大江戸ウォーキング

No.004:徳川慶喜<よしのぶ/けいき>

 80歳になる河合重子さんという方が「謎とき徳川慶喜―なぜ大坂城を脱出したのか」(草思社刊)という、300ページを超える厚い本を今年著しました。史料調査や著作に必要なエネルギーを考えると、80歳というお歳が驚きですが、15歳のときに慶喜フアンとなりそれ以来一貫して慶喜を追い続けてきたということが更に驚きです。

 真山青果(まやませいか)の戯曲『将軍江戸を去る』を観て慶喜のフアンとなり、慶喜のことを知りたいと東京女子大学歴史科に入学し、八王子にある家業の履物店のかたわら慶喜について研究してきた方で、司馬遼太郎さんが河合さんを知ったときの驚きともいえる言葉が残っています(抜粋1)。この本のなかで河合さんは「それから(慶喜フアンになってから)半世紀あまり、ずっと慶喜のことをしらべ、彼ひとりを見守りつづけてきたというのに、いまだに慶喜はひとつのイメージとして定着してこない。それどころか、ますます一筋縄ではいかぬ人だという思いが強くなる」とまだまだ衰えぬ知的好奇心をのぞかせています。素敵な80歳です。そんな河合さんに刺激されて徳川慶喜公ゆかりの地を訪ねました。寄り道しながらの21kmウォーキングでした。

(ここでは、「謎とき徳川慶喜」とともに、「最後の将軍―徳川慶喜」(司馬遼太郎著、文藝春秋刊)、
「徳川慶喜(よしのぶ)家にようこそ」(徳川慶朝(よしとも:徳川慶喜家当主)著、集英社刊)、「徳川慶喜家の子ども部屋」榊原喜佐子(さかぎばら・きさこ:慶喜公のお孫さん)著、草思社刊)を参考にしました)

抜粋1:
司馬遼太郎さんは、図書館の司書で徳川慶喜に詳しい比屋根かをるさんを通じて、河合さんを知る。河合さんから分厚い手紙をもらい「もはや『慶喜学』というべきその精度の高い知識におどろくとともに、文章のたしかさにも驚いた。Kさんの面白さはこれだけの文章力をもちながら、一度も慶喜についての自分の考えや研究を活字にしたことがないのである。文明の土壌というのはそういう”奇人”がさりげなく出てしかも世間に知られることがなく、町の人から単におだやかな履物店の女主人だと思われつづけているということである」「日本にもそのような、つまりいかなる名利にもつながらない精神活動を生涯持続するという人が出てきているということにおどろき、こういう精神を生んだものが江戸文明であるとすれば、江戸の深味というものは存外なものかもしれないとおもったりした」

河合重子著『謎解き徳川慶喜』: 轟亭の小人閑居日記    馬場紘二」より抜粋

地図
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1.小日向(こびなた)の第六天町の慶喜邸跡

今井坂
今井坂。坂途中左手の木々のあるところが慶喜邸跡、手前坂下の道路の左から右に向かって神田上水が流れていました。

 慶喜終焉の地です。29歳で最後の将軍(徳川第十五代将軍)となった慶喜が、大政奉還、鳥羽・伏見の敗戦、謹慎を経て自由になったのが32歳のときでした。その後、静岡に28年、東京巣鴨に4年、この地で11年をすごし、76歳(数え歳では77)で亡くなるまでの44年間を趣味に没頭して暮したといいます。雑誌「サライ」の徳川慶喜特集(1993年9月16日号)では、「元祖趣味人・徳川慶喜の毎日が日曜日」というタイトルで、慶喜の趣味と凝り性ぶりが紹介されているそうです。現在の当主、徳川慶朝氏が紹介している慶喜の趣味は多彩で、刺繍、工芸、陶芸、写真、油絵、乗馬、サイクリング、ドライブ、狩猟、釣り、投網、弓、能、書、和歌、囲碁、将棋、フランス語、俳句、日本画、鶴の飼育、打毬(だきゅう:騎乗球技ポロの一種)、楊弓(ようきゅう)、小鼓(こつづみ) 放鷹(ほうよう)などとなっています。そのなかでも油絵がお気に入りで「将軍をやめてよかったとおもうのは、この油絵をかいているときだ」ったそうです。たくさんの趣味に没頭しても、満たされる趣味は少なかったのでしょうか。慶喜が描いた風車のある風景画には、風車の前の広い空地に、何もすることなくポツリと椅子に座っている女性が小さく描かれています。寂しそうな絵です。それは慶喜の心の寂しさのような気もします。寂しさゆえに趣味に没頭したのかもしれません。

 この慶喜邸跡は今井坂(いまいざか:現在は新坂)の途中にあり、坂の下には神田川から取水された神田上水が、800mほど先の、慶喜が生まれた小石川水戸藩邸へと流れ込んでいました。情に流されることなどなさそうな慶喜も、64歳になってここに移り住んだときは、若いころ活動したこの地を懐かしんだことでしょう。敷地3,000坪、建坪1,000坪余りの平屋で、慶喜の孫の榊原喜佐子さんが子どものころで常時50人からの人、その多くは使用人、がいたといいます。60歳で明治天皇に初参内し、64歳で公爵を授与されてからは、長いあいだ鬱積していたものが少しずつ消えていったのではないでしょうか。慶喜邸で毎年開かれていたという御授爵記念日(ごじゅしゃくきねんび)の酒宴が、慶喜の喜びと、そんな心の変化を語っているような気がします。


2.小石川の水戸藩邸

小石川後楽園
広大な都立小石川後楽園、水戸藩邸全体の広さはこの後楽園の5倍ほどでした。

小廬山(しょうろざん)
京都の清水寺一帯を模した都立小石川後楽園内の小廬山(しょうろざん)。この大名庭園では、山、谷、川、海の名所を模した景観が楽しめます。

 慶喜誕生の地です。「後楽園」と名づけられた藩邸内庭園のうち約7万平米が都立小石川後楽園として残っています。江戸東京重ね地図でみると藩邸全体はその約5倍、35万平米強あったようです。その広大さゆえに水戸公百間長屋と呼ばれていました。江戸の武家地、寺社地、町地の比率はおおむね6:2:2で、100万を超える住人のうちの半数を占める町人が、わずか20%の土地に押し込められ、ほぼ同数の武士が60%の土地でゆったりと暮し、武士のうちでも大名は更に広大な敷地で暮していたのです。こんな環境からうまれる大名の精神構造は、下々のそれとは大きく異なるものだったにちがいありません。慶喜の場合も「知」には優れていたものの、「情」は薄かったようです。だからこそ、ときには非情といわれる政治の世界で活躍できたのでしょう。


3.江戸城


汐見坂上の石垣

江戸城すぐ南まで入り込んでいた日比谷入江がみえた汐見坂、その坂上。

沿道左側石垣の左端は角を固める「算木(さんぎ)積み」、その右が荒めの「打ち込みはぎ」で自然石のまま積み上げる「野面(のづら)積み」に近く、曲がって右が美しい幾何学模様の「切り込みはぎ」、右端がやや幾何学模様の「打ち込みはぎ」、となっているようです。
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天守台
本丸台地の天守台。この上に高さ47mの五層天守閣がそびえていました。

 慶喜の初登城は10歳のとき、一橋家相続の命をうけて十二代将軍家慶(いえよし)に謁見したときです。都市の内部にある城や宮殿としては、世界で最も巨大なものであろう江戸城を慶喜はどのようにながめたのでしょうか。正門である大手門から入り、幾度も道筋を曲がり、坂道をのぼり、いくつかの堂々たる門や櫓(やぐら)の下を進み、高台にある本丸に到着した慶喜は、国の最高権力の偉大さを子供心にも感じたにちがいありません。ほとんどの殿舎が失われている現在、残された石垣に当時をしのぶのがせいぜいですが、それでもその壮大さを感じることができます。

 ちなみに、外観五層、内部6階の日本最大の天守閣は明暦の大火(振り袖火事、1657年第四代将軍家綱のとき)で焼失し、その後再建されませんでした。現在、本丸跡の台地に天守台が残っていますが、東西41m、南北45m、高さ11mの巨大な天守台です。城下町の象徴となるべき天守閣、それがなかった江戸では富士山がそれに代わったともいわれています。


4.一橋邸

平川門
左手、橋の左側が平川門、右手、白いビル(丸紅)から撮影位置真うしろまでが一橋邸跡、
この写真には写っていませんが、白いビルのすぐ向こう側に一ツ橋があり日本橋川が流れています。

 一橋家の養子となった10歳のときから、将軍後見職に就くまでのおよそ15年間を、江戸城平川門前にあった一橋邸ですごしました。安政の大獄で隠居謹慎を命じられたのもここで「昼も居間の雨戸をしめ、(中略)朝は寝所を出るとただちに麻上下(かみしも)をつけ、夏の暑い日も湯あみせず、もちろん月代(さかやき)もそらなかった。(中略)身に覚えのない罪を蒙(こうむ)ったので、血気盛んな意地から、このように規則に厳重に謹慎したのである」と、国事に情熱を燃やす青年時代のできごとを明治になって公爵となったのちに初めて語っています。1年あまりの謹慎が解けたあと、25歳で将軍後見職として政権を担うこととなるのです。


5.上野東叡山寛永寺、大慈院

寛永寺
寛永寺根本中堂。江戸時代にはここに大慈院がありました。

 鳥羽・伏見の敗戦後大坂城を脱出した慶喜は、海路で江戸品川に1868年(慶応4年/明治元年)1月12日到着し、2月12日に上野東叡山寛永寺、大慈院の一室で謹慎に入りました。4月11日の江戸開城の日に、死一等が免じられ水戸に向かった慶喜は、この謹慎2ヶ月をどのような気持ちですごしたのでしょうか。江戸開城の前夜、報告に訪れた勝海舟に「汝が(江戸開城の)処置は、はなはだ粗暴にして大胆不敵すぎる、どうしてもっと慎重にやらないのか。(中略)足元から反乱が起こるかもしれぬではないか。せっかくの自分の恭順も明日にはもろくも崩れさるのか」と涙をうかべながら、はげしく勝を責めたといいます。一方的な恭順といういのちをかけた政治行動の成功だけをひたすら考えていた様子です。その成功とは、朝敵という汚名を史上にのこさないこと、列強に侵略機会をあたえるような内戦を回避すること、などだったのでしょう。それをほぼ成し遂げたこの恭順は、政治家慶喜がみせた最後の凄みだったような気がします。


6.上野谷中の慶喜の墓

川慶喜の墓
上野谷中の慶喜の墓。左側が慶喜、右側が美賀子夫人のお墓です。

 徳川慶喜家のお墓です。孝明天皇の質素な陵墓にならったといわれています。政治活動の最高潮のときに支持してくれた孝明天皇は生涯忘れることのないひとの一人だったのでしょう。公爵となったのちに維新後初めて京都に行き、孝明天皇御陵を訪れた慶喜は、「ここからはだれも来るな」とお供を押しとどめ、ひとり御陵の前に進み、長らく身じろぎもせず頭をたれていたといいます。

 薩長の政敵からその政治手腕を恐れられた慶喜、大政奉還のとき坂本竜馬に「慶喜公が今日の心中左(さ)こそと察し申す。竜馬は誓って此の人の為に一命を捨つべき」と言わせた慶喜、そしていまなお河合さんのような熱烈なフアンをもつ慶喜、彼の合理的な思考、大局的な視野、強い行動力が日本を内戦の危機から救ったことは確かでしょう。黒船の来航で日本人の多くが危機感をもち、新しい指導者を求めたとき、政権のバトンを渡すという、それを受けるよりも難しいかもしれない仕事を見事に成し遂げる優秀な人物が出現し活躍する、司馬遼太郎ふうにかくと、そんな日本という国の深味というものは存外なものかもしれないとおもったりした、ということになりそうです。

の記事

No.011:特別編:台湾-望郷の道- (2008年12月13日)

 1895年(明治28年)4月に終結した日清戦争により台湾は日本の領土となり、太平洋戦争が終結する1945年(昭和20年)8月までの50年間、日本によって統治されました。北方謙三氏の小説「望郷の道」(日本経済新聞2007年8月-2008年9月朝刊連載)の主人公正太が九州を追われ台湾に渡ったのが1899年(明治32年)5月で、兒玉源太郎(こだま げんたろう、1852年 - 1906年)総督(1898年-1906年)の下で後藤新平(ごとう しんぺい、1857年 - 1929年)民政長官(1898年-1906年)が、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成などにより台湾の近代化を推進しようとしているときでした。

No.010:月の岬、高輪台地 (2008年10月15日)

 「月の岬」は月見を楽しむ江戸時代の名所で、徳川家康が名付けたと言われています。現在の高輪台地の一角で、南北に伸びる台地からは東側に迫る江戸前の海(江戸湾)が一望でき、夜の海と月の眺めは格別だったようです。

No.009:伊能忠敬 (2008年07月21日)

 49歳の隠居後に天文・歴学を学び始め、55歳から14年間、日本全国を歩いて精度の高い日本地図を完成させ、当時の平均寿命が40-50歳といわれるなかで73歳の長寿をまっとうした伊能忠敬は、「第二の人生の達人」と言われています。平均寿命が伸び、第二の人生が長くなった現在、この達人に学ぶことは多いのではないでしょうか。

No.008:大山街道-二子<ふたこ>・溝口<みぞのくち>村- (2008年04月09日)

 落語「大山詣り」にでてくる熊五郎、けんかっぱやいので長屋恒例の「大山詣り」への同行を断られます。頼みこむ熊五郎、「けんかは決してしない。もしけんかしたら丸坊主になる」という約束をして、やっと同行できました。それほど、みんなが楽しみにしていた旅だったようです。「大山詣り」の最盛期である江戸中期の宝暦年間(1751-64)には年間20万人が参詣したといいます。7月26日の山開きから8月17日の閉山までの22日間ですから、その間に1日9,000人もの人びとが大山に向い、大山から戻っていったことになります。

No.007:江戸っ子古今亭志ん生<五代目> (2008年02月20日)

 「江戸っ子のうまれぞこないかねをため」とか「江戸っ子は宵越(よいご)しのぜには持たない」という生き方は、貯金がないと不安なわたしのような小心者にはできません。司馬遼太郎は「街道をゆく36 本所深川散歩 神田界隈」(朝日新聞社)で、この生き方は職人のこと、金がいくさの矢弾となる商人のことではない、としています。腕でめしを食う職人が金をためると、腕をみがくことをわすれ、いつまでも腕のあがらない職人となる、といったことなのでしょうか。金よりも腕を大切にする職人の生き様だったようです。

No.006:特別編:ニュルンベルク (2007年12月13日)

 クリスマスシーズンのドイツの町々を旅行しました。そのひとつがニュルンベルクで、中世における神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)の帝国会議開催の町、そんな帝国の復活をもくろんだナチが党大会を開催した町、そのため第二次大戦で徹底的に破壊された町、中世の建物が最善の形で保存され一大観光都市だった戦前の姿を取り戻すべく戦後の復興がすすめられた町、そんな一面をもつ人口約50万人の都市です。

No.005:日和下駄 (2007年11月12日)

 永井荷風の「日和下駄(ひよりげた)」には、大正三年当時の東京市中の様々な風景が描かれています。その美しく臨場感あふれる描写は、「市中の散歩は子供の時からすきであった」荷風ならではのものでしょう。

No.003:神田川 (2007年08月13日)

 神田川は、三鷹市の井之頭池を水源として、台東区の柳橋で隅田川に合流する延長25.48kmの1級河川です。江戸時代は神田上水として、また江戸城の外堀の一部として大きな役割を担っていました。

No.002:時の鐘 (2007年06月20日)

 浦井祥子氏(うらいさちこ:日本女子大学講師)が膨大な史料を丹念に解読してまとめた「江戸の時刻と時の鐘」からは江戸時代の時の鐘の実態が生きいきと伝わってきます。史料を多面的に解読し、正確に理解しようとする研究者としての氏の姿勢には、歴史小説のような華やかさやダイナミックさはないものの、信頼感と好感がもて、とても新鮮な印象を受けました。

No.001:たけくらべ (2007年04月15日)

 樋口一葉の「たけくらべ」の舞台となったところを歩きました。明治25年(1892年)7月から約2年間吉原に隣接した龍泉寺町で駄菓子屋を営んでいた一葉は、暖かい眼差しと鋭い観察眼でそこで育つ子供たちを見つめ、その細やかな心の動きを見事に捉えています。物語を読んで、育つ環境は違っても子供たちの発想や思考には違いがないことをあらためて感じました。だからこそ地域や時代を越えた多くの読者が物語の中に自分の子供時代を見つけて共感できるのでしょう。


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