大江戸ウォーキング

No.010:月の岬、高輪台地

 「月の岬」は月見を楽しむ江戸時代の名所で、徳川家康が名付けたと言われています。現在の高輪台地の一角で、南北に伸びる台地からは東側に迫る江戸前の海(江戸湾)が一望でき、夜の海と月の眺めは格別だったようです。

 台地の尾根には高縄手道、高いところに張った縄のようにまっすぐな道、があり、これが高輪の地名の由来だと言われています。眼下に海を見下ろしながら、海と並行して進むこの尾根道は昼間でも素晴らしい眺望だったに違いありません。

 この道をときどき歩きます。築地にある会社から武蔵小杉の自宅まで歩くときに通る道です。海が遠くなり、ビルが立ち並んだ現代に江戸時代の面影はありませんが、武家屋敷跡やお寺、それに高台を通り抜ける爽やかな風、所々で見える眼下の街並などが、当時をわずかながらも想像させてくれます。いつもは通り抜けるだけのこの道を、寄り道しながらのんびりと歩いてみました。江戸時代から変わらないであろう高輪台地の地形を実感しながらの、4.8km(この日も会社から自宅まで歩いたので、全距離は21km)ウォーキングとなりました。


参考:Kai-Wai 散歩「坂」と建築高輪大木戸

地図
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1.西郷・勝、江戸開城会見の地

西郷・勝、江戸開城会見の地
西郷・勝、江戸開城会見の地<写真を拡大>

 JR田町駅三田側近くの旧薩摩藩邸跡に「江戸開城 西郷南州、勝海舟 會見之地」の碑があります。1868年(慶応4年)3月14日、幕府全権陸軍総裁:勝安芳(海舟)(かつ やすよし(かいしゅう:46歳))と新政府軍参謀・西郷隆盛(42歳)が会談し、江戸城無血開城という歴史的な合意がなされたところです。現在の第一京浜、旧東海道に面していて、当時はすぐ裏が海でした。高輪台地は三田のこの少し先から品川まで、旧東海道のすぐ東側に迫っています。

2.聖(ひじり)坂

聖(ひじり)坂
聖(ひじり)坂を上りきったところ<写真を拡大く>

 高輪台地の三田側上り口です。高野聖が開いた古代中世の通行路で、その宿所もあったことから付けられた坂名だと言われています。夏、会社から歩いて帰るとき、ここを上がりきると、風が爽やかで、車も少ないので「さあゆっくり歩こう」という気分になります。


3.亀塚公園、三田台公園

亀塚公園、三田台公園
三田台公園<写真を拡大>

 江戸時代は上野沼田藩土岐伊勢守の下屋敷で、明治維新後は皇族華頂宮邸となり、現在は公園として整備されています。江戸時代のお屋敷が想像できる広さと木立に恵まれた公園です。

4.伊皿子(いさらこ)坂

伊皿子(いさらこ)坂
伊皿子(いさらこ)坂、信号を左右に横切っているのが尾根道<写真を拡大>

 高輪台地途中から旧東海道側に下りる坂で、明国人伊皿子(いんべいす)が住んでいた、というのが名前の由来らしく、麻布側に下りる反対側の坂は魚籃坂で、これは坂の中腹にある魚籃寺が由来のようです。住所が今のようには整備されていなかった江戸時代では、坂は目印として重宝されました。名前が付けられた坂は、多くの人々がその坂を目印として使っていたことを示しています。高輪台地で分断された東海道側と麻布側を結ぶ大切な道だったのでしょう。


5.高輪大木戸跡

高輪大木戸跡
高輪大木戸跡、ここが江戸の入口だった<写真を拡大>

 伊皿子坂を下りたところに旧東海道に設置された高輪大木戸跡があります。夜間通行止めのための木戸は、江戸治安維持のために町々に設置されていました。高輪大木戸は江戸府内への入口として設置され、周辺には茶屋などもでき、旅の送迎の人々で賑わったそうです。東に迫る海と西の高輪台地に囲まれた、大木戸には最適な場所でした。伊能忠敬はここを全国測量の基点としています。


6.東禅寺、日本最初のイギリス公使宿館

東禅寺
東禅寺、いまでも木々に囲まれた静かなお寺だ<写真を拡大>

 高輪台地の旧東海道側にあるお寺で、日本初のイギリス公使宿館でした。初代イギリス代表のラザフォード・オールコック(1809-1897)は、江戸に初めて足を踏み入れた1858年(安政5年)6月29日にこの寺を公使宿館候補として案内され、一目で気に入ります。彼は著書『大君の都』のなかで「あらゆる点でこんなにも完璧な住まいを手に入れてしまうと、私の運命に何かひどい不幸が降りかかるのではないかと、疑ってみたほどだ」とまで述べています。

 当時三万坪を誇ったというこの寺院は深い森に抱かれ、「(芝から小一時間くると)東海道から右に折れる。するとそこに、東禅寺の門があった。(中略)そこを進むにつれて街道の喧噪が後ろに遠ざかっていく。すっかり静寂に包まれた頃、さらに堂々たる山門がある。門をくぐって、濃淡さまざまの常緑樹が日を受けている植え込みの間を過ぎると、庭が現れ、その奥に立派な玄関のある古い建物が見えた。広い玄関は西洋の建物の車寄せのように張り出しており、荘重な感じのする厚い屋根が、太い柱に支えられている。(中略)ついに高台に出ると、そこからは、いま通ってきた街道と、松の植わった海岸線の向こうに、江戸湾がどこまでも眺められるのだ。(オールコックの江戸、佐野真由子著、中公新書)」という風景だったのです。

東禅寺
左が張り出した大玄関、柱の赤枠部分拡大写真が右で、これが刀傷かも?<写真を拡大>

 現在は、周辺が住宅となり、寺の規模も小さくなっていますが、山門からの道を抜けると、突然広い庭に出て、その奥に古い建物がある、木々に囲まれたその空間からはオールコックが受けた印象が今でも十分想像できます。大玄関と奥書院は当時のままで残っており、大玄関には、1861年(文久元年)5月28日夜の水戸浪士による襲撃事件でついたとされる刀傷があるそうです。残念ながら、どれが刀傷なのかは分かりませんでした。

 オールコックは日本人の暮らしぶりをじかにみながら次のような感想を述べています。

 あの幕府ののろのろした役人たちに比べて、このきびきびと働き、明るい顔で質素な生活を送っている庶民たちの何と好もしいことか。彼らは上の身分に近づこうなどという野心を起こすこともなく、肥沃な土地と美しい風景にめぐまれ、満ち足りた顔をして暮らしている。そもそも非常に富裕な者たちからして、いわいるヨーロッパ的な華美とは一線を画した、こざっぱりした生活習慣が、この国の人々を多くの社会的な不満から救っているのではないか。

 幕末から明治にかけて来日した外国人の多くが、日本人を好意的に見ています。1856年(安政3年)6月に初代アメリカ駐日総領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスも「下田の住民はいずれも豊かではないが、それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、着物にも困っていないという印象をもって、世界中の労働者で彼らよりもよい生活を送っているものはない。(外国人が見た古き良き日本、内藤誠著、講談社インターナショナル株式会社刊)」とまで断言しています。

 物が溢れ、目まぐるしく変化する現代にはない、人間性豊かな暮らしが江戸時代にはあったのでしょう。「月の岬」で月をめでる人々の風景からも、そんな豊かさが感じられます。


7.二本榎(にほんえのき)

二本榎(にほんえのき)
左が二本榎(にほんえのき)、信号を左右に横切っているのが尾根道、二本榎通り<写真を拡大>

 高輪台地にあった二本の榎の大木が、東海道を通る旅人のよい目印となっていたことから、二本榎と名付けられ、それが地名ともなりました。写真左に見える榎が植え替えられた何代目かの二本榎ですが、第一京浜となった、旧東海道から見えることはもうありません。写真中央は消防署で、信号を越えた坂を下りると旧東海道に出ます。信号を左右に横切っているのが尾根道で、高台の一番高いところを通っていることが写真からも分かります。


8.品川側上り口の坂

品川側上り口の坂
品川側上り口の坂、右手がプリンスホテル<写真を拡大>

 安政3年の江戸図には、高輪台地への品川側上り口の坂に坂名はありません。周囲は大名屋敷であり、坂名を必要とするほどの利用者はなかったのかもしれません。この坂の東側にあった高輪 薩摩藩下屋敷は、今はプリンスホテルとなり、そこへのタクシーが列をなして賑わう坂になっています。

の記事

No.011:特別編:台湾-望郷の道- (2008年12月13日)

 1895年(明治28年)4月に終結した日清戦争により台湾は日本の領土となり、太平洋戦争が終結する1945年(昭和20年)8月までの50年間、日本によって統治されました。北方謙三氏の小説「望郷の道」(日本経済新聞2007年8月-2008年9月朝刊連載)の主人公正太が九州を追われ台湾に渡ったのが1899年(明治32年)5月で、兒玉源太郎(こだま げんたろう、1852年 - 1906年)総督(1898年-1906年)の下で後藤新平(ごとう しんぺい、1857年 - 1929年)民政長官(1898年-1906年)が、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成などにより台湾の近代化を推進しようとしているときでした。

No.009:伊能忠敬 (2008年07月21日)

 49歳の隠居後に天文・歴学を学び始め、55歳から14年間、日本全国を歩いて精度の高い日本地図を完成させ、当時の平均寿命が40-50歳といわれるなかで73歳の長寿をまっとうした伊能忠敬は、「第二の人生の達人」と言われています。平均寿命が伸び、第二の人生が長くなった現在、この達人に学ぶことは多いのではないでしょうか。

No.008:大山街道-二子<ふたこ>・溝口<みぞのくち>村- (2008年04月09日)

 落語「大山詣り」にでてくる熊五郎、けんかっぱやいので長屋恒例の「大山詣り」への同行を断られます。頼みこむ熊五郎、「けんかは決してしない。もしけんかしたら丸坊主になる」という約束をして、やっと同行できました。それほど、みんなが楽しみにしていた旅だったようです。「大山詣り」の最盛期である江戸中期の宝暦年間(1751-64)には年間20万人が参詣したといいます。7月26日の山開きから8月17日の閉山までの22日間ですから、その間に1日9,000人もの人びとが大山に向い、大山から戻っていったことになります。

No.007:江戸っ子古今亭志ん生<五代目> (2008年02月20日)

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No.006:特別編:ニュルンベルク (2007年12月13日)

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No.005:日和下駄 (2007年11月12日)

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No.004:徳川慶喜<よしのぶ/けいき> (2007年10月17日)

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