部屋に入るなりいきなり、「タヌキはどうしたの!!」と驚いたように姪が尋ねました。背丈70センチほどの信楽焼きのタヌキ、実家の玄関に26年間鎮座し、来訪者を歓迎していましたが、いなくなったのです。実家の売却が決まり、取り壊されることとなり、兄貴家族全員と我々夫婦が実家に集まったときのことです。
姪は小さいころからよく遊びに来ていて、お婆ちゃんお爺ちゃんに大歓迎され、ご馳走が出て、遊園地などに連れて行ってもらえる、楽しい思い出の家です。そんな父親の実家の玄関にいて、最初に出迎えてくれるタヌキは、これから始まる楽しい出来事を期待させてくれる存在だったに違いありません。
タヌキは無事で、我家で横になり休んでいます。昔、妻と妻の両親みんなで遊びに行った信楽から実家に送ったもので、思い出もあって我々が引き取りました。妻の実家で第二の人生を送ってもらうつもりです。義父が小さいのを買ったのですが、家に置いてみて「もう少し大きいのを買えばよかった」と言っていたそうです。義父はもう亡くなりましたが、大きなタヌキをやっと届けることができます。
実家には、大学、大学院時代に両親と一緒に住み、京都に就職してからは年に2回ぐらい、25年前に横浜転勤となってからは多いときには月2回から3回訪問しています。19年前に父が亡くなり、10年前に母が入院、その後施設に入ってからはほとんど行かなくなりました。両親がいなくなってからは、実家は思い出だけの場所となったのです。
一番の思い出は、家族全員が集まるお正月でしょう。京都在住のときは1年ぶりの全員との再会です。大晦日の団らん、お正月のご挨拶とご馳走、夜遅くまで尽きない四方山話、絶えない笑いがありました。家の中で一番狭い茶の間にみんなが集まって、こたつを囲んで夜1時、2時まで話に熱中していると、先に寝た親父が2階から降りてきて、早く寝ろ、と急き立てます。この茶の間、ある人が一目見て、ここには福がたくさんいる、と言ったそうです。今で言うパワースポットでしょうか、楽しい団らんの部屋でした。親父の最初の見取り図にはなかったのですが、お袋がどうしてもと、台所の隣に追加してもらったそうです。お袋の先見の明がここにもありました。
建てる時、模型を自作して嬉しそうだった親父、自慢の家と庭が取り壊されるのはさぞかし寂しいことでしょう。でも、子どもたち4人全員が自分の家を持ち、お互い仲たがいすることもなく、みんな元気で、その子供たちも自立し、子供を育て、社会で活躍しています。家が果たす役割というものがあるかと思いますが、それを立派に果たしたといえるでしょう。
引渡しの日、銀座・歌舞伎座タワーにある不動産会社オフィスに集合した兄弟4人、うち上2人が登記識別情報通知書、いわいる権利書を持参してきませんでした。4人全員の通知書がないと引渡しできません。そんな書類がいるなんて聞いてない、とか、見たこともない、とか言いながら急いで家に取りに帰り、3時間遅れでの引渡し完了となりました。一番上が75歳、一番下の私が69歳、緊張感のない暮らしが続いており、まあまあが許されない不動産売買は苦手、これからますます苦手になるでしょう。売却するいい潮時でもあったのかもしれません。