大江戸ウォーキング

No.011:特別編:台湾-望郷の道-

 1895年(明治28年)4月に終結した日清戦争により台湾は日本の領土となり、太平洋戦争が終結する1945年(昭和20年)8月までの50年間、日本によって統治されました。北方謙三氏の小説「望郷の道」(日本経済新聞2007年8月-2008年9月朝刊連載)の主人公正太が九州を追われ台湾に渡ったのが1899年(明治32年)5月で、兒玉源太郎(こだま げんたろう、1852年 – 1906年)総督(1898年-1906年)の下で後藤新平(ごとう しんぺい、1857年 – 1929年)民政長官(1898年-1906年)が、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成などにより台湾の近代化を推進しようとしているときでした。

 正太は、北方氏の曽祖父、バナナキャラメルなどで近代日本製菓史に足跡を残した新高製菓の創業者、森平太郎がモデルです。30歳前半だったかれが、新しい国作りが始まった台湾で、新しい事業を始める物語には、頑張る者が報われる若い明治のすがすがしさがあります。前例のないことが多く、本質を見抜く力と合理的な思考こそが正しい道を示し、やってみる、行動することこそが重要な時代だったようです。そんな物語の舞台となった台湾での大江戸ウォーキング特別編です。


参考:更紗満点星(さらさどうだん)『望郷の道』活字文化プロジェクト:対談/北方謙三台北駅の昔、ウィキペディア(Wikipedia):基隆駅台湾省専売局台北分局二・二八事件

地図
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1.基隆(キールン)

基隆(キールン)
基隆(キールン)駅<写真を拡大>

 台北の東約25kmのところにある港街で、正太も、その後を追ってきた妻の瑠イ(るい イは王+韋)と2人の子どもたちもこの港に上陸し、ここから台北まで、正太は歩き、子連れの瑠イは鉄道を使っています。

 統治直前の1893年10月に開通した台北までの鉄道は統治時代に整備され、正太が七富士軒を設立した1904年ごろには「基隆と台北の汽車は、一日五本になって、仕事の途中で基隆に出かける、ということもできるようになった」そうです。1908年には台湾の南北を結ぶ縦貫線、基隆-打狗(高雄)間も開通し、1905年ごろに設立した七富士軒打狗支店との便も改善されたとあります。統治時代、台湾の近代化が進み、経済が拡大している様子がうかがえます。日本本土との出入り口だった基隆も活気づいていたことでしょう。

 日本からの船を下りて基隆駅に向かう瑠イは、いよいよ正太に会えるという喜びでいっぱいだったことでしょう。これからの生活の不安や希望などを考える余地はなかったにちがいありません。何事にも一途な瑠イですから。

2.マンカ(舟+孟 舟+甲、1920年の台湾総督府による行政改編で萬華(略字:万華))

マンカ
マンカ<写真を拡大く>

マンカ
夜のマンカ<写真を拡大く>

 台北を南北に流れる淡水河と、その東側にある台北城の西側城壁とに囲まれた地域で、台北で最も早くから開けた街です。河岸にあって、龍山寺という台北最古の寺を中心に発達した下町で、東京でいうと浅草あたりということになるのでしょうか。正太が最初に住んだ「傾きかけた小屋に近い家」のあった街で、昼間城内で働いた後に、夜間行商で働いた街でもあります。当時から飲み屋や女郎屋が集まっており、正太の浮気相手であるサキが勤めていた飲み屋、甲斐路もこの街にありました。

 ここには統治時代の建物がまだ残っており、当時の様子をうかがうことができます。また、西本願寺の鐘楼の残骸なども残っています。ツアーガイドさんに「マンカは行かないほうがいい(見るべきところがないという意味か、治安が悪いという意味かは分かりませんが)」と言われましたが、小説の多くの場面で出てくるマンカはぜひ行きたかった街でした。確かに、歩道には人びとがたむろし、犬や猫もうろつき、上品な街とは言えませんが、身一つで日本を飛び出してきた正太を迎え入れた街らしく、だれでもがもぐり込める下町といった印象を受けました。

 正太が見たであろう街の風景を見ていると、張り切って行商している正太の姿が浮かんできました。起業の夢を持った、30歳前半の九州男児の行商姿です。


3.総統府

総統府
総統府<写真を拡大>

 日本統治時代の台湾総督府で、7年の建設期間を経て1919年竣工しています。正太が菓子屋・七富士軒を設立したのが1904年、(新高)ドロップで日本進出を果たしたのが1908年ごろ(長女の加世が女学校を卒業する時期)なので、小説にでてくる総督府はこの建物ではありません。ここから少し北にあった巡撫衙門(じゆんぶがもん)という統治前の行政庁舎が使われていたのでしょうか。そこで正太は後藤新平に会っています。同じ菓子業の四季屋や前田軒との抗争にからんでのことですが、正太40歳、後藤47歳、広い視野で将来を見つめるこの二人には相通じるものがあったことでしょう。

 日本統治時代に建てられた朝鮮総督府はすでに撤去されていますが、台湾総督府は総統府という名称で総統官邸として現在も使われています。反日の韓国、親日の台湾を象徴しているように思います。台湾の親日感情は、統治時代に日本から渡った教師や警察官が築いたとも言われており、先人の苦労のたまものなのです。また、現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は日本統治時代に作られた、という認識が一部の台湾人にあり、日本統治のプラス面がしっかり評価されている、日本にとって大切な友人国でもあります。

4.鉄道ホテル

鉄道ホテル
三越入口から見た台北駅<写真を拡大>

 台北駅前に新光三越百貨店がありますが、ここは統治時代に鉄道ホテルがあった場所です。小説では、台湾で事業をしている日本人が集まる淡水館倶楽部の月例会々場が鉄道ホテルでした。日本人の社交や商談の場だったようです。台北駅前であり、基隆港から入出国する日本人で賑わっていたことでしょう。

 事業に成功しつつある正太が競争相手との会談などで使っています。事業のことで頭がいっぱいだった正太は、わき目も振らずに急ぎ足でホテルに入って行ったことでしょう。三越入口でそんな正太を想像していました。


5.本町

本町
彰化銀行台北分行(台湾省専売局台北分局跡地)<写真を拡大>

 台北本町に七富士軒本店がありました。インターネットで場所を特定しようとしたのですができずに、日本統治時代の専売局台北本町分局、終戦後は台湾省専売局台北分局となった地にある彰化銀行台北分行の周辺を、このあたりが本町なんだ、という思いで見てきました。

 終戦後の1947年2月28日、ここにあった台湾省専売局台北分局前に多くの市民が集まり、前日に発生した、分局役人による闇タバコ販売女性暴行事件に対する抗議活動が行われました。これが中国国民党による民衆への大弾圧へとなっていきます。このとき約28,000人と推定される市民が殺害・処刑されたのです。以後40年間、1987年まで戒厳令がひかれ、白色テロと呼ばれる恐怖政治が続きます。台湾に民主化が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことです。

 そこには、日本統治時代から台湾に住んでいて、日本語による日本の教育を受けた、日本人の精神構造に近い人たちと、戦後大陸から渡ってきて日本に代わって台湾を支配した、中国人の精神構造の人たちとの確執があったのです。大陸から来た役人たちを、当初は歓迎した現地の人たちも、役人たちの不正や治安の悪化に驚き、反発するようになります。日本統治時代には起こりえなかったことなのです。これが二二八事件と呼ばれる先の事件へとつながり、日本統治を経験した多くの優秀な指導者や知識人が殺害されるのです。

 1947年2月28日にこの建物の前に集まった人々は、大陸から来た人たちの考え方ややり方に心底怒りを感じていたにちがいありません。その怒りを想像しながら、この地にたたずんでいました。

の記事

No.010:月の岬、高輪台地 (2008年10月15日)

 「月の岬」は月見を楽しむ江戸時代の名所で、徳川家康が名付けたと言われています。現在の高輪台地の一角で、南北に伸びる台地からは東側に迫る江戸前の海(江戸湾)が一望でき、夜の海と月の眺めは格別だったようです。

No.009:伊能忠敬 (2008年07月21日)

 49歳の隠居後に天文・歴学を学び始め、55歳から14年間、日本全国を歩いて精度の高い日本地図を完成させ、当時の平均寿命が40-50歳といわれるなかで73歳の長寿をまっとうした伊能忠敬は、「第二の人生の達人」と言われています。平均寿命が伸び、第二の人生が長くなった現在、この達人に学ぶことは多いのではないでしょうか。

No.008:大山街道-二子<ふたこ>・溝口<みぞのくち>村- (2008年04月09日)

 落語「大山詣り」にでてくる熊五郎、けんかっぱやいので長屋恒例の「大山詣り」への同行を断られます。頼みこむ熊五郎、「けんかは決してしない。もしけんかしたら丸坊主になる」という約束をして、やっと同行できました。それほど、みんなが楽しみにしていた旅だったようです。「大山詣り」の最盛期である江戸中期の宝暦年間(1751-64)には年間20万人が参詣したといいます。7月26日の山開きから8月17日の閉山までの22日間ですから、その間に1日9,000人もの人びとが大山に向い、大山から戻っていったことになります。

No.007:江戸っ子古今亭志ん生<五代目> (2008年02月20日)

 「江戸っ子のうまれぞこないかねをため」とか「江戸っ子は宵越(よいご)しのぜには持たない」という生き方は、貯金がないと不安なわたしのような小心者にはできません。司馬遼太郎は「街道をゆく36 本所深川散歩 神田界隈」(朝日新聞社)で、この生き方は職人のこと、金がいくさの矢弾となる商人のことではない、としています。腕でめしを食う職人が金をためると、腕をみがくことをわすれ、いつまでも腕のあがらない職人となる、といったことなのでしょうか。金よりも腕を大切にする職人の生き様だったようです。

No.006:特別編:ニュルンベルク (2007年12月13日)

 クリスマスシーズンのドイツの町々を旅行しました。そのひとつがニュルンベルクで、中世における神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)の帝国会議開催の町、そんな帝国の復活をもくろんだナチが党大会を開催した町、そのため第二次大戦で徹底的に破壊された町、中世の建物が最善の形で保存され一大観光都市だった戦前の姿を取り戻すべく戦後の復興がすすめられた町、そんな一面をもつ人口約50万人の都市です。

No.005:日和下駄 (2007年11月12日)

 永井荷風の「日和下駄(ひよりげた)」には、大正三年当時の東京市中の様々な風景が描かれています。その美しく臨場感あふれる描写は、「市中の散歩は子供の時からすきであった」荷風ならではのものでしょう。

No.004:徳川慶喜<よしのぶ/けいき> (2007年10月17日)

 80歳になる河合重子さんという方が「謎とき徳川慶喜―なぜ大坂城を脱出したのか」(草思社刊)という、300ページを超える厚い本を今年著しました。史料調査や著作に必要なエネルギーを考えると、80歳というお歳が驚きですが、15歳のときに慶喜フアンとなりそれ以来一貫して慶喜を追い続けてきたということが更に驚きです。

No.003:神田川 (2007年08月13日)

 神田川は、三鷹市の井之頭池を水源として、台東区の柳橋で隅田川に合流する延長25.48kmの1級河川です。江戸時代は神田上水として、また江戸城の外堀の一部として大きな役割を担っていました。

No.002:時の鐘 (2007年06月20日)

 浦井祥子氏(うらいさちこ:日本女子大学講師)が膨大な史料を丹念に解読してまとめた「江戸の時刻と時の鐘」からは江戸時代の時の鐘の実態が生きいきと伝わってきます。史料を多面的に解読し、正確に理解しようとする研究者としての氏の姿勢には、歴史小説のような華やかさやダイナミックさはないものの、信頼感と好感がもて、とても新鮮な印象を受けました。

No.001:たけくらべ (2007年04月15日)

 樋口一葉の「たけくらべ」の舞台となったところを歩きました。明治25年(1892年)7月から約2年間吉原に隣接した龍泉寺町で駄菓子屋を営んでいた一葉は、暖かい眼差しと鋭い観察眼でそこで育つ子供たちを見つめ、その細やかな心の動きを見事に捉えています。物語を読んで、育つ環境は違っても子供たちの発想や思考には違いがないことをあらためて感じました。だからこそ地域や時代を越えた多くの読者が物語の中に自分の子供時代を見つけて共感できるのでしょう。


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