永井荷風の「日和下駄(ひよりげた)」には、大正三年当時の東京市中の様々な風景が描かれています。その美しく臨場感あふれる描写は、「市中の散歩は子供の時からすきであった」荷風ならではのものでしょう。
「私は別にこれと云ってなすべき義務も責任も何もない云わば隠居同様の身の上である。その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気に暮らす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである」という荷風ですが、このときのかれはまだ36歳、慶應義塾大学の教授で雑誌「三田文学」の主宰者でもあり、そんな境涯(きょうがい)ではありません。これはかれの理想で、その後のかれの生き方がそのことを示しているといわれています。そんなかれの理想とする境涯にすでにある私が、かれがみた風景を追ってみました。
江戸切絵図をもって散策する荷風が描く風景は、当時まだ色濃くのこる江戸庶民の社会のなごりで、やがては消えていくであろう風景なのです。それは、より正確な陸軍陸地測量部地図を嫌い、より直感的な江戸切絵図を好むかれが展開する文明批判でもあり、先の理想ともつながっている気がします。「(私は)或時は表面に恬淡(てんたん:あっさりしていること)洒脱(しゃだつ:俗気を脱していること)を粧(よそほ)つているが心の底には絶えず果敢(はかな)いあきらめを宿している。(中略)私は後(うしろ)から勢(いきほひ)よく襲ひ過ぎる自動車の響に狼狽して、表通から日の當たらない裏道へと逃げ込み、そして人に後(おく)れてよろよろ歩み行く處に、わが一家の興味と共に苦しみ、又得意と共に悲哀を見るのである 」というかれは、勢いをます実利的資本主義、その象徴としての自動車、そんな時世に背を向けて日のあたらない裏道へと入り、そこに安らぎと悲しみをみつけているのです。そんな荷風に時代を越えて共感する人は多いことでしょう。かれの心に映った風景を新しい小型デジカメで写し撮ろうという想いにかられてでかけました。荷風の美しい風景描写と、最新の小型デジカメを入手したばかりの興奮がそんな気分にさせたようです。よく晴れた秋の17kmウォーキングとなりました。
参考:日本近代文学大系 第29巻 永井荷風集(角川書店1970年刊)、荷風日和下駄読みあるき(岩垣顕著、街と暮らし社2007年刊)
1.寺 不忍弁天堂
「日本の神社と寺院とは其の建築と地勢と樹木との寔(まこと)に複雑なる総合美術である」とする荷風が「不忍(しのばず)の池(いけ)に泛(うか)ぶ辨天堂(べんてんどう)と其の前の石橋(いしばし)とは、上野の山を蔽(おほ)う杉と松とに對して、又は池一面に咲く蓮花(はすのはな)に對して最もよく調和したものではないか」という不忍弁天堂を訪ねました。不忍池は「水」の章でもでてきて、「巴里(パリー)にも倫敦(ロンドン)にもあんな大きな、そしてあのやうに香(かんば)しい蓮の花の咲く池は見られまい」と賞賛しています。かれがみた風景のほとんどが消滅してしまった現代、ここはそのときの面影をわずかでも残しているところではないでしょうか。なんどもこの地を訪れたであろう荷風が感じた素晴らしさを、一回の訪問で感じるのは難しそうですが、それでも何か癒されるおもいがしました。池の存在が大きいようです。
2.淫祠 飴嘗地藏(あめなめぢぞう)
荷風がいう淫祠(いんし:邪神を祭ったやしろ)とは「裏町の角なぞに立つてゐる小さな祠(ほこら)やまた雨ざらしのまゝなる石地蔵」などで、そこで「今もって必ず願掛(ぐわんがけ)の繪馬(えま)や奉納(ほうなふ)の手拭(てぬぐひ)、或時は線香なぞが上げてある」のをみて、こういった人たちは近代化に染まってはいないと想像し、慰めのようなものを感じているようです。かれが挙げた淫祠のひとつ、隅田川厩橋(うまやばし)西にある榧寺(かやでら:池中山正覚寺)の「蟲齒(むしば)に效驗(しるし)のある飴嘗地藏(あめなめぢぞう)」を訪ねました。飴をなめているようにほっぺたをふくらませた可愛いお地蔵様です。荷風は「無邪気で下賎(げす)ばつた此等愚民の習慣」に慰めれるといっていますが、虫歯で痛いおもいをしていてもお地蔵様に祈るしかなかった昔の人びとを想像すると、無邪気ではすまないもっと切実なものがあったのではないでしょうか。お地蔵様を前に、そんな気がしました。
3.樹 浅草観音堂の銀杏
東京が最も美しくなるのはいたるところに青葉が茂る初夏で、「輝く初夏(しょか)の空の下(した)、際限なくつづく瓦屋根の間々(あいだあいだ)に、或いは銀杏(いてふ)、或いは椎(しひ)、樫(かし)、柳(やなぎ)なぞ、いづれも新緑の色鮮(あざやか)なる梢(こずゑ)に、日の光の麗しく照添(てりそ)ふさまを見たならば」東京も「まだまだ全(まつた)く捨てたものでもな」く、そこには「東京らしい固有な趣(おもむき)がる」と書いています。屋根と屋根の間にみえる、人びとの暮らしのなかにとけこんでいる樹木の美しさは、かれがみた高い建物が並ぶパリやロンドンにはなかったのかもしれません。かれが挙げた多くの樹木のうち「浅草觀音堂(あさくさくわんおんだう)のほとりにも名高い銀杏(いてふ)の樹は二株(ふたかぶ)もある」という銀杏(いちょう)を訪ねました。樹齢600年といわれる天然記念物です。世界屈指の大都市でありながら、このような巨木や草木の緑が身近にあった江戸での暮らしぶりを想像し、羨ましく感じたりもしました。
4.水 永代橋
東京の美しさの「第一の要素をば樹木と水流に俟つ(まつ:待つ、頼る)ものと断言」する荷風は、「水」について他の章よりもより多くのことを愛情をこめて語っています。隅田川に代表される河川、縦横にはしる運河、濠(ほり)、多くの池、などからなる明治の東京は、それらが生活や娯楽に密着し、人びとに愛されていたことからも、「水の都」と呼ぶにふさわしい都市であり、江戸時代と比べるとその重要さは薄れたとはいえ、まだまだかれの心を大きくとらえているのです。荷風が十五六歳のときに小舟で遊んだ楽しい経験があるという永代橋近辺に行ってみました。すでに日が暮れようとしているときで、夕闇が周りを覆い隠し、永代橋が夕焼けに映え、隅田川が静かに流れている風景をまえに、荷風が感じたかもしれない安らぎを感じるひとときとなりました。
5.路地 葭町(よしちょう)
西洋まがいの建物、ペンキ塗りの看板、電柱と電線、などが無秩序にはびこり、「静寂の美を保ってゐた江戸市街の整頓」を失っていく表通りに「絶えず感ずるこの不快と嫌惡(けんを)の情(じやう)とは一層(ひとしほ)私をして其の陰にかくれた路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである」と、秩序を保っていた江戸が東京となったとたん無秩序に変わりはじめたことに荷風は苛立っています。「音律なる活動の美を有する西洋市街」をみてきたかれには我慢できないことだったのでしょう。
それから90年以上経った今日、東京はさらに無秩序に日々変わっています。人びとのエネルギーや欲望が街並みをどんどん変えていく、混沌とした、何でもありの街といった感があるのです。路地も例外ではありません。荷風が逃げ込める路地などもうないのではないでしょうか。路地として描かれている葭町(よしちょう:日本橋人形町)には、芸者の置屋だった建物がいまでも残っている路地がありますが、それは繁盛している料理屋であったりして、かれが描いた日の当らない路地ではありません。生まれ育った東京への強い愛着、それゆえの反感、共感、悲しみ、喜びが綴られた「日和下駄」、そのほんの一部をたどった一日でしたが、荷風という一人の東京人に少しお近づきになれた、そんな楽しいウォーキングでした。