家族

No.005:時間感覚

 「遅かったじゃないか」、5時からの食事会に5時少し前に現れた姉に叔母が文句を言ったそうです。
叔母は4時前から会場で待っていたのです。
叔母の姉である私の母も同様の時間感覚で、一緒に旅行するときに待合せ時刻の1時間ぐらい前から待っていたときもあります。周りが迷惑です。そんな母の不思議な時間感覚を理解するのは難しいのですが、歳とともに母の性格を引き継いでいる自分を発見しつつある私としては気になるところです。

 日本人の時間厳守の気質、母のそれは度を越してはいますが、それは必要性から生れてきているのでしょう。世界に類を見ない日本の鉄道の定時運転のルーツは江戸時代にある、と「定刻発車」(交通新聞社)の著者清瀬六朗氏は推定しているようですが、そうなると時間厳守気質のルーツも江戸時代にありそうです。江戸時代以前の時刻の共通認識は天体観測による不確実なものでした。江戸時代になってから時の鐘などの時報システムによりかなり正確な時刻の共通認識が可能となったのです。特に江戸では全国で唯一複数の時の鐘が設置され、江戸府内全域に24時間時刻を告げていました。当時世界でも有数な大都市となった江戸ではそういったシステムを必要としていたのです。それは人々の生活や仕事を効率よく進めるために必要で、少ない資源でより多くの人々が暮らしていくための知恵だったのではないでしょうか。より正確な時刻の共通認識が必要だったということは遅刻や時間厳守といった概念も江戸時代に確立したと考えられます。

時の鐘
母の生家に近い浅草寺の時の鐘

 若くして父親を亡くし一家の稼ぎ手となった母は、稼ぎを少しでも増やすために常に効率を追っていたようです。自宅での鼻緒のミシン縫いで稼いでいた母は、お棚(元締め)が用意する翌日の鼻緒の布地を夜叔母に偵察に行かせ、その報告で翌日もらってくる布地を叔母に指示し、翌朝叔母がもらって帰ってくるとすでに布地に合った色の糸をミシンに通して待っていたそうです。母の段取りのよさ、効率のよさは小さい頃から見ています。食事のときの手際のよさはかなりのものです。そんな母の効率の追求が少し度を越した時間厳守を生んだのに違いありません。全国に先駆けて時報システムが充実した江戸、その中心ともいえる浅草で育った母であればなおさら納得できそうです。

 定年後、それまであった多くの枠組みがはずれ、本来の自分が現れてきているように感じています。それは多くの部分で母の性格と重なるのです。今後ますます母に似てくるような気がしています。そんなこれからの自分を理解するためにも母の時間感覚の不思議を考えてみました。母親譲りの身勝手な解釈かもしれませんが、自分で勝手に納得しています。

の記事

No.176:兄弟仲 (2021年09月30日)

 「おにいちゃん、おにいちゃん、、、、」と叫びとも泣き声ともとれる悲痛な響きが、マンション廊下側の少し開いた窓から聞こえます。お隣玄関ドアのところからのようです。男2人兄弟、新学期初日で学校に行く小1の兄を、3歳下の弟が引き留めようとしている様子です。夏休みでずっと一緒だったおにいちゃんが出かけるので、寂しかったのでしょう。

No.158:長兄の死 (2020年03月31日)

 長兄が亡くなりました。79歳、平均寿命に届かない早すぎる死です。2年前の手術で肝臓癌を100%摘出し、「命拾いした」と喜んでいたのですが、術後も嚥下機能改善手術を受けるなどして入院が続き、1年前に病室で倒れて脳を損傷、自分の意思では身体を動かすことができなくなりました。手をわずかに動かせる程度です。見舞いの帰り際、長兄が手を振るしぐさをするだけで、みんなが喜ぶ、そんな闘病の日々でいくつかの臓器の機能が低下し、先日亡くなりました。

No.152:叔母の葬儀 (2019年09月30日)

 「お墓を引き継ぐ人がいなければ、納骨はできません。更地にして返していただきます」といきなり言われました。叔母の葬儀をお寺さんに相談したときのことです。親も、兄弟も、子供もいない叔母は、このままでは、夫のいるお墓に入れないのです。お袋の妹で、享年96歳、小さいころから可愛がってもらった我々兄弟で、葬儀をして、姉がお墓を守ることとなりました。

No.148:長兄の病 (2019年05月31日)

 78歳になる長兄が肝臓癌で大きな手術を受けました。手術は成功し、癌を全て取り除き転移もないとのことでひと安心だったのですが、術後の経過が思わしくありません。もう、1年以上入院しています。手術後、誤嚥するようになり、嚥下機能改善手術を受けたり、転倒で頭を打ち開頭手術を受けたりしているのです。

No.113:実家の売却 (2016年06月30日)

 部屋に入るなりいきなり、「タヌキはどうしたの!!」と驚いたように姪が尋ねました。背丈70センチほどの信楽焼きのタヌキ、実家の玄関に26年間鎮座し、来訪者を歓迎していましたが、いなくなったのです。実家の売却が決まり、取り壊されることとなり、兄貴家族全員と我々夫婦が実家に集まったときのことです。

No.110:小学生時代の通信簿 (2016年03月31日)

 「幾分気が弱いのではないかと思われる。そのために栄養も良くない。つとめて健康に留意されたい。勉強の方はあまりあせらずにいてよいと思います」、小学1年1学期の通信簿通信欄での記述です。私は、虚弱体質で勉強のできない子でした。最近実家で見つかったこの通信簿を見ながらつくづく思うのは、よくぞここまで無事これたものだ、ということです。今は、健康に恵まれ、今のところお金に困ることもなく、生活を楽しんでおり、まあまあ幸せな日々と言えます。

No.036:母のこと (2010年01月31日)

 「沼津の学校に行くかい?」、母が尋ねたのはわたしが小学生のときです。電車の中でした。外の景色をドアのガラス越しに見つめながら「うん」と同意したのを覚えています。虚弱体質の子どもや知恵遅れの子どもを寄宿舎生活で鍛える沼津の学校と知っての返事でしたから、それ以前に母から説明を受けていたのでしょうが、このときのことしか覚えていません。子ども心にも、それだけ深刻な決意の瞬間だったのでしょう。

No.035:実家に続く道 (2009年12月31日)

 実家間近にある線路沿いの細い道、毎週、電車から眺めています。ここを過ぎるとやがて下車駅、以前であればその駅から実家へとここを歩くのですが、いまは別の電車に乗り換えて母が入居している施設に向かいます。もうほとんど歩くことがなくなった、懐かしい、とさえなりつつある道、電車が減速し駅に入り始めるころには見えなくなるのですが、それでも目で追いかけているときもあります。さまざまな思いを抱きながら歩いた道です。

No.015:渋谷のお子様ランチ (2008年04月30日)

 渋谷駅がよく見える窓側の席でお子様ランチを喜んで食べていました。50年以上昔の渋谷食堂でのことです。わたしの弱視を診てもらうために母に連れられて行った病院からの帰りでした。

No.004:両親のこと (2007年05月31日)

 「団塊格差」(三浦展著、文春新書)を読んで両親への感謝の気持ちが更に強くなりました。団塊世代の大学卒業者は22%だそうです。文部科学省「2006年学校基本調査報告」では、私が大学進学した1965年の高等教育機関(大学・短大・専門学校)への進学率は18%程度で、現在の76.2%(2006年)とは進学状況に大きな違いがあったのです。兄2人が大学に進学しており、それを当たり前のように考えていましたが、世間一般以上の両親の努力があったことをあらためて知りました。


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