80歳になる河合重子さんという方が「謎とき徳川慶喜―なぜ大坂城を脱出したのか」(草思社刊)という、300ページを超える厚い本を今年著しました。史料調査や著作に必要なエネルギーを考えると、80歳というお歳が驚きですが、15歳のときに慶喜フアンとなりそれ以来一貫して慶喜を追い続けてきたということが更に驚きです。
真山青果(まやませいか)の戯曲『将軍江戸を去る』を観て慶喜のフアンとなり、慶喜のことを知りたいと東京女子大学歴史科に入学し、八王子にある家業の履物店のかたわら慶喜について研究してきた方で、司馬遼太郎さんが河合さんを知ったときの驚きともいえる言葉が残っています(抜粋1)。この本のなかで河合さんは「それから(慶喜フアンになってから)半世紀あまり、ずっと慶喜のことをしらべ、彼ひとりを見守りつづけてきたというのに、いまだに慶喜はひとつのイメージとして定着してこない。それどころか、ますます一筋縄ではいかぬ人だという思いが強くなる」とまだまだ衰えぬ知的好奇心をのぞかせています。素敵な80歳です。そんな河合さんに刺激されて徳川慶喜公ゆかりの地を訪ねました。寄り道しながらの21kmウォーキングでした。
(ここでは、「謎とき徳川慶喜」とともに、「最後の将軍―徳川慶喜」(司馬遼太郎著、文藝春秋刊)、
「徳川慶喜(よしのぶ)家にようこそ」(徳川慶朝(よしとも:徳川慶喜家当主)著、集英社刊)、「徳川慶喜家の子ども部屋」榊原喜佐子(さかぎばら・きさこ:慶喜公のお孫さん)著、草思社刊)を参考にしました)
抜粋1:
司馬遼太郎さんは、図書館の司書で徳川慶喜に詳しい比屋根かをるさんを通じて、河合さんを知る。河合さんから分厚い手紙をもらい「もはや『慶喜学』というべきその精度の高い知識におどろくとともに、文章のたしかさにも驚いた。Kさんの面白さはこれだけの文章力をもちながら、一度も慶喜についての自分の考えや研究を活字にしたことがないのである。文明の土壌というのはそういう”奇人”がさりげなく出てしかも世間に知られることがなく、町の人から単におだやかな履物店の女主人だと思われつづけているということである」「日本にもそのような、つまりいかなる名利にもつながらない精神活動を生涯持続するという人が出てきているということにおどろき、こういう精神を生んだものが江戸文明であるとすれば、江戸の深味というものは存外なものかもしれないとおもったりした」
「河合重子著『謎解き徳川慶喜』: 轟亭の小人閑居日記 馬場紘二」より抜粋
1.小日向(こびなた)の第六天町の慶喜邸跡
慶喜終焉の地です。29歳で最後の将軍(徳川第十五代将軍)となった慶喜が、大政奉還、鳥羽・伏見の敗戦、謹慎を経て自由になったのが32歳のときでした。その後、静岡に28年、東京巣鴨に4年、この地で11年をすごし、76歳(数え歳では77)で亡くなるまでの44年間を趣味に没頭して暮したといいます。雑誌「サライ」の徳川慶喜特集(1993年9月16日号)では、「元祖趣味人・徳川慶喜の毎日が日曜日」というタイトルで、慶喜の趣味と凝り性ぶりが紹介されているそうです。現在の当主、徳川慶朝氏が紹介している慶喜の趣味は多彩で、刺繍、工芸、陶芸、写真、油絵、乗馬、サイクリング、ドライブ、狩猟、釣り、投網、弓、能、書、和歌、囲碁、将棋、フランス語、俳句、日本画、鶴の飼育、打毬(だきゅう:騎乗球技ポロの一種)、楊弓(ようきゅう)、小鼓(こつづみ) 放鷹(ほうよう)などとなっています。そのなかでも油絵がお気に入りで「将軍をやめてよかったとおもうのは、この油絵をかいているときだ」ったそうです。たくさんの趣味に没頭しても、満たされる趣味は少なかったのでしょうか。慶喜が描いた風車のある風景画には、風車の前の広い空地に、何もすることなくポツリと椅子に座っている女性が小さく描かれています。寂しそうな絵です。それは慶喜の心の寂しさのような気もします。寂しさゆえに趣味に没頭したのかもしれません。
この慶喜邸跡は今井坂(いまいざか:現在は新坂)の途中にあり、坂の下には神田川から取水された神田上水が、800mほど先の、慶喜が生まれた小石川水戸藩邸へと流れ込んでいました。情に流されることなどなさそうな慶喜も、64歳になってここに移り住んだときは、若いころ活動したこの地を懐かしんだことでしょう。敷地3,000坪、建坪1,000坪余りの平屋で、慶喜の孫の榊原喜佐子さんが子どものころで常時50人からの人、その多くは使用人、がいたといいます。60歳で明治天皇に初参内し、64歳で公爵を授与されてからは、長いあいだ鬱積していたものが少しずつ消えていったのではないでしょうか。慶喜邸で毎年開かれていたという御授爵記念日(ごじゅしゃくきねんび)の酒宴が、慶喜の喜びと、そんな心の変化を語っているような気がします。
2.小石川の水戸藩邸
慶喜誕生の地です。「後楽園」と名づけられた藩邸内庭園のうち約7万平米が都立小石川後楽園として残っています。江戸東京重ね地図でみると藩邸全体はその約5倍、35万平米強あったようです。その広大さゆえに水戸公百間長屋と呼ばれていました。江戸の武家地、寺社地、町地の比率はおおむね6:2:2で、100万を超える住人のうちの半数を占める町人が、わずか20%の土地に押し込められ、ほぼ同数の武士が60%の土地でゆったりと暮し、武士のうちでも大名は更に広大な敷地で暮していたのです。こんな環境からうまれる大名の精神構造は、下々のそれとは大きく異なるものだったにちがいありません。慶喜の場合も「知」には優れていたものの、「情」は薄かったようです。だからこそ、ときには非情といわれる政治の世界で活躍できたのでしょう。
3.江戸城
慶喜の初登城は10歳のとき、一橋家相続の命をうけて十二代将軍家慶(いえよし)に謁見したときです。都市の内部にある城や宮殿としては、世界で最も巨大なものであろう江戸城を慶喜はどのようにながめたのでしょうか。正門である大手門から入り、幾度も道筋を曲がり、坂道をのぼり、いくつかの堂々たる門や櫓(やぐら)の下を進み、高台にある本丸に到着した慶喜は、国の最高権力の偉大さを子供心にも感じたにちがいありません。ほとんどの殿舎が失われている現在、残された石垣に当時をしのぶのがせいぜいですが、それでもその壮大さを感じることができます。
ちなみに、外観五層、内部6階の日本最大の天守閣は明暦の大火(振り袖火事、1657年第四代将軍家綱のとき)で焼失し、その後再建されませんでした。現在、本丸跡の台地に天守台が残っていますが、東西41m、南北45m、高さ11mの巨大な天守台です。城下町の象徴となるべき天守閣、それがなかった江戸では富士山がそれに代わったともいわれています。
4.一橋邸
一橋家の養子となった10歳のときから、将軍後見職に就くまでのおよそ15年間を、江戸城平川門前にあった一橋邸ですごしました。安政の大獄で隠居謹慎を命じられたのもここで「昼も居間の雨戸をしめ、(中略)朝は寝所を出るとただちに麻上下(かみしも)をつけ、夏の暑い日も湯あみせず、もちろん月代(さかやき)もそらなかった。(中略)身に覚えのない罪を蒙(こうむ)ったので、血気盛んな意地から、このように規則に厳重に謹慎したのである」と、国事に情熱を燃やす青年時代のできごとを明治になって公爵となったのちに初めて語っています。1年あまりの謹慎が解けたあと、25歳で将軍後見職として政権を担うこととなるのです。
5.上野東叡山寛永寺、大慈院
鳥羽・伏見の敗戦後大坂城を脱出した慶喜は、海路で江戸品川に1868年(慶応4年/明治元年)1月12日到着し、2月12日に上野東叡山寛永寺、大慈院の一室で謹慎に入りました。4月11日の江戸開城の日に、死一等が免じられ水戸に向かった慶喜は、この謹慎2ヶ月をどのような気持ちですごしたのでしょうか。江戸開城の前夜、報告に訪れた勝海舟に「汝が(江戸開城の)処置は、はなはだ粗暴にして大胆不敵すぎる、どうしてもっと慎重にやらないのか。(中略)足元から反乱が起こるかもしれぬではないか。せっかくの自分の恭順も明日にはもろくも崩れさるのか」と涙をうかべながら、はげしく勝を責めたといいます。一方的な恭順といういのちをかけた政治行動の成功だけをひたすら考えていた様子です。その成功とは、朝敵という汚名を史上にのこさないこと、列強に侵略機会をあたえるような内戦を回避すること、などだったのでしょう。それをほぼ成し遂げたこの恭順は、政治家慶喜がみせた最後の凄みだったような気がします。
6.上野谷中の慶喜の墓
徳川慶喜家のお墓です。孝明天皇の質素な陵墓にならったといわれています。政治活動の最高潮のときに支持してくれた孝明天皇は生涯忘れることのないひとの一人だったのでしょう。公爵となったのちに維新後初めて京都に行き、孝明天皇御陵を訪れた慶喜は、「ここからはだれも来るな」とお供を押しとどめ、ひとり御陵の前に進み、長らく身じろぎもせず頭をたれていたといいます。
薩長の政敵からその政治手腕を恐れられた慶喜、大政奉還のとき坂本竜馬に「慶喜公が今日の心中左(さ)こそと察し申す。竜馬は誓って此の人の為に一命を捨つべき」と言わせた慶喜、そしていまなお河合さんのような熱烈なフアンをもつ慶喜、彼の合理的な思考、大局的な視野、強い行動力が日本を内戦の危機から救ったことは確かでしょう。黒船の来航で日本人の多くが危機感をもち、新しい指導者を求めたとき、政権のバトンを渡すという、それを受けるよりも難しいかもしれない仕事を見事に成し遂げる優秀な人物が出現し活躍する、司馬遼太郎ふうにかくと、そんな日本という国の深味というものは存外なものかもしれないとおもったりした、ということになりそうです。