身のみか、立つのか座るのか、スーツかカジュアルか、 バックは、などなど。「おしゃれ」感とか「知性」感といったあやふやなものを、見える形で表現するのは難しい。 とにかくやってみる、そして経験を積むことの大切さを感じた質問やロールプレインだった。

 ヒットメーカーの共通点は「情熱」「センス」「テクニック」が人よりも高く優れていることだそうだ。 エンターテイメントの世界だけでなく、スポーツの世界でも、編集者・ライターの世界でも同様だという。 日々の努力や訓練がこの3つの要素を高め、優れたものにしていくのだろう。一流のスポーツ選手をみるとそのことがよく分かる。

 常に教室内を移動し、受講者を巻き込みながら進める品田氏の講座は分かりやすく、楽しいものだった。 自分の両手をがっちり組んだときに、左右どちらの親指が上にあるかで右脳(本能/芸術/直感の処理)人間か左脳(言語/論理/計算の処理)人間かが分かるそうだ。 私は右手親指が上で、どうやら左脳人間らしい。花田編集長と同じだったので嬉しかった。

奈良原敦子氏:女性誌の現場、その仕事 (02月18日) ページトップへ

 「TOKYO★1週間」「KANSAN 1週間」の編集長奈良原敦子(ならはら あつこ:1960年名古屋生まれ)氏は道なきところに道を作るような逞しさと知恵をもっているようだ。 「KANSAN 1週間」の創刊では関西での事務所探しやライター募集から始めて、2年間で軌道に乗せた。 講談社社内では「変わっている」と言われるらしいが、社内の常識ややり方に捉われない発想や行動がそう言わせるのだろう。

 インターネットの普及で情報誌が苦境にあるなか、 一次情報が集まる強みを生かしての、フリーペーパー、Web、映画などの制作や出資にも積極的だ。 フライデーの携帯サイトは、雑誌フライデーを持ち歩くのはいやだが記事は読みたいという女性に支持され、儲かっているそうだ。 Webのそんな可能性をしっかり見据えているようにも思う。いつも前を見て歩いている、そんな感じの人だ。

 良い企画とは、発見(新しい発見がないと新たな号とはいえない)、共感(そうそうそんな感じだよね)、 提案(なるほどね、と思わせるもの)、疑問(何それ)、お得感(半額、食べ放題など)、事情通(噂や覗き見など)があること、だそうだ。 企画書では自分自身の経験をディテールとして盛り込むことが、企画のイメージを明確にし、説得力を増すためのポイントだ、とも奈良原氏は言う。 企画が命の編集者には「街を歩け」「怪しいところにも行け」とけしかけているそうだ。

 今日の明け方に校了し、そのままマージャンに入り、その後この講座に来たという奈良原氏は、 細身で優しそうな外見からは分からない強靭な体力と精神力を持っているようだ。そうでなければ編集長など務まらないのだろう。

鈴木洋嗣氏:週刊誌の現場、その仕事 (02月17日) ページトップへ

 2006年1月5日発売での「上海日本総領事館領事自殺事件」のスクープや先週2月16日発売「紀子さまご懐妊  宮中(奥)全情報」特集の完売など勢いづいている週刊文春の編集長鈴木洋嗣(すずき ようじ:1960年東京都千代田区生まれ)氏には、 他の週刊誌とは異なる戦略で文春を引っ張っていこうという強い意欲が感じられた。

 1ヶ月にわたる専任体制での取材結果である「領事自殺」記事では、発売後に新聞各社がこれを追いかけるという大きなスクープとなった。 そして、宮中専任記者のここ数年の活動結果ともいえる「宮中(奥)全情報」は旬の内容で、 同日発売の週刊新潮50周年記念号の過去を振り返る内容との鮮やかな対比となる。 取材にネクタイ着用は当たり前、と「火曜サスペンス劇場」に出てくるごろつきのような週刊誌記者イメージを否定し、 「週刊誌のイメージを払拭しつつある」と自負する鈴木氏が率いる週刊文春はこれからますます面白くなりそうだ。口調は優しく、 静かだが、強い信念と視野の広い戦略をもった編集長だ。

 新米記者のとき先輩に言われた「記者となれば面会を申し込めばたいがいの人に会うことができるが、 それは記者自身が偉いからではなく、記者が多くの読者を代表しているからだ」という言葉と、 編集者のときに担当した司馬遼太郎氏から言われた「人の心臓をえぐりだし、 その血の滴る様をも書くリアリズムこそ大切」という言葉が氏の心に強く残っているという。 子供を殺された親にその思いなどを尋ねることなど普通はできないが、読者の代表だと考えると聞かざるを得ない。 しかも本音のリアルな言葉を。ジャーナリスト活動の中で、先輩と司馬氏の言葉は鈴木氏の心の支えでもあるようだ。

 ライターの資質につても語ってくれた。ライターの仕事は取材と執筆で、取材はその人に見合った「等身大」での取材しかできないし、 執筆はその人の「見立て」での執筆しかできない。「見立て」とは「取材したことから本質を搾り出す作業のこと 」のように説明されたが、言葉通り「執筆者の理解、考え、見方」ともいえるのではないだろうか。 取材は食材集めで、書くということはその食材を料理することに似ている。同じ食材でも、サラダにするのか、カレーにするのかは料理人しだいということになる。 スクープを連発する記者に「なぜそんなにスクープをものにできるのか?」と質問したところ、「人は喋りたいものだ」という言葉が返ってきたという。 「上海総領事館領事自殺」も、1年もの間、自殺をひたすら隠し、自殺に追い込んだ中国に対して何の抗議もしない外務省、しいては日本政府への義憤がきっかけだという。 それを聞きだせるか否かが取材側の力量となるのだろう。そして執筆のための「見立て」は、考えて、考えて、考え抜くことが重要だという。

 最大級の発行部数を誇る週刊誌の編集長は礼儀正しく、真面目で、人の意見を聞きながら仕事を進めていくタイプのように見えた。 高度成長期を走り抜けたカリスマ文春元編集長と低成長期を行く文春現編集長の会話を聞きたかったが、 花田編集長不在のため実現しなかった。

轡田隆史氏:文章力③<エッセイの書き方> (02月04日) ページトップへ

 ベストセラーとなった「考える力をつける本」の著者で 「朝日新聞」元論説委員の轡田隆史(くつわだ たかし:1936年東京生まれ)氏は「文章を書く上で重要なことは『なに』を書くかであって、『どう』書くかは屁のような(ささいな)ことだ」と主張する。 『なに』が書けるかは、『なぜ』をどれだけ考えているかによって決まる。 文章は体験であり、体験を自覚しながら日々を生きる、それを轡田氏は「日々を書くように生きる」と表現している。 体験があっても自覚がなければ文章は生まれない。自覚があれば小さな体験であっても素晴らしい文章が生まれる。 『自覚』のための有力な方法が、どんなことにも『なぜ』という疑問を持つことなのだ。

 マイクを使わず立ったままで、受講生の反応を見ながら、静かに、優しく語る姿からは豊富な経験と自信が感じられた。 最後に、受講生が事前に提出していた課題、テーマは「言葉」で400字以内の文章、に対して次のようなコメントがあった。
1.前置きや説明が最初に出てくる。前置きはいらない。いきなり本題に入り、後から説明する。
2.「人は一生のうちで数多くの言葉に出会う」といった一般論、当たり前のことを最初に出さない。
3.文章に完成品はない。全て未完成品、だからこそ誰でもが完成品に向かって書いている。
4.ブログをテーマにしたものもあったが、みんな似た話となっている。人が書かない、自分自身の実体験を書け。パソコン画面にどっぷり漬かり過ぎ。
5.当たり前の中に潜む驚くべき真実を書け。

宮嶋茂樹氏:外国取材の実際 (01月28日) ページトップへ

宮嶋茂樹氏

 戦争写真を多く手がけている報道カメラマン・ライター宮嶋茂樹(みやじま しげき:1961年兵庫県生まれ)氏は、正義感に溢れた反戦写真家ではない。 むしろ、「(戦争取材で)怖いとか可哀そうとかいった思いはない。とにかく弾の下をくぐってきたという思いだけだ」 「今までの人との出会いで一番悲しい思いをしたのは、極上美人の売春婦を値段が高くて買えなかったことだ」と公言する、 自分に正直に生きている現実派だ。

 宮嶋氏を動かしているのは「他の人には撮れない写真を撮りたい」という強い想い。戦争写真が最もそれに近いのだろう。 ユーゴでは着いたらすでに平和になっていて金にはならなかった、 イラク戦争では日本に帰って銀行口座を見たらびっくりするぐらい沢山の金が入っていた、 ルーマニア内戦では本格的な戦闘写真が撮れ、これで俺も戦争写真家として自慢できると思った、 カンボジア自衛隊派遣では自衛隊野営地の前でテント生活をしながら取材した、 休戦間際のボスニアでは戦闘写真の代わりに戦場跡をバックに美女たちを撮った、 などを淡々と語る宮嶋氏からは戦場をくぐりぬけてきたという気負いは感じられない。だからこそ冷静な行動がとれ、 今まで無事だったのかもしれない。

 金正日の写真をロシアで隠し撮りしたときのことだ。 金正日がホテルから出てきたので隠れていた部屋の窓を急いで開けようとしたが開かなかった。 思い切り力を入れて開けると大きな音がして金正日を囲む多くの人たちが一斉に窓の方を見上げたが、 かまわずに超望遠レンズを向けて撮影した。撃たれるかもしれないと思いつつも、 「誰にも撮れない写真が撮れる」という思いの方が勝っていた。金正日の目の前でロシアが下手なことはしない、という冷静な計算もあったようだ。 そんな強い想いと冷静さが、花田編集長が「今、売れっ子のカメラマン」と紹介する宮嶋氏の原動力となっているのだろう。

山田ゴメス氏:フリーライターになる (01月27日) ページトップへ

 「ライターは作家とは違う。黒いものを白く書けと発注者が言えば白く書くのがライターだ」 と始まったフリーライター&イラストレータ山田ゴメス(やまだ ごめす:1962年大阪府生まれ)氏の「フリーライターになる20ヶ条」では、 「都心に住め。深夜、タクシーの短距離で帰れるところに住まないと仕事を逃がす」といった現実的で、作り物ではない迫力と氏の逞しさが感じられた。

 イラストレータの頃に、アダルトビデオ評論を頼まれたのがきっかけでライターともなった山田氏は、 他人のイラストを自分の作品のように紹介して仕事を得たり、1時間以上のアダルトビデオを早送りで見ながら評論を書き、 1本当り15分、3日で30本の評論を仕上げるという、既成概念に捕らわれない型破りの人だ。 また、目の前の仕事を貪欲に取り込んでいく、何でもありの異端児のようにも見える。

 講座の最後に「みなさんどうもありがとうございました」との丁寧な言葉があった。他の講師からは聞くことのない言葉だ。 そんな、誰をも大切にする姿勢が山田氏活躍の秘訣なのかもしれない。


**** 山田ゴメス氏の「ライターになるための20ヶ条」****
(1)ライターと作家の違いを認識しておくこと。黒いものを白く書けと発注主が言えば白く書くのがライターだ。 (2)書く前の仕切りが仕事の70%だ。書いたものの出来が悪くても編集者などでフォローできるが、書く前の仕切りが悪いと誰もフォローできない。 (3)都心に住め。軽いフットワークが仕事を入手する条件。(4)同棲をやめろ。別れたときの住所変更が仕事を奪う。 (5)ペットをすてろ。毎日の散歩ができないとダメな犬は特にやめろ。犬がかわいそうだ。 (6)とにかく「ライター」肩書きの名刺を作れ。ネガティブなペンネームはやめろ。(7)FAXを持て。ゲラ返し(ゲラ校正)ではFAXが必須だ。 (8)パソコンは必須。手書き原稿は受け取ってもらえない。(9)クレジットカードを持て。取材先などでの緊急出費に必要。 (10)少し目立つ服装にしろ。目立ちすぎはダメ。 (11)プロっぽく振る舞え。山田氏がイラストレーターの駆け出しの頃、他人のイラストを自分の作品として見せ仕事をとっていた。 (12)目立ちすぎるな。(13)二股をかけられる能力を持て。イラストレーター&ライターのように。(14)ライターとは関係ない過去の技能を活用しろ。 (15)自分が特別な人間だという意識は捨てろ。 (16)正面からだけでなく、横からも攻めろ。やりたい雑誌があったら、その雑誌とは関係ない部署でもいいから、まず雑誌社に入り込め。 (17)セクハラを覚悟しろ。編集者の異性への下心を知っておけ。(18)企画は質よりも量だ。 (19)インタビューに必要なリズム感を持て。相手の目を見て話せ。(20)適当な人間になれ。凹んでいる暇はない。「次行こう!!」の精神が大切だ。

山田ズーニー氏:文章力②<機能する文章術/人を動かす文章力> (01月21日) ページトップへ

山田ズーニー氏

 山田ズーニー氏文章力ワークショップ2回目だ。1回目(11月12日)が「自分の想いを表現する」で、今回は「一人の人に伝える」がテーマとなる。 次回「多くの人に伝える」で1つのコースが完了する。雪のためか1回目の2/3程度の参加者となったが、 今回も「良いワークショップでした」という山田氏の評価をいただいた。 多くの高校生の小論文を山田氏が読んで感じたのは「自分の声をだしていない」 「他者がいない(自分の中にある世界が全て。自分の外にある世界との係わり合いがない。他者に伝わらない)」ということだった。 前者が1回目の、後者が今回および次回のワークショップのテーマとなる。

 山田氏は7つの『伝わる要件』を挙げている。
(1)意見:答えのない問題に自分自身が出した答え。伝えたいこと。
(2)論拠:その根拠・理由
(3)目指す結果:相手にどう思って欲しいか。
(4)論点(問い):論点(問い)が意見(答え)を引き出す
(5)自分のメディア力:自分がどう見られているか
(6)相手にとっての意味:自分にとって意味のないものを人は読まない
(7)根本思想:自分の根っこにある想い
伝わる伝わらないの境は、「根本思想」と言葉が一致するか否か、 つまり嘘のない言葉か否かだ。この「根本思想」が相手の心を動かすものでなければ、いくら言葉をつくしても空回りするだけということになる。 小さな共感(そうそう!)、納得(なるほど!)、発見(へぇー!)なども相手の心を動かすためには必要なことだ。

 ワークショップでは、自分の伝えたいこと(「意見」)を決め、その「論点」(問い)を2人ペアで整理した。 この整理の段階で、自分では気がつかなかった新鮮な「論点」が見つかり、より深みのある「意見」とすることができた。 自分の「意見」に疑問を投げかけてくれる人の存在がいかに大切かを実感したワークショップだった。

 一人に向けたメッセージの方が、マスに向けたメッセージよりも強いときがある。 読者からのメールに対する山田氏の返信メールを編集者が読み、「これ、いいですね」と言われることがあるそうだ。 世界中で愛されている『ピーターラビットのおはなし』は著者のビアトリクス・ポター(Beatrix Potter, 1866-1943)が、病気で寝ていた元家庭教師の息子ノエルを慰めるために書いた絵入りの手紙がもとになっているという。 一人に伝わる、それが多くの人に伝わる基本中の基本と言えるのだろう。

二宮清純氏:スポーツライターになる (01月14日) ページトップへ

二宮清純氏

 TV、新聞、書籍で幅広いテーマに取り組んでいるスポーツジャーナリスト二宮清純(にのみや せいじゅん:1960年愛知県八幡浜市生まれ)氏は、 何にでもコメントできる情報と頭の回転の速さを持っているようだった。長身でがっちりした体格、黒を基調としたファッション、彫りの深い顔立ち、 途切れることのない豊富な話題、まさにTVが放ってはおかない人材だ。 二宮氏は、書く作業の90%を取材に当て、報道された情報でも鵜呑みにしないと明言する。 そんな中でTVで活躍し、多くの書籍を執筆する氏の体力、気力の大きさを実感した講座となった。

額田久徳氏:情報誌の作り方 (01月13日) ページトップへ

 幻冬舎が初めてだす雑誌「Goethe(ゲーテ)」の編集長額田久徳(ぬかだ ひさのり:1962年生まれ)氏の講座は実践的な内容だった。 また、一部上場の社長秘書から出版社の編集者者に転職した若い女性を連れてきて、転職や編集での実体験を語らせるなど、 身近で分かりやすい内容でもあった。ワールドフォトプレス広告部から同社編集部にスカウトされ、 更に幻冬舎にスカウトされた氏は「どんな仕事でもやりたいことがやれるチャンスがある」と言う。 どんな仕事にも真摯に取り組んできた結果なのだろう。この講座でもそんな姿勢を強く感じた。

 編集者として必要なことは、1つのことに突出していること、相手の言うことを面白がる「褒め殺し」ができること、 正直であることの演出ができること、非常識なクリエータたちと常識の出版人の両方の世界に入り込める「巫女さん」のような役割をはたせること、 毎日書店に行くこと、食事が速いこと、体力があること、など本音の話を多く聞くことができた。

 雑誌「ウォッチアゴーゴー」の編集者だったときに、かねてから話を聞きたかった幻冬舎見城徹氏との対談を「時計」に絡めて企画した。 時計の話はそこそこに雑誌論などで話が弾み、それがきっかけとなり幻冬舎初の雑誌を創刊する役割がまわってくる。 こうして人とつながっていく額田氏の人脈作りを支えているのは「純粋な友情はない。現実は貸し借りの世界」という考え方かもしれない。 今回の講座も、『TOKYO★1週間』編集長奈良原敦子氏の突然の講師キャンセルで、 2日前の木曜日に花田編集長から電話で依頼されたという。 来月25日発売の「Goethe(ゲーテ)」創刊号の編集に追われ、忙しいなかでの依頼だったが「花田さんでは断れない」と無理を押しての講座となった。 こういったことも編集者に必要な資質なのだろう。

永野啓吾氏:情報収集力~企画力 (01月07日) ページトップへ

永野啓吾氏

 ダカーポの編集長永野啓吾(ながの けいご:1953年熊本市生まれ)氏の講座は受講生の多くの質問に答える、実践的な内容となった。

 永野氏の情報収集術の一つに定点観測がある。毎朝の犬の散歩の時にゴミ置き場の空き缶や空き瓶から今の流行を知り、 それを長年続けることで流行の変化を知る、というものだ。簡単そうだが、根気と鋭い触感がなければできないことだ。 また「一人でできる情報収集は知れている。 情報が集まってくる人脈作りこそ大切」と強調し「『こいつに情報を流せば何とかしてくれる』と思わせることが必要だ」と言う。 永野氏の人脈作りの秘訣はとの質問には「こまめに手紙を書くことかなぁ」と答えている。 かつては新宿ゴールデン街の常連だったことも人脈作りと関連しているのだろう。

 使える企画の提案があれば決してパクらずに提案者にやってもらう。 ただし、使える企画はあまりないとも言い切る。 永野氏にとって使える企画とは「ちょっと気がつかなかったこと」「斜めからではなくストレートなもの」「大上段でないもの」だそうだ。 そして良い原稿についても言及し「タイトルや小見出しがすぐつけられるもの」と分かりやすさを、 「丁寧な取材に基づいたもの」と内容品質を重視しているとのことだった。

 大学を卒業してマガジンハウス(当時は平凡出版)に入社し、 平凡パンチ、クロワッサン、ダカーポ、書籍などの編集部を経て2002年にダカーポの編集長となった永野氏にとって、 一時は発行部数120万部といった勢だった平凡パンチでの仕事が最も楽しかったようだ。20代の若さで突っ走っていたのだろう。 今ままでを振り返って「編集者は半分ズボラで半分緻密が良い」という。 理屈で考えても、相手次第でどうしようもない時があり、そんな時はズボラに、原稿などを読む時は緻密にというわけだ。 気負いのないひょうひょうとした調子で語る永野氏は伸び伸びと楽しく仕事をしている印象を受ける。 やりたいようにやるワンマン編集長かもしれない。いづれも若者文化をリードしてきたマガジンハウスの社風そのものなのだろう。楽しそうな会社だ。

佐々木弘氏:取材力⑤<週刊誌の取材> (01月06日) ページトップへ

 「週刊文春」の記者として多くの事件を追いかけてきた佐々木弘(ささき ひろし:1936年生まれ)氏の話は、 鮮度が命の事件取材における素早い判断力と行動力の大切さを教えてくれた。 人生の大半を事件取材に費やし、日本全国はおろか海外50カ国以上を歩き回った氏の記者としての嗅覚は経験と共に磨かれていったようだ。

 立教大学助教授・教え子殺害事件が起きたのは1973年、佐々木氏が37歳の時だ。 たまたま見ていたTVの画面に「伊豆・石廊崎で一家心中」の1行テロップが流れ、すぐ下田に向かった。 石廊崎であれば宿泊したのは下田だろうと考えてのことで、テロップを見たのが午後3時ごろ、下田に着いたのが夕刻という素早さだ。 この尻の軽さ、野次馬根性こそ大切と氏は言う。 心中したのが立教大学助教授一家4人であることを下田で知り、更に助教授が甲府出身の教え子との恋愛関係で悩んでいたこと、 その教え子が行方不明であることなどを知る。 そこで下田から甲府に移動し、甲府駅前の商店街を一軒一軒訪ねて立教大学に通う娘さんのいる家を探した。 立教の現役大学生で甲府出身者はそんなにはいないだろう、とのもくろみだったと氏は言うが、「干草の山から針を見つける」ような作業だ。 理屈で詰める前に行動する、とにかく足で稼ぐということだろう。幸いその日のうちに該当する家を見つけ、 しかも娘さんは最近行方不明になっていると聞く。結局、その娘さんは助教授に殺されていたのだが、両親も佐々木氏も当然まだ知らない。 そんな中での、両親へのインタビューとなる。誰も報道していないことを1番乗りで報道する記者の興奮や達成感が伝わってくる。

 支社や記者クラブといった多くの縛りがある新聞記者とは異なり、どこであれ、だれであれ、いつであれ、 飛んでいって取材できる週刊誌記者はとにかく面白い、と佐々木氏は言う。 「佐々木さんに頼めばだいたい話をとってきてくれる」と花田編集長が紹介したが、 事件の関係者を捜しだし、当人が話したくない話を聞きだすのは容易なことではないだろう。 だからこそそれを成し遂げたときの達成感は大きく、「面白い」という言葉になる。 暖かで気のいいおじさんといった、人に警戒心を起こさせない風貌と、 当事者と同じ目線での、人を圧することのない言動が数々の事件を記事にできた大きな要因に違いない。