リタイア間近組

 
 
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セカンドライフ 定年準備と定年後の日々

大江戸ウォーキング(2008年)  江戸や明治の町を歩きます

No.011:特別編:台湾-望郷の道- (12月13日) ページトップへ

 1895年(明治28年)4月に終結した日清戦争により台湾は日本の領土となり、太平洋戦争が終結する1945年(昭和20年)8月までの50年間、日本によって統治されました。北方謙三氏の小説「望郷の道」(日本経済新聞2007年8月-2008年9月朝刊連載)の主人公正太が九州を追われ台湾に渡ったのが1899年(明治32年)5月で、兒玉源太郎(こだま げんたろう、1852年 - 1906年)総督(1898年-1906年)の下で後藤新平(ごとう しんぺい、1857年 - 1929年)民政長官(1898年-1906年)が、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成などにより台湾の近代化を推進しようとしているときでした。

 正太は、北方氏の曽祖父、バナナキャラメルなどで近代日本製菓史に足跡を残した新高製菓の創業者、森平太郎がモデルです。30歳前半だったかれが、新しい国作りが始まった台湾で、新しい事業を始める物語には、頑張る者が報われる若い明治のすがすがしさがあります。前例のないことが多く、本質を見抜く力と合理的な思考こそが正しい道を示し、やってみる、行動することこそが重要な時代だったようです。そんな物語の舞台となった台湾での大江戸ウォーキング特別編です。


参考:更紗満点星(さらさどうだん)『望郷の道』活字文化プロジェクト:対談/北方謙三台北駅の昔、ウィキペディア(Wikipedia):基隆駅台湾省専売局台北分局二・二八事件

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1.基隆(キールン)

基隆(キールン)駅<写真を拡大>

 台北の東約25kmのところにある港街で、正太も、その後を追ってきた妻の瑠イ(るい イは王+韋)と2人の子どもたちもこの港に上陸し、ここから台北まで、正太は歩き、子連れの瑠イは鉄道を使っています。

 統治直前の1893年10月に開通した台北までの鉄道は統治時代に整備され、正太が七富士軒を設立した1904年ごろには「基隆と台北の汽車は、一日五本になって、仕事の途中で基隆に出かける、ということもできるようになった」そうです。1908年には台湾の南北を結ぶ縦貫線、基隆-打狗(高雄)間も開通し、1905年ごろに設立した七富士軒打狗支店との便も改善されたとあります。統治時代、台湾の近代化が進み、経済が拡大している様子がうかがえます。日本本土との出入り口だった基隆も活気づいていたことでしょう。

 日本からの船を下りて基隆駅に向かう瑠イは、いよいよ正太に会えるという喜びでいっぱいだったことでしょう。これからの生活の不安や希望などを考える余地はなかったにちがいありません。何事にも一途な瑠イですから。

2.マンカ(舟+孟 舟+甲、1920年の台湾総督府による行政改編で萬華(略字:万華))

マンカ<写真を拡大く>

夜のマンカ<写真を拡大く>

 台北を南北に流れる淡水河と、その東側にある台北城の西側城壁とに囲まれた地域で、台北で最も早くから開けた街です。河岸にあって、龍山寺という台北最古の寺を中心に発達した下町で、東京でいうと浅草あたりということになるのでしょうか。正太が最初に住んだ「傾きかけた小屋に近い家」のあった街で、昼間城内で働いた後に、夜間行商で働いた街でもあります。当時から飲み屋や女郎屋が集まっており、正太の浮気相手であるサキが勤めていた飲み屋、甲斐路もこの街にありました。

 ここには統治時代の建物がまだ残っており、当時の様子をうかがうことができます。また、西本願寺の鐘楼の残骸なども残っています。ツアーガイドさんに「マンカは行かないほうがいい(見るべきところがないという意味か、治安が悪いという意味かは分かりませんが)」と言われましたが、小説の多くの場面で出てくるマンカはぜひ行きたかった街でした。確かに、歩道には人びとがたむろし、犬や猫もうろつき、上品な街とは言えませんが、身一つで日本を飛び出してきた正太を迎え入れた街らしく、だれでもがもぐり込める下町といった印象を受けました。

 正太が見たであろう街の風景を見ていると、張り切って行商している正太の姿が浮かんできました。起業の夢を持った、30歳前半の九州男児の行商姿です。


3.総統府

総統府<写真を拡大>

 日本統治時代の台湾総督府で、7年の建設期間を経て1919年竣工しています。正太が菓子屋・七富士軒を設立したのが1904年、(新高)ドロップで日本進出を果たしたのが1908年ごろ(長女の加世が女学校を卒業する時期)なので、小説にでてくる総督府はこの建物ではありません。ここから少し北にあった巡撫衙門(じゆんぶがもん)という統治前の行政庁舎が使われていたのでしょうか。そこで正太は後藤新平に会っています。同じ菓子業の四季屋や前田軒との抗争にからんでのことですが、正太40歳、後藤47歳、広い視野で将来を見つめるこの二人には相通じるものがあったことでしょう。

 日本統治時代に建てられた朝鮮総督府はすでに撤去されていますが、台湾総督府は総統府という名称で総統官邸として現在も使われています。反日の韓国、親日の台湾を象徴しているように思います。台湾の親日感情は、統治時代に日本から渡った教師や警察官が築いたとも言われており、先人の苦労のたまものなのです。また、現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は日本統治時代に作られた、という認識が一部の台湾人にあり、日本統治のプラス面がしっかり評価されている、日本にとって大切な友人国でもあります。

4.鉄道ホテル

三越入口から見た台北駅<写真を拡大>

 台北駅前に新光三越百貨店がありますが、ここは統治時代に鉄道ホテルがあった場所です。小説では、台湾で事業をしている日本人が集まる淡水館倶楽部の月例会々場が鉄道ホテルでした。日本人の社交や商談の場だったようです。台北駅前であり、基隆港から入出国する日本人で賑わっていたことでしょう。

 事業に成功しつつある正太が競争相手との会談などで使っています。事業のことで頭がいっぱいだった正太は、わき目も振らずに急ぎ足でホテルに入って行ったことでしょう。三越入口でそんな正太を想像していました。


5.本町

彰化銀行台北分行(台湾省専売局台北分局跡地)<写真を拡大>

 台北本町に七富士軒本店がありました。インターネットで場所を特定しようとしたのですができずに、日本統治時代の専売局台北本町分局、終戦後は台湾省専売局台北分局となった地にある彰化銀行台北分行の周辺を、このあたりが本町なんだ、という思いで見てきました。

 終戦後の1947年2月28日、ここにあった台湾省専売局台北分局前に多くの市民が集まり、前日に発生した、分局役人による闇タバコ販売女性暴行事件に対する抗議活動が行われました。これが中国国民党による民衆への大弾圧へとなっていきます。このとき約28,000人と推定される市民が殺害・処刑されたのです。以後40年間、1987年まで戒厳令がひかれ、白色テロと呼ばれる恐怖政治が続きます。台湾に民主化が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことです。

 そこには、日本統治時代から台湾に住んでいて、日本語による日本の教育を受けた、日本人の精神構造に近い人たちと、戦後大陸から渡ってきて日本に代わって台湾を支配した、中国人の精神構造の人たちとの確執があったのです。大陸から来た役人たちを、当初は歓迎した現地の人たちも、役人たちの不正や治安の悪化に驚き、反発するようになります。日本統治時代には起こりえなかったことなのです。これが二二八事件と呼ばれる先の事件へとつながり、日本統治を経験した多くの優秀な指導者や知識人が殺害されるのです。

 1947年2月28日にこの建物の前に集まった人々は、大陸から来た人たちの考え方ややり方に心底怒りを感じていたにちがいありません。その怒りを想像しながら、この地にたたずんでいました。

No.010:月の岬、高輪台地 (10月15日) ページトップへ

 「月の岬」は月見を楽しむ江戸時代の名所で、徳川家康が名付けたと言われています。現在の高輪台地の一角で、南北に伸びる台地からは東側に迫る江戸前の海(江戸湾)が一望でき、夜の海と月の眺めは格別だったようです。

 台地の尾根には高縄手道、高いところに張った縄のようにまっすぐな道、があり、これが高輪の地名の由来だと言われています。眼下に海を見下ろしながら、海と並行して進むこの尾根道は昼間でも素晴らしい眺望だったに違いありません。

 この道をときどき歩きます。築地にある会社から武蔵小杉の自宅まで歩くときに通る道です。海が遠くなり、ビルが立ち並んだ現代に江戸時代の面影はありませんが、武家屋敷跡やお寺、それに高台を通り抜ける爽やかな風、所々で見える眼下の街並などが、当時をわずかながらも想像させてくれます。いつもは通り抜けるだけのこの道を、寄り道しながらのんびりと歩いてみました。江戸時代から変わらないであろう高輪台地の地形を実感しながらの、4.8km(この日も会社から自宅まで歩いたので、全距離は21km)ウォーキングとなりました。


参考:Kai-Wai 散歩「坂」と建築高輪大木戸

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1.西郷・勝、江戸開城会見の地

西郷・勝、江戸開城会見の地<写真を拡大>

 JR田町駅三田側近くの旧薩摩藩邸跡に「江戸開城 西郷南州、勝海舟 會見之地」の碑があります。1868年(慶応4年)3月14日、幕府全権陸軍総裁:勝安芳(海舟)(かつ やすよし(かいしゅう:46歳))と新政府軍参謀・西郷隆盛(42歳)が会談し、江戸城無血開城という歴史的な合意がなされたところです。現在の第一京浜、旧東海道に面していて、当時はすぐ裏が海でした。高輪台地は三田のこの少し先から品川まで、旧東海道のすぐ東側に迫っています。

2.聖(ひじり)坂

聖(ひじり)坂を上りきったところ<写真を拡大く>

 高輪台地の三田側上り口です。高野聖が開いた古代中世の通行路で、その宿所もあったことから付けられた坂名だと言われています。夏、会社から歩いて帰るとき、ここを上がりきると、風が爽やかで、車も少ないので「さあゆっくり歩こう」という気分になります。


3.亀塚公園、三田台公園

三田台公園<写真を拡大>

 江戸時代は上野沼田藩土岐伊勢守の下屋敷で、明治維新後は皇族華頂宮邸となり、現在は公園として整備されています。江戸時代のお屋敷が想像できる広さと木立に恵まれた公園です。

4.伊皿子(いさらこ)坂

伊皿子(いさらこ)坂、信号を左右に横切っているのが尾根道<写真を拡大>

 高輪台地途中から旧東海道側に下りる坂で、明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいた、というのが名前の由来らしく、麻布側に下りる反対側の坂は魚籃坂で、これは坂の中腹にある魚籃寺が由来のようです。住所が今のようには整備されていなかった江戸時代では、坂は目印として重宝されました。名前が付けられた坂は、多くの人々がその坂を目印として使っていたことを示しています。高輪台地で分断された東海道側と麻布側を結ぶ大切な道だったのでしょう。


5.高輪大木戸跡

高輪大木戸跡、ここが江戸の入口だった<写真を拡大>

 伊皿子坂を下りたところに旧東海道に設置された高輪大木戸跡があります。夜間通行止めのための木戸は、江戸治安維持のために町々に設置されていました。高輪大木戸は江戸府内への入口として設置され、周辺には茶屋などもでき、旅の送迎の人々で賑わったそうです。東に迫る海と西の高輪台地に囲まれた、大木戸には最適な場所でした。伊能忠敬はここを全国測量の基点としています。


6.東禅寺、日本最初のイギリス公使宿館

東禅寺、いまでも木々に囲まれた静かなお寺だ<写真を拡大>

 高輪台地の旧東海道側にあるお寺で、日本初のイギリス公使宿館でした。初代イギリス代表のラザフォード・オールコック(1809-1897)は、江戸に初めて足を踏み入れた1858年(安政5年)6月29日にこの寺を公使宿館候補として案内され、一目で気に入ります。彼は著書『大君の都』のなかで「あらゆる点でこんなにも完璧な住まいを手に入れてしまうと、私の運命に何かひどい不幸が降りかかるのではないかと、疑ってみたほどだ」とまで述べています。

 当時三万坪を誇ったというこの寺院は深い森に抱かれ、「(芝から小一時間くると)東海道から右に折れる。するとそこに、東禅寺の門があった。(中略)そこを進むにつれて街道の喧噪が後ろに遠ざかっていく。すっかり静寂に包まれた頃、さらに堂々たる山門がある。門をくぐって、濃淡さまざまの常緑樹が日を受けている植え込みの間を過ぎると、庭が現れ、その奥に立派な玄関のある古い建物が見えた。広い玄関は西洋の建物の車寄せのように張り出しており、荘重な感じのする厚い屋根が、太い柱に支えられている。(中略)ついに高台に出ると、そこからは、いま通ってきた街道と、松の植わった海岸線の向こうに、江戸湾がどこまでも眺められるのだ。(オールコックの江戸、佐野真由子著、中公新書)」という風景だったのです。

左が張り出した大玄関、柱の赤枠部分拡大写真が右で、これが刀傷かも?<写真を拡大>

 現在は、周辺が住宅となり、寺の規模も小さくなっていますが、山門からの道を抜けると、突然広い庭に出て、その奥に古い建物がある、木々に囲まれたその空間からはオールコックが受けた印象が今でも十分想像できます。大玄関と奥書院は当時のままで残っており、大玄関には、1861年(文久元年)5月28日夜の水戸浪士による襲撃事件でついたとされる刀傷があるそうです。残念ながら、どれが刀傷なのかは分かりませんでした。

 オールコックは日本人の暮らしぶりをじかにみながら次のような感想を述べています。

 あの幕府ののろのろした役人たちに比べて、このきびきびと働き、明るい顔で質素な生活を送っている庶民たちの何と好もしいことか。彼らは上の身分に近づこうなどという野心を起こすこともなく、肥沃な土地と美しい風景にめぐまれ、満ち足りた顔をして暮らしている。そもそも非常に富裕な者たちからして、いわいるヨーロッパ的な華美とは一線を画した、こざっぱりした生活習慣が、この国の人々を多くの社会的な不満から救っているのではないか。

 幕末から明治にかけて来日した外国人の多くが、日本人を好意的に見ています。1856年(安政3年)6月に初代アメリカ駐日総領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスも「下田の住民はいずれも豊かではないが、それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、着物にも困っていないという印象をもって、世界中の労働者で彼らよりもよい生活を送っているものはない。(外国人が見た古き良き日本、内藤誠著、講談社インターナショナル株式会社刊)」とまで断言しています。

 物が溢れ、目まぐるしく変化する現代にはない、人間性豊かな暮らしが江戸時代にはあったのでしょう。「月の岬」で月をめでる人々の風景からも、そんな豊かさが感じられます。


7.二本榎(にほんえのき)

左が二本榎(にほんえのき)、信号を左右に横切っているのが尾根道、二本榎通り<写真を拡大>

 高輪台地にあった二本の榎の大木が、東海道を通る旅人のよい目印となっていたことから、二本榎と名付けられ、それが地名ともなりました。写真左に見える榎が植え替えられた何代目かの二本榎ですが、第一京浜となった、旧東海道から見えることはもうありません。写真中央は消防署で、信号を越えた坂を下りると旧東海道に出ます。信号を左右に横切っているのが尾根道で、高台の一番高いところを通っていることが写真からも分かります。


8.品川側上り口の坂

品川側上り口の坂、右手がプリンスホテル<写真を拡大>

 安政3年の江戸図には、高輪台地への品川側上り口の坂に坂名はありません。周囲は大名屋敷であり、坂名を必要とするほどの利用者はなかったのかもしれません。この坂の東側にあった高輪 薩摩藩下屋敷は、今はプリンスホテルとなり、そこへのタクシーが列をなして賑わう坂になっています。

No.009:伊能忠敬 (07月21日) ページトップへ

 49歳の隠居後に天文・歴学を学び始め、55歳から14年間、日本全国を歩いて精度の高い日本地図を完成させ、当時の平均寿命が40-50歳といわれるなかで73歳の長寿をまっとうした伊能忠敬は、「第二の人生の達人」と言われています。平均寿命が伸び、第二の人生が長くなった現在、この達人に学ぶことは多いのではないでしょうか。

 天文・歴学を学ぶなかで、「正確な歴を作るには正確な地球の大きさが必要である」ことを知ると、その算出を試みます。深川黒江町のかれの隠居宅から、かれが通う浅草天文台までの距離と方位を実測し、そこから地球の大きさを計算したもので、結果は緯度(南北方向)1分の距離が1631m、その60倍×360倍が地球の大きさ(円周)となりました。日本が位置する緯度35度付近での緯度1分の距離は1849.2mですから11.8の誤差でした。どれだけの誤差があるのかはかれにはわかりませんが、わずか数kmの実測からの計算であり、かなりの誤差であることは想像できます。そんなときに、北方領土防衛のため幕府が蝦夷の海岸地図を必要としていることを知ります。

 伊能忠敬はその話に飛びつきます。江戸から蝦夷までの道中を測量して、より正確な緯度1分の距離を計算しようと考えたのです。幕府のお墨付きがあれば、途中の藩を通過できるだけでなく、測量までもが可能なのです。やがてこの蝦夷海岸測量が実現し、それがきっかけで全国海岸測量へと進展していきます。細部にわたって実測された蝦夷海岸地図が高く評価されたのです。それまでの地図は、地名や地形の記述が重視され精度は二の次で、実測のみで作成された地図はなかったようです。こうした測量を通してかれが最終的に算出した経緯1分の距離は1845.63mでした。僅か0.2%の誤差です。この科学者的な精度の追求が、高精度の全国地図作成という偉業にもつながっているのでしょう。

 かれの後年の手紙の一節に「吾等幼年より高名出世を好み」とあるそうです。それは子供のころのあどけない想いだったのかもしれませんが、手紙でふれるということは隠居後もそんな想いがあったのでしょう。お金とか名誉ではなく「人に認められたい」という素朴な想いだったのではないでしょうか。それを「好き」なことで実現したのです。かれの愚直ともいえる測量や観測へのこだわりは「好き」としか考えようがありません。「好き」なことで「人に認められ」て自分らしく生きいきと過ごした第二の人生だからこそ達人になりえたのでしょう。経緯1分の距離を算出しているときの高揚した気分、地図が形になって現れるときの幸せな気分、そういったものを味わいつくした第二の人生だったにちがいありません。

 地球の大きさを知ろうとかれが歩測した、深川黒江町から浅草天文台までをわたしも歩測してみました。江戸時代の埋立地である深川の平らで真直ぐな道を、歩数を数えながら歩き、第二の人生の達人の気分を少し味わった7.3kmウォーキングでした。


参考:
伊能忠敬の地図をよむ(渡部一郎著、河出書房新社刊)、四千万歩の男(井上ひさし著、講談社文庫刊)伊能忠敬記念館伊能忠敬大事典「伊能忠敬」に学ぶ

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1.忠敬江戸隠居宅跡

左が忠敬江戸隠居宅跡の碑<写真を拡大>

 深川黒江町に隠居宅をかまえた忠敬は、そこに天体観測施設を設置し太陽や恒星の高度などを観測・記録しています。毎晩寝る間も惜しんで星を観測していたといわれ、その熱心さは、天文学の第一人者で19歳年下の師である高橋至時(よしとき)から「推歩先生」(推歩とは天体運行の計算のこと)と呼ばれるほどでした。天体観測には南北に見晴らしのよい10坪程度の土地に観測機器を設置する必要があり、隠居宅の庭が使われたと考えられています。この隠居宅跡に立ち、かれが天体観測に向かうときの、幸せそうな軽やかな足どりを想像していました。わたしの歩測もここがスタートです。


2.浅草天文台跡

左が浅草天文台跡の説明板<写真を拡大く>

 暦を作るために天体観測を行う天文台で、師である筆頭天文方・高橋至時が住み、天文・暦学を学ぶために忠敬が通ったところです。低い土地の下町にあって、高さ9.3mの築山上に設置された簡天儀(天体の位置を測るための大きなリング)はとても目立った存在でした。葛飾北斎「富嶽百景」の「鳥越の不二」に描かれています。忠敬は得意げに天文台の門をくぐったことでしょう。ここまでを歩測しました。


歩測結果

歩測結果

 歩数が4,536歩、わたしの歩幅が81.48cmですから3,696mの距離となります。曲り角は6カ所で、各曲り角までの歩測距離と磁石で測った北に対する方位とで歩いた軌跡を描くと、忠敬江戸隠居宅跡と浅草天文台跡の直線距離が2,982m、北に対する方位は342.9°でした。GPSデータから得られる緯度差は1.6分なので、緯度1分の距離は1,781.3m(2,982*cos(360-342.9)/1.6)となりました(図「歩測結果」の青い線)。誤差3.7%で思ったよりも精度がでています。
 小さな磁石での方位測定だったので、方位データは地図(図「歩測結果」の黄色い線が実際の道)から、距離データのみ歩測からとると緯度1分の距離は1,821.9m(2953*cos(360-350.8)/1.6)となり、誤差1.5%とさらに精度が上がります(図「歩測結果」の赤い線)。
 今回、歩測でも思いのほか高い精度が出せるものだと実感しました。歩測だけで作成した蝦夷海岸地図が、経度を修正すれば現在の地図とぴったり重なるのも納得できる気がします。


3.富岡八幡宮

伊能忠敬像<写真を拡大>

 忠敬の隠居宅跡から600mほどのところにあります。10回に分けて実施された全国海岸測量のうち、遠国への旅となった第1次から第8次までは、隊員一同と共にここに参詣してから出発しました。全員の気持ちを一つにするための出陣式だったのでしょうか。生死をかけた出陣にも似た気分だったのかもしれません。ここには伊能測量開始200年を記念して2001年10月に建てられた、測量の旅への一歩を踏み出した忠敬の銅像があります。磁石が示す北との角度差を測る杖先方位盤を右手に持ち、目を見開き、口を一文字に閉じて、第一歩を力強く踏み出しています。「さあ、行くぞ」という忠敬の声が聞こえてくるようです。


4.忠敬の墓(源空寺)

右が忠敬の墓で左に並んでいるのが師・高橋至時の墓(左側石灯ろうのすぐ左)<写真を拡大>

 忠敬の遺志により師・高橋至時の墓の隣に葬られています。3つあるというかれのお墓の一つです。直線距離で1.4kmほどの浅草天文台は、ここから見えたことでしょう。かれが全国測量を続けていた59歳のときに至時が40歳で亡くなっています。忠敬を認め、励まし続けた師・至時にその後の報告をし、天文台を眺めながらの歴談義をしたかったのかもしれません。

No.008:大山街道-二子<ふたこ>・溝口<みぞのくち>村- (04月09日) ページトップへ

 落語「大山詣り」にでてくる熊五郎、けんかっぱやいので長屋恒例の「大山詣り」への同行を断られます。頼みこむ熊五郎、「けんかは決してしない。もしけんかしたら丸坊主になる」という約束をして、やっと同行できました。それほど、みんなが楽しみにしていた旅だったようです。「大山詣り」の最盛期である江戸中期の宝暦年間(1751-64)には年間20万人が参詣したといいます。7月26日の山開きから8月17日の閉山までの22日間ですから、その間に1日9,000人もの人びとが大山に向い、大山から戻っていったことになります。

 そんな人びとの多くが利用した道が大山街道で、矢倉沢往還(やぐらさわおうかん:註1)ともいわれ、江戸城の赤坂御門から青山、三軒茶屋、二子、溝口、荏田、厚木、伊勢原を通り箱根の矢倉沢・足柄峠を越え、甲府や沼津方面へと分かれていく道でした。

 江戸から多摩川を渡ったところに二子村が、さらに先の西隣に溝口村があり、溝口村では、東海道の川崎と甲州街道の府中を南北に結ぶ府中街道と交差しています。両村ともに製造業、商業がさかんで、とくに卸・仲買業者は、上方からの「下り荷」、伊豆の乾魚、椎茸、駿河の茶、真綿、秦野の煙草などを扱い繁栄したようです。いまでも蔵が点在しています。

 大山街道溝口は自宅から6kmのところにあり、身近な江戸を訪ねた16kmの自宅発着ウォーキングとなりました。

註1:
往還(おうかん)は勘定奉行が管轄し、公用旅行者のための伝馬・人足を備える継立村(つぎたてむら)があり、休泊の機能も備っている道で、街道は道中奉行所が管轄し、運輸・通信・休泊の機能を備えている道でした。したがって、大山街道ではなく大山道(おおやまみち)というのが当時の言い方だったのでしょう。二子・溝口村は、寛文9年(1669年)に継立村となっています。


参考:
「大山道(おおやまみち)歴史ウォッチングガイド」(川崎市大山街道ふるさと館発行)、「高津のさんぽみち」(川崎市高津区役所発行)大山街道見どころマップ/3A(川崎国道事務所)多摩川誌(財団法人 河川環境管理財団)

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1.ねもじり坂

ねもじり坂<写真を拡大>

 二子・溝口村は、多摩丘陵につながる標高差30mの下末吉台地と多摩川とに囲まれた平地にあります。大山街道が下末吉台地にさしかかったところに「ねもじり坂」があり、昔は今よりも急勾配で、別名「はらへり坂」とも呼ばれたそうです。
 江戸時代、相模川のアユを江戸に運ぶ鮎かつぎは、大山街道を夜中に走ってきて、朝方この坂にさしかかると歌を歌って、人足の中継所だった溝口の亀屋に合図を送り、近所の家の人たちは、この歌で朝の支度を始めたといいます。眺望のよい坂の上での開放感、朝方の爽やかさ、交代間近のよろこびなどから、村中にひびくはりのある歌声だったことでしょう。直線距離で600m以上先にある亀屋にその歌声が届くほど、静かな村の朝だったのです。


2.庚申塔(こうしんとう)

大山街道と庚申塔(こうしんとう)の祠<写真を拡大く>

 ねもじり坂を下りて溝口村の入口近くにさしかかると、江戸時代の道しるべをかねた庚申塔(こうしんとう)があり、「西大山道 東江戸道 南神奈川道」と刻まれているそうです。大山街道から横浜へ分岐する道の入口でした。
 庚申塔に彫られた、邪鬼を踏んで立つ青面金剛も、その下にある見ざる言わざる聞かざるの三猿も、ながい年月のなかでかなり剥げ落ちていました。60日に一度めぐってくる庚申の夜、人の体の中に住む3匹の虫が、寝ている間にその人の悪事を天の神に告げ口すると信じ、人の悪事を「見ない・言わない・聞かない」ように三猿を彫った庚申塔を建てておがんだ日々は遠い昔のこととなっているのです。そいうことを信じ、おがんでいた人々は、心のよりどころのある安定した気持ちで暮らしていたのかもしれません。


3.旅人宿(はたごや)亀屋と国木田独歩

写真中央の信号機後ろのマンションの場所に街道沿いの旅人宿(はたごや)亀屋がありました。<写真を拡大>

 明治30年(1897)のみぞれまじりの春の日に国木田独歩(くにきだ どっぽ:明治4年(1871)-明治41年(1908))が溝口を訪れ旅人宿(はたごや)亀屋に一泊しています。かれが明治文壇に不動の地位を築くこととなった作品「忘れえぬ人々」にはそのときのことが冒頭に書かれており、溝口の淋しげな情景が美しい文章で描かれています。明治5年(1893)新橋-横浜間に開通した鉄道によって、大山街道は急激に寂れていったといいます。街道によって栄えたともいえる溝口も衰退していったことでしょう。

「多摩川の二子の渡しをわたって少しばかり行くと溝口という宿場(しゅくば)がある。その中程に亀屋という旅人宿(はたごや)がある。ちょうど三月の初めの頃であった、この日は大空かき曇り北風強く吹いて、さなきだに淋しいこの町が一段と物淋しい陰鬱(いんうつ)な寒そうな光景を呈していた。昨日降った雪がまだ残っていて高低定まらぬ藁屋根(わらやね)の南の軒先からは雨滴(あまだれ)が風に吹かれて舞うて落ちている。草鞋(わらじ)の足痕(あしあと)に溜まった泥水にすら寒そうな漣(さざなみ)が立っている。」

 街道の両側に並ぶ高低定まらぬ同じ高さの軒先、亀屋の軒先は南に面していたので雨滴(あまだれ)が風に吹かれて舞うて落ちていたことでしょう。そんな軒先をくぐり障子を開けて土間に入ると、年は六十ばかり、肥満(ふと)った身体(からだ)の上に綿の多い半纏(はんてん)を着て、煙管(キセル)を片手に、長火鉢(ながひばち)に寄りかかっている亀屋の主人がいて、独歩のいつまでも「忘れえぬ人々」の一人となっていきます。その姿にその人の生涯を察し、そんな人生のおくりかたが強い印象としていつまでも残る、そんな人たちが独歩の「忘れえぬ人々」となっているようです。姿やしぐさで仕事の内容や、その生涯までをも察することができる、そんな人々が昔は多かったのでしょう。人々の人生は、今よりも単純でわかり易かったのかもしれません。


4.大石橋と溝口・水騒動

大石橋。橋向こうの駐車場の場所に丸屋がありました。<写真を拡大>

 関東六ヶ国に転封となった徳川家康が作らせた農業用水路二ヶ領用水は、江戸幕府成立後の慶長16年(1611)に完成し、多摩川右岸の稲毛領と川崎領の二ヶ領灌漑(かんがい)面積を約2倍に広げました。その二ヶ領用水が大山街道と交差するところに大石橋があります。昔は2枚の大きな石で架けられていたそうです。
 その大石橋の東北のたもとに丸屋という、秦野(はだの)の煙草や厚木の麦などを扱う卸問屋があり、溝口村名主鈴木七右衛門(しちえもん)家が経営していました。江戸後期の文政4年(1821)7月、この丸屋が川崎領の農民1万数千人によって襲撃され、居宅,土蔵等が打ち壊されました。日照りが続くなか、溝口村の農民たちが水番人を追い払うなどして二ヶ領用水を自村に不法に引水したために下流の川崎領農民が生活をかけてたちあがったのです。
 7月6日早朝、川崎領にある医王寺の鐘を合図に集合した農民たちは、手には竹槍、とび口を持ち村名入りの「のぼり旗」を押し立てて、約3里半(14km)北上して溝口の亀屋を襲撃し、名主七右衛門が江戸に出張中と知ると、数百名の農民が5里(20km)以上ある江戸馬喰町の御用屋敷に押しかけました。川崎からの府中街道や江戸への大山街道を興奮した農民たちが通るのを、沿道の人々は息をひそめて見ていたことでしょう。
 この時代、商人だった七右衛門が村の長である名主だったことは、士農工商が上下身分ではなく単なる職分となり、能力や資力が力をもつ資本主義的傾向が強い、「江戸時代は封建社会というよりも工業化以前の近代社会だった(「百姓の江戸時代」田中圭一氏著、ちくま新書)」ことを示唆しています。また、名主は村民の支配者ではなく、民意の代表者的存在となっており、だからこそ溝口農民の勝手な行動を抑えることができず、商人でありながら農民の争いに巻き込まれいったのでしょう。名主七右衛門は家を壊されただけでなく、所払いの厳罰を受けて村に住むことができなくなりました。自分たちの意見を主張する、強い農民たちが出現しているのです。


5.薬屋・灰吹屋(はいふきや)

街道沿いの灰吹屋。写真右端に小さく写っている信号機のところが府中街道です。<写真を拡大>

 江戸時代、灰吹屋は大山街道唯一の薬屋で、「灰吹屋の生薬(きぐすり)はよく効く」との評判をとり、遠方からも多くの客が来て繁盛したそうです。街道を行き交う人々によって評判が広まったとのことですが、薬がよかっただけではなく、評判を広げるための工夫もあったのでしょう。東京四谷の総本家灰吹屋からの暖簾(のれん)分けで独立した創業者鈴木仁兵衛は、交通の要所ともいうべきこの地を選んだことからも、先見性のある優れた経営者だったことがうかがえます。明和2年(1765)の創業から240年以上たった現在まで、代々薬屋を営み続けています。


6.光明寺の時の鐘

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 農作業中の農民に、矢倉沢往還の継立(つぎたて)の人足として出役する時間を知らせるということで代官所が許可した時の鐘ですが、1日100回以上撞かれる、運営費のかかる施設である以上、村の経済活動にも必要だったからこそ設置したのでしょう。196戸(明治初めの二子・溝口村)の村で時の鐘が必要となるほど経済活動がさかんで、それを維持できるほど裕福な村だったようです。それは、全戸のほぼ半数(95戸)が製造業や商業であったことからもうかがい知ることができます。

No.007:江戸っ子古今亭志ん生<五代目> (02月20日) ページトップへ

 「江戸っ子のうまれぞこないかねをため」とか「江戸っ子は宵越(よいご)しのぜには持たない」という生き方は、貯金がないと不安なわたしのような小心者にはできません。司馬遼太郎は「街道をゆく36 本所深川散歩 神田界隈」(朝日新聞社)で、この生き方は職人のこと、金がいくさの矢弾となる商人のことではない、としています。腕でめしを食う職人が金をためると、腕をみがくことをわすれ、いつまでも腕のあがらない職人となる、といったことなのでしょうか。金よりも腕を大切にする職人の生き様だったようです。
 神田生れの生粋の江戸っ子、五代目古今亭志ん生(明治23年(1890)昭和48年(1973))はそんな生き方をしたひとです。金よりも芸を大切にした人生でした。自伝「なめくじ艦隊 志ん生半生記」(日本人の自伝 21、平凡社(金原亭馬助記、昭和31年(1956)朋文社刊の再版))では、結婚して1ヶ月半で、妻のりんさんが持参したお金、箪笥(たんす)、長持、琴などをスッカラカンにしちまった、と自慢げに話しています。仲間との遊びに使ってしまったのです。自分には芸がある、だからだまってついてこい、といったところなのでしょう。
 金があれば使ってしまう、そのために貧乏な暮らしが長く続きます。後年、娘の美濃部美津子(みのべみつこ:作家)さんが
「お母ちゃん、よく別れようと思わなかったね」
とりんさんにきくと、
「箸(はし)にも棒にもかからない人だったけど、落語を捨てなかった。稽古(けいこ)は一生懸命だった。こんなにやってるんだからいつか立派になる、と思った」
と、しっかりした口調で答えたそうです。
 こんな夫婦が江戸にはあふれていたのでしょうか。志ん生の生き様を駆け足で訪ねた、12kmウォーキングでした。

参考サイト:これが志ん生だ『おしまいの噺』(1)志ん生志ん生とりん―東京・日暮里よしみの青春日記上野小学校

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1.浅草

中央の浅草通りをはさんで、手前左側が元浅草二丁目、交差点先の右側が東上野五丁目、正面突き当りが上野駅、浅草通り左側の駅前に下谷尋常小学校がありました。<写真を拡大>

 明治23年(1890)に神田(東京府神田区亀住町:現・千代田区外神田五丁目)で生まれた志ん生は、子供の頃に浅草(浅草区永住町一二七:現・台東区元浅草二丁目、その後、浅草通りをはさんで反対側の下谷区北稲荷町五一:現・台東区東上野五丁目)に移っています。「その時分の浅草には、あやしげな銘酒屋なんてものがあって、箸(はし)にも棒にもかからねえようなやくざ者がウヨウヨしていたんです。そういう環境なんで、ろくなことはおぼえない」、やがて家をとびだし無頼の生活をおくるようになります。明治38年(1905)15歳のときです。
 多感な少年時代に大きな影響を与えたこの町は、わたしが高校、大学時代に住んでいた町です。わたしのころは「やくざ者がウヨウヨ」といったことはありませんでしたが、志ん生が子供のころはまだ江戸の面影を残す町、ぶらぶらしているやくざ者でもなんとか暮していける町だったのでしょう。志ん生が通った下谷尋常小学校の校歌(*1)からも、「いざやめでん(賞美しよう) さくらばな」といった当時ののんびりぶりがうかがえます。


(*1)
下谷小学校校歌  鳥居 忱 作詞  上 真 行 作曲 明治29年11月25日制定


春のしのぶの 岡の辺や
朝日ににおう さくらばな
花の盛りは のどやかに
かおりにこもる 学びの舎
いざやめでん さくらばな


春のうららの 浦安(日本国)の
くにのすがたの さくらばな
花の光を うけつつぞ
人の心も のどかなる
いざやめでん さくらばな


2.上野鈴本亭

いまでも賑わう上野広小路。左が鈴本亭(現在は鈴本演芸場)で、正面の森が上野公園です。<写真を拡大><開演を告げる太鼓の音を聞く>

 七つか八つのころ、父親に連れられてよくきた寄席です。何か買ってもらえるから喜んでついていった、と言っていますが、寄席の楽しさをからだで吸収した時期だったのでしょう。噺家志ん生誕生の原点となった演芸場ともいえそうです。鈴本のある上野広小路は、火除地(*2)だった広い空地が人びとで賑わう盛り場となったところで、そんな楽しい場の印象も子供の心に深く刻みこまれたにちがいありません。


(*2)
 焼死者十万七千人という、江戸史上最大の大火「明暦の大火」(通称"ふりそで火事":明暦三年(1657))をきっかけに、"上野広小路"のような広い"火除地(ひよけち)"がいくつか設定されました。
 ちなみに、志ん生が所帯をもってから住むことになる「なめくじ長屋」の本所は、このときに、旗本・御家人(ごけにん)といった直参(じきさん)の移住先として開発されたところです。本所は低い土地だったために、多くの運河を開削し、水捌(みずはけ)をよくするとともに、掘った土で地面を盛りあげました。池を掘った土で地面を盛りあげていた武家屋敷もあったようで、「なめくじ長屋」を建てるために埋めたてた池とは、そんな武家屋敷の池だったにちがいありません。


3.田端

高台にある田端一丁目、右側はJR田端駅です。<写真を拡大>

 大正11年(1922)32歳でりんさんといっしょに住みはじめ、やがて結婚すると田端(北豊島郡滝野川町大字田端一八五:現・北区田端一丁目)に移転します。収入もないのに遊びにでかける志ん生に「行ってらっしゃい」と下駄をそろえるりんさん、そんな暮らしがつづき、やがて家賃がたまって「これまでの家賃はいらないから、出ていっておくれ」と追い出されてしまいます。
 このころの田端は、芥川龍之介や菊池寛などが住む、高台にある文士芸術家村ともいえるところでした。そんな地から、市内から遠く離れた笹塚(豊多摩代々幡町大字笹塚:現・渋谷区笹塚)へと移るのです。都落ちの心境だったことでしょう。田端移転3年後の昭和元年(1926)36歳のときです。


4.なめくじ長屋

正面が大横川の業平橋で、撮影地点である本所業平の住宅地が橋よりも低地にあります。
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 その後も家賃が払えずに笹塚近辺での転居をつづけ、田端から5回目の転居で本所業平(なりひら)(本所業平橋一丁目一二:現・墨田区業平一丁目)の長屋に移り住みます。昭和3年(1928)38歳のときです。
 大正12年(1923)の関東大震災直後に池を埋め立てて急造されたおそまつなバラックで、ちょっと雨が降ると、あたり一面海のようになり、家の中にも水が入ってくる、壁にはそんな洪水の跡がある、20軒ほどの長家で、新築当初入居していた人たちはみんな出ていってしまいました。噺家(はなしか)が住んでくれれば入居者がまた集まってくるのでは、という大家さんの思惑から家賃がタダだったのです。
 夜、電気をつけると、まわりが空家でまっ暗なため蚊の大群が押しよせ、蚊柱がたち、口の中にまで入ってくる凄まじさで、足の長いコオロギやノミもみんな集まってくる、そのうえ十センチ以上もある茶色がかった大ナメクジが、あっちからもこっちからも押しよせてくる、そんな長屋でした。
 昭和11年(1936)46歳で永住町(現・台東区元浅草)に引っ越すまでの8年間をここですごします。
「そのうちにこの長屋にも、だんだん人が入って来ましたが、こういうところに入ってくる人はだいたい似たりよったりの人種で、くらしはみんな楽じゃない。それだけにみんなよく気があっていましたね、たのしいもんでしたよ。(中略)だれかが、からだの工合でも悪くなったというと、まわりのお神さんたちが、みんなドヤドヤやって来て、医者へとんで行く、湯タンポをこしらえる、自分のうちにある薬をもってきて服(の)ませる。苦労をつんだ人が多いから、みんな人情があたたかく、同情心がふかい。おたがいに理解しあい、助けあっていく。だから、ああいうところで暮したときのことが、今だってなつかしく忘れることができない」
としみじみ語っています。
 こんな心底からの言葉には凄みすら感じます。彼の噺が人びとの心をとらえるのも、そんな暮らしがあったからこそなのでしょう。


5.谷中の諏方(すわ)神社

正面崖っぷちあたりが稽古場だったのでしょう。
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 昭和22年(1947)57歳で慰問先の満州から帰国し、昭和26年(1951)61歳で日暮里(荒川区日暮里町九丁目一、一一四:現・西日暮里三丁目)へ転居、昭和36年(1961)71歳のとき脳出血で倒れ、昭和48年(1973)9月21日83歳でこの日暮里で亡くなりました。帰国してから倒れるまでが志ん生の全盛期で、独演会はいつも満員で、つねに客をわかせていたといいます。貧乏ぐらしからやっとぬけだしたのもこの時期だったそうです。
 どんなに売れても、売れない時代と変わらずに毎日稽古していた志ん生の稽古場が、家から300メートルぐらい歩いたところにある諏方神社でした。細い坂道を登りきって車が通れるぐらいの道にでたところにあり、神社の裏手が崖で、崖下をJRが走っています。その崖っぷちにおいてあったベンチで稽古をしていたそうです。人がまったく来ないので、稽古にはもってこいの場所だったといいます。
 静かな神社を歩いていると、いまのわたしよりも高齢だった志ん生が毎日稽古に励む姿が目にうかび、なにか元気付けられるおもいがしました。


6.終焉の地

志ん生宅近くの谷中銀座。左は志ん生関連グッズが豊富な「小物百貨多満留」で、近くに住む美津子さんが店番を引き受けることもあるそうです。
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 亡くなる前の晩です。りんさんは2年前に74歳で亡くなっていて、長女の美津子さんが付き添っていましたが、その美津子さんに大好きなお酒をせがみました。どうしてもという志ん生に、吸いのみにいっぱいのお酒を飲ませてやったそうです。
「あんなに『おいしい、おいしい』って飲んだことはないんです。普通のときは、飲ませても『うまかった、もう、いいよ』っていうだけで、それが、ものすごく『おいしい』といったんです。感無量に......。私もなんとなく、『そんなにおいしくてよかったねえ』っていって『ウーン』って、満足して寝たんですよ。それが最後で、末期の水は、やっぱり、お酒でしたね」
と美津子さんが語っています。次の日、静かに眠るようにして亡くなりました。
 志ん生宅は大手不動産会社所有で、志ん生が亡くなると一家は立ち退きをせまられたようです。現在は、志ん生とは無関係なマンションが建っています。あんなに売れていても家は持たなかったのでしょうか。江戸っ子志ん生らしさともいえそうです。
 「なめくじ艦隊」にみる志ん生の半生は、金や物は貧しくても、心がとても豊かな印象を受けます。成功した志ん生だからこそかもしれませんが、うらやましさすら感じます。そんな人びとが暮していた、暮していけた江戸は、意外と居心地のよいところだったのではないでしょうか。