マスコミの学校 最前線で活躍中の方々から学ぶ
山田ズーニー氏文章力ワークショップ3回目、最終回だ。1回目(11月12日)が「自分の想いを表現する」、2回目(1月21日)が「一人の人に伝える」、そして3回目は「多くの人に伝える」が主題となる。最終講座が近づき、卒業課題の提出も終わったためか受講者が前回よりも少なかった。こんな貴重な講座なのにとても残念だ。
ここ数年で本の概念が変わるのではないか。従来であれば評価されないような作品でも、
TV、映画との連動による話題性だけでメガヒットとなるし、あまり考えずに先へ読み進むことができるケータイ小説もヒットしている。「世界の中心で、愛をさけぶ」(片山恭一著)「Deep Love」(Yoshi著)などのヒットがその実例なのだろう。月刊「創」(つくる)編集長篠田博之(しのだ ひろゆき:1951年茨城県生まれ)氏は本の内容や質以外のものがヒットの条件となっている現状から「本の概念が変わる」と考えているようだ。
事実を述べるだけの文章では商品価値は上らない、自分の考えを入れた文章こそ商品価値を上げる、つまり自分の立ち位置によって商品価値が上る。「日経エンタテイメント」発行人品田英雄(しなだ ひでお:1957年東京都出身)氏は「商品価値」といったビジネス用語を使い、受講者によるロールプレイングなども取り入れたユニークな講座を展開した。「この講座が終わった時に、受講者みんなが『明日から頑張ろう』という気持ちになるようにしたい」と、話す内容ではなく、話す目的を最初に述べたのも印象的で、編集者であると同時に大きな組織で働くビジネスマンといった感じだ。
「TOKYO★1週間」「KANSAN 1週間」の編集長奈良原敦子(ならはら あつこ:1960年名古屋生まれ)氏は道なきところに道を作るような逞しさと知恵をもっているようだ。「KANSAN 1週間」の創刊では関西での事務所探しやライター募集から始めて、2年間で軌道に乗せた。講談社社内では「変わっている」と言われるらしいが、社内の常識ややり方に捉われない発想や行動がそう言わせるのだろう。
2006年1月5日発売での「上海日本総領事館領事自殺事件」のスクープや先週2月16日発売「紀子さまご懐妊 宮中(奥)全情報」特集の完売など勢いづいている週刊文春の編集長鈴木洋嗣(すずき ようじ:1960年東京都千代田区生まれ)氏には、他の週刊誌とは異なる戦略で文春を引っ張っていこうという強い意欲が感じられた。
山田ズーニー氏文章力ワークショップ2回目だ。1回目(11月12日)が「自分の想いを表現する」で、今回は「一人の人に伝える」がテーマとなる。次回「多くの人に伝える」で1つのコースが完了する。雪のためか1回目の2/3程度の参加者となったが、今回も「良いワークショップでした」という山田氏の評価をいただいた。多くの高校生の小論文を山田氏が読んで感じたのは「自分の声をだしていない」「他者がいない(自分の中にある世界が全て。自分の外にある世界との係わり合いがない。他者に伝わらない)」ということだった。前者が1回目の、後者が今回および次回のワークショップのテーマとなる。
幻冬舎が初めてだす雑誌「Goethe(ゲーテ)」の編集長額田久徳(ぬかだ ひさのり:1962年生まれ)氏の講座は実践的な内容だった。また、一部上場の社長秘書から出版社の編集者者に転職した若い女性を連れてきて、転職や編集での実体験を語らせるなど、身近で分かりやすい内容でもあった。ワールドフォトプレス広告部から同社編集部にスカウトされ、更に幻冬舎にスカウトされた氏は「どんな仕事でもやりたいことがやれるチャンスがある」と言う。どんな仕事にも真摯に取り組んできた結果なのだろう。この講座でもそんな姿勢を強く感じた。
ダカーポの編集長永野啓吾(ながの けいご:1953年熊本市生まれ)氏の講座は受講生の多くの質問に答える、実践的な内容となった。
郵政民営化法によって、日本人最後の貯金といわれる郵貯・簡保の340兆円が外資のハゲタかにさらされることになる。アメリカ大手資本は明らかにこの金を狙っており、しかも彼らの意向に沿った民営化法となっている、と郵政民営化法の危なさを堤堯(つつみ ぎょう:1961年東京大学法学部卒)氏は説く。
セミロングのヘアスタイル、黒を基調とした服装で胸には大きな白いコサージュ、きびきびした動作、よどみのない話し方、理路整然とした濃い話、などで新鮮な印象を強く受けた講座だった。文章表現/コミュニケーション・インストラクター山田ズーニー(やまだ ずーにー:1961年岡山県生まれ)氏は執筆、講演、大学での講義、企業研修、教材開発、授業企画、TV/ラジオ講座などの活動を通して、人の「考える力・表現する力」を活かし、伸ばす教育サポートを実践している。対象者は、中学生から高齢者、文章指導をする教授、プロライターまで幅広い。山田氏がインターネット上で掲載している http://www.1101.com/essay/ 「おとなの小論文」は5年に及ぶ人気コラムだ。最近は、今回のような生徒参加型ワークショップに最も力を入れている。
先週みんなが提出したWill記事企画案に対する花田編集長のフィードバックの時間だ。冒頭から水を飲む花田編集長は少し疲れ気味に見えたが、企画案へのコメントが始まると活力に満ちた編集長となっていた。真剣勝負の雑誌編集の現場ではもっと激しいコメントや応酬があるのだろうが、今回は生徒に対するコメントなのでかなり手加減しているようだった。
今回の衆議院総選挙でTVの影響力の大きさがより鮮明になった。新聞の影響力は落ちぎみで、雑誌にいたっては火が消えたようだ。個人情報保護法と、田中真紀子の娘さんの離婚記事に対する出版差止め命令が元気のない出版ジャーナリズムに追い討ちをかけている。個人情報保護法では出版社や作家は適用除外の報道機関として明記されていないし、あの離婚記事程度で出版差止めでは政治家のスキャンダルなどはもう書けない。出版差止めとなると印刷費や広告費などの損害で出版社は大きな打撃を受けるからだ。離婚記事の週刊文春の場合はすでに配送された後だったので、むしろ完売に近い形で終わったが。光文社などは週刊宝石を休刊し出版ジャーナリズムから手を引く気配だ。と静かに話す元木昌彦氏(もとき まさひこ:1945年生まれ)氏は講談社で「フライデー」「週刊現代」などの編集長を勤め、告訴された数はまだ誰にも破られていないといわれる筋金入りの雑誌ジャーナリストだ。
「生きている限り青春」と言う山本氏の話は、白黒のはっきりした分かりやすい体育会系色の強いものだった。90年代に「週刊プロレス」のカリスマ編集長として一時代を築いたターザン山本(たーざん やまもと:1946年生まれ)氏は来年還暦を迎える。しかし、ピンク柄の帽子、淡い黄色にピンク柄のシャツと淡いオレンジのマフラー、黒のブレザー、グレーのズボン、ベージュの靴といういでたちでのパワフルな語りは、なお青春真っ只中のようだ。長年勝負の世界を見てきた山本氏の一瞬一瞬への闘魂を感じた講座だった。
花田紀凱(はなだ かずよし:1942年東京生まれ)編集長の「企画力講座第1回」だ。編集者・ライターに必要なものとして「構想力」「記憶力」「人脈」「情報収集力」「企画力」「取材力」「表現力」をあげ、一つ一つについての丁寧な説明があった。経験をふまえた、具体的で実践的な話だ。この「マスコミの学校」で若い人たちを育てようとする花田編集長の熱意が伝わってくる。次のターザン山本氏の講座も熱心に聴き、山本氏とともに白板の文字を消すなどの何気ない花田編集長の行動にも、そんな意気込みが感じられた。
「なさけない」と送金指示メール問題での民主党永田寿康衆院議員、前原誠司代表への憤りから始まった作家大下英治(おおした えいじ:1944年広島県生まれ)氏の、開講式(2005年10月15日)に続く2回目講座は前回同様に氏の凄みを強く感じるものだった。政治は血を流さない戦争(毛沢東)であり、殺るか殺られるかの世界だ。そんな認識がなければ手ごわい金正日などと戦えない。政治は学問ではないのだ。と30分にわたり一気にまくし立てた。やくざや政治家を多く見てきた大下氏の言葉だけに迫力がある。
「ライターは作家とは違う。黒いものを白く書けと発注者が言えば白く書くのがライターだ」と始まったフリーライター&イラストレータ山田ゴメス(やまだ ごめす:1962年大阪府生まれ)氏の「フリーライターになる20ヶ条」では、「都心に住め。深夜、タクシーの短距離で帰れるところに住まないと仕事を逃がす」といった現実的で、作り物ではない迫力と氏の逞しさが感じられた。
道路公団民営化委員会委員として注目されたノンフィクション作家猪瀬直樹(いのせ なおき:1946年長野県生まれ)氏の講座は道路公団民営化の成果発表会となった。「七人の侍」と期待されていた7人の民営化委員のうちの5人が「民営化とはいえず、新しい特殊法人が増えただけ」(川本裕子氏)などと発言して辞任する異常事態のなかで踏みとどまった猪瀬氏が民営化の成果を主張する姿はなぜか寂しげに見えた。
正力松太郎、中内功といった昭和の怪物たちを描いているノンフィクション作家佐野眞一(さの しんいち:1947年東京生まれ)氏は、厳格な頑固親父といった風貌をもち、静かで気迫に満ちた語りで受講生をひきつける。氏ご自身も怪物で、怪物が怪物を描いたとさえ思う。
多くのジャンルの雑誌に取材・執筆しているフリーのライター兼編集者永江朗(ながえ あきら:1958年北海道生まれ)氏は取り扱う範囲も『哲学からAVまで』と広い。AVのような、親に言えない恥ずかしいこともやって傲慢になりがちな自分を戒めている、と話していた。
ノンフィクション作家小松成美(こまつ なるみ:1962年神奈川県横浜市生まれ)氏の、会社員から作家になった今日までを垣間見ることができた。24歳の会社員のときにメニエル症候群によって救急車で運ばれる事態となり、「自分のこの一瞬はもう取り戻せない。自分のやりたいことをやろう」と決意し文章を書き始める。「13年間ノンフィクション作家を続けることの苦しさ、犠牲、忍耐、努力は並ではない」と語る小松氏はまさに努力、努力、そして努力の作家だった。
このページでは、第2期「マスコミの学校」を受講した内容や感想を掲載していきます。
マスコミの学校は「月刊ウイル」が主催する「編集者・ライターになるための講座」だ。開講式のこの日、講座主催者の元木昌彦氏、花田紀凱氏の挨拶に続いて大下英治(おおした えいじ:1944年広島県生まれ)氏の特別講演「選挙と報道」があった。今回の衆議院総選挙がテーマで、豊富な取材と、長年政治家たちをみつめてきた大下氏の視点から生れるノンフィクションは、分かりやすく面白く、本質に迫っている。週刊文春の記事を長年手がけてきた氏ならではだ。
日本だけでなく世界でも名の知られたジャーナリスト江川紹子(えがわ しょうこ:1958年東京生まれ)氏は簡素な服装で、言葉を選びながら静かに語る。TVでの印象そのままの人だ。麻原彰晃について語ったときは「彼はオウムの被害者をつくっただけでなく、加害者もつくった」「『救う会』で一緒に活動した方の息子さんがオウムでの実行犯となり死刑判決を受けた。複雑な気持ちだ」と激しい口調となり、今でも怒りが納まらないという印象を受けた。ジャーナリストとして、また坂本弁護士という友人を殺された当事者として当然なのかもしれない。
有田芳生(ありた よしふ:1952年京都府生まれ)氏は統一教会、オウムだけでなく、都はるみやテレサテンなどの人物ノンフィクションにも取り組んでいる。花のある人を書くときはディテールが重要という。そのときに窓の外は雨だったのか晴れだったのか、といったディテールだ。また、私が共感する山田ズーニーさんの書籍を有田氏が読んだというのを聞いて親近感が持てた。新鮮な感じもした。花田編集長と本屋で偶然出会い、今回の講座を依頼され、花田さんでは断れない、と引き受けた。「話はなんでもいいんだよ」と言われて今日来たらテーマが設定されていて少し戸惑ったようだ。本学校が成り立っているこうした花田編集長の人脈に感謝だ。
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コピーライターからスポーツライターへそして歴史認識問題などに取り組むジャーナリストへと変遷してきた西村幸祐(にしむら こうゆう:1952年東京都生まれ)氏がご自分の変遷のきっかけを語ってくれた。
ベストセラーとなった「考える力をつける本」の著者で「朝日新聞」元論説委員の轡田隆史(くつわだ たかし:1936年東京生まれ)氏は「文章を書く上で重要なことは『なに』を書くかであって、『どう』書くかは屁のような(ささいな)ことだ」と主張する。『なに』が書けるかは、『なぜ』をどれだけ考えているかによって決まる。文章は体験であり、体験を自覚しながら日々を生きる、それを轡田氏は「日々を書くように生きる」と表現している。体験があっても自覚がなければ文章は生まれない。自覚があれば小さな体験であっても素晴らしい文章が生まれる。『自覚』のための有力な方法が、どんなことにも『なぜ』という疑問を持つことなのだ。
戦争写真を多く手がけている報道カメラマン・ライター宮嶋茂樹(みやじま しげき:1961年兵庫県生まれ)氏は、正義感に溢れた反戦写真家ではない。むしろ、「(戦争取材で)怖いとか可哀そうとかいった思いはない。とにかく弾の下をくぐってきたという思いだけだ」「今までの人との出会いで一番悲しい思いをしたのは、極上美人の売春婦を値段が高くて買えなかったことだ」と公言する、自分に正直に生きている現実派だ。
TV、新聞、書籍で幅広いテーマに取り組んでいるスポーツジャーナリスト二宮清純(にのみや せいじゅん:1960年愛知県八幡浜市生まれ)氏は、何にでもコメントできる情報と頭の回転の速さを持っているようだった。長身でがっちりした体格、黒を基調としたファッション、彫りの深い顔立ち、途切れることのない豊富な話題、まさにTVが放ってはおかない人材だ。二宮氏は、書く作業の90%を取材に当て、報道された情報でも鵜呑みにしないと明言する。そんな中でTVで活躍し、多くの書籍を執筆する氏の体力、気力の大きさを実感した講座となった。
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「週刊文春」の記者として多くの事件を追いかけてきた佐々木弘(ささき ひろし:1936年生まれ)氏の話は、鮮度が命の事件取材における素早い判断力と行動力の大切さを教えてくれた。人生の大半を事件取材に費やし、日本全国はおろか海外50カ国以上を歩き回った氏の記者としての嗅覚は経験と共に磨かれていったようだ。
赤いセーターに黒いブレザーとズボンのとてもおしゃれないでたちで、ユーモアをまじえて軽快に話を進めるジャーナリスト矢崎泰久(やざき やすひさ:1933年東京生まれ)氏は、一時は発行部数20万ともなった雑誌『話の特集』(1965年創刊、1995年休刊)の編集長兼出版社社主だ。タバコ『ハイライト』の箱のデザインなどで当時頭角を現していたデザイナー和田誠氏と一緒に、既成の枠にとらわれない新しい創造の場を作家やアーティストたちに提供したことで、 『話の特集』には寺山修司、横尾忠則、立木義浩、竹中労、伊丹十三、谷川俊太郎、三島由紀夫、五木寛之、筒井康隆、植草甚一、永六輔、篠山紀信といった新進気鋭のメンバーが集まってきた。
マスコミは時世に迎合する。そうしないと新聞も雑誌も売れず、TVも視聴率が取れないからだ。戦争直前にマスコミが「戦争賛成」となるのも権力からの圧力のためではなく時世に迎合するためだ。とマスコミの危うさや限界を視野にいれつつジャーナリズムの現場で真実を追うジャーナリスト田原総一郎(たはら そういちろう:1934年滋賀県生まれ)氏の話は一つ一つに重みのあるものだった。雑誌「WiLL」も最近右よりだが、それは売れるからであって花田さんが右というわけではない、といった田原氏ならではの発言も面白い。
ソ連という国で、300万点もの日本関連機密資料の中から1通の手紙を探し出し、その手紙について証言できる人物からの裏を取るために、厳寒のソ連で21日もの間その人物の家の前で毎朝たたずんだジャーナリスト加藤昭(かとう あきら:1944年静岡県生まれ)氏の執念や集中力にただただ驚いた講座だった。
卒業課題の最優秀賞は「ヒマラヤを越える子供たち」となった。中国のチベット支配の実態レポートで、WiLLに掲載される。私は皆勤賞として白川静氏著「常用字解」をいただいた。花田編集長から「もうお持ちかもしれませんが」と言われて手渡されたときは、知らない辞書だったので内心恥ずかしかった。出席さえすれば誰でももらえる賞だが嬉しい。
今までであれば本など読まないような女の子や男の子が本を買っていく、と日本一の広さを誇るジュンク堂池袋本店の副店長 田口久美子(たぐち くみこ:1947年東京生まれ)氏は書店での最近の傾向を語る。それは必ずしも喜ばしい現象ではない。売れる書籍の内容やレベルが、コミックと同じようになり、コミックコーナーに置いたほうが売れる書籍すらあるのだ。また、本から多くを学ぼうという人をあまり見かけなくなったということでもある。本を売る現場で長年働いてきた田口氏にとっては残念なことだ。コンビニやブックオフ、Amazon.comなどで大きく変わりつつある書店業の現状を伺うことができた。
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週刊文春などをめぐる裁判を担当している弁護士喜田村洋一(きたむら よういち:1950年生まれ)氏より名誉毀損、プライバシー侵害、著作権について編集者・ライターが知っておくべき法律知識についての講義を受けた。「社会的な評価を低下させた場合に名誉毀損となる、事実かどうかとは別」「他人に知られたくない私事を公開すればプライバシー侵害となる、真実性は問題にならない」とのことで、これらの裁判での主な争点は「報道内容の公共性」となる。著作権侵害にならない「正当な引用」の条件は「公表された著作物であること」「引用の目的上正当な範囲であること」「引用された著作物が従的であること」「公正な慣行に合致すること(出典の明記)」である。個人情報保護法上では「イベント写真などで顔がはっきりと認識できる場合は個人から削除を求められる」可能性がある。といった内容だった。
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「その場に行かなければ写真は撮れない」と、撮影の苦しさと楽しさを語る福田文昭(ふくだ ふみあき:1946年山梨県生まれ)氏は行動派記録カメラマンだ。全国各地の動物園での動物写真から、三浦友和と山口百恵のツーショット写真までその活動範囲は広い。このツーショット写真は40日もの張り込みの末撮影されたもので、二人の婚約発表のきっかけとなった。「(二人の写真を)撮りたかった」と当時の想いを振り返る福田文昭氏の講座は、ライターや編集者と同様にカメラマンも自らの『想い』が大切であることを教えてくれるものだった。
朝10時に京王線八幡山駅に集合し大宅壮一文庫へ。1944年に大宅壮一氏がここに居をかまえマスコミ活動と共に雑誌を集めだしたのが文庫の始まりだ。大宅氏は「本は読むものではなく、引くものだよ」と、本は必要な時に検索できて読めることこそ大切だと説いた。その想いを継いだ大宅壮一文庫では年間2万冊の雑誌・書籍の保管、検索データ作成・入力・維持、記事閲覧サービスなどを45名のスタッフで進めている。
人を包み込むような柔らかく心地よい話し方や親しみのある表情、話が進むにつれて見えてくる内面にある厳しさ、強さ、粘り、そういったもの全てが残間里江子(ざんま りえこ:1950年仙台市生まれ)氏をプロデューサとして成功させている要因なのだろう。強い『自分の想い』をもって多くの人たちを巻き込んでいく名プロデューサの知恵と力に圧倒された今回の受講だった。