家族

No.113:実家の売却


取り壊される前に記念写真を<写真へのクリックで拡大できます>

 部屋に入るなりいきなり、「タヌキはどうしたの!!」と驚いたように姪が尋ねました。背丈70センチほどの信楽焼きのタヌキ、実家の玄関に26年間鎮座し、来訪者を歓迎していましたが、いなくなったのです。実家の売却が決まり、取り壊されることとなり、兄貴家族全員と我々夫婦が実家に集まったときのことです。

 姪は小さいころからよく遊びに来ていて、お婆ちゃんお爺ちゃんに大歓迎され、ご馳走が出て、遊園地などに連れて行ってもらえる、楽しい思い出の家です。そんな父親の実家の玄関にいて、最初に出迎えてくれるタヌキは、これから始まる楽しい出来事を期待させてくれる存在だったに違いありません。

 タヌキは無事で、我家で横になり休んでいます。昔、妻と妻の両親みんなで遊びに行った信楽から実家に送ったもので、思い出もあって我々が引き取りました。妻の実家で第二の人生を送ってもらうつもりです。義父が小さいのを買ったのですが、家に置いてみて「もう少し大きいのを買えばよかった」と言っていたそうです。義父はもう亡くなりましたが、大きなタヌキをやっと届けることができます。

 実家には、大学、大学院時代に両親と一緒に住み、京都に就職してからは年に2回ぐらい、25年前に横浜転勤となってからは多いときには月2回から3回訪問しています。19年前に父が亡くなり、10年前に母が入院、その後施設に入ってからはほとんど行かなくなりました。両親がいなくなってからは、実家は思い出だけの場所となったのです。

 一番の思い出は、家族全員が集まるお正月でしょう。京都在住のときは1年ぶりの全員との再会です。大晦日の団らん、お正月のご挨拶とご馳走、夜遅くまで尽きない四方山話、絶えない笑いがありました。家の中で一番狭い茶の間にみんなが集まって、こたつを囲んで夜1時、2時まで話に熱中していると、先に寝た親父が2階から降りてきて、早く寝ろ、と急き立てます。この茶の間、ある人が一目見て、ここには福がたくさんいる、と言ったそうです。今で言うパワースポットでしょうか、楽しい団らんの部屋でした。親父の最初の見取り図にはなかったのですが、お袋がどうしてもと、台所の隣に追加してもらったそうです。お袋の先見の明がここにもありました。

 建てる時、模型を自作して嬉しそうだった親父、自慢の家と庭が取り壊されるのはさぞかし寂しいことでしょう。でも、子どもたち4人全員が自分の家を持ち、お互い仲たがいすることもなく、みんな元気で、その子供たちも自立し、子供を育て、社会で活躍しています。家が果たす役割というものがあるかと思いますが、それを立派に果たしたといえるでしょう。

 引渡しの日、銀座・歌舞伎座タワーにある不動産会社オフィスに集合した兄弟4人、うち上2人が登記識別情報通知書、いわいる権利書を持参してきませんでした。4人全員の通知書がないと引渡しできません。そんな書類がいるなんて聞いてない、とか、見たこともない、とか言いながら急いで家に取りに帰り、3時間遅れでの引渡し完了となりました。一番上が75歳、一番下の私が69歳、緊張感のない暮らしが続いており、まあまあが許されない不動産売買は苦手、これからますます苦手になるでしょう。売却するいい潮時でもあったのかもしれません。

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No.158:長兄の死 (2020年03月31日)

 長兄が亡くなりました。79歳、平均寿命に届かない早すぎる死です。2年前の手術で肝臓癌を100%摘出し、「命拾いした」と喜んでいたのですが、術後も嚥下機能改善手術を受けるなどして入院が続き、1年前に病室で倒れて脳を損傷、自分の意思では身体を動かすことができなくなりました。手をわずかに動かせる程度です。見舞いの帰り際、長兄が手を振るしぐさをするだけで、みんなが喜ぶ、そんな闘病の日々でいくつかの臓器の機能が低下し、先日亡くなりました。

No.152:叔母の葬儀 (2019年09月30日)

 「お墓を引き継ぐ人がいなければ、納骨はできません。更地にして返していただきます」といきなり言われました。叔母の葬儀をお寺さんに相談したときのことです。親も、兄弟も、子供もいない叔母は、このままでは、夫のいるお墓に入れないのです。お袋の妹で、享年96歳、小さいころから可愛がってもらった我々兄弟で、葬儀をして、姉がお墓を守ることとなりました。

No.148:長兄の病 (2019年05月31日)

 78歳になる長兄が肝臓癌で大きな手術を受けました。手術は成功し、癌を全て取り除き転移もないとのことでひと安心だったのですが、術後の経過が思わしくありません。もう、1年以上入院しています。手術後、誤嚥するようになり、嚥下機能改善手術を受けたり、転倒で頭を打ち開頭手術を受けたりしているのです。

No.110:小学生時代の通信簿 (2016年03月31日)

 「幾分気が弱いのではないかと思われる。そのために栄養も良くない。つとめて健康に留意されたい。勉強の方はあまりあせらずにいてよいと思います」、小学1年1学期の通信簿通信欄での記述です。私は、虚弱体質で勉強のできない子でした。最近実家で見つかったこの通信簿を見ながらつくづく思うのは、よくぞここまで無事これたものだ、ということです。今は、健康に恵まれ、今のところお金に困ることもなく、生活を楽しんでおり、まあまあ幸せな日々と言えます。

No.036:母のこと (2010年01月31日)

 「沼津の学校に行くかい?」、母が尋ねたのはわたしが小学生のときです。電車の中でした。外の景色をドアのガラス越しに見つめながら「うん」と同意したのを覚えています。虚弱体質の子どもや知恵遅れの子どもを寄宿舎生活で鍛える沼津の学校と知っての返事でしたから、それ以前に母から説明を受けていたのでしょうが、このときのことしか覚えていません。子ども心にも、それだけ深刻な決意の瞬間だったのでしょう。

No.035:実家に続く道 (2009年12月31日)

 実家間近にある線路沿いの細い道、毎週、電車から眺めています。ここを過ぎるとやがて下車駅、以前であればその駅から実家へとここを歩くのですが、いまは別の電車に乗り換えて母が入居している施設に向かいます。もうほとんど歩くことがなくなった、懐かしい、とさえなりつつある道、電車が減速し駅に入り始めるころには見えなくなるのですが、それでも目で追いかけているときもあります。さまざまな思いを抱きながら歩いた道です。

No.015:渋谷のお子様ランチ (2008年04月30日)

 渋谷駅がよく見える窓側の席でお子様ランチを喜んで食べていました。50年以上昔の渋谷食堂でのことです。わたしの弱視を診てもらうために母に連れられて行った病院からの帰りでした。

No.005:時間感覚 (2007年06月30日)

 「遅かったじゃないか」、5時からの食事会に5時少し前に現れた姉に叔母が文句を言ったそうです。叔母は4時前から会場で待っていたのです。叔母の姉である私の母も同様の時間感覚で、一緒に旅行するときに待合せ時刻の1時間ぐらい前から待っていたときもあります。周りが迷惑です。そんな母の不思議な時間感覚を理解するのは難しいのですが、歳とともに母の性格を引き継いでいる自分を発見しつつある私としては気になるところです。

No.004:両親のこと (2007年05月31日)

 「団塊格差」(三浦展著、文春新書)を読んで両親への感謝の気持ちが更に強くなりました。団塊世代の大学卒業者は22%だそうです。文部科学省「2006年学校基本調査報告」では、私が大学進学した1965年の高等教育機関(大学・短大・専門学校)への進学率は18%程度で、現在の76.2%(2006年)とは進学状況に大きな違いがあったのです。兄2人が大学に進学しており、それを当たり前のように考えていましたが、世間一般以上の両親の努力があったことをあらためて知りました。


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