大江戸ウォーキング

No.005:日和下駄

 永井荷風の「日和下駄(ひよりげた)」には、大正三年当時の東京市中の様々な風景が描かれています。その美しく臨場感あふれる描写は、「市中の散歩は子供の時からすきであった」荷風ならではのものでしょう。

 「私は別にこれと云ってなすべき義務も責任も何もない云わば隠居同様の身の上である。その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気に暮らす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである」という荷風ですが、このときのかれはまだ36歳、慶應義塾大学の教授で雑誌「三田文学」の主宰者でもあり、そんな境涯(きょうがい)ではありません。これはかれの理想で、その後のかれの生き方がそのことを示しているといわれています。そんなかれの理想とする境涯にすでにある私が、かれがみた風景を追ってみました。

 江戸切絵図をもって散策する荷風が描く風景は、当時まだ色濃くのこる江戸庶民の社会のなごりで、やがては消えていくであろう風景なのです。それは、より正確な陸軍陸地測量部地図を嫌い、より直感的な江戸切絵図を好むかれが展開する文明批判でもあり、先の理想ともつながっている気がします。「(私は)或時は表面に恬淡(てんたん:あっさりしていること)洒脱(しゃだつ:俗気を脱していること)を粧(よそほ)つているが心の底には絶えず果敢(はかな)いあきらめを宿している。(中略)私は後(うしろ)から勢(いきほひ)よく襲ひ過ぎる自動車の響に狼狽して、表通から日の當たらない裏道へと逃げ込み、そして人に後(おく)れてよろよろ歩み行く處に、わが一家の興味と共に苦しみ、又得意と共に悲哀を見るのである 」というかれは、勢いをます実利的資本主義、その象徴としての自動車、そんな時世に背を向けて日のあたらない裏道へと入り、そこに安らぎと悲しみをみつけているのです。そんな荷風に時代を越えて共感する人は多いことでしょう。かれの心に映った風景を新しい小型デジカメで写し撮ろうという想いにかられてでかけました。荷風の美しい風景描写と、最新の小型デジカメを入手したばかりの興奮がそんな気分にさせたようです。よく晴れた秋の17kmウォーキングとなりました。

参考:日本近代文学大系 第29巻 永井荷風集(角川書店1970年刊)、荷風日和下駄読みあるき(岩垣顕著、街と暮らし社2007年刊)

地図
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1.寺 不忍弁天堂

不忍弁天堂
不忍弁天堂<写真を拡大>

 「日本の神社と寺院とは其の建築と地勢と樹木との寔(まこと)に複雑なる総合美術である」とする荷風が「不忍(しのばず)の池(いけ)に泛(うか)ぶ辨天堂(べんてんどう)と其の前の石橋(いしばし)とは、上野の山を蔽(おほ)う杉と松とに對して、又は池一面に咲く蓮花(はすのはな)に對して最もよく調和したものではないか」という不忍弁天堂を訪ねました。不忍池は「水」の章でもでてきて、「巴里(パリー)にも倫敦(ロンドン)にもあんな大きな、そしてあのやうに香(かんば)しい蓮の花の咲く池は見られまい」と賞賛しています。かれがみた風景のほとんどが消滅してしまった現代、ここはそのときの面影をわずかでも残しているところではないでしょうか。なんどもこの地を訪れたであろう荷風が感じた素晴らしさを、一回の訪問で感じるのは難しそうですが、それでも何か癒されるおもいがしました。池の存在が大きいようです。


2.淫祠 飴嘗地藏(あめなめぢぞう)

嘗地藏(あめなめぢぞう)
飴嘗地藏(あめなめぢぞう)<写真を拡大>

 荷風がいう淫祠(いんし:邪神を祭ったやしろ)とは「裏町の角なぞに立つてゐる小さな祠(ほこら)やまた雨ざらしのまゝなる石地蔵」などで、そこで「今もって必ず願掛(ぐわんがけ)の繪馬(えま)や奉納(ほうなふ)の手拭(てぬぐひ)、或時は線香なぞが上げてある」のをみて、こういった人たちは近代化に染まってはいないと想像し、慰めのようなものを感じているようです。かれが挙げた淫祠のひとつ、隅田川厩橋(うまやばし)西にある榧寺(かやでら:池中山正覚寺)の「蟲齒(むしば)に效驗(しるし)のある飴嘗地藏(あめなめぢぞう)」を訪ねました。飴をなめているようにほっぺたをふくらませた可愛いお地蔵様です。荷風は「無邪気で下賎(げす)ばつた此等愚民の習慣」に慰めれるといっていますが、虫歯で痛いおもいをしていてもお地蔵様に祈るしかなかった昔の人びとを想像すると、無邪気ではすまないもっと切実なものがあったのではないでしょうか。お地蔵様を前に、そんな気がしました。


3.樹 浅草観音堂の銀杏

浅草観音堂の銀杏
浅草観音堂の銀杏<写真を拡大>

 東京が最も美しくなるのはいたるところに青葉が茂る初夏で、「輝く初夏(しょか)の空の下(した)、際限なくつづく瓦屋根の間々(あいだあいだ)に、或いは銀杏(いてふ)、或いは椎(しひ)、樫(かし)、柳(やなぎ)なぞ、いづれも新緑の色鮮(あざやか)なる梢(こずゑ)に、日の光の麗しく照添(てりそ)ふさまを見たならば」東京も「まだまだ全(まつた)く捨てたものでもな」く、そこには「東京らしい固有な趣(おもむき)がる」と書いています。屋根と屋根の間にみえる、人びとの暮らしのなかにとけこんでいる樹木の美しさは、かれがみた高い建物が並ぶパリやロンドンにはなかったのかもしれません。かれが挙げた多くの樹木のうち「浅草觀音堂(あさくさくわんおんだう)のほとりにも名高い銀杏(いてふ)の樹は二株(ふたかぶ)もある」という銀杏(いちょう)を訪ねました。樹齢600年といわれる天然記念物です。世界屈指の大都市でありながら、このような巨木や草木の緑が身近にあった江戸での暮らしぶりを想像し、羨ましく感じたりもしました。


4.水 永代橋

永代橋
永代橋<写真を拡大>

 東京の美しさの「第一の要素をば樹木と水流に俟つ(まつ:待つ、頼る)ものと断言」する荷風は、「水」について他の章よりもより多くのことを愛情をこめて語っています。隅田川に代表される河川、縦横にはしる運河、濠(ほり)、多くの池、などからなる明治の東京は、それらが生活や娯楽に密着し、人びとに愛されていたことからも、「水の都」と呼ぶにふさわしい都市であり、江戸時代と比べるとその重要さは薄れたとはいえ、まだまだかれの心を大きくとらえているのです。荷風が十五六歳のときに小舟で遊んだ楽しい経験があるという永代橋近辺に行ってみました。すでに日が暮れようとしているときで、夕闇が周りを覆い隠し、永代橋が夕焼けに映え、隅田川が静かに流れている風景をまえに、荷風が感じたかもしれない安らぎを感じるひとときとなりました。


5.路地 葭町(よしちょう)

葭町(よしちょう)
葭町(よしちょう)の路地<写真を拡大>

 西洋まがいの建物、ペンキ塗りの看板、電柱と電線、などが無秩序にはびこり、「静寂の美を保ってゐた江戸市街の整頓」を失っていく表通りに「絶えず感ずるこの不快と嫌惡(けんを)の情(じやう)とは一層(ひとしほ)私をして其の陰にかくれた路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである」と、秩序を保っていた江戸が東京となったとたん無秩序に変わりはじめたことに荷風は苛立っています。「音律なる活動の美を有する西洋市街」をみてきたかれには我慢できないことだったのでしょう。

 それから90年以上経った今日、東京はさらに無秩序に日々変わっています。人びとのエネルギーや欲望が街並みをどんどん変えていく、混沌とした、何でもありの街といった感があるのです。路地も例外ではありません。荷風が逃げ込める路地などもうないのではないでしょうか。路地として描かれている葭町(よしちょう:日本橋人形町)には、芸者の置屋だった建物がいまでも残っている路地がありますが、それは繁盛している料理屋であったりして、かれが描いた日の当らない路地ではありません。生まれ育った東京への強い愛着、それゆえの反感、共感、悲しみ、喜びが綴られた「日和下駄」、そのほんの一部をたどった一日でしたが、荷風という一人の東京人に少しお近づきになれた、そんな楽しいウォーキングでした。

の記事

No.011:特別編:台湾-望郷の道- (2008年12月13日)

 1895年(明治28年)4月に終結した日清戦争により台湾は日本の領土となり、太平洋戦争が終結する1945年(昭和20年)8月までの50年間、日本によって統治されました。北方謙三氏の小説「望郷の道」(日本経済新聞2007年8月-2008年9月朝刊連載)の主人公正太が九州を追われ台湾に渡ったのが1899年(明治32年)5月で、兒玉源太郎(こだま げんたろう、1852年 - 1906年)総督(1898年-1906年)の下で後藤新平(ごとう しんぺい、1857年 - 1929年)民政長官(1898年-1906年)が、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成などにより台湾の近代化を推進しようとしているときでした。

No.010:月の岬、高輪台地 (2008年10月15日)

 「月の岬」は月見を楽しむ江戸時代の名所で、徳川家康が名付けたと言われています。現在の高輪台地の一角で、南北に伸びる台地からは東側に迫る江戸前の海(江戸湾)が一望でき、夜の海と月の眺めは格別だったようです。

No.009:伊能忠敬 (2008年07月21日)

 49歳の隠居後に天文・歴学を学び始め、55歳から14年間、日本全国を歩いて精度の高い日本地図を完成させ、当時の平均寿命が40-50歳といわれるなかで73歳の長寿をまっとうした伊能忠敬は、「第二の人生の達人」と言われています。平均寿命が伸び、第二の人生が長くなった現在、この達人に学ぶことは多いのではないでしょうか。

No.008:大山街道-二子<ふたこ>・溝口<みぞのくち>村- (2008年04月09日)

 落語「大山詣り」にでてくる熊五郎、けんかっぱやいので長屋恒例の「大山詣り」への同行を断られます。頼みこむ熊五郎、「けんかは決してしない。もしけんかしたら丸坊主になる」という約束をして、やっと同行できました。それほど、みんなが楽しみにしていた旅だったようです。「大山詣り」の最盛期である江戸中期の宝暦年間(1751-64)には年間20万人が参詣したといいます。7月26日の山開きから8月17日の閉山までの22日間ですから、その間に1日9,000人もの人びとが大山に向い、大山から戻っていったことになります。

No.007:江戸っ子古今亭志ん生<五代目> (2008年02月20日)

 「江戸っ子のうまれぞこないかねをため」とか「江戸っ子は宵越(よいご)しのぜには持たない」という生き方は、貯金がないと不安なわたしのような小心者にはできません。司馬遼太郎は「街道をゆく36 本所深川散歩 神田界隈」(朝日新聞社)で、この生き方は職人のこと、金がいくさの矢弾となる商人のことではない、としています。腕でめしを食う職人が金をためると、腕をみがくことをわすれ、いつまでも腕のあがらない職人となる、といったことなのでしょうか。金よりも腕を大切にする職人の生き様だったようです。

No.006:特別編:ニュルンベルク (2007年12月13日)

 クリスマスシーズンのドイツの町々を旅行しました。そのひとつがニュルンベルクで、中世における神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)の帝国会議開催の町、そんな帝国の復活をもくろんだナチが党大会を開催した町、そのため第二次大戦で徹底的に破壊された町、中世の建物が最善の形で保存され一大観光都市だった戦前の姿を取り戻すべく戦後の復興がすすめられた町、そんな一面をもつ人口約50万人の都市です。

No.004:徳川慶喜<よしのぶ/けいき> (2007年10月17日)

 80歳になる河合重子さんという方が「謎とき徳川慶喜―なぜ大坂城を脱出したのか」(草思社刊)という、300ページを超える厚い本を今年著しました。史料調査や著作に必要なエネルギーを考えると、80歳というお歳が驚きですが、15歳のときに慶喜フアンとなりそれ以来一貫して慶喜を追い続けてきたということが更に驚きです。

No.003:神田川 (2007年08月13日)

 神田川は、三鷹市の井之頭池を水源として、台東区の柳橋で隅田川に合流する延長25.48kmの1級河川です。江戸時代は神田上水として、また江戸城の外堀の一部として大きな役割を担っていました。

No.002:時の鐘 (2007年06月20日)

 浦井祥子氏(うらいさちこ:日本女子大学講師)が膨大な史料を丹念に解読してまとめた「江戸の時刻と時の鐘」からは江戸時代の時の鐘の実態が生きいきと伝わってきます。史料を多面的に解読し、正確に理解しようとする研究者としての氏の姿勢には、歴史小説のような華やかさやダイナミックさはないものの、信頼感と好感がもて、とても新鮮な印象を受けました。

No.001:たけくらべ (2007年04月15日)

 樋口一葉の「たけくらべ」の舞台となったところを歩きました。明治25年(1892年)7月から約2年間吉原に隣接した龍泉寺町で駄菓子屋を営んでいた一葉は、暖かい眼差しと鋭い観察眼でそこで育つ子供たちを見つめ、その細やかな心の動きを見事に捉えています。物語を読んで、育つ環境は違っても子供たちの発想や思考には違いがないことをあらためて感じました。だからこそ地域や時代を越えた多くの読者が物語の中に自分の子供時代を見つけて共感できるのでしょう。


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