リタイア間近組

 
 
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セカンドライフ 定年準備と定年後の日々

大江戸ウォーキング(2012年)  江戸や明治の町を歩きます

No.015:江戸時代の旅体験-自宅から京都- (05月24日) ページトップへ

 川崎の自宅から京都までの歩き旅、11日間で498.2km、1日平均45.3kmでした。今年は3日目に足裏にマメができてしまい苦しい歩きとなり、もう歩けない、と思った瞬間もあります。現代では、何かあればいつでも帰ることができますが、帰るに帰れない江戸時代、場合によっては大変な思いをした人も多かったのではないでしょうか。なお、合計498.2kmは、持参したGPS機で記録された距離です。地図上の計画ルートでは478.5kmなので4%ほど回り道などをしたことになります。

 日本橋から京都三条大橋まで江戸時代の東海道は495.5km(126里6町1間:1里=36町=2160間=3927.2688mにて計算、参照サイト)、今回の計画ルートとの差17kmは、日本橋発と自宅発の差ですが、実際の歩行距離498.2kmをみると江戸時代の日本橋・京都三条大橋間体験に十分相当すると言えそうです。出発から到着まで、一切の乗物を使わず、自分の足だけで進むのを大原則としているので、自宅からの出発としています。参考までに、自宅から東海道に合流する平塚宿入口の見附跡までが45.8km、日本橋からだと62.8km(16里)、この差が17kmとなります。

 費用は総額93,119円で、11泊の宿泊代53,855円(1泊4,896円)、12日間の飲食代27,184円(1日2,265円)、12日平均6,753円、帰りの交通費12,080円でした。

自宅から京都までの11日間の行程です。<詳細地図を見る>

4月25日(水):自宅3時6分発、小田原19時2分着、66.7㎞

自宅地域のランドマークが出発点<写真を拡大>

 50kmほど歩いて宿泊予定だった大磯に到着しましたが、翌26日の天気予報が終日雨となったので、更に15kmほど先の小田原泊としました。前回、前々回の反省から、排気ガスが少なそうな道を更に厳選した結果、京都までのほとんどが旧東海道となり、今回たくさんの本陣跡を通ります。この日は日本橋からは7つ目の宿場となる平塚宿の本陣跡、JR平塚駅前を少し過ぎた市民センターのところが宿場の入口だった見附があった場所、出口の見附は花水川手前、その間のほぼ中央、神奈川銀行前に本陣跡の石碑がありました。いまは繁華街の外れとなった感があるこの地が、江戸時代には宿場町の中心だったようです。


26日(木):小田原時11時42分発、三島20時35分着、36.6㎞

 朝から雨、これは小田原でもう1泊か、と考えていたのですが、昼前にやんだので芦ノ湖の元箱根まで行こうと出かけました。箱根の山中は小雨でしたが、行き交う車が少なく結構快適な歩きです。東海道一番の難所「樫の木坂」の手前にそば屋さんがあり、そこで昼食、70歳になる親父さんが一人でやっていて、やはり歩くのが好きらしく、京都まで歩くなんて羨ましい、と言っていました。午後4時ごろ、小雨のまま芦ノ湖に到着、旧街道は石畳で転ぶ危険があるものの、1号線の舗道であればその心配はなく、歩道もあって安全、この日は車も少なく排気ガスの心配もあまりないので、そのまま20kmほど先の三島まで行くことにしました。暗くなったころに雨もやみ、午後8時35分に三島の宿に到着しました。

 朝から、刻々と変わる雨雲の動きを調べ、元箱根の宿を探し、さらには三島での宿を予約する、などインターネットを駆使した作業を自宅の妻に電話で頼んでいます。私からの問合せ電話だけで23回、調べての回答電話を入れるとかなりの回数の電話のやり取りがありました。先々の天気を予測して都度行程を変え、宿を事前に確保するという、現代ならではの歩きとなりました。それに、街路灯のある舗道を歩く、というのも江戸時代にはできなかったことです。急いだので小田原宿の本陣跡は通らず、箱根宿本陣跡のみ通りました。


27日(金):三島8時24分発、由比18時25分着、41.4㎞

蒲原宿本陣跡(左手前の黒塀の家、右手前は旅籠)<写真を拡大>

 ホテルで朝食をしっかりとってからの出発という、優雅なスタートでしたが、宿に到着するころに足裏にマメができてしまいました。これが今回の旅をかなり苦しいものにしていますが、それは「定年、その後」にて報告します。この日通過した本陣跡は原宿と蒲原宿、ここまで来ると旧東海道の面影が少しは残っています。宿泊は昨年と同じ割烹西山旅館、昨年美味しかった桜エビ尽くし膳が目的、ビールと共に今年も美味しくいただきました。


28日(土):由比3時13分発、藤枝17時14分着、47.3㎞

駿河湾の夜明<写真を拡大>

 45km以上の行程なので午前3時過ぎに宿を出ました。興津川を渡るころに駿河湾からの日の出となり波の音を聞きながらしばしの休憩、とここまではまだ良かったのですが、その後マメの痛さに悩まされ、さらには足親指の関節も痛くなってきて、宿の5kmほど手前で、もう歩きたくない、となりました。でも宿まで歩くしかなく、ゆっくりと歩きました。江戸時代の旅の厳しさを少し実感することとなったのです。本陣跡前は通らなかった由比宿とその次の興津宿、本陣跡を通った、江尻宿(清水)、府中宿(静岡)、丸子宿、岡部宿、藤枝宿で計7宿場、だいたい8km(2里)間隔となります。江戸時代の旅は1日32km(8里)、その間に4カ所も宿場あったので、そのときの天候、体調、体力に応じていろいろな進み方ができたことが分かります。このような宿場の整備で、老人から若者まで多くの人たちが旅を楽しめたことでしょう。


29日(日):藤枝7時50分発、磐田20時29分着、42.9㎞

美しい茶畑が気持ち良い<写真を拡大>

 朝食付きの宿泊なので、たっぷり食べてから出発、おかげで昼食はクッキー、20kmほど進んだ日坂宿の旧街道沿いのパン屋さんで飲み物を買って店先でいただきました。車がほとんど通らない旧宿場町でクッキーをのんびりいただくのもいいものです。ここは小高い山の中、大井川を渡ってから登り始め、途中にいくつかの茶畑がありました。とても気持ちの良い風景です。マメや足親指の痛みをしばし忘れるひとときでした。この日は、島田宿、金谷宿、日坂宿、掛川宿、袋井宿と全ての宿場の本陣跡を通りました。


30日(月):磐田8時13分発、新所原20時15分着、42.4㎞

見付宿(磐田)本陣跡(右手前のお茶屋さん)<写真を拡大>

 この日もホテルで朝食、高台にある磐田グランドホテルの最上階レストランで、眼下に広がる町を眺めながら、優雅に、気持ちよくいただきました。昨年も泊まったこのホテル、部屋は広く、ユニットバスではないのでバスルームとの段差がなく、温泉大浴場もあって、足の疲れた私には優しいホテルです。朝食後、ホテルを出て30kmほどで浜名湖、午後4時ごろ到着して、今日は早く寝ようと早めの夕食、食べるところが見つからず、砂浜で湖を眺めながらコンビニ弁当を寂しくいただきました。そこから10kmほどの宿に着いたのは午後8時過ぎ、洗濯もせずにすぐに寝ています。

 朝食をしっかりとって、昼食を軽く、夕食を早めにとって、宿に着いたら風呂に入って寝る、これからはこのパターンがよさそうです。七つ発ち、と午前4時ごろに出発して、明るいうちに宿場に着いて良さそうな宿を確保し、1日1回しか水を替えないお風呂に早めに入り、暗くなる前に食事を済ませる、といった江戸時代のパターンは現代では必要ありません。宿は予約しておけるし、お風呂の水はいつでも替えられて清潔だし、日が暮れても食事に不便ということはないのです。車との共存ということを除けば、現代の方が歩きやすそうです。この日通った本陣跡は見付宿(磐田)のみでした。


5月1日(火):新所原5時12分発、岡崎18時50分着、44.5㎞

赤坂宿本陣跡(左手前)<写真を拡大>

 45kmほどの行程なので、ホテルでの朝食をあきらめて早朝に出発しました。吉田宿(豊橋)、御油宿、赤坂宿、藤川宿の本陣跡を通って岡崎に到着です。マメや足親指の痛みでの変則的な歩きで疲労がピークとなり、翌日は休養日としました。江戸時代でも多くの人がそんな経験をしたのでしょう。


2日(木):休養


3日(水):岡崎7時31分発、名古屋16時43分、36.0㎞

池鯉鮒(ちりゅうふ:知立)宿のお祭り<写真を拡大>

 1日休養したおかげで元気になり、ホテルで朝食をとってから出発しました。江戸時代は熱田宿まで行って、そこから桑名宿まで舟でしたが、そのルートの南を国道23号線、名四国道がいまは通っているのでここを歩き桑名の南端に出ます。その途中の、名古屋港水族館近くがこの日の宿、昨年も泊まった旅館で、女将さんが顔を覚えていてくれました。泊まる予定の人が自転車での転倒で来れなくなった、とのこと。自転車での転倒だったら結構な怪我だったのでは、と私も気が引き締まる思いでした。この日通った本陣跡は池鯉鮒(ちりゅうふ:知立)宿のみ、出発地の岡崎宿は本陣跡を通らず、国道23号線の北にある鳴海宿、宮宿(熱田神宮)は宿場そのものを通りません。


4日(金):名古屋1時20分発、鈴鹿14時37分着、47.2㎞

木曽川で夜明<写真を拡大>

 旅館であまり眠れなかったので、思い切って夜中に出かけました。15kmほどで木曽川そして長良川、朝5時過ぎのに朝日を背にして橋を渡っていると漁から帰る漁師さんの船が下を通ります。快晴で気持ちの良い朝でした。やがて桑名、ここから今日の宿のある鈴鹿まで約30km、四日市を過ぎると東海道と伊勢街道の追分、ここから東海道と離れて伊勢街道に沿って鈴鹿に向かいます。1号線の排気ガスを避けての南側迂回ルートです。この日通った本陣跡は四日市宿のみ、最初の桑名は本陣跡を通らず、追分後の石薬師宿、庄野宿は宿場そのものを通りません。


5日(土):鈴鹿3時22分発、水口15時46分着、44.9㎞

関宿本陣跡(右手前に石碑)<写真を拡大>

 この日も早くホテルを出ています。次の宿に早く入って、早く寝て、最終日も早く出ようと。というのも、最終日に立ち寄るところがあったからです。10kmほどで亀山、ここで旧東海道に再び入ります。亀山宿、関宿、坂下宿、鈴鹿峠を越えて土山宿の全ての本陣跡を通って水口に到着です。この日が江戸時代の東海道を最も偲ぶことができる歩きとなりました。特に関宿は町全体が江戸宿場情緒にあふれていました。


6日(日):水口5日22時39分発、京都11時41分着、48.3㎞ 合計498.2㎞ 45.3㎞/日

京都三条大橋に到着(GPS機は歩行距離531kmを記録)<写真を拡大>

 最終日、立寄るところがあって、かつゴールデンウィーク最終日で帰りの新幹線が満席でとれないので東京行に早めに乗ろうと、5日の午後5時頃に寝て、午後10時に起きて出かけました。旧東海道の南を通る迂回路、車はほとんど通らず、夜で日差しはなく、気温も歩くのに最適で心地よく、夜明けまでの25kmはこの旅で最高に気持ち良い歩きとなりました。立寄るところのある草津に夜明けごろ到着、用事を済ませてから24kmほどで京都三条大橋に到着しています。東京への帰りは14時9分のこだまとなりました。この日通った本陣跡は草津宿のみでした。今回、平塚から京都三条大橋までの宿場47のうちの26の本陣跡を通りました。