49歳の隠居後に天文・歴学を学び始め、55歳から14年間、日本全国を歩いて精度の高い日本地図を完成させ、当時の平均寿命が40-50歳といわれるなかで73歳の長寿をまっとうした伊能忠敬は、「第二の人生の達人」と言われています。平均寿命が伸び、第二の人生が長くなった現在、この達人に学ぶことは多いのではないでしょうか。
天文・歴学を学ぶなかで、「正確な歴を作るには正確な地球の大きさが必要である」ことを知ると、その算出を試みます。深川黒江町のかれの隠居宅から、かれが通う浅草天文台までの距離と方位を実測し、そこから地球の大きさを計算したもので、結果は緯度(南北方向)1分の距離が1631m、その60倍×360倍が地球の大きさ(円周)となりました。日本が位置する緯度35度付近での緯度1分の距離は1849.2mですから11.8の誤差でした。どれだけの誤差があるのかはかれにはわかりませんが、わずか数kmの実測からの計算であり、かなりの誤差であることは想像できます。そんなときに、北方領土防衛のため幕府が蝦夷の海岸地図を必要としていることを知ります。
伊能忠敬はその話に飛びつきます。江戸から蝦夷までの道中を測量して、より正確な緯度1分の距離を計算しようと考えたのです。幕府のお墨付きがあれば、途中の藩を通過できるだけでなく、測量までもが可能なのです。やがてこの蝦夷海岸測量が実現し、それがきっかけで全国海岸測量へと進展していきます。細部にわたって実測された蝦夷海岸地図が高く評価されたのです。それまでの地図は、地名や地形の記述が重視され精度は二の次で、実測のみで作成された地図はなかったようです。こうした測量を通してかれが最終的に算出した経緯1分の距離は1845.63mでした。僅か0.2%の誤差です。この科学者的な精度の追求が、高精度の全国地図作成という偉業にもつながっているのでしょう。
かれの後年の手紙の一節に「吾等幼年より高名出世を好み」とあるそうです。それは子供のころのあどけない想いだったのかもしれませんが、手紙でふれるということは隠居後もそんな想いがあったのでしょう。お金とか名誉ではなく「人に認められたい」という素朴な想いだったのではないでしょうか。それを「好き」なことで実現したのです。かれの愚直ともいえる測量や観測へのこだわりは「好き」としか考えようがありません。「好き」なことで「人に認められ」て自分らしく生きいきと過ごした第二の人生だからこそ達人になりえたのでしょう。経緯1分の距離を算出しているときの高揚した気分、地図が形になって現れるときの幸せな気分、そういったものを味わいつくした第二の人生だったにちがいありません。
地球の大きさを知ろうとかれが歩測した、深川黒江町から浅草天文台までをわたしも歩測してみました。江戸時代の埋立地である深川の平らで真直ぐな道を、歩数を数えながら歩き、第二の人生の達人の気分を少し味わった7.3kmウォーキングでした。
参考:
伊能忠敬の地図をよむ(渡部一郎著、河出書房新社刊)、四千万歩の男(井上ひさし著、講談社文庫刊)伊能忠敬記念館、伊能忠敬大事典、「伊能忠敬」に学ぶ
1.忠敬江戸隠居宅跡
深川黒江町に隠居宅をかまえた忠敬は、そこに天体観測施設を設置し太陽や恒星の高度などを観測・記録しています。毎晩寝る間も惜しんで星を観測していたといわれ、その熱心さは、天文学の第一人者で19歳年下の師である高橋至時(よしとき)から「推歩先生」(推歩とは天体運行の計算のこと)と呼ばれるほどでした。天体観測には南北に見晴らしのよい10坪程度の土地に観測機器を設置する必要があり、隠居宅の庭が使われたと考えられています。この隠居宅跡に立ち、かれが天体観測に向かうときの、幸せそうな軽やかな足どりを想像していました。わたしの歩測もここがスタートです。
2.浅草天文台跡
暦を作るために天体観測を行う天文台で、師である筆頭天文方・高橋至時が住み、天文・暦学を学ぶために忠敬が通ったところです。低い土地の下町にあって、高さ9.3mの築山上に設置された簡天儀(天体の位置を測るための大きなリング)はとても目立った存在でした。葛飾北斎「富嶽百景」の「鳥越の不二」に描かれています。忠敬は得意げに天文台の門をくぐったことでしょう。ここまでを歩測しました。
歩測結果
歩数が4,536歩、わたしの歩幅が81.48cmですから3,696mの距離となります。曲り角は6カ所で、各曲り角までの歩測距離と磁石で測った北に対する方位とで歩いた軌跡を描くと、忠敬江戸隠居宅跡と浅草天文台跡の直線距離が2,982m、北に対する方位は342.9°でした。GPSデータから得られる緯度差は1.6分なので、緯度1分の距離は1,781.3m(2,982*cos(360-342.9)/1.6)となりました(図「歩測結果」の青い線)。誤差3.7%で思ったよりも精度がでています。
小さな磁石での方位測定だったので、方位データは地図(図「歩測結果」の黄色い線が実際の道)から、距離データのみ歩測からとると緯度1分の距離は1,821.9m(2953*cos(360-350.8)/1.6)となり、誤差1.5%とさらに精度が上がります(図「歩測結果」の赤い線)。
今回、歩測でも思いのほか高い精度が出せるものだと実感しました。歩測だけで作成した蝦夷海岸地図が、経度を修正すれば現在の地図とぴったり重なるのも納得できる気がします。
3.富岡八幡宮
忠敬の隠居宅跡から600mほどのところにあります。10回に分けて実施された全国海岸測量のうち、遠国への旅となった第1次から第8次までは、隊員一同と共にここに参詣してから出発しました。全員の気持ちを一つにするための出陣式だったのでしょうか。生死をかけた出陣にも似た気分だったのかもしれません。ここには伊能測量開始200年を記念して2001年10月に建てられた、測量の旅への一歩を踏み出した忠敬の銅像があります。磁石が示す北との角度差を測る杖先方位盤を右手に持ち、目を見開き、口を一文字に閉じて、第一歩を力強く踏み出しています。「さあ、行くぞ」という忠敬の声が聞こえてくるようです。
4.忠敬の墓(源空寺)
忠敬の遺志により師・高橋至時の墓の隣に葬られています。3つあるというかれのお墓の一つです。直線距離で1.4kmほどの浅草天文台は、ここから見えたことでしょう。かれが全国測量を続けていた59歳のときに至時が40歳で亡くなっています。忠敬を認め、励まし続けた師・至時にその後の報告をし、天文台を眺めながらの歴談義をしたかったのかもしれません。