家族

No.110:小学生時代の通信簿


小学生時代の通信簿<写真へのクリックで拡大できます>

 「幾分気が弱いのではないかと思われる。そのために栄養も良くない。つとめて健康に留意されたい。勉強の方はあまりあせらずにいてよいと思います」、小学1年1学期の通信簿通信欄での記述です。私は、虚弱体質で勉強のできない子でした。最近実家で見つかったこの通信簿を見ながらつくづく思うのは、よくぞここまで無事これたものだ、ということです。今は、健康に恵まれ、今のところお金に困ることもなく、生活を楽しんでおり、まあまあ幸せな日々と言えます。

 身体も頭も弱かった私を母は心配し、沼津の特殊学校に入れたい、と小学校の担任の先生と相談しています。そこまでする必要はない、というのが先生の意見だったようですが。将来はおまえたちが面倒見るんだよ、と兄たちに言い聞かせてもいたようです。近視だった私が一番前の席に移ったのは、母が先生に相談した結果でした。黒板の字がはっきり見えるようになり、少しづつ勉強意欲が出てきました。通信簿でも、「授業中もぼんやりしていることが多い」(3年1学期)だったのが、次の2学期では「前学期に比べ目立って学習意欲が出てきました」(3年2学期)、更に1年後は「努力のあとが見られます」(4年2学期)となり、2年後「仲々がんばって勉強するようになりました」(5年3学期)、卒業直前には「学習態度はりっぱであり すすんで研究するようになった」(6年3学期)となっています。

 とはいうものの、5段階評価中最高の「まさる」は6年間で2つ、社会と理科、最低の「おとる」が4つ、体育が3回と図画工作、という成績、大学はもちろん高校受験も無理だろうと考えた母は、私を工業高校付属の私立中学に進学させました。中学受験では分厚い参考書が薄汚れてしまうほど勉強しています。入学後、3年間のほとんどが100人中10番以内という成績で、ここで大きな自信をつけました。バス、電車で片道1時間以上かけての通学では往復3km以上歩き、身体も丈夫になりました。この時期に今の基礎ができたのだ考えています。母のおかげです。

 ダウン症の女流書家金澤翔子さんの、2015年3月20日ニューヨーク「世界ダウン症の日記念会議」でのスピーチをテレビで見ましたが、母親への感謝の気持ちであふれていました。ダウン症の我が子の将来を案じるお母様の努力が翔子さんの今日の成功をもたらしたようです。次元やレベルは全く違いますが、私と少し重なるところがある、と思いながら番組を見ていました。「『うまく書こう』とか『だれかと比べて』などの欲がないから(素晴らしい書となる)」とお母様の泰子さんがおっしゃっていますが、ダウン症のため多くを望まなかったお母様の気持ちが、そんな翔子さんに育てた、という気がします。翔子さんは天真爛漫でとても幸せそうです。「欲のない」「ありのままの自分」でいられるからなのでしょう。心理学者アドラーは「ありのままの自分を認める勇気を持つことが幸せへの第一歩」といった主旨のことを言っています。

 期待されなかった、注目されなかった私は、「人から良く思われたい」とか「人に褒められたい」といった欲はあまりありません。他人の価値観や見方はあまり気にならないのです。自分自身で考え、「ありのままの自分」で生きてきたように思います。勤務先の個人事務所のボスは、私を「素直」だと評します。だから仲良く仕事ができる、と。「ありのままの自分」を直視し、「ありのままの境遇」、「ありのままの他人」を直視している、そいう意味合いもあるような気がします。電機メーカーの研究開発に30年近く従事し、53歳で、何のつながりも無い広告代理店に出向して10年以上務め、ボスとも今年で9年目、歳をとってからの異分野勤務が長く続いたのは、「素直」さがあったからなのかもしれません。

 「教科書を忘れて来る時が非常に多いので注意願います。えんぴつも持たずに登校しています」と小学4年3学期の通信簿連絡欄にあり、その傾向は今もあまり変わりません。そんな私がここまでこれたのは、母のおかげで「人生の基礎」ができたことと、「素直」さががあったからだと改めて思います。その「素直」さも母のおかげだったのかもしれません。母の強い思いに、翔子さんと同様、ひたすら感謝です。

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No.176:兄弟仲 (2021年09月30日)

 「おにいちゃん、おにいちゃん、、、、」と叫びとも泣き声ともとれる悲痛な響きが、マンション廊下側の少し開いた窓から聞こえます。お隣玄関ドアのところからのようです。男2人兄弟、新学期初日で学校に行く小1の兄を、3歳下の弟が引き留めようとしている様子です。夏休みでずっと一緒だったおにいちゃんが出かけるので、寂しかったのでしょう。

No.158:長兄の死 (2020年03月31日)

 長兄が亡くなりました。79歳、平均寿命に届かない早すぎる死です。2年前の手術で肝臓癌を100%摘出し、「命拾いした」と喜んでいたのですが、術後も嚥下機能改善手術を受けるなどして入院が続き、1年前に病室で倒れて脳を損傷、自分の意思では身体を動かすことができなくなりました。手をわずかに動かせる程度です。見舞いの帰り際、長兄が手を振るしぐさをするだけで、みんなが喜ぶ、そんな闘病の日々でいくつかの臓器の機能が低下し、先日亡くなりました。

No.152:叔母の葬儀 (2019年09月30日)

 「お墓を引き継ぐ人がいなければ、納骨はできません。更地にして返していただきます」といきなり言われました。叔母の葬儀をお寺さんに相談したときのことです。親も、兄弟も、子供もいない叔母は、このままでは、夫のいるお墓に入れないのです。お袋の妹で、享年96歳、小さいころから可愛がってもらった我々兄弟で、葬儀をして、姉がお墓を守ることとなりました。

No.148:長兄の病 (2019年05月31日)

 78歳になる長兄が肝臓癌で大きな手術を受けました。手術は成功し、癌を全て取り除き転移もないとのことでひと安心だったのですが、術後の経過が思わしくありません。もう、1年以上入院しています。手術後、誤嚥するようになり、嚥下機能改善手術を受けたり、転倒で頭を打ち開頭手術を受けたりしているのです。

No.113:実家の売却 (2016年06月30日)

 部屋に入るなりいきなり、「タヌキはどうしたの!!」と驚いたように姪が尋ねました。背丈70センチほどの信楽焼きのタヌキ、実家の玄関に26年間鎮座し、来訪者を歓迎していましたが、いなくなったのです。実家の売却が決まり、取り壊されることとなり、兄貴家族全員と我々夫婦が実家に集まったときのことです。

No.036:母のこと (2010年01月31日)

 「沼津の学校に行くかい?」、母が尋ねたのはわたしが小学生のときです。電車の中でした。外の景色をドアのガラス越しに見つめながら「うん」と同意したのを覚えています。虚弱体質の子どもや知恵遅れの子どもを寄宿舎生活で鍛える沼津の学校と知っての返事でしたから、それ以前に母から説明を受けていたのでしょうが、このときのことしか覚えていません。子ども心にも、それだけ深刻な決意の瞬間だったのでしょう。

No.035:実家に続く道 (2009年12月31日)

 実家間近にある線路沿いの細い道、毎週、電車から眺めています。ここを過ぎるとやがて下車駅、以前であればその駅から実家へとここを歩くのですが、いまは別の電車に乗り換えて母が入居している施設に向かいます。もうほとんど歩くことがなくなった、懐かしい、とさえなりつつある道、電車が減速し駅に入り始めるころには見えなくなるのですが、それでも目で追いかけているときもあります。さまざまな思いを抱きながら歩いた道です。

No.015:渋谷のお子様ランチ (2008年04月30日)

 渋谷駅がよく見える窓側の席でお子様ランチを喜んで食べていました。50年以上昔の渋谷食堂でのことです。わたしの弱視を診てもらうために母に連れられて行った病院からの帰りでした。

No.005:時間感覚 (2007年06月30日)

 「遅かったじゃないか」、5時からの食事会に5時少し前に現れた姉に叔母が文句を言ったそうです。叔母は4時前から会場で待っていたのです。叔母の姉である私の母も同様の時間感覚で、一緒に旅行するときに待合せ時刻の1時間ぐらい前から待っていたときもあります。周りが迷惑です。そんな母の不思議な時間感覚を理解するのは難しいのですが、歳とともに母の性格を引き継いでいる自分を発見しつつある私としては気になるところです。

No.004:両親のこと (2007年05月31日)

 「団塊格差」(三浦展著、文春新書)を読んで両親への感謝の気持ちが更に強くなりました。団塊世代の大学卒業者は22%だそうです。文部科学省「2006年学校基本調査報告」では、私が大学進学した1965年の高等教育機関(大学・短大・専門学校)への進学率は18%程度で、現在の76.2%(2006年)とは進学状況に大きな違いがあったのです。兄2人が大学に進学しており、それを当たり前のように考えていましたが、世間一般以上の両親の努力があったことをあらためて知りました。


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