リタイア間近組

 
 
リタイア間近組

セカンドライフ 定年準備と定年後の日々

大江戸ウォーキング(2007年)  江戸や明治の町を歩きます

No.006:特別編:ニュルンベルク (12月13日) ページトップへ

 クリスマスシーズンのドイツの町々を旅行しました。そのひとつがニュルンベルクで、中世における神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)の帝国会議開催の町、そんな帝国の復活をもくろんだナチが党大会を開催した町、そのため第二次大戦で徹底的に破壊された町、中世の建物が最善の形で保存され一大観光都市だった戦前の姿を取り戻すべく戦後の復興がすすめられた町、そんな一面をもつ人口約50万人の都市です。

 復興された中世のたたずまいのある街並みを歩けば、中世へと簡単にタイムスリップすることができます。江戸にタイムスリップするためにはかなりの想像力を必要とする東京とは大きな違いで、昔を歩くというこの「大江戸ウォーキング」の狙いを安直に実現できるのです。最新小型デジカメで、教会の鐘の音を録音したり、クリスマスマーケット全景をパノラマアシストで撮影したりしながらの楽しいウォーキングとなりました。

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1.フランクフルト中央駅

<写真を拡大> <駅のアナウンスを聞く>

 ドイツで最初の鉄道は、1835年、江戸時代の天保6年、日本で鉄道が開通する明治5年(1872年)の37年前、ニュルンベルクと隣町フュルト間約8kmで開通しました。その当時からのシステムなのでしょう、市街道路とプラットフォームとの境がなく、まるで路面電車や馬車に乗る感覚で電車に乗り込みます。1番線から24番線までが横一列に並ぶ広い駅は、高い天井をもち、天井窓からの自然光があふれ、屋外のような開放感をもっています。それは昔からの雰囲気にちがいありません。そんな伝統や歴史を感じさせるフランクフルト中央駅が、中世への旅、ニュルンベルクへの出発点となりました。


2.クリスマスマーケット

<写真を拡大> <教会の鐘の音を聞く>
<写真を拡大> <教会のパイプオルガンの音を聞く>

 ここニュルンベルクのクリスマスマーケットが世界で一番有名だといわれています。1628年、江戸時代初期の寛永5年には開催されていたという記録がある伝統的なマーケットです。可愛い工芸品を売る屋台が並び、クリスマスを祝うための飾りや人形などを求めて多くの人びとが集まり、そこに焼きソーセージや熱いグリューワインの屋台もでき、お祭り気分があふれます。装飾品を中心とした手作りの品々は一つひとつが微妙に違うので、選ぶ人たちも、自分のお気に入りを見つけようと真剣です。それは昔から変わらない風景なのでしょう。世界で唯一の自分だけのもの、人のぬくもりが感じられるもの、といった手作り品ならではの魅力が、この盛大なクリスマスマーケットを昔から継続させている一つの要因なのではないでしょうか。味付けも何もない素朴な焼き栗がとてもおいしく、昔ながらの味を楽しみました。


3.教会

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 クリスマスマーケットのある中央広場からお城に上がる坂道沿いにある聖セバルドゥス教会には、大戦で破壊された教会の写真が展示されていました。屋根も壁も崩れ落ち、教会内外にがれきが散乱しています。この状態から、がれきを一つひとつ拾い集め積み重ねていく気の遠くなるような復旧作業がおこなわれたのでしょうか。心の拠りどころとなる教会の復旧が、自分たちの心の復旧につながることを信じての作業たったにちがいありません。なにか強い信念や願いがなければとて成し得ない気がします。敗戦で打ちひしがれた人びとの悲しみが伝わってくる写真、困難な復旧作業を見事に成し遂げた人びとの誇りが伝わってくる、戦後60年を経てもいまだに実施される展示、それが心に強く残りました。


4.城

カイザーブルクからのながめ
<写真を拡大> <大広間でのガイド説明を聞く>

 旧市街の北の端の岩山に建つ城塞カイザーブルクは、12世紀に神聖ローマ帝国の皇帝居城となったところです。宮殿のような豪華さはなく、頑丈で質素な城塞です。天井や床の重量感ある木材、白壁などに囲まれた皇帝の広間にただよう重々しさ、その窓から見下ろす市街の美しさ、そんなところに立つと、皇帝の権威を感じざるを得ません。機能的な城塞としてだけではなく、人びとの頂点に立つ皇帝の権威をも示す場でもあったのでしょう。


5.デューラーの家

デューラーの家
<写真を拡大> <中世楽器の演奏を聞く>

 ドイツ・ルネッサンスを代表する画家アルブレヒト・デューラーの家では内部が見学できます。日本語のイヤホンガイドもあり、2階の台所にトイレを作り罰金を取られた、といった生々しい当時の生活ぶりが紹介されています。どういう罰金なのかはわかりませんが、中世ヨーロッパの都市では排泄物を窓などから道路に捨てていたようで、そんなことに関連していたのかもしれません。ほぼすべての排泄物が肥料として回収され再利用されていた江戸に比べると、不快な臭いがただよう町だったのかもしれません。日本語のイヤホンガイドによって、中世のこの町の内面を少しだけ覗けた気がしました。

No.005:日和下駄 (11月12日) ページトップへ

 永井荷風の「日和下駄(ひよりげた)」には、大正三年当時の東京市中の様々な風景が描かれています。その美しく臨場感あふれる描写は、「市中の散歩は子供の時からすきであった」荷風ならではのものでしょう。

 「私は別にこれと云ってなすべき義務も責任も何もない云わば隠居同様の身の上である。その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気に暮らす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである」という荷風ですが、このときのかれはまだ36歳、慶應義塾大学の教授で雑誌「三田文学」の主宰者でもあり、そんな境涯(きょうがい)ではありません。これはかれの理想で、その後のかれの生き方がそのことを示しているといわれています。そんなかれの理想とする境涯にすでにある私が、かれがみた風景を追ってみました。

 江戸切絵図をもって散策する荷風が描く風景は、当時まだ色濃くのこる江戸庶民の社会のなごりで、やがては消えていくであろう風景なのです。それは、より正確な陸軍陸地測量部地図を嫌い、より直感的な江戸切絵図を好むかれが展開する文明批判でもあり、先の理想ともつながっている気がします。「(私は)或時は表面に恬淡(てんたん:あっさりしていること)洒脱(しゃだつ:俗気を脱していること)を粧(よそほ)つているが心の底には絶えず果敢(はかな)いあきらめを宿している。(中略)私は後(うしろ)から勢(いきほひ)よく襲ひ過ぎる自動車の響に狼狽して、表通から日の當たらない裏道へと逃げ込み、そして人に後(おく)れてよろよろ歩み行く處に、わが一家の興味と共に苦しみ、又得意と共に悲哀を見るのである 」というかれは、勢いをます実利的資本主義、その象徴としての自動車、そんな時世に背を向けて日のあたらない裏道へと入り、そこに安らぎと悲しみをみつけているのです。そんな荷風に時代を越えて共感する人は多いことでしょう。かれの心に映った風景を新しい小型デジカメで写し撮ろうという想いにかられてでかけました。荷風の美しい風景描写と、最新の小型デジカメを入手したばかりの興奮がそんな気分にさせたようです。よく晴れた秋の17kmウォーキングとなりました。

参考:日本近代文学大系 第29巻 永井荷風集(角川書店1970年刊)、荷風日和下駄読みあるき(岩垣顕著、街と暮らし社2007年刊)

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1.寺 不忍弁天堂

不忍弁天堂<写真を拡大>

 「日本の神社と寺院とは其の建築と地勢と樹木との寔(まこと)に複雑なる総合美術である」とする荷風が「不忍(しのばず)の池(いけ)に泛(うか)ぶ辨天堂(べんてんどう)と其の前の石橋(いしばし)とは、上野の山を蔽(おほ)う杉と松とに對して、又は池一面に咲く蓮花(はすのはな)に對して最もよく調和したものではないか」という不忍弁天堂を訪ねました。不忍池は「水」の章でもでてきて、「巴里(パリー)にも倫敦(ロンドン)にもあんな大きな、そしてあのやうに香(かんば)しい蓮の花の咲く池は見られまい」と賞賛しています。かれがみた風景のほとんどが消滅してしまった現代、ここはそのときの面影をわずかでも残しているところではないでしょうか。なんどもこの地を訪れたであろう荷風が感じた素晴らしさを、一回の訪問で感じるのは難しそうですが、それでも何か癒されるおもいがしました。池の存在が大きいようです。


2.淫祠 飴嘗地藏(あめなめぢぞう)

飴嘗地藏(あめなめぢぞう)<写真を拡大>

 荷風がいう淫祠(いんし:邪神を祭ったやしろ)とは「裏町の角なぞに立つてゐる小さな祠(ほこら)やまた雨ざらしのまゝなる石地蔵」などで、そこで「今もって必ず願掛(ぐわんがけ)の繪馬(えま)や奉納(ほうなふ)の手拭(てぬぐひ)、或時は線香なぞが上げてある」のをみて、こういった人たちは近代化に染まってはいないと想像し、慰めのようなものを感じているようです。かれが挙げた淫祠のひとつ、隅田川厩橋(うまやばし)西にある榧寺(かやでら:池中山正覚寺)の「蟲齒(むしば)に效驗(しるし)のある飴嘗地藏(あめなめぢぞう)」を訪ねました。飴をなめているようにほっぺたをふくらませた可愛いお地蔵様です。荷風は「無邪気で下賎(げす)ばつた此等愚民の習慣」に慰めれるといっていますが、虫歯で痛いおもいをしていてもお地蔵様に祈るしかなかった昔の人びとを想像すると、無邪気ではすまないもっと切実なものがあったのではないでしょうか。お地蔵様を前に、そんな気がしました。


3.樹 浅草観音堂の銀杏

浅草観音堂の銀杏<写真を拡大>

 東京が最も美しくなるのはいたるところに青葉が茂る初夏で、「輝く初夏(しょか)の空の下(した)、際限なくつづく瓦屋根の間々(あいだあいだ)に、或いは銀杏(いてふ)、或いは椎(しひ)、樫(かし)、柳(やなぎ)なぞ、いづれも新緑の色鮮(あざやか)なる梢(こずゑ)に、日の光の麗しく照添(てりそ)ふさまを見たならば」東京も「まだまだ全(まつた)く捨てたものでもな」く、そこには「東京らしい固有な趣(おもむき)がる」と書いています。屋根と屋根の間にみえる、人びとの暮らしのなかにとけこんでいる樹木の美しさは、かれがみた高い建物が並ぶパリやロンドンにはなかったのかもしれません。かれが挙げた多くの樹木のうち「浅草觀音堂(あさくさくわんおんだう)のほとりにも名高い銀杏(いてふ)の樹は二株(ふたかぶ)もある」という銀杏(いちょう)を訪ねました。樹齢600年といわれる天然記念物です。世界屈指の大都市でありながら、このような巨木や草木の緑が身近にあった江戸での暮らしぶりを想像し、羨ましく感じたりもしました。


4.水 永代橋

永代橋<写真を拡大>

 東京の美しさの「第一の要素をば樹木と水流に俟つ(まつ:待つ、頼る)ものと断言」する荷風は、「水」について他の章よりもより多くのことを愛情をこめて語っています。隅田川に代表される河川、縦横にはしる運河、濠(ほり)、多くの池、などからなる明治の東京は、それらが生活や娯楽に密着し、人びとに愛されていたことからも、「水の都」と呼ぶにふさわしい都市であり、江戸時代と比べるとその重要さは薄れたとはいえ、まだまだかれの心を大きくとらえているのです。荷風が十五六歳のときに小舟で遊んだ楽しい経験があるという永代橋近辺に行ってみました。すでに日が暮れようとしているときで、夕闇が周りを覆い隠し、永代橋が夕焼けに映え、隅田川が静かに流れている風景をまえに、荷風が感じたかもしれない安らぎを感じるひとときとなりました。


5.路地 葭町(よしちょう)

葭町(よしちょう)の路地<写真を拡大>

 西洋まがいの建物、ペンキ塗りの看板、電柱と電線、などが無秩序にはびこり、「静寂の美を保ってゐた江戸市街の整頓」を失っていく表通りに「絶えず感ずるこの不快と嫌惡(けんを)の情(じやう)とは一層(ひとしほ)私をして其の陰にかくれた路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである」と、秩序を保っていた江戸が東京となったとたん無秩序に変わりはじめたことに荷風は苛立っています。「音律なる活動の美を有する西洋市街」をみてきたかれには我慢できないことだったのでしょう。

 それから90年以上経った今日、東京はさらに無秩序に日々変わっています。人びとのエネルギーや欲望が街並みをどんどん変えていく、混沌とした、何でもありの街といった感があるのです。路地も例外ではありません。荷風が逃げ込める路地などもうないのではないでしょうか。路地として描かれている葭町(よしちょう:日本橋人形町)には、芸者の置屋だった建物がいまでも残っている路地がありますが、それは繁盛している料理屋であったりして、かれが描いた日の当らない路地ではありません。生まれ育った東京への強い愛着、それゆえの反感、共感、悲しみ、喜びが綴られた「日和下駄」、そのほんの一部をたどった一日でしたが、荷風という一人の東京人に少しお近づきになれた、そんな楽しいウォーキングでした。

No.004:徳川慶喜<よしのぶ/けいき> (10月17日) ページトップへ

 80歳になる河合重子さんという方が「謎とき徳川慶喜―なぜ大坂城を脱出したのか」(草思社刊)という、300ページを超える厚い本を今年著しました。史料調査や著作に必要なエネルギーを考えると、80歳というお歳が驚きですが、15歳のときに慶喜フアンとなりそれ以来一貫して慶喜を追い続けてきたということが更に驚きです。

 真山青果(まやませいか)の戯曲『将軍江戸を去る』を観て慶喜のフアンとなり、慶喜のことを知りたいと東京女子大学歴史科に入学し、八王子にある家業の履物店のかたわら慶喜について研究してきた方で、司馬遼太郎さんが河合さんを知ったときの驚きともいえる言葉が残っています(抜粋1)。この本のなかで河合さんは「それから(慶喜フアンになってから)半世紀あまり、ずっと慶喜のことをしらべ、彼ひとりを見守りつづけてきたというのに、いまだに慶喜はひとつのイメージとして定着してこない。それどころか、ますます一筋縄ではいかぬ人だという思いが強くなる」とまだまだ衰えぬ知的好奇心をのぞかせています。素敵な80歳です。そんな河合さんに刺激されて徳川慶喜公ゆかりの地を訪ねました。寄り道しながらの21kmウォーキングでした。

(ここでは、「謎とき徳川慶喜」とともに、「最後の将軍―徳川慶喜」(司馬遼太郎著、文藝春秋刊)、 「徳川慶喜(よしのぶ)家にようこそ」(徳川慶朝(よしとも:徳川慶喜家当主)著、集英社刊)、「徳川慶喜家の子ども部屋」榊原喜佐子(さかぎばら・きさこ:慶喜公のお孫さん)著、草思社刊)を参考にしました)

抜粋1:
司馬遼太郎さんは、図書館の司書で徳川慶喜に詳しい比屋根かをるさんを通じて、河合さんを知る。河合さんから分厚い手紙をもらい「もはや『慶喜学』というべきその精度の高い知識におどろくとともに、文章のたしかさにも驚いた。Kさんの面白さはこれだけの文章力をもちながら、一度も慶喜についての自分の考えや研究を活字にしたことがないのである。文明の土壌というのはそういう"奇人"がさりげなく出てしかも世間に知られることがなく、町の人から単におだやかな履物店の女主人だと思われつづけているということである」「日本にもそのような、つまりいかなる名利にもつながらない精神活動を生涯持続するという人が出てきているということにおどろき、こういう精神を生んだものが江戸文明であるとすれば、江戸の深味というものは存外なものかもしれないとおもったりした」
河合重子著『謎解き徳川慶喜』: 轟亭の小人閑居日記    馬場紘二」より抜粋


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1.小日向(こびなた)の第六天町の慶喜邸跡

今井坂。坂途中左手の木々のあるところが慶喜邸跡、手前坂下の道路の左から右に向かって神田上水が流れていました。

 慶喜終焉の地です。29歳で最後の将軍(徳川第十五代将軍)となった慶喜が、大政奉還、鳥羽・伏見の敗戦、謹慎を経て自由になったのが32歳のときでした。その後、静岡に28年、東京巣鴨に4年、この地で11年をすごし、76歳(数え歳では77)で亡くなるまでの44年間を趣味に没頭して暮したといいます。雑誌「サライ」の徳川慶喜特集(1993年9月16日号)では、「元祖趣味人・徳川慶喜の毎日が日曜日」というタイトルで、慶喜の趣味と凝り性ぶりが紹介されているそうです。現在の当主、徳川慶朝氏が紹介している慶喜の趣味は多彩で、刺繍、工芸、陶芸、写真、油絵、乗馬、サイクリング、ドライブ、狩猟、釣り、投網、弓、能、書、和歌、囲碁、将棋、フランス語、俳句、日本画、鶴の飼育、打毬(だきゅう:騎乗球技ポロの一種)、楊弓(ようきゅう)、小鼓(こつづみ) 放鷹(ほうよう)などとなっています。そのなかでも油絵がお気に入りで「将軍をやめてよかったとおもうのは、この油絵をかいているときだ」ったそうです。たくさんの趣味に没頭しても、満たされる趣味は少なかったのでしょうか。慶喜が描いた風車のある風景画には、風車の前の広い空地に、何もすることなくポツリと椅子に座っている女性が小さく描かれています。寂しそうな絵です。それは慶喜の心の寂しさのような気もします。寂しさゆえに趣味に没頭したのかもしれません。

 この慶喜邸跡は今井坂(いまいざか:現在は新坂)の途中にあり、坂の下には神田川から取水された神田上水が、800mほど先の、慶喜が生まれた小石川水戸藩邸へと流れ込んでいました。情に流されることなどなさそうな慶喜も、64歳になってここに移り住んだときは、若いころ活動したこの地を懐かしんだことでしょう。敷地3,000坪、建坪1,000坪余りの平屋で、慶喜の孫の榊原喜佐子さんが子どものころで常時50人からの人、その多くは使用人、がいたといいます。60歳で明治天皇に初参内し、64歳で公爵を授与されてからは、長いあいだ鬱積していたものが少しずつ消えていったのではないでしょうか。慶喜邸で毎年開かれていたという御授爵記念日(ごじゅしゃくきねんび)の酒宴が、慶喜の喜びと、そんな心の変化を語っているような気がします。


2.小石川の水戸藩邸

広大な都立小石川後楽園、水戸藩邸全体の広さはこの後楽園の5倍ほどでした。
京都の清水寺一帯を模した都立小石川後楽園内の小廬山(しょうろざん)。この大名庭園では、山、谷、川、海の名所を模した景観が楽しめます。

 慶喜誕生の地です。「後楽園」と名づけられた藩邸内庭園のうち約7万平米が都立小石川後楽園として残っています。江戸東京重ね地図でみると藩邸全体はその約5倍、35万平米強あったようです。その広大さゆえに水戸公百間長屋と呼ばれていました。江戸の武家地、寺社地、町地の比率はおおむね6:2:2で、100万を超える住人のうちの半数を占める町人が、わずか20%の土地に押し込められ、ほぼ同数の武士が60%の土地でゆったりと暮し、武士のうちでも大名は更に広大な敷地で暮していたのです。こんな環境からうまれる大名の精神構造は、下々のそれとは大きく異なるものだったにちがいありません。慶喜の場合も「知」には優れていたものの、「情」は薄かったようです。だからこそ、ときには非情といわれる政治の世界で活躍できたのでしょう。


3.江戸城

江戸城すぐ南まで入り込んでいた日比谷入江がみえた汐見坂、その坂上。
沿道左側石垣の左端は角を固める「算木(さんぎ)積み」、その右が荒めの「打ち込みはぎ」で自然石のまま積み上げる「野面(のづら)積み」に近く、曲がって右が美しい幾何学模様の「切り込みはぎ」、右端がやや幾何学模様の「打ち込みはぎ」、となっているようです。 <写真にマウスを置くと拡大されます>
本丸台地の天守台。この上に高さ47mの五層天守閣がそびえていました。

 慶喜の初登城は10歳のとき、一橋家相続の命をうけて十二代将軍家慶(いえよし)に謁見したときです。都市の内部にある城や宮殿としては、世界で最も巨大なものであろう江戸城を慶喜はどのようにながめたのでしょうか。正門である大手門から入り、幾度も道筋を曲がり、坂道をのぼり、いくつかの堂々たる門や櫓(やぐら)の下を進み、高台にある本丸に到着した慶喜は、国の最高権力の偉大さを子供心にも感じたにちがいありません。ほとんどの殿舎が失われている現在、残された石垣に当時をしのぶのがせいぜいですが、それでもその壮大さを感じることができます。

 ちなみに、外観五層、内部6階の日本最大の天守閣は明暦の大火(振り袖火事、1657年第四代将軍家綱のとき)で焼失し、その後再建されませんでした。現在、本丸跡の台地に天守台が残っていますが、東西41m、南北45m、高さ11mの巨大な天守台です。城下町の象徴となるべき天守閣、それがなかった江戸では富士山がそれに代わったともいわれています。


4.一橋邸

左手、橋の左側が平川門、右手、白いビル(丸紅)から撮影位置真うしろまでが一橋邸跡、 この写真には写っていませんが、白いビルのすぐ向こう側に一ツ橋があり日本橋川が流れています。

 一橋家の養子となった10歳のときから、将軍後見職に就くまでのおよそ15年間を、江戸城平川門前にあった一橋邸ですごしました。安政の大獄で隠居謹慎を命じられたのもここで「昼も居間の雨戸をしめ、(中略)朝は寝所を出るとただちに麻上下(かみしも)をつけ、夏の暑い日も湯あみせず、もちろん月代(さかやき)もそらなかった。(中略)身に覚えのない罪を蒙(こうむ)ったので、血気盛んな意地から、このように規則に厳重に謹慎したのである」と、国事に情熱を燃やす青年時代のできごとを明治になって公爵となったのちに初めて語っています。1年あまりの謹慎が解けたあと、25歳で将軍後見職として政権を担うこととなるのです。


5.上野東叡山寛永寺、大慈院

寛永寺根本中堂。江戸時代にはここに大慈院がありました。

 鳥羽・伏見の敗戦後大坂城を脱出した慶喜は、海路で江戸品川に1868年(慶応4年/明治元年)1月12日到着し、2月12日に上野東叡山寛永寺、大慈院の一室で謹慎に入りました。4月11日の江戸開城の日に、死一等が免じられ水戸に向かった慶喜は、この謹慎2ヶ月をどのような気持ちですごしたのでしょうか。江戸開城の前夜、報告に訪れた勝海舟に「汝が(江戸開城の)処置は、はなはだ粗暴にして大胆不敵すぎる、どうしてもっと慎重にやらないのか。(中略)足元から反乱が起こるかもしれぬではないか。せっかくの自分の恭順も明日にはもろくも崩れさるのか」と涙をうかべながら、はげしく勝を責めたといいます。一方的な恭順といういのちをかけた政治行動の成功だけをひたすら考えていた様子です。その成功とは、朝敵という汚名を史上にのこさないこと、列強に侵略機会をあたえるような内戦を回避すること、などだったのでしょう。それをほぼ成し遂げたこの恭順は、政治家慶喜がみせた最後の凄みだったような気がします。


6.上野谷中の慶喜の墓

上野谷中の慶喜の墓。左側が慶喜、右側が美賀子夫人のお墓です。

 徳川慶喜家のお墓です。孝明天皇の質素な陵墓にならったといわれています。政治活動の最高潮のときに支持してくれた孝明天皇は生涯忘れることのないひとの一人だったのでしょう。公爵となったのちに維新後初めて京都に行き、孝明天皇御陵を訪れた慶喜は、「ここからはだれも来るな」とお供を押しとどめ、ひとり御陵の前に進み、長らく身じろぎもせず頭をたれていたといいます。

 薩長の政敵からその政治手腕を恐れられた慶喜、大政奉還のとき坂本竜馬に「慶喜公が今日の心中左(さ)こそと察し申す。竜馬は誓って此の人の為に一命を捨つべき」と言わせた慶喜、そしていまなお河合さんのような熱烈なフアンをもつ慶喜、彼の合理的な思考、大局的な視野、強い行動力が日本を内戦の危機から救ったことは確かでしょう。黒船の来航で日本人の多くが危機感をもち、新しい指導者を求めたとき、政権のバトンを渡すという、それを受けるよりも難しいかもしれない仕事を見事に成し遂げる優秀な人物が出現し活躍する、司馬遼太郎ふうにかくと、そんな日本という国の深味というものは存外なものかもしれないとおもったりした、ということになりそうです。

No.003:神田川 (08月13日) ページトップへ

 神田川は、三鷹市の井之頭池を水源として、台東区の柳橋で隅田川に合流する延長25.48kmの1級河川です。 江戸時代は神田上水として、また江戸城の外堀の一部として大きな役割を担っていました。

 神田上水は関口(文京区)で取水され、東に向かい水戸上屋敷(現後楽園一帯)に入り、 その後南に向かって神田川を渡り、大手町の大名屋敷や神田、日本橋周辺の町屋に給水されました。 江戸で最初にできた本格的な上水道で、家康が江戸に入府した1590年(天正18年)から13年後の1603年(慶長8年)に給水を開始し、 1629年(寛永6年)に全体が完成しています。その後、江戸の人口が増えるに従い玉川上水などが創設されていき、 総延長150kmという当時世界最大の上水道が江戸に構築されていくのです。

 外堀としての神田川は飯田橋近くから隅田川までで、1620年(元和6年)に仙台藩によって開削されました。 神田山(のちの駿河台)を南北に分断する谷のように深く掘られた堀があります。 開削以前は、現在途中で分流する日本橋川を通って隅田川に流れていました。日本橋川は、太田道灌が江戸城を築城する際に、 日比谷入江に河口があったとされる神田川(当時は平川)を隅田川に分流させた堀が原型だと考えられています。 神田川は平川の時代から、2回の大工事を経て現在の流れとなっているのです。

 日比谷入江は、現在の田町、日比谷、霞ヶ関、新橋周辺を海面下にしていましたが、江戸時代に埋め立てられました。 現在の深川なども江戸時代に埋め立てられ、100万人以上が暮す、世界でも有数の大都市江戸が形成されていきます。 埋立地が多く、良質の水が不足していたために上水道が必要だったのです。

 今回のウォーキングは、江戸市街中心部への給水を担った神田上水と、谷のように深く掘られた外堀を訪ねて、神田川約25kmを歩きました。

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1.「お茶の水」井戸

「お茶の水」井戸。すぐ後ろにはマンションが迫っています。

 神田川の水源である井之頭池にあるいくつかの湧水のうち西北端にある湧水は「お茶の水」と呼ばれ、 家康が江戸城のお茶の水に用いるように命令したといういわれがあります。 武蔵野台地を覆う関東ローム層でろ過された水は、冷たく、味わいが甘味だったそうです。 昭和になって周囲でのマンション開発が活発になると、湧水はつぎつぎと枯れだし、昭和の中頃にはすべてが枯れ、 現在は深井戸の水がポンプで給水されています。池の周囲は井之頭公園として整備され木々も多く、心やすまる場となっています。


2.武蔵野の森

高井戸付近。江戸時代は杉丸太の産地でした。

 江戸時代、高井戸周辺は杉丸太の産地でした。 江戸時代初めには見渡す限りのススキの原だった武蔵野が、江戸の発展と共に森となっていきました。 江戸に供給する農作物のための新田作り、その新田の土を改良する堆肥作りのための植林、 更には炭や木材のための植林がしだいに森を作りあげていったのです。 何代も先のことを考えることができる安定した社会と江戸の繁栄が、何もないところから森を作るという長期的な事業を可能にしたのでしょう。


3.無表情の神田川

中野新橋付近の下流側

 江戸時代の絵をみると神田川の川面は橋や土手に迫っており、人々の身近にあって表情豊かな川に見えるのですが、 現在の神田川の川面は深く刻み込まれたU字溝の下のほうにあって、人を寄せ付けない、無表情な川に見えます。 たびたびの氾濫を機に整備された結果なのでしょうが味気ないものです。 神田川の氾濫は、ビルや住宅が川っぷちまで迫り、川が本来持つべき広い河川敷が奪われ、周辺の道路の舗装も進んで、 雨水を吸収してくれる土も奪われたためと見られています。現在のように地下分水路などが整備される前は、1時間に50-80ミリ程度の集中豪雨があると、 わずか5分で水位が5メートルもふくれ上がったそうです(神田川:朝日新聞社社会部、未来社1982年刊)。 虐げられた結果、人を寄せ付けず、時に暴れる川となってしまったのでしょうか。かぐや姫の「神田川」がどこか寂しげな歌なのも偶然ではないような気がします。


4.電車ドア脱落

中央線鉄橋

 神田川が中央線の鉄橋をくぐります。 敗戦直後の1946年6月4日朝8時25分ごろ、吉祥寺発東京行きの満員電車から乗客数名が神田川に振り落とされ、3人が死亡しました。 カーブの遠心力でドアが外枠だけを残して飛び出したのです。 当時、ドアが外れての死亡事故が何件か発生しており、人々は命がけで満員電車に乗っていたことになります。 戦争中の命がけの悲惨な記憶が生々しく残る時代だからこそ、やむなくにせよ、そんな電車でも乗ることができたのでしょう。


5.大洗堰(おおあらいぜき)

大洗堰のあった辺り。上水は右手に取水されました。<写真にマウスを置くと説明図が表示されます>

 目白下関口(文京区)に大洗堰(おおあらいぜき)という堰が設けられ上水が取水されました。 海の干満はここでせき止められ、川の水だけが取水されたのです。 江戸時代、水源からここまで「定 比上水道において水をあび、魚鳥を取り、ちり芥をすて、 物あらふ輩あらば曲事(くせごと:違法行為)たるべきものなり 奉行」と書かれた高札が7ヶ所あり、 番人が居住する水番屋は5ヶ所あって、上水は厳しく監視されていたようです。人々の近づかない、ひっそりとした川だったことでしょう。


6.みゝづくや

上:みゝづくや 下:玄関の鴨居に使われている出土した木桶

 飯田橋の少し上流左岸に、煙突のような看板のあるタバコ販売店「みゝづくや」があります。 85年前に店を始めたとのことで、今はもう閉じています。この9月までに解体されるという「解体工事のお知らせ」が貼り出されていました。 この家の玄関の鴨居の部分に茗荷谷付近の工事現場から出土した、長さ3.98m、断面20cm*15cmの木桶(もくひ)が使われています(神田川:朝日新聞社社会部、未来社1982年刊)。 U字形にくり抜いた角材に蓋をしているように見えました。神田上水でも同じような木桶が使われていたのでしょう。 出土した木桶を使うなんて、ユニークな看板からも想像できますが、みゝづくで象徴される知恵を持ったアイディア店主だったに違いありません。


7.日本橋川

小石川橋から下流側、右に分流しているのが日本橋川です。

 神田川が外堀となる飯田橋近くから少し下流の右岸で日本橋川に分流します。江戸市街の中心部を流れる重要な運河で、 神田川が外堀となってからは神田川から現在の掘留橋(靖国通りと交差するところから少し上流)までが埋め立てられました。防衛上の理由のようです。 再び神田川とつながるのは明治36年になります。


8.御茶の水懸樋(かけひ)

水道橋から下流側<写真にマウスを置くと御茶の水懸樋想像図が表示されます>

 水道橋の少し下流で神田上水が川を渡っていました。 御茶の水懸樋(かけひ)と呼ばれ、総延長33.6m、銅張屋根付きの樋(とい)の内径は、幅180cm、深さ150cmと相当大きなもので、 普通の橋と同じように頑丈に作られていました(江戸 東京の神田川(坂田正次(さかた・しょうじ)著、論創社1987年刊)。 この懸樋が見える橋という意味で水道橋となったそうです。 御茶の水懸樋を通った上水は地下の樋を通り、分岐し、各所の溜桝(ます)で溜められ、汲みあげられていました。 上水は当時最先端の設備であり、「水道の水で産湯(うぶゆ)をつかった」というのが江戸っ子の自慢にもなったそうです。


9.茗渓(めいけい)

御茶ノ水橋から下流側。谷の深さは約100メートルもあるそうです。

 神田山を切り崩して開削されたこの外堀はまるで渓谷のようで、江戸時代は茗渓(めいけい:茗はお茶の意)とも呼ばれ、 広重の「名所江戸百景」にもでてきます。御茶の水駅ホームからの景観は、川面はかなり下にあり、川を渡る聖橋はかなり上にあって、 東京に何でこんな谷のような所があるのだろう、と不思議に思った記憶があります。 開削とその後の拡張整備を担当した仙台藩の財政は疲労し、それが伊達騒動の原因にもなったと言われています。 人手だけで掘り進む当時としては、実高100万石の藩をも揺るがすほどの大工事だったのです。


10.柳橋

柳橋から上流側。屋形船が復活しています。

 柳橋は、江戸時代から昭和の中頃まで花街として栄えました。 神田川が隅田川と合流するところで、江戸市街からのアクセス、そして吉原へのアクセスがよかったので繁栄したと言われています。 江戸での移動手段は、歩き、駕籠(かご)、船であり、酒宴のための移動であれば船、酒宴後の移動も船、ということだったのでしょう。 歩きが主流の江戸時代ですら、酒宴や遊びに歩きは似合わなかったようです。 座敷にせまる川、その美しい眺望や爽やかな川風が酒宴をより盛り立てたに違いありません。 昭和になって川の濁りや悪臭がひどくなるにしたがい衰退し、昭和の中頃にはほとんどの料亭や船宿が廃業に追い込まれました。 川によって繁栄し、川によって衰退していったのです。川が生き返りつつある現在は、姿を消していた屋形船が戻ってきています。

No.002:時の鐘 (06月20日) ページトップへ

 浦井祥子氏(うらいさちこ:日本女子大学講師)が膨大な史料を丹念に解読してまとめた 「江戸の時刻と時の鐘」からは江戸時代の時の鐘の実態が生きいきと伝わってきます。 史料を多面的に解読し、正確に理解しようとする研究者としての氏の姿勢には、歴史小説のような華やかさやダイナミックさはないものの、 信頼感と好感がもて、とても新鮮な印象を受けました。

 上野寛永寺のそばにある子院(しいん)で生れた氏は幼いころから時の鐘の音を聞いており、それがこの研究につながっているようです。 そんな研究者のロマンに魅せられて時の鐘を訪ねてみました。

 今回訪ねたのは1836(天保7)年の江戸名所図会にある9箇所の時の鐘です。 時の鐘はこれ以外にも、下大崎村寿昌寺、目黒祐天寺、目白新福寺、巣鴨子育稲荷にも設置され、 さらに市ヶ谷月桂寺、深川八幡宮、深川永代寺にも設置されていた可能性があるそうです。

 9箇所の時の鐘やその跡地を、最高気温29℃の強い日差しのなかで歩きました。 江戸城を中心に反時計回りで四谷天龍寺から上野寛永寺までの28.7kmウォーキングです。 天龍寺に行くまで少し歩いているので31.9km、朝9時30分から夕方7時までのウォーキングとなりました。 時の鐘でいうと朝四ツの鐘約30分後に歩き始め、次の昼九ツ(当時の正午)の鐘、昼八ツの鐘、夕七ツの鐘と続き、暮六ツの鐘30分前に歩き終わったことになります(注1)。 翌日足に肉刺(まめ)が2つもでき、江戸の広さを体感したウォーキングとなりました。


注1:日出前約36分を明六ツ、日入後約36分を暮六ツとし、その間の昼間と夜間をそれぞれ6等分して時を告げていた時の鐘は、 日出、日入時刻の変化に毎日は対応していませんでした。1年を二十四気節に分けて約半月単位で対応、調整していたのです。 ウォーキング当日の6月20日は芒種(ぼうしゅ)(6月6日頃で二十四節気ではイネのように芒(のぎ)のある穀物を播く時期)に従った時刻なので、 江戸の明六ツは現在の3時49分、昼九ツは江戸での正午(太陽が真南にくる時刻)となる11時39分、暮六ツが7時30分となります。 翌日の21日からは夏至(6月21日頃で二十四節気で最も昼間の時間が長い日)に従うことになります。 なお、明六ツから暮六ツの間の時刻は、順に明六ツ、朝五ツ、朝四ツ、昼九ツ、昼八ツ、夕七ツ、暮六ツと呼ばれました。

<詳細地図を見る>

四谷天龍寺(1742(寛保2)年時の鐘設置)

江戸三名鐘の一つだった鐘

新宿四丁目の交差点の南にあります。江戸府内の外れで、9箇所のうちでは最後に設置された時の鐘です。 現存する鐘は1767(明和4)年に改鋳されたもので、上野、市ヶ谷とともに江戸三名鐘の一つといわれました。 鐘楼の高さは約7.8m、鐘の差渡し(直径)は約81cmの大鐘ですが、時の鐘としては普通の大きさでしょう。 遠くまで聞こえるようにか、幕府の権威を示すためか、時の鐘には大型鐘(梵鐘(ぼんしょう))が使われていました。 南側が緩やかな下りになっているので、三階建以上の建物が禁止されていた江戸では見通しの良い高さだったと考えられます。


目白不動尊(新長谷寺(しんちょうこくじ))(1689(元禄2)年時の鐘設置)

この目白坂を上りきったところに鐘楼がありました

椿山荘の東になります。目白坂を上りきった高台で、南側の崖の下には神田川が流れています。 高台の景勝地ということで多くの参詣人が目白坂を行き来したようですが、戦災で全焼し廃寺となりました。 現在はマンションや住宅が建ち並んでいます。参詣人に代わって、椿山荘への送迎と思われるタクシーが目白坂を行き来していました。


市ケ谷八幡(1689(元禄2)年時の鐘設置)

そそり立つような参道への石段の右手に鐘楼がありました

市ヶ谷駅の北にあります。参道への石段の右側に高さ約9mのかなり大きな鐘楼があったようです。 夕七ツの鐘で境内の諸門を一斉に閉じたといいますから、この日でいうと午後5時ごろです。明るいうちに閉じて、 暗くなる暮六ツには寝る準備が整っているということなのでしょうか。参道への石段は手すりがないと上り下りできなほどの急斜でした。 明治初年の神仏分離の際の「寺社内に鐘撞堂あるべからず」の達によって時の鐘は撤去されました。


赤坂円通寺(1625(寛永2)年時の鐘設置)

遠くまで響きそうな高台にある鐘

TBSの北側にある円通寺坂を上りきったところにあります。 鐘は、「十二支の鐘」とよばれ、銘文中に「鼠・牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鶏・狗・猪」の文字を使った七言律詩が刻まれていることで有名だとのことです。 古いのでもう撞かれることはありません。 時を告げていた頃は捨て鐘を含めて1日100回以上撞かれていたのですから、今はゆっくりお休みください、といったところでしょうか。


芝切通し(1674(延宝2)年時の鐘設置)

芝切通し <写真にマウスを置くと推定鐘楼位置が表示されます>

増上寺北側にある切通坂の上に増上寺所有の境外地がありそこに時の鐘が設置されていました。 北隣には日本で初めてラジオ電波が発信された愛宕山があり、南隣には現在の電波発信基地である東京タワーがあります。 江戸時代の時報発信基地、時の鐘にふさわしい場所のようです。

落語「芝浜」では女房のお崎が芝切通しの鐘を聞き間違えたために早く出かけた勝っあんが大金の入った財布を拾いますが、 それは夢だったと聞かされて心を入れ替えて仕事に励むようになる人情噺です。落語「時蕎麦」でも時刻が重要なポイントになっています。 時の鐘が人々の暮らしに深くかかわっていたことが窺えます。


本石町(1626(寛永3)年時の鐘設置)

十思公園に保存されている鐘

日本橋三越の北になります。現在の番地でいうと日本橋本町四丁目二番地です。 江戸に設置された最初の時の鐘として有名で、1711(宝永8)年に改鋳されたものと推定される鐘が小伝馬町の十思公園に保存されています。 当時の鐘楼の高さは約8.1mで、「枠(わく)火の見」と呼ばれる火の見が高さ約8mでしたから、平坦な土地だけに民家から突出していたことでしょう。 時計を管理したり、昼夜時を告げるために5人が雇われています。 「石町は江戸を寝せたり起こしたり」の川柳から窺えるように、江戸の人々の暮らしのリズムを作っていたようです。


本所横堀(1692(元禄5)年時の鐘設置)

本所横堀 <写真にマウスを置くと壊れる前の大横川撞木橋上の記念碑が表示されます>

大横川の撞木橋(しゅもくばし))近くにあったようです。町人の願いにより、町人地に設置された例外的な時の鐘です。 本石町や浅草寺から聞こえるかすかな時の鐘では不便だったのでしょう。 江戸の活気や発展を感じます。大横川の撞木橋の上にある時の鐘記念碑が壊れていました。 時の鐘というよりも半鐘のような感じの記念碑でしたが。


浅草寺(1687(貞享4)年の芭蕉の句に出てくる)

浅草寺弁天山の鐘撞堂

浅草寺の弁天山と呼ばれる高台にあります。現在の鐘は1692(元禄5)年に新たに鋳造されたと考えられています。 芭蕉の「花の雲鐘は上野か浅草か」は深川芭蕉庵で聞く鐘の音を貞亨4年(1687)44歳のときに詠んだもので、 2km以上離れている浅草寺や上野寛永寺の鐘が聞こえるほど江戸は静かだったようです。 前年に詠んだ「観音のいらか見やりつ花の雲」では芭蕉庵から見える浅草寺を詠んでおり、高い建物のない広々とした空が想像できます。 江戸は静かで大きな空のある大都市だったようです。


上野寛永寺(1669(寛文9)年時の鐘設置)

右手高台に時の鐘があります

上野精養軒横にあります。現在の鐘は1787(天明7)年に改鋳したもので、今でも正午、朝夕6時の時を告げている江戸以来唯一の現役時の鐘です。 ここに着いたときは暮六ツ30分前でしたが、思ったよりも暗く、照明が高価な江戸では暮六ツはもうほとんど寝る時間なのかと考えたりしました。

No.001:たけくらべ (04月15日) ページトップへ

 樋口一葉の「たけくらべ」の舞台となったところを歩きました。明治25年(1892年)7月から約2年間吉原に隣接した龍泉寺町で駄菓子屋を営んでいた一葉は、 暖かい眼差しと鋭い観察眼でそこで育つ子供たちを見つめ、その細やかな心の動きを見事に捉えています。 物語を読んで、育つ環境は違っても子供たちの発想や思考には違いがないことをあらためて感じました。 だからこそ地域や時代を越えた多くの読者が物語の中に自分の子供時代を見つけて共感できるのでしょう。

<詳細地図を見る>

1.大黒屋寮

大黒屋寮 <写真にマウスを置くと説明が表示されます>

写真中央やや右の三角地に、美登利が住んでいた大黒屋寮、そのモデルとなった松大黒寮がありました。 お互いに想いを寄せる美登利と信如が偶然出会い、物語のクライマックスともいえる美しく切ないシーンが展開するところです。 吉原の揚屋町の跳橋の近くにありました。


2.筆屋

<写真にマウスを置くと筆屋位置(推定)が表示されます>

一葉宅(写真左手前の「樋口一葉旧居跡」 碑の場所)の右向こうに美登利たちのたまり場だった筆屋があり、物語の多くがそこで展開します。 親父さんの蒲焼を信如が買いに来るむさし屋はその真向かいにありました。 時雨の夜、とぼとぼと歩いている信如の後ろ姿を『何時までも、何時までも、何時までも』筆屋の軒下で見ている美登利の姿が印象的です。


3.一葉宅

<写真にマウスを置くと一葉宅(二軒長屋の正面から見て左側)位置が表示されます>

若く美しい妹の邦子さんが店番をする一葉一家の荒物兼駄菓子屋は子供たちのたまり場となっていたようです。 1日百人ほどの客があった、と一葉の日記にあります。物語に出てくるような子供たちが集まっていたのでしょう。


4.龍華寺

大音寺(龍華寺)

信如の住む龍華寺、そのモデルとなった大音寺です。 住職である父親は、蒲焼で晩酌し、賑わう酉の市では門前に簪(かんざし)の店をだす俗物として描かれています。 物語での多くの大人は醜い姿をさらけだしており、けなげに生きる子供たちとは対照的です。


5.鷲(おおとり)神社

鷲(おおとり)神社

十一月の鷲(おおとり)神社の酉の市の賑わいのなか、美登利が変貌し泣き明かす後半の山場が展開されます。 八月廿日の千束神社の祭では、美登利が「女郎、乞食」と罵倒される前半の山場がありました。 浅草の人々の生活の一部、身体の一部ともいえる祭が物語の山場をつくる引き金となっている筋立てに、考えて考えて考え抜く一葉の姿が浮かんできます。


6.検査場

病院前

写真左工事中のところに検査場である吉原病院がありました。写真中央の道には吉原裏の非常口があり、酉の市の日だけ開放されます。 「たけくらべ」には『大鳥神社の賑ひすさまじく此處《ここ》をかこつけに檢査場の門(裏の非常口)より乱れ入る若人達の勢ひとては、 天柱くだけ、地維《ちい》かくるかと思はるゝ笑ひ聲《ごえ》のどよめき...』と酉の市での賑わいぶりが描かれています。


7.太郎稲荷

太郎稲荷

美登利が朝参りしていた中田圃(なかたんぼ)の太郎稲荷です。


8.見返り柳

見返り柳

写真の3人の歩行者左横が「たけくらべ」の出だし『廻れば大門の見返り柳いと長けれど...』の見返り柳です。 今はみんな素通りで、誰もふり返らないようです。