大江戸ウォーキング

No.001:たけくらべ

 樋口一葉の「たけくらべ」の舞台となったところを歩きました。明治25年(1892年)7月から約2年間吉原に隣接した龍泉寺町で駄菓子屋を営んでいた一葉は、暖かい眼差しと鋭い観察眼でそこで育つ子供たちを見つめ、その細やかな心の動きを見事に捉えています。物語を読んで、育つ環境は違っても子供たちの発想や思考には違いがないことをあらためて感じました。だからこそ地域や時代を越えた多くの読者が物語の中に自分の子供時代を見つけて共感できるのでしょう。

地図
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1.大黒屋寮


大黒屋寮

<写真にマウスを置くと説明が表示されます>

写真中央やや右の三角地に、美登利が住んでいた大黒屋寮、そのモデルとなった松大黒寮がありました。お互いに想いを寄せる美登利と信如が偶然出会い、物語のクライマックスともいえる美しく切ないシーンが展開するところです。吉原の揚屋町の跳橋の近くにありました。


2.筆屋


筆屋

<写真にマウスを置くと筆屋位置(推定)が表示されます>

一葉宅(写真左手前の「樋口一葉旧居跡」
碑の場所)の右向こうに美登利たちのたまり場だった筆屋があり、物語の多くがそこで展開します。親父さんの蒲焼を信如が買いに来るむさし屋はその真向かいにありました。時雨の夜、とぼとぼと歩いている信如の後ろ姿を『何時までも、何時までも、何時までも』筆屋の軒下で見ている美登利の姿が印象的です。


3.一葉宅


一葉宅

<写真にマウスを置くと一葉宅(二軒長屋の正面から見て左側)位置が表示されます>

若く美しい妹の邦子さんが店番をする一葉一家の荒物兼駄菓子屋は子供たちのたまり場となっていたようです。1日百人ほどの客があった、と一葉の日記にあります。物語に出てくるような子供たちが集まっていたのでしょう。


4.龍華寺

龍華寺
大音寺(龍華寺)

信如の住む龍華寺、そのモデルとなった大音寺です。住職である父親は、蒲焼で晩酌し、賑わう酉の市では門前に簪(かんざし)の店をだす俗物として描かれています。物語での多くの大人は醜い姿をさらけだしており、けなげに生きる子供たちとは対照的です。


5.鷲(おおとり)神社

鷲神社
鷲(おおとり)神社

十一月の鷲(おおとり)神社の酉の市の賑わいのなか、美登利が変貌し泣き明かす後半の山場が展開されます。八月廿日の千束神社の祭では、美登利が「女郎、乞食」と罵倒される前半の山場がありました。浅草の人々の生活の一部、身体の一部ともいえる祭が物語の山場をつくる引き金となっている筋立てに、考えて考えて考え抜く一葉の姿が浮かんできます。


6.検査場

病院前
病院前

写真左工事中のところに検査場である吉原病院がありました。写真中央の道には吉原裏の非常口があり、酉の市の日だけ開放されます。「たけくらべ」には『大鳥神社の賑ひすさまじく此處《ここ》をかこつけに檢査場の門(裏の非常口)より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱くだけ、地維《ちい》かくるかと思はるゝ笑ひ聲《ごえ》のどよめき...』と酉の市での賑わいぶりが描かれています。


7.太郎稲荷

太郎稲荷
太郎稲荷

美登利が朝参りしていた中田圃(なかたんぼ)の太郎稲荷です。


8.見返り柳

見返り柳
見返り柳

写真の3人の歩行者左横が「たけくらべ」の出だし『廻れば大門の見返り柳いと長けれど...』の見返り柳です。今はみんな素通りで、誰もふり返らないようです。

の記事

No.011:特別編:台湾-望郷の道- (2008年12月13日)

 1895年(明治28年)4月に終結した日清戦争により台湾は日本の領土となり、太平洋戦争が終結する1945年(昭和20年)8月までの50年間、日本によって統治されました。北方謙三氏の小説「望郷の道」(日本経済新聞2007年8月-2008年9月朝刊連載)の主人公正太が九州を追われ台湾に渡ったのが1899年(明治32年)5月で、兒玉源太郎(こだま げんたろう、1852年 - 1906年)総督(1898年-1906年)の下で後藤新平(ごとう しんぺい、1857年 - 1929年)民政長官(1898年-1906年)が、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成などにより台湾の近代化を推進しようとしているときでした。

No.010:月の岬、高輪台地 (2008年10月15日)

 「月の岬」は月見を楽しむ江戸時代の名所で、徳川家康が名付けたと言われています。現在の高輪台地の一角で、南北に伸びる台地からは東側に迫る江戸前の海(江戸湾)が一望でき、夜の海と月の眺めは格別だったようです。

No.009:伊能忠敬 (2008年07月21日)

 49歳の隠居後に天文・歴学を学び始め、55歳から14年間、日本全国を歩いて精度の高い日本地図を完成させ、当時の平均寿命が40-50歳といわれるなかで73歳の長寿をまっとうした伊能忠敬は、「第二の人生の達人」と言われています。平均寿命が伸び、第二の人生が長くなった現在、この達人に学ぶことは多いのではないでしょうか。

No.008:大山街道-二子<ふたこ>・溝口<みぞのくち>村- (2008年04月09日)

 落語「大山詣り」にでてくる熊五郎、けんかっぱやいので長屋恒例の「大山詣り」への同行を断られます。頼みこむ熊五郎、「けんかは決してしない。もしけんかしたら丸坊主になる」という約束をして、やっと同行できました。それほど、みんなが楽しみにしていた旅だったようです。「大山詣り」の最盛期である江戸中期の宝暦年間(1751-64)には年間20万人が参詣したといいます。7月26日の山開きから8月17日の閉山までの22日間ですから、その間に1日9,000人もの人びとが大山に向い、大山から戻っていったことになります。

No.007:江戸っ子古今亭志ん生<五代目> (2008年02月20日)

 「江戸っ子のうまれぞこないかねをため」とか「江戸っ子は宵越(よいご)しのぜには持たない」という生き方は、貯金がないと不安なわたしのような小心者にはできません。司馬遼太郎は「街道をゆく36 本所深川散歩 神田界隈」(朝日新聞社)で、この生き方は職人のこと、金がいくさの矢弾となる商人のことではない、としています。腕でめしを食う職人が金をためると、腕をみがくことをわすれ、いつまでも腕のあがらない職人となる、といったことなのでしょうか。金よりも腕を大切にする職人の生き様だったようです。

No.006:特別編:ニュルンベルク (2007年12月13日)

 クリスマスシーズンのドイツの町々を旅行しました。そのひとつがニュルンベルクで、中世における神聖ローマ帝国(962年 - 1806年)の帝国会議開催の町、そんな帝国の復活をもくろんだナチが党大会を開催した町、そのため第二次大戦で徹底的に破壊された町、中世の建物が最善の形で保存され一大観光都市だった戦前の姿を取り戻すべく戦後の復興がすすめられた町、そんな一面をもつ人口約50万人の都市です。

No.005:日和下駄 (2007年11月12日)

 永井荷風の「日和下駄(ひよりげた)」には、大正三年当時の東京市中の様々な風景が描かれています。その美しく臨場感あふれる描写は、「市中の散歩は子供の時からすきであった」荷風ならではのものでしょう。

No.004:徳川慶喜<よしのぶ/けいき> (2007年10月17日)

 80歳になる河合重子さんという方が「謎とき徳川慶喜―なぜ大坂城を脱出したのか」(草思社刊)という、300ページを超える厚い本を今年著しました。史料調査や著作に必要なエネルギーを考えると、80歳というお歳が驚きですが、15歳のときに慶喜フアンとなりそれ以来一貫して慶喜を追い続けてきたということが更に驚きです。

No.003:神田川 (2007年08月13日)

 神田川は、三鷹市の井之頭池を水源として、台東区の柳橋で隅田川に合流する延長25.48kmの1級河川です。江戸時代は神田上水として、また江戸城の外堀の一部として大きな役割を担っていました。

No.002:時の鐘 (2007年06月20日)

 浦井祥子氏(うらいさちこ:日本女子大学講師)が膨大な史料を丹念に解読してまとめた「江戸の時刻と時の鐘」からは江戸時代の時の鐘の実態が生きいきと伝わってきます。史料を多面的に解読し、正確に理解しようとする研究者としての氏の姿勢には、歴史小説のような華やかさやダイナミックさはないものの、信頼感と好感がもて、とても新鮮な印象を受けました。


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