浦井祥子氏(うらいさちこ:日本女子大学講師)が膨大な史料を丹念に解読してまとめた「江戸の時刻と時の鐘」からは江戸時代の時の鐘の実態が生きいきと伝わってきます。史料を多面的に解読し、正確に理解しようとする研究者としての氏の姿勢には、歴史小説のような華やかさやダイナミックさはないものの、信頼感と好感がもて、とても新鮮な印象を受けました。
上野寛永寺のそばにある子院(しいん)で生れた氏は幼いころから時の鐘の音を聞いており、それがこの研究につながっているようです。そんな研究者のロマンに魅せられて時の鐘を訪ねてみました。
今回訪ねたのは1836(天保7)年の江戸名所図会にある9箇所の時の鐘です。時の鐘はこれ以外にも、下大崎村寿昌寺、目黒祐天寺、目白新福寺、巣鴨子育稲荷にも設置され、さらに市ヶ谷月桂寺、深川八幡宮、深川永代寺にも設置されていた可能性があるそうです。
9箇所の時の鐘やその跡地を、最高気温29℃の強い日差しのなかで歩きました。江戸城を中心に反時計回りで四谷天龍寺から上野寛永寺までの28.7kmウォーキングです。天龍寺に行くまで少し歩いているので31.9km、朝9時30分から夕方7時までのウォーキングとなりました。時の鐘でいうと朝四ツの鐘約30分後に歩き始め、次の昼九ツ(当時の正午)の鐘、昼八ツの鐘、夕七ツの鐘と続き、暮六ツの鐘30分前に歩き終わったことになります(注1)。翌日足に肉刺(まめ)が2つもでき、江戸の広さを体感したウォーキングとなりました。
注1:日出前約36分を明六ツ、日入後約36分を暮六ツとし、その間の昼間と夜間をそれぞれ6等分して時を告げていた時の鐘は、日出、日入時刻の変化に毎日は対応していませんでした。1年を二十四気節に分けて約半月単位で対応、調整していたのです。ウォーキング当日の6月20日は芒種(ぼうしゅ)(6月6日頃で二十四節気ではイネのように芒(のぎ)のある穀物を播く時期)に従った時刻なので、江戸の明六ツは現在の3時49分、昼九ツは江戸での正午(太陽が真南にくる時刻)となる11時39分、暮六ツが7時30分となります。翌日の21日からは夏至(6月21日頃で二十四節気で最も昼間の時間が長い日)に従うことになります。なお、明六ツから暮六ツの間の時刻は、順に明六ツ、朝五ツ、朝四ツ、昼九ツ、昼八ツ、夕七ツ、暮六ツと呼ばれました。
四谷天龍寺(1742(寛保2)年時の鐘設置)
新宿四丁目の交差点の南にあります。江戸府内の外れで、9箇所のうちでは最後に設置された時の鐘です。現存する鐘は1767(明和4)年に改鋳されたもので、上野、市ヶ谷とともに江戸三名鐘の一つといわれました。鐘楼の高さは約7.8m、鐘の差渡し(直径)は約81cmの大鐘ですが、時の鐘としては普通の大きさでしょう。遠くまで聞こえるようにか、幕府の権威を示すためか、時の鐘には大型鐘(梵鐘(ぼんしょう))が使われていました。南側が緩やかな下りになっているので、三階建以上の建物が禁止されていた江戸では見通しの良い高さだったと考えられます。
目白不動尊(新長谷寺(しんちょうこくじ))(1689(元禄2)年時の鐘設置)
椿山荘の東になります。目白坂を上りきった高台で、南側の崖の下には神田川が流れています。高台の景勝地ということで多くの参詣人が目白坂を行き来したようですが、戦災で全焼し廃寺となりました。現在はマンションや住宅が建ち並んでいます。参詣人に代わって、椿山荘への送迎と思われるタクシーが目白坂を行き来していました。
市ケ谷八幡(1689(元禄2)年時の鐘設置)
市ヶ谷駅の北にあります。参道への石段の右側に高さ約9mのかなり大きな鐘楼があったようです。夕七ツの鐘で境内の諸門を一斉に閉じたといいますから、この日でいうと午後5時ごろです。明るいうちに閉じて、暗くなる暮六ツには寝る準備が整っているということなのでしょうか。参道への石段は手すりがないと上り下りできなほどの急斜でした。明治初年の神仏分離の際の「寺社内に鐘撞堂あるべからず」の達によって時の鐘は撤去されました。
赤坂円通寺(1625(寛永2)年時の鐘設置)
TBSの北側にある円通寺坂を上りきったところにあります。鐘は、「十二支の鐘」とよばれ、銘文中に「鼠・牛・虎・兎・竜・蛇・馬・羊・猿・鶏・狗・猪」の文字を使った七言律詩が刻まれていることで有名だとのことです。古いのでもう撞かれることはありません。時を告げていた頃は捨て鐘を含めて1日100回以上撞かれていたのですから、今はゆっくりお休みください、といったところでしょうか。
芝切通し(1674(延宝2)年時の鐘設置)
増上寺北側にある切通坂の上に増上寺所有の境外地がありそこに時の鐘が設置されていました。北隣には日本で初めてラジオ電波が発信された愛宕山があり、南隣には現在の電波発信基地である東京タワーがあります。江戸時代の時報発信基地、時の鐘にふさわしい場所のようです。
落語「芝浜」では女房のお崎が芝切通しの鐘を聞き間違えたために早く出かけた勝っあんが大金の入った財布を拾いますが、それは夢だったと聞かされて心を入れ替えて仕事に励むようになる人情噺です。落語「時蕎麦」でも時刻が重要なポイントになっています。時の鐘が人々の暮らしに深くかかわっていたことが窺えます。
本石町(1626(寛永3)年時の鐘設置)
日本橋三越の北になります。現在の番地でいうと日本橋本町四丁目二番地です。江戸に設置された最初の時の鐘として有名で、1711(宝永8)年に改鋳されたものと推定される鐘が小伝馬町の十思公園に保存されています。当時の鐘楼の高さは約8.1mで、「枠(わく)火の見」と呼ばれる火の見が高さ約8mでしたから、平坦な土地だけに民家から突出していたことでしょう。時計を管理したり、昼夜時を告げるために5人が雇われています。「石町は江戸を寝せたり起こしたり」の川柳から窺えるように、江戸の人々の暮らしのリズムを作っていたようです。
本所横堀(1692(元禄5)年時の鐘設置)
大横川の撞木橋(しゅもくばし))近くにあったようです。町人の願いにより、町人地に設置された例外的な時の鐘です。本石町や浅草寺から聞こえるかすかな時の鐘では不便だったのでしょう。江戸の活気や発展を感じます。大横川の撞木橋の上にある時の鐘記念碑が壊れていました。時の鐘というよりも半鐘のような感じの記念碑でしたが。
浅草寺(1687(貞享4)年の芭蕉の句に出てくる)
浅草寺の弁天山と呼ばれる高台にあります。現在の鐘は1692(元禄5)年に新たに鋳造されたと考えられています。芭蕉の「花の雲鐘は上野か浅草か」は深川芭蕉庵で聞く鐘の音を貞亨4年(1687)44歳のときに詠んだもので、2km以上離れている浅草寺や上野寛永寺の鐘が聞こえるほど江戸は静かだったようです。前年に詠んだ「観音のいらか見やりつ花の雲」では芭蕉庵から見える浅草寺を詠んでおり、高い建物のない広々とした空が想像できます。江戸は静かで大きな空のある大都市だったようです。
上野寛永寺(1669(寛文9)年時の鐘設置)
上野精養軒横にあります。現在の鐘は1787(天明7)年に改鋳したもので、今でも正午、朝夕6時の時を告げている江戸以来唯一の現役時の鐘です。ここに着いたときは暮六ツ30分前でしたが、思ったよりも暗く、照明が高価な江戸では暮六ツはもうほとんど寝る時間なのかと考えたりしました。