大江戸ウォーキング 江戸や明治の町を歩きます
10回目の東海道歩き旅、自宅から伊勢神宮まで511kmを14日、1日平均36.5kmで歩きました。会社同期会がある伊東を経由しての歩きなので、いつもより45kmほど回り道となります。中間点を過ぎたころ、もう歩きたくない、と思うほどの疲れを経験し、まだまだ先が長いのに完歩できるのか、と危惧しましたが、原因が「寝不足」らしいと分かり、睡眠時間をできるだけ確保するように工夫し、何とか完歩できました。
9回目の東海道歩き旅、京都三条大橋からお江戸日本橋を目差しましたが、掛川で転倒して右膝をいため一旦帰宅、3日休んで、自宅から掛川までを歩きました。前半が8日、後半が6日の計14日、計500キロで1日平均35.7キロでした。途中3日休んだためでしょうか、後半はあまり疲れることなく、掛川から帰宅後すぐに日々ウォーキングを始めています。昨年は始めるまでに2週間かかりました。9回目は、食事時間、場所、内容を書き残します。
8回目の東海道歩き旅、お伊勢さんまで466キロを13日1日平均35.8キロで歩きました。12泊というスローペースは初めて、最速で9泊、雨での連泊があったり、2回に分けての完歩のときもせいぜい11泊でした。2年前の、身体が傾いて春秋2回で完歩したり、昨年の、気分よく歩けるときが少なかったりで、1日50キロ以上は歩かない計画としたのです。
確かに、気分よく歩けるときが昨年よりも少しは増えた気がしますが、歩く日数が増えた分、全体の疲労度は変わらないようにも思います。よれよれで帰宅しており、日々のウォーキングを再開したのは昨年同様帰宅後2週間後でした。疲労のためか、起き上がると回転性のめまいと吐き気がする、「良性発作性頭位めまい」と推定される様態にもなっています。このよれよれ度を今後改善すべく、歩き、食事、睡眠がどうなっていたかをここに記録しておきたいと思います。理想を言えば、帰宅の翌日から日々のウォーキングを始めることができるくらい、疲労の残らない歩き旅にしたいのですが・・・・。
費用に関しては、総額90,724円(昨年は87,744円)、1日平均6,979円(昨年は7,058円)でした。内訳は、12泊の宿泊代が59,870円(昨年11泊で57,700円)、1泊平均4,989円(昨年は5,245円) 、飲食代が22,564円(昨年は21,754円)、1日平均1,736円(昨年は1,813円)、帰りの交通費が8,290円(昨年と同額)でした。
7回目の東海道歩き旅でした。毎日の行動は、午前6時前に起床、宿でしっかり朝食をとり午前7時に出発、昼食は軽く牛乳とクッキー、午後3時から4時で夕食、午後6時に宿に到着、洗濯と入浴し、午後8時過ぎに就寝、といったところです。疲れをとるために、9時間以上は寝るようにしていて、夕食が苦労の種となります。午後3時か4時には夕食をとりたいのですが、この時間に営業している店が少ない上に、幹線道路を避けて歩いているので店そのものがあまりありません。また、食事に時間がかかるとそれだけ寝る時間が削られるので、どうしてもファーストフード的なものとなります。改善すべき大きな課題なので、今回はどのような夕食だったのかをここに記録しておくこととしました。
春のお伊勢参りが202km歩いて島田で頓挫したので、残りを秋に、伊勢神宮から島田まで268kmを歩きました。6回目の東海道歩き旅完歩です。ところが今回は、歩いているうちに身体が左横に傾き、後ろから見ると逆「く」の字になってしまうようになりました。このため3日歩いて帰宅、1週間ほど休んで、また4日歩いての完歩でした。原因は分からず、このままだと来年の7回目はありません。どのような状況だったのか、ここに記録しておきます。江戸時代にもこんな人がいたかもしれません。
今年のお伊勢参り450km歩き旅は島田202kmで頓挫し泣く泣く帰宅の途につきました。原因は初日にできた足のマメ、潰れてからも歩き続け6日目の朝ついにギブアップしたのです。この秋に何とか続きを歩けたら、と考えています。
今年の東海道はお伊勢参り、463キロを9日で歩きました。平均で1日51キロです。初日4月28日が75キロ歩いて箱根湯本泊、29日箱根を越え34キロ歩いて沼津で雨となり宿泊、30日雨で沼津に1日足止め、5月1日から6日まで、静岡56キロ、掛川53キロ、湖西(浜名湖の西)56キロ、知立58キロ、四日市54キロ、松阪53キロと、6日間連続で1日50キロ超を歩きました。最後の7日は伊勢神宮までの25キロです。今年も元気で歩いたお伊勢参り、連日の50キロ越えでひとつの自信がつきました。以下、今回どのように歩いたのか、GPS記録を見ながら振り返ってみました。今後の計画立案に役立つデータが一つできたような気がします。
川崎の自宅から伊勢神宮までの歩き旅、春に8日間367.8km歩いて名古屋に到着したところで中止となり残念な思いをしました。続きをこの秋に、ということで名古屋から伊勢神宮までを3日間108.8km歩きました。これで4回目の東海道歩き旅完歩です。
川崎の自宅から伊勢神宮までの歩き旅、11日間で455kmの予定でしたが、8日間367.8kmで中止して名古屋駅から新幹線で戻りました。転んで足首を強く打ったためです。8割ほどの行程で打切りとなり、4回目の東海道歩き旅完歩は来年に持ち越されました。
川崎の自宅から京都までの歩き旅、11日間で498.2km、1日平均45.3kmでした。今年は3日目に足裏にマメができてしまい苦しい歩きとなり、もう歩けない、と思った瞬間もあります。現代では、何かあればいつでも帰ることができますが、帰るに帰れない江戸時代、場合によっては大変な思いをした人も多かったのではないでしょうか。なお、合計498.2kmは、持参したGPS機で記録された距離です。地図上の計画ルートでは478.5kmなので4%ほど回り道などをしたことになります。
川崎の自宅から京都まで11日間連続で歩いて合計510kmとなりました。歩きが少々辛かったのは4日目のみ、その他の日々は疲れはするものの、翌朝にはとれてまた元気に歩ける、京都に着いたときも、まだまだ歩ける、といった感じでした。日常よく歩いていた江戸時代の人にとっての歩き旅は特別なことではなかった、そんな気がしています。江戸時代実感の旅です。
江戸時代の旅は毎日9里前後歩く、これを体験しようと昨年は自宅から静岡まで42里を4日間で歩きましたが、今年はその倍の84里弱を8日間で静岡から京都まで歩きました。かかった時間は172時間、費用が57,980円、新幹線であれば1.5時間、9,950円ですから、時間で115倍、費用で5.8倍です。江戸時代のやり方と比べてもあまり意味はありませんが、我々がいかに高い効率の中で暮らしているかを思い知ります。
江戸時代の旅は毎日9里前後を歩く、これを体験しようと自宅から静岡までの43里弱を4日で歩きました。毎日10里強の42kmです。朝3時半ごろ起きて、歩いて、昼3時半ごろ宿に入り、夕方5時ごろ夕食をとり、夜8時には寝るといった日々のペースが、歩く距離から自然とできあがります。
「月の岬」は月見を楽しむ江戸時代の名所で、徳川家康が名付けたと言われています。現在の高輪台地の一角で、南北に伸びる台地からは東側に迫る江戸前の海(江戸湾)が一望でき、夜の海と月の眺めは格別だったようです。
49歳の隠居後に天文・歴学を学び始め、55歳から14年間、日本全国を歩いて精度の高い日本地図を完成させ、当時の平均寿命が40-50歳といわれるなかで73歳の長寿をまっとうした伊能忠敬は、「第二の人生の達人」と言われています。平均寿命が伸び、第二の人生が長くなった現在、この達人に学ぶことは多いのではないでしょうか。
落語「大山詣り」にでてくる熊五郎、けんかっぱやいので長屋恒例の「大山詣り」への同行を断られます。頼みこむ熊五郎、「けんかは決してしない。もしけんかしたら丸坊主になる」という約束をして、やっと同行できました。それほど、みんなが楽しみにしていた旅だったようです。「大山詣り」の最盛期である江戸中期の宝暦年間(1751-64)には年間20万人が参詣したといいます。7月26日の山開きから8月17日の閉山までの22日間ですから、その間に1日9,000人もの人びとが大山に向い、大山から戻っていったことになります。
「江戸っ子のうまれぞこないかねをため」とか「江戸っ子は宵越(よいご)しのぜには持たない」という生き方は、貯金がないと不安なわたしのような小心者にはできません。司馬遼太郎は「街道をゆく36 本所深川散歩 神田界隈」(朝日新聞社)で、この生き方は職人のこと、金がいくさの矢弾となる商人のことではない、としています。腕でめしを食う職人が金をためると、腕をみがくことをわすれ、いつまでも腕のあがらない職人となる、といったことなのでしょうか。金よりも腕を大切にする職人の生き様だったようです。
永井荷風の「日和下駄(ひよりげた)」には、大正三年当時の東京市中の様々な風景が描かれています。その美しく臨場感あふれる描写は、「市中の散歩は子供の時からすきであった」荷風ならではのものでしょう。
80歳になる河合重子さんという方が「謎とき徳川慶喜―なぜ大坂城を脱出したのか」(草思社刊)という、300ページを超える厚い本を今年著しました。史料調査や著作に必要なエネルギーを考えると、80歳というお歳が驚きですが、15歳のときに慶喜フアンとなりそれ以来一貫して慶喜を追い続けてきたということが更に驚きです。
神田川は、三鷹市の井之頭池を水源として、台東区の柳橋で隅田川に合流する延長25.48kmの1級河川です。江戸時代は神田上水として、また江戸城の外堀の一部として大きな役割を担っていました。
浦井祥子氏(うらいさちこ:日本女子大学講師)が膨大な史料を丹念に解読してまとめた「江戸の時刻と時の鐘」からは江戸時代の時の鐘の実態が生きいきと伝わってきます。史料を多面的に解読し、正確に理解しようとする研究者としての氏の姿勢には、歴史小説のような華やかさやダイナミックさはないものの、信頼感と好感がもて、とても新鮮な印象を受けました。
樋口一葉の「たけくらべ」の舞台となったところを歩きました。明治25年(1892年)7月から約2年間吉原に隣接した龍泉寺町で駄菓子屋を営んでいた一葉は、暖かい眼差しと鋭い観察眼でそこで育つ子供たちを見つめ、その細やかな心の動きを見事に捉えています。物語を読んで、育つ環境は違っても子供たちの発想や思考には違いがないことをあらためて感じました。だからこそ地域や時代を越えた多くの読者が物語の中に自分の子供時代を見つけて共感できるのでしょう。
1895年(明治28年)4月に終結した日清戦争により台湾は日本の領土となり、太平洋戦争が終結する1945年(昭和20年)8月までの50年間、日本によって統治されました。北方謙三氏の小説「望郷の道」(日本経済新聞2007年8月-2008年9月朝刊連載)の主人公正太が九州を追われ台湾に渡ったのが1899年(明治32年)5月で、兒玉源太郎(こだま げんたろう、1852年 - 1906年)総督(1898年-1906年)の下で後藤新平(ごとう しんぺい、1857年 - 1929年)民政長官(1898年-1906年)が、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成などにより台湾の近代化を推進しようとしているときでした。
クリスマスシーズンのドイツの町々を旅行しました。そのひとつがニュルンベルクで、中世における神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)の帝国会議開催の町、そんな帝国の復活をもくろんだナチが党大会を開催した町、そのため第二次大戦で徹底的に破壊された町、中世の建物が最善の形で保存され一大観光都市だった戦前の姿を取り戻すべく戦後の復興がすすめられた町、そんな一面をもつ人口約50万人の都市です。