リタイア間近組

 
 
リタイア間近組

セカンドライフ 定年準備と定年後の日々

マスコミの学校(2005年)  最前線で活躍中の方々から学ぶ

喜田村洋一氏:ジャーナリスト編集者に必要な法律知識 (12月17日) ページトップへ

 週刊文春などをめぐる裁判を担当している弁護士喜田村洋一(きたむら よういち:1950年生まれ)氏より名誉毀損、プライバシー侵害、 著作権について編集者・ライターが知っておくべき法律知識についての講義を受けた。 「社会的な評価を低下させた場合に名誉毀損となる、事実かどうかとは別」「他人に知られたくない私事を公開すればプライバシー侵害となる、 真実性は問題にならない」とのことで、これらの裁判での主な争点は「報道内容の公共性」となる。 著作権侵害にならない「正当な引用」の条件は「公表された著作物であること」「引用の目的上正当な範囲であること」「 引用された著作物が従的であること」「公正な慣行に合致すること(出典の明記)」である。 個人情報保護法上では「イベント写真などで顔がはっきりと認識できる場合は個人から削除を求められる」可能性がある。といった内容だった。

猪瀬直樹氏:作家への道 (12月16日) ページトップへ

 道路公団民営化委員会委員として注目されたノンフィクション作家猪瀬直樹(いのせ なおき:1946年長野県生まれ)氏の講座は道路公団民営化の成果発表会となった。 「七人の侍」と期待されていた7人の民営化委員のうちの5人が「民営化とはいえず、 新しい特殊法人が増えただけ」(川本裕子氏)などと発言して辞任する異常事態のなかで踏みとどまった猪瀬氏が民営化の成果を主張する姿はなぜか寂しげに見えた。

 先週の講座で「猪瀬は急に変っちゃった」と話していた矢崎氏がもし委員だったら辞任していたに違いないと考えると、 残間氏が『それでいいのか蕎麦打ち男』で書いていた 「団塊の世代が『おめでたい』と言われるのは、ものごとを突きつけるべきときに突きつけず、 あいまいな笑顔でやり過ごしてしまうということが多いからなのではないかと思う。 そうであってもそうじゃなくても大差ないと思っている...」という部分を思い出した。

 講座の冒頭で「59歳になるが若く見える」とご自分でおっしゃっていたが、 同世代のターザン山本氏も「生きている限り青春」と『若さ』にこだわっていたように思う。 頑張ればよりよい明日を得ることができた高度経済成長期を若い頃に経験した団塊の世代にとって、 『若さ』には特別の想いがあるのかも知れない。 タバコが不味ことを風邪の前兆と考えて注意する猪瀬氏は20年間仕事を休んだことがないという。 頑張ることが自慢の団塊の世代の一人なのだろうか。 子供の頃にアメリカ映画で見たタイプライターの格好よさにあこがれ、ワープロが発売されるとすぐ飛びつくなど、 アメリカ好き、新しもの好きといった団塊の世代の特徴をしっかり持っているようにも思えた。

矢崎泰久氏:人脈力①<人脈をどうつくり、維持するか> (12月10日) ページトップへ

佐野眞一氏

 赤いセーターに黒いブレザーとズボンのとてもおしゃれないでたちで、 ユーモアをまじえて軽快に話を進めるジャーナリスト矢崎泰久(やざき やすひさ:1933年東京生まれ)氏は、 一時は発行部数20万ともなった雑誌『話の特集』(1965年創刊、1995年休刊)の編集長兼出版社社主だ。 タバコ『ハイライト』の箱のデザインなどで当時頭角を現していたデザイナー和田誠氏と一緒に、 既成の枠にとらわれない新しい創造の場を作家やアーティストたちに提供したことで、 『話の特集』には寺山修司、横尾忠則、立木義浩、竹中労、伊丹十三、谷川俊太郎、三島由紀夫、五木寛之、 筒井康隆、植草甚一、永六輔、篠山紀信といった新進気鋭のメンバーが集まってきた。

 矢崎氏のこういった人たちとの出会いを楽しく聞くことができた。詩人の谷川俊太郎氏は矢崎氏の無知さにあきれ、 寺山修二氏は、勢いよく開いたアタッシュケースから床に飛び散った中身を拾い集めながら、 一緒に拾う矢崎氏に「ゴミまで入れないでくださいよ」と訛り言葉で懇願し、三島由紀夫氏とはいきなり腕立て伏せを競った。 「最も印象的なもので人間はつながる」「(電話などではなく)人に直接会うことが大切」といった矢崎氏の言葉が実感として伝わってくる。

 『話の特集』は「反権力・反体制」の雑誌だったが、これはジャーナリスト矢崎氏の今も変らぬ姿勢でもある。 「田原(総一郎)はだんだん変ってきた。最近は自衛隊派遣や改憲にも賛成している。 猪瀬(直樹)は急に変っちゃった」と不快感を隠さない。何かを得る、何かを守るというときに時として人は変る。 しかし矢崎氏は趣旨一貫している。賭け事が大好きという氏は思い込んだら一筋、迷うことはないのかも知れない。 江戸小話のように小気味よく、明るく遠慮のない話で、とても爽やかなものが心に残った。

田原総一郎氏:ジャーナリストの心構え/知っておくべきこと (12月09日) ページトップへ

 マスコミは時世に迎合する。そうしないと新聞も雑誌も売れず、 TVも視聴率が取れないからだ。戦争直前にマスコミが「戦争賛成」となるのも権力からの圧力のためではなく時世に迎合するためだ。 とマスコミの危うさや限界を視野にいれつつジャーナリズムの現場で真実を追うジャーナリスト田原総一郎(たはら そういちろう:1934年滋賀県生まれ)氏の話は一つ一つに重みのあるものだった。 雑誌「WiLL」も最近右よりだが、それは売れるからであって花田さんが右というわけではない、といった田原氏ならではの発言も面白い。

 「サンデープロジェクト」(日曜朝10時テレビ朝日)のターゲットはビジネスパーソン、 放送翌日月曜日のビジネスの現場で番組内容が話題となる、そんな狙いだ。 一般消費者ではなく企業を顧客とした会社がスポンサーとなっている。視聴率は9%程度で、 番組が生存するための最低視聴率7%以上を確保するとともに、10%を超えないようにとも考えている。 10%を超えると番組の質が変ってくるからだ。とスポンサーや視聴率を含め全体を考えながら番組を進めている田原氏、 フリーのジャーナリストでここまで考える人は少ないのではないか。まさに成熟した大人のジャーナリストなのだろう。

 「当事者に会うのが取材、当事者以外からの間接情報を私は報道しない」と言い切る田原氏は、 インターネットなどに頼って取材しなくなったジャーナリストが増えていることに警笛を鳴らす。 また、マスコミは多くの間違いを犯している、とも言う。今回の耐震強度偽装問題報道でもTVなどは真実を報道していない。 映像は事実ではあるが、意図された一部のみの映像は真実を反映していない、としだいに熱がこもる。 「明日(11日)のサンデープロジェクトでは鈴木(日本ERI社長)さんに出演してもらう。 私が取材した内容は今までの報道とは全く異なっている」とのアナウンスがあった。

 講座の翌日に番組を見た。 「『1年前に日本ERIで姉歯建築設計事務所の偽造問題を隠蔽していた』というイーホームズ藤田東吾社長の国会発言は誤りで隠蔽ではなかった」という事実(新事実ではないが)はある程度明確にはなったが、 「(弱い構造が見つけられない)検査機関に何の意味があるのか」という疑問には答えていない。 講座で田原氏が意気込んでいた程の大きな新事実はなかった。 この番組から、小さな新事実の発掘を積み重ねて真実に迫る、時間のかかる根気のいる仕事がジャーナリズムなのだということをあらためて感じた。

 講座での田原氏の言葉「『新事実の発見』『新視点(今までの常識が覆されるような)』のどちらかがあれば取材は丸、 二つあれば二重丸、どちらもない取材はバツだ」とか「企画力は、みんなが常識だと思っていることを疑うことから始まる。 『疑うこと』こそ大切」は心にとどめておくべき言葉だ。

佐野眞一氏:取材力④<いい話をどう引き出すか> (12月03日) ページトップへ

佐野眞一氏

 正力松太郎、中内功といった昭和の怪物たちを描いているノンフィクション作家佐野眞一(さの しんいち:1947年東京生まれ)氏は、 厳格な頑固親父といった風貌をもち、静かで気迫に満ちた語りで受講生をひきつける。 氏ご自身も怪物で、怪物が怪物を描いたとさえ思う。

 「正力は新聞やテレビをマス・メディアに仕上げ、野球やプロレスを国民的スポーツに押し上げた。 我々は今でも正力の手のひらの上で過ごしているようなものだ。『巨怪伝 : 正力松太郎と影武者たちの一世紀』(1994 文芸春秋社)で正力を書いた後に、 渡辺恒雄を書いて欲しいといわれた。ふざけるな!!渡辺が悪いというわけではないが(格が違う)」 と一刀両断に切り捨てる言葉には、自分の仕事を『知の格闘技』と位置づけ、 格闘しがいのある人物や事件を長年追ってきた佐野氏の一徹さが感じられた。

 佐野氏が現在執筆中の「齋藤十一(2000年12月86歳で没)」は特に思い入れのある作品となるようだ。 新聞社の週刊誌が圧倒的強さを誇っていた時に雑誌社から初めて発刊された『週刊新潮』、 これをトップクラスの週刊誌にまでに育て上げた辣腕編集長、『週刊新潮』の「法王」とも呼ばれた齋藤十一氏の物語だ。 彼は、瀬戸内寂聴氏など多くの作家を世に送り出した反面、その何十倍もの作家を葬ってきた。 面白くないと大家の連載でも一回で打ち切ろうとする。 血も涙もないと言われた齋藤氏のもとで多くのライターや作家が血のにじむような努力をしてきた。佐野氏もその一人だ。 「人間は誰でもひと皮むけば、金と女と名誉心が大好きな俗物」と公言し、好きとか嫌い、 良いとか悪いとかを超越した人間の真実に迫ろうとする文学活動のようなジャーナリズムには多くの異論もあるが、 佐野氏は「齋藤のおめがねにかかったことは、私の誇りだ」と胸を張る。

 表題の「いい話をどう引き出すか」は一言ではいえないが、最も大切なことは「聞き手の立ち位置」だ。 「他人のことは考えるな。自分が何が欲しいか、自分が何を知りたいかだけを考えろ」というのは齋藤編集長がスタッフに飛ばしていた激だが、 こういった聞き手の確たる『立ち位置』がなければ話は引き出せない、と佐野氏は説明する。 聞き手の資質、力量によってどんな話が引き出せるかが決まるといったことも話していた。 花田編集長から与えられた表題を真正面からとらえて説明しようとする佐野氏に、真面目さとプロ根性をみた。

永江朗氏:取材力③<インタビューの仕方> (12月02日) ページトップへ

永江朗氏

 多くのジャンルの雑誌に取材・執筆しているフリーのライター兼編集者永江朗(ながえ あきら:1958年北海道生まれ)氏は取り扱う範囲も『哲学からAVまで』と広い。 AVのような、親に言えない恥ずかしいこともやって傲慢になりがちな自分を戒めている、と話していた。

 「誰でもできると思ってやり始めたが、ボーっとしていてはできないことが分かって悪戦苦闘している」 と始めた表題『インタビューの仕方』についての話は、「60分インタビュー(4,000字原稿ぐらい)では3つの質問が限度だ。 この場合事前に考えておく質問項目は30~100ぐらいとなる」といった、永江氏のノウハウともいえる実践的なものだった。 幅広い多くのテーマの中で、多くの書籍を読み、多くの人にインタビューしている永江氏ならではのエピソードも聞きたかったが、 今回は実務的な話が中心となる。貴重な内容ではあったが、やや物足りなさを感じた。

福田文昭氏:編集者が知っておくべきこと (11月26日) ページトップへ

福田文昭氏 愛用のライカで受講者を撮影する福田氏

 「その場に行かなければ写真は撮れない」と、撮影の苦しさと楽しさを語る福田文昭(ふくだ ふみあき:1946年山梨県生まれ)氏は行動派記録カメラマンだ。 全国各地の動物園での動物写真から、三浦友和と山口百恵のツーショット写真までその活動範囲は広い。 このツーショット写真は40日もの張り込みの末撮影されたもので、二人の婚約発表のきっかけとなった。 「(二人の写真を)撮りたかった」と当時の想いを振り返る福田文昭氏の講座は、 ライターや編集者と同様にカメラマンも自らの『想い』が大切であることを教えてくれるものだった。

 『田中角栄法廷写真』(『FOCUS』1982年4月9日号)の撮影で知られる福田文昭氏のカメラマン活動は30年以上にわたっている。 その経験から生れた『写真を好きになる8ヶ条』がある。①(感じたままに、素早く)詩を書くように写真を撮る、 ②フィルムを入れた軽いカメラをいつも持ち歩く、③ボーとして、気軽に撮る、④メモをとるようにカメラで記録する、⑤好きなもの(人)を、繰り返し何回も何回も撮る、⑥アルバムに撮影順に全て入れて他人に見せる、⑦取材で会いに行った人は写真も撮る ⑧写した人には必ず写真を送る、で各項目が丁寧に説明された。 「⑤好きなものを、繰り返し撮る」ことでの発見は多く、その発見が良い写真を生む、しかもそれは好きだからこそできる、 といった実体験からくる説明は共感できる内容だった。

 講座の最後に花田編集長が「編集者は、とにかく写真を数多く見ること。 写真集でも、展示会でもあらゆる機会を使って多くの写真を見ること。これが大切」と強調していた。

大宅壮一文庫見学 (11月25日) ページトップへ

 朝10時に京王線八幡山駅に集合し大宅壮一文庫へ。 1944年に大宅壮一氏がここに居をかまえマスコミ活動と共に雑誌を集めだしたのが文庫の始まりだ。 大宅氏は「本は読むものではなく、引くものだよ」と、本は必要な時に検索できて読めることこそ大切だと説いた。 その想いを継いだ大宅壮一文庫では年間2万冊の雑誌・書籍の保管、検索データ作成・入力・維持、記事閲覧サービスなどを45名のスタッフで進めている。

 大宅氏が70歳で亡くなった1年後の1971年に、20万冊の氏の蔵書をもとに設立された文庫は、 現在雑誌64万冊、書籍7万冊の蔵書となりマスコミ界にとってなくてはならない存在となっている。 マスコミからの検索・閲覧で多いのはインタビュー対象者に関連した記事だそうだ。 最近は学生の論文や定年退職者のライフワークなどでの調査利用も増えてきたとのこと。

 特別に書庫を案内していただいた。明治・大正からの膨大な雑誌が保管されているのを目の当たりにして、大宅壮一文庫の貴重さを実感する。 花田編集長が『マルコポーロ』を見つけ、何冊かの表紙のエピソードを語ってくれた。 『週刊文春』で、野球界の長嶋茂雄を思わせるようなスター編集長となっていた花田氏が、周囲からの大きな期待で編集長に就任した『マルコポーロ』、 突然の廃刊で文藝春秋社を去るきっかけとなった『マルコポーロ』だ。雑誌を手にした花田編集長はご機嫌だった。

小松成美氏:ノンフィクションを書く (11月18日) ページトップへ

小松成美氏

 ノンフィクション作家小松成美(こまつ なるみ:1962年神奈川県横浜市生まれ)氏の、会社員から作家になった今日までを垣間見ることができた。 24歳の会社員のときにメニエル症候群によって救急車で運ばれる事態となり、「自分のこの一瞬はもう取り戻せない。 自分のやりたいことをやろう」と決意し文章を書き始める。「13年間ノンフィクション作家を続けることの苦しさ、犠牲、忍耐、 努力は並ではない」と語る小松氏はまさに努力、努力、そして努力の作家だった。

 『中田英寿 鼓動』(幻冬舎文庫)、『イチロー・オン・イチロー』(新潮社)など、渾身の取材による作品を多く執筆している小松氏は、 インタビュー前は「世界で一番この人のことを知っているインタビューアーでありたい」とありとあらゆる資料を読み、 インタビューではこれらの資料によってフィルターがかからないように白紙の心で「世界で一番この人のことを知りたい」と臨む。 執筆に人生を賭けている小松氏が、スポーツや芸術に人生をかけているアスリートやアーティストに真剣勝負で臨むのだ。 そんな真摯な姿勢がインタビューを受ける一流プロたちとの共感を生み、感動的な作品が生まれるのだろう。

 会社員を辞めて文章を書き始めてから5年後に原稿用紙30枚というインタビュー記事執筆の依頼を受けた。初めての大きな仕事だ。 インタビュー相手は当時プロ野球のスーパースター近鉄野茂英雄で、大のインタビュー嫌いで無口だといわれていた。 十分に下調べをしたうえでインタビューに臨んだが、1時間半に及ぶインタビューは悲惨なものとなった。 調べ上げた多くのことを野茂に質問としてぶつけても表情のないまま「まあ、そうですね」といった回答が返ってくるだけで、 自分の気持を言葉にはしてくれない。1時間半の90%は小松氏が喋っているというものだった。

 暗澹たる思いの小松氏がインタビュー終了の5分ぐらい前に、 野茂が三振を取るたびにフアンが「K」(三振の意味)と書かれた板を振る「Kボード」応援についてふと聞いてみた。 観客が投げ放ったKボードで子供が怪我をしたことで全面禁止となっていたときのことだ。「Kボードが禁止になって残念ですね。 大リーグみたいでカッコよかったのに!」と小松氏が言うと、「そうなんですよ。僕が三振を取る励みになっていたんです」という応答があり、 そこから話が弾みだした。結局、野茂自身が電話で球団広報部と交渉しインタビューは更に1時間半続けられ、そこでの野茂は雄弁だった。 前と同じ質問にも今度は多くを語った。 1つの話題で流れを変えることができたは小松氏の努力と気迫を野茂が感じていたからに違いない。 一流プロの心の琴線に触れ、心の言葉を引き出すノンフィクション作家がこうして誕生した。

 野茂のインタビュー記事以前は、雑誌の小さなコラムなどを執筆していた。 原稿用紙3枚を10日ぐらいかけて書き、編集者に渡すと「面白くない。タイトルも付けられない」と言われたり、全面真赤な修正が入ったりする。 必死で書き直して再提出するという状態が続く。この時に「原稿を書くことの尊さと厳しさを知った」と小松氏は振り返る。 多くの編集者に育てられたと感じているようだった。

 「原稿を書くことほど苦しいことはこの世の中にはない、と断言できる」とか「これが世に出たらもう消せない。 そんな重圧で眠れないときもある」と語る小松氏だが、中田英寿やイチローとのインタビューエピソードになると生き生きとして実に楽しそうだ。 身振り手振りをまじえ、豊かな表情で熱く語る姿はまるで若い娘さんのように見えた。 この心の若さと熱意が小松成美作品を生む原動力の一つなのだろう。

堤堯氏:良い編集者とは (11月15日) ページトップへ

 郵政民営化法によって、日本人最後の貯金といわれる郵貯・簡保の340兆円が外資のハゲタかにさらされることになる。 アメリカ大手資本は明らかにこの金を狙っており、しかも彼らの意向に沿った民営化法となっている、と郵政民営化法の危なさを堤堯 (つつみ ぎょう:1961年東京大学法学部卒)氏は説く。

 さらに、小泉批判がTV、新聞から消えつつある事実を挙げ「なぜTV、新聞は何も言わないのだ」と憤る。 経営層からの圧力がかかっているのか。「俺は『諸君』『文藝春秋』の編集長として70冊以上を出したが、 上から何か言われたことは1度もない。 何かあれば編集長が責任を取ればいいのだ」と続ける。雑誌ジャーナリズムの大御所がTV、新聞ジャーナリズムに激を飛ばしているようにも聞こえる。

 このような結構激しい内容にもかかわらず、講座が終わってみると何故かとても暖かいものが心に残った。 安心できる大親分といった風格だからだろうか。「一見こわもてだが、実は暖かい人」と花田編集長が紹介していたが、 そんな人柄のせいかもしれない。ちなみに堤氏は花田編集長が「今まで会ったジャーナリストのなかで最も尊敬する人」だそうだ。

山田ズーニー氏:文章力①<自分の想いを表現する> (11月12日) ページトップへ

山田ズーニー氏

 セミロングのヘアスタイル、黒を基調とした服装で胸には大きな白いコサージュ、きびきびした動作、よどみのない話し方、 理路整然とした濃い話、などで新鮮な印象を強く受けた講座だった。文章表現/コミュニケーション・インストラクター山田ズーニー(やまだ ずーにー:1961年岡山県生まれ )氏は執筆、 講演、大学での講義、企業研修、教材開発、授業企画、TV/ラジオ講座などの活動を通して、人の「考える力・表現する力」を活かし、 伸ばす教育サポートを実践している。対象者は、中学生から高齢者、文章指導をする教授、プロライターまで幅広い。 山田氏がインターネット上で掲載している「おとなの小論文」は5年に及ぶ人気コラムだ。 最近は、今回のような生徒参加型ワークショップに最も力を入れている。

 一人一人が自分自身の言葉で自分自身を語るという、一見なんともないようなことだが実際には難しい、 その難しさを教え、その難しさを解決する糸口を教えてくれる山田氏のワークショップ参加は貴重な経験となった。 おそらく山田氏ご自身からでないと得ることができない経験だろう。 人に感動や共感を与えるためには借り物ではない自分自身の言葉が必要で、そのための最初の訓練が今回の「自分の想いを表現する」だ。 予定を1時間延長し5時間のワークショップとなった。

 自分の『意見』は自分の持つ『問い』に対する『答え』だ。 「ああ、俺はダメだ」という『意見』の人は「自分という人間は良いかダメか?」という『問い』を持っていることになる。 このような「YesかNoか?」といった『問い』では同道めぐりの狭い『答え』しか生まれない。 広がりのある『答え』を生むためには、自分、社会、世界、過去、現在、未来と幅広い範囲を考えての『良い問い』が必要だ。 『良い問い』というスコップを使って自分自身の心の中を何回も掘り下げることによって自分自身を発掘し表現する、 それが今回のワークショップでの課題だった。

 今回のワークショップで発表された受講者全員の自己紹介は、借り物ではない自分自身の言葉で語られ、共感できるものが多かった。 みんなとのつながりが少しできたように感じる。山田氏は「いままででも屈指の、すばらしいものでした」と感想を述べ、 花田編集長が「(山田氏の)感想はお世辞ではない。第1期生の時は散々の評価だった」と補足した。 私個人としてはとても満足できる出来ではなかったが、自分の心に忠実で真直ぐな山田氏の言葉だけに嬉しかった。

残間里江子氏:プロデューサの仕事 (11月05日) ページトップへ

残間氏

 人を包み込むような柔らかく心地よい話し方や親しみのある表情、話が進むにつれて見えてくる内面にある厳しさ、 強さ、粘り、そういったもの全てが残間里江子(ざんま りえこ:1950年仙台市生まれ)氏をプロデューサとして成功させている要因なのだろう。 強い『自分の想い』をもって多くの人たちを巻き込んでいく名プロデューサの知恵と力に圧倒された今回の受講だった。

 山口百恵の自叙伝『蒼い時』(1980年集英社)をプロデュースし注目された残間氏は、 119人のパネリストの一人として小泉総理も参加した「大人から幸せになろう」というトークフォーラム(2001年)のプロデュース、 都市再生機構による東京ベイエリアの「東雲(しののめ)キャナルコートCODAN」プロジェクト(1998年-)への参画、 2007年ユニバーサル技能五輪国際大会の総合プロデュースなど多方面にわたって活躍している。 残間氏の目指すところは「新しい価値観の創造、そしてそれによって誰かが可能性の巾を広げてくれること」だ。


 自叙伝を出したいと山口百恵自身が依頼してきたときに、「自分で書きたい」という彼女の言葉を聞いてプロデュースを引き受けた。 「ゴーストライターで」といった話が出たら依頼は断っていた。当時40社にも及ぶ出版社から自叙伝出版の依頼があり、 「百恵さんは何も書かなくていいです」との申し出まであった状況での話だ。 残間氏には「著者が書いていない本を出したら(自分の)母に叱られる」という想いがあった。自らの想いを行動の原点におき、 そこから外れるようなことはしない。当時多くの出版社が欲しがっていた山口百恵の自叙伝も例外ではなかった。 それほど自分の想いや主観を大切にしているのだ。

 出版でもイベントでもたくさんの人や企業の協力がないと成り立たない。残間氏はそんな人たちを「春風」で巻き込む。 「春風」とは「理想の形をかかげる」こと。それぞれに想いや思惑があり、それを刺激して人々や企業をコーディネートしていく。 「大丈夫です。何とかします」と言えることが大切だという。「何があっても殺されることはない」という図太さも必要なようだ。

 出版やイベントの成功の裏には多くの難問があり、それを一つ一つ解決していく残間氏の広い視野、幅広い人脈、 強力な行動力、粘り強さ、そして何よりも「想いの強さ」には敬服するしかない。出版されることのない原稿をこつこつと書き続け、 押入れを原稿用紙で一杯にしていた母を見て育った彼女には「世の中で欠けているものを埋めたい。 割をくっている人たちを勇気付けたい」という強い想いがある。そんな想いが人々を動かし難問を解決していく。 認められたいとか、注目されたいとか、感謝されたいとかいうことよりも何かをしたい、してあげたいという姿勢を強く感じる。 「独りよがりではない『想い』、身近な人のための『企画』が大切」という言葉が印象的だった。

 質問コーナーで花田編集長が「『春風で人を誘う』はいいですね」と言うと残間氏がすかさず「花田さんは今夏風だから」と微笑んだ。 「夏風で人を煽る」ということなのだろうか。楽しそうな会話だった。

花田紀凱氏:企画力②<実際に企画をたててみる> (11月04日) ページトップへ

 先週みんなが提出したWill記事企画案に対する花田編集長のフィードバックの時間だ。 冒頭から水を飲む花田編集長は少し疲れ気味に見えたが、企画案へのコメントが始まると活力に満ちた編集長となっていた。 真剣勝負の雑誌編集の現場ではもっと激しいコメントや応酬があるのだろうが、 今回は生徒に対するコメントなのでかなり手加減しているようだった。

 今回の企画案一覧をみると着眼点がすごいと思われるタイトルが並んでいる。 しかし花田編集長は開口一番「Willに掲載したい企画案はなかった」と手厳しい。当然ながらプロはそんなに甘くはないのだ。 「読みたくなるタイトルはどれか」「このタイトルで何を言いたいのか類推できるか」とみんなに質問していきタイトルの重要性を最初に強調していた。

 企画内容では、思いつきや想像ではなく下調べをしたうえでの提案を求めた。 「国家財政破綻カウントダウン」という企画案で「『アメリカは日本破綻後のプランをすでに作っている』とあるが根拠はあるのか」といった質問が出る。 他の企画案でも同様の質問が続く。説得力を増すための数字の活用、そして日頃からメモをとることを強く勧めていた。 自分の立てた企画案を花田編集長に評価してもらう貴重な時間だった。

元木昌彦氏:取材力①<取材の仕方> (10月25日) ページトップへ

元木校長

 今回の衆議院総選挙でTVの影響力の大きさがより鮮明になった。新聞の影響力は落ちぎみで、雑誌にいたっては火が消えたようだ。 個人情報保護法と、田中真紀子の娘さんの離婚記事に対する出版差止め命令が元気のない出版ジャーナリズムに追い討ちをかけている。 個人情報保護法では出版社や作家は適用除外の報道機関として明記されていないし、 あの離婚記事程度で出版差止めでは政治家のスキャンダルなどはもう書けない。 出版差止めとなると印刷費や広告費などの損害で出版社は大きな打撃を受けるからだ。 離婚記事の週刊文春の場合はすでに配送された後だったので、むしろ完売に近い形で終わったが。 光文社などは週刊宝石を休刊し出版ジャーナリズムから手を引く気配だ。 と静かに話す元木昌彦氏(もとき まさひこ:1945年生まれ)氏は講談社で「フライデー」「週刊現代」などの編集長を勤め、 告訴された数はまだ誰にも破られていないといわれる筋金入りの雑誌ジャーナリストだ。

 立花隆が田中金脈記事を文藝春秋に書いたとき、ある新聞記者が「あんなことは分かっていた。 俺ならすぐ書ける」といったのを聞いて「ではなぜ書かなかったのか」と反発したそうだ。 「書ける」ことと「(実際に)書く」こととの間には大きな差があるということだろう。 TVや新聞ではできない役割が雑誌ジャーナリズムにはあるという自負心からかもしれない。 非核3原則があるにもかかわらず原子力空母の日本配備が認められようとしているし、自衛隊を自衛軍と呼ぶ案がでたり、 犯罪を話し合っただけで逮捕できる共謀法などが提出されたり、元木氏として気になることが多く、 雑誌ジャーナリズムがもう一度元気を取り戻さないと日本はまずい、という想いがあるように感じられた。 歴戦のジャーナリストと一緒に呑みながら厚みのある話を聞いたような、そんな講座だった。 だいぶ時間が経過してから「これを話さないと花田編集長に叱られる」と言いながら「取材の仕方」についての講義があった。

加藤昭氏:取材力②<ネタ元をどうつかまえるか> (10月24日) ページトップへ

 ソ連という国で、300万点もの日本関連機密資料の中から1通の手紙を探し出し、 その手紙について証言できる人物からの裏を取るために、 厳寒のソ連で21日もの間その人物の家の前で毎朝たたずんだジャーナリスト加藤昭(かとう あきら:1944年静岡県生まれ)氏の執念や集中力にただただ驚いた講座だった。

 暴力革命を否定し人格者と当時言われていた日本共産党野坂参三が、 スターリンに日本共産党員を密告し処刑させていた密告者だったことをスクープした「闇の男野坂参三の百年」 (週刊文春(1992年9-11月)に連載されたドキュメントをベースに文藝春秋社より1993年に発刊)の取材エピソードだ。 このドキュメントにより野坂参三は日本共産党を追われ、この本を読んだ日本共産党員の多くが涙し党員をやめていった。

 この取材エピソードの詳細は感動的だ。ジャーナリストという人たちはそこまでやるのかとさえ思う。 フリージャーナリスト加藤氏が何の当てもなくモスクワに一人で到着するところから、現地での調査スタッフを集め、 300万件もの機密文章の閲覧に成功し、スタッフの努力とチームワークで1通の英文の手紙を見つける。 そしてその手紙の裏をとるためにソ連対日政策の総帥といわれた人物への接触を試みる。 それが冒頭にある「厳寒のなかでの毎朝のたたずみ」となる。 イワン・イワノビッチ・コワレンコというその人物の名前を加藤氏は白板に大きく書いた。氏の強い想い入れを垣間見る。 毎朝顔を合わせて頭を下げるだけの加藤氏に、21日目にコワレンコから声を掛けてきた「いったい何を聞きたいんだ」と。 そして長時間のインタビューの中で全てを語ってくれたのだ。

 フリーのジャーナリストである加藤氏にとって結果が出なければ何の収入にもならない。 ソ連の戦闘機にサハリン沖で撃墜された大韓航空KAL007便事件では2年半調査し、 サハリンにも行ったが大きな結果は得られず60万円の原稿料となっただけだった。2年半で僅か60万円の収入だ。 日本共産党について調べようとモスクワに降り立ったときも「結果がでないかもしれない」という大きなリスクをかかえていた。 それでも突き進むのはジャーナリズムの現場の面白さが忘れられないからのようだ。 今回の話の中でもエピソードの区切りごとに「面白いですね」とい言葉が頻繁に出てきた。 苦労した中で成し遂げた達成感は「面白いですね」という表現になる。花田編集長からも「面白い」という言葉をよく聞く。 「面白い」というのはジャーナリストの力の源なのだろうか。

 加藤氏がジャーナリストを目指すきっかけとなったのは、 学生の時に参加した「大宅マスコミ塾」でジャーナリズムの面白さにはまったことだった。講座初日の大下英治氏と同じだ。 こういった全く異なる個性の人たちをジャーナリズムに目覚めさせた「大宅マスコミ塾」とはすごいところだったのだ。 塾の中間試験は「38度線に行って取材してこい」「アメリカに行ってケネディ長官のインタビューを取って来い」 「ベトナム戦争を取材して来い」といったスケールの大きなもので、大学での授業とは比べものにならない面白さで若い加藤氏の心をとらえた。 マスコミ人として大切なものは「友人」「読書」「旅」、と塾では教えていたそうだ。

 共産党一党独裁の長期化、言い換えると権力の長期化が大きな腐敗を生むのを自分の目で見てきた加藤氏は 「マスコミは常に権力の反対側にいなくてはいけない」という。物静かな細身の加藤氏の内面にある激しい情熱や信念に圧倒された講座だった。 この1講座だけで「マスコミの学校」を受講した意義が十二分にあったといえるほどだ。 質問コーナーで加藤氏が「ソ連行きは『日本共産党を書かないか』という花田さんからの1本の電話から始まった。 花田さんはそれ以上のことは何も言っていない。皆さん、楽をしたいと思ったら編集者の方がいいですよ」と冗談を言うと、 花田編集長は苦笑いしながらも「(編集者としての)感ですよ」とちょっと自慢げだった。

ターザン山本氏:編集者・ライターに何が必要か (10月22日) ページトップへ

ターザン山本氏

 「生きている限り青春」と言う山本氏の話は、白黒のはっきりした分かりやすい体育会系色の強いものだった。 90年代に「週刊プロレス」のカリスマ編集長として一時代を築いたターザン山本(たーざん やまもと:1946年生まれ)氏は来年還暦を迎える。 しかし、ピンク柄の帽子、淡い黄色にピンク柄のシャツと淡いオレンジのマフラー、黒のブレザー、グレーのズボン、 ベージュの靴といういでたちでのパワフルな語りは、なお青春真っ只中のようだ。 長年勝負の世界を見てきた山本氏の一瞬一瞬への闘魂を感じた講座だった。

 この日の講座内容は氏のブログに掲載されている。 「都会で生きてる限りネクストがある、だから(1)に故郷を捨てろ!(2)に両親を捨てろ!(3)に会社を辞めろ! そしてネクストに賭けろ」という激しいものだが、氏自身の生き様のようで説得力がある。 「言語感覚を磨く。日本語に対する感性を磨く」という話では、俳句を例にあげながら 「風景やリズムを感じる文字・文章を書け。日本語への自意識を高めろ」と熱っぽく語っていた。

花田紀凱氏:企画力①<大事なのは企画> (10月21日) ページトップへ

花田編集長

 花田紀凱(はなだ かずよし:1942年東京生まれ)編集長の「企画力講座第1回」だ。編集者・ライターに必要なものとして「構想力」「記憶力」「人脈」「情報収集力」「企画力」 「取材力」「表現力」をあげ、一つ一つについての丁寧な説明があった。経験をふまえた、具体的で実践的な話だ。 この「マスコミの学校」で若い人たちを育てようとする花田編集長の熱意が伝わってくる。次のターザン山本氏の講座も熱心に聴き、 山本氏とともに白板の文字を消すなどの何気ない花田編集長の行動にも、そんな意気込みが感じられた。

 花田編集長が最も重視しているのは「企画力」だ。 「『がんに効く』アガリクス本で逮捕 -薬事法違反容疑-」の記事をみんなに読ませて「これをみて何を思うか」と質問した。 花田編集長はこの記事をみて「今までアガリクスの広告を散々出してきた新聞各社は、 なぜそのことに一言も触れていないのか」と考え各新聞社にすぐ電話をしたそうだ。 この視点、この行動力が編集者・ライターに求められるものなのだろう。問題意識と行動力が「企画力」を高めるためるに必要なのだ。

開講式・大下英治氏特別講演:選挙と報道 (10月15日) ページトップへ

会場 マスコミの学校開講式会場

 このページでは、第2期「マスコミの学校」を受講した内容や感想を掲載していきます。

 マスコミの学校は「月刊ウイル」 が主催する「編集者・ライターになるための講座」だ。開講式のこの日、講座主催者の元木昌彦氏、 花田紀凱氏の挨拶に続いて大下英治(おおした えいじ:1944年広島県生まれ)氏の特別講演「選挙と報道」があった。今回の衆議院総選挙がテーマで、 豊富な取材と、長年政治家たちをみつめてきた大下氏の視点から生れるノンフィクションは、分かりやすく面白く、 本質に迫っている。週刊文春の記事を長年手がけてきた氏ならではだ。

 全身に刺青を入れた任侠の政治家小泉又次郎の孫である小泉純一郎の喧嘩強さ、 多くの政治家が政策論議や勉強会に時間を割いているときに歌舞伎やオベラの観賞に時間を割いていた小泉純一郎の聴衆を感動させる力、 そういった切り口での大下氏の話は新鮮で刺激的だった。 マスコミの第1線で活躍している方々の話を直接聞くことができるこの講座のすばらしさを改めて実感した。

 大下氏の話を聞いていると、今回の選挙で多くの人の政治生命を奪った攻撃的な小泉首相、 断片的な言葉だけで詳しい説明をしない小泉首相が、殺(や)るか殺(や)られるかの、言葉少ない任侠の世界の人間と重なって見えてくる。 また、演劇好きの小泉首相が、演劇の緻密に計算された演出で多くの人が感動するのを体感し、 それを政治の世界に持ち込んだとしてもおかしくはない。そう見ると、今回の郵政総選挙のシナリオは見事なものだ。大衆から見ると、 単純で分かりやすく、筋が通っており、主役と悪役、刺客などの役者がそろっている。 「改革を止めるな」といった、民衆に呼びかける選挙スローガンも小泉首相自身で決めた言葉だ。こうして大衆の心をつかみ、 感動へと導いていく小泉大衆劇場なのだ。「課題は郵政だけでなくたくさんある、民主党のマニフェストを読んで欲しい」と、 大衆がマニフェストを読むと考えた秀才岡田代表は、勉強はしないがイノチはかける小泉首相にあっけなく負けてしまった。

 大下氏の話の中に、「衆議院解散を思いとどまらせようと小泉首相を説得しに行った森元総理が帰り際に首相から『外に出たら記者がいっぱいいるだろう。これ(ビール缶)を持って、 俺のことをできるだけひどく言ってくれ』と頼まれた」というのがあった。 ビール缶を片手に疲れきった顔つきで「(小泉は)変人以上だ」と語る森元首相のあのときの映像は小泉首相の本気度を十分に伝えていた。 そんなエピソードを引き出す大下氏に凄みを感じた講演だった。