神田川は、三鷹市の井之頭池を水源として、台東区の柳橋で隅田川に合流する延長25.48kmの1級河川です。 江戸時代は神田上水として、また江戸城の外堀の一部として大きな役割を担っていました。
神田上水は関口(文京区)で取水され、東に向かい水戸上屋敷(現後楽園一帯)に入り、その後南に向かって神田川を渡り、大手町の大名屋敷や神田、日本橋周辺の町屋に給水されました。江戸で最初にできた本格的な上水道で、家康が江戸に入府した1590年(天正18年)から13年後の1603年(慶長8年)に給水を開始し、1629年(寛永6年)に全体が完成しています。その後、江戸の人口が増えるに従い玉川上水などが創設されていき、総延長150kmという当時世界最大の上水道が江戸に構築されていくのです。
外堀としての神田川は飯田橋近くから隅田川までで、1620年(元和6年)に仙台藩によって開削されました。神田山(のちの駿河台)を南北に分断する谷のように深く掘られた堀があります。開削以前は、現在途中で分流する日本橋川を通って隅田川に流れていました。日本橋川は、太田道灌が江戸城を築城する際に、日比谷入江に河口があったとされる神田川(当時は平川)を隅田川に分流させた堀が原型だと考えられています。神田川は平川の時代から、2回の大工事を経て現在の流れとなっているのです。
日比谷入江は、現在の田町、日比谷、霞ヶ関、新橋周辺を海面下にしていましたが、江戸時代に埋め立てられました。現在の深川なども江戸時代に埋め立てられ、100万人以上が暮す、世界でも有数の大都市江戸が形成されていきます。埋立地が多く、良質の水が不足していたために上水道が必要だったのです。
今回のウォーキングは、江戸市街中心部への給水を担った神田上水と、谷のように深く掘られた外堀を訪ねて、神田川約25kmを歩きました。
1.「お茶の水」井戸
神田川の水源である井之頭池にあるいくつかの湧水のうち西北端にある湧水は「お茶の水」と呼ばれ、家康が江戸城のお茶の水に用いるように命令したといういわれがあります。武蔵野台地を覆う関東ローム層でろ過された水は、冷たく、味わいが甘味だったそうです。昭和になって周囲でのマンション開発が活発になると、湧水はつぎつぎと枯れだし、昭和の中頃にはすべてが枯れ、現在は深井戸の水がポンプで給水されています。池の周囲は井之頭公園として整備され木々も多く、心やすまる場となっています。
2.武蔵野の森
江戸時代、高井戸周辺は杉丸太の産地でした。
江戸時代初めには見渡す限りのススキの原だった武蔵野が、江戸の発展と共に森となっていきました。江戸に供給する農作物のための新田作り、その新田の土を改良する堆肥作りのための植林、更には炭や木材のための植林がしだいに森を作りあげていったのです。何代も先のことを考えることができる安定した社会と江戸の繁栄が、何もないところから森を作るという長期的な事業を可能にしたのでしょう。
3.無表情の神田川
江戸時代の絵をみると神田川の川面は橋や土手に迫っており、人々の身近にあって表情豊かな川に見えるのですが、現在の神田川の川面は深く刻み込まれたU字溝の下のほうにあって、人を寄せ付けない、無表情な川に見えます。たびたびの氾濫を機に整備された結果なのでしょうが味気ないものです。神田川の氾濫は、ビルや住宅が川っぷちまで迫り、川が本来持つべき広い河川敷が奪われ、周辺の道路の舗装も進んで、雨水を吸収してくれる土も奪われたためと見られています。現在のように地下分水路などが整備される前は、1時間に50-80ミリ程度の集中豪雨があると、わずか5分で水位が5メートルもふくれ上がったそうです(神田川:朝日新聞社社会部、未来社1982年刊)。虐げられた結果、人を寄せ付けず、時に暴れる川となってしまったのでしょうか。かぐや姫の「神田川」がどこか寂しげな歌なのも偶然ではないような気がします。
4.電車ドア脱落
神田川が中央線の鉄橋をくぐります。
敗戦直後の1946年6月4日朝8時25分ごろ、吉祥寺発東京行きの満員電車から乗客数名が神田川に振り落とされ、3人が死亡しました。カーブの遠心力でドアが外枠だけを残して飛び出したのです。当時、ドアが外れての死亡事故が何件か発生しており、人々は命がけで満員電車に乗っていたことになります。戦争中の命がけの悲惨な記憶が生々しく残る時代だからこそ、やむなくにせよ、そんな電車でも乗ることができたのでしょう。
5.大洗堰(おおあらいぜき)
目白下関口(文京区)に大洗堰(おおあらいぜき)という堰が設けられ上水が取水されました。海の干満はここでせき止められ、川の水だけが取水されたのです。江戸時代、水源からここまで「定 比上水道において水をあび、魚鳥を取り、ちり芥をすて、物あらふ輩あらば曲事(くせごと:違法行為)たるべきものなり 奉行」と書かれた高札が7ヶ所あり、番人が居住する水番屋は5ヶ所あって、上水は厳しく監視されていたようです。人々の近づかない、ひっそりとした川だったことでしょう。
6.みゝづくや
飯田橋の少し上流左岸に、煙突のような看板のあるタバコ販売店「みゝづくや」があります。85年前に店を始めたとのことで、今はもう閉じています。この9月までに解体されるという「解体工事のお知らせ」が貼り出されていました。この家の玄関の鴨居の部分に茗荷谷付近の工事現場から出土した、長さ3.98m、断面20cm*15cmの木桶(もくひ)が使われています(神田川:朝日新聞社社会部、未来社1982年刊)。U字形にくり抜いた角材に蓋をしているように見えました。神田上水でも同じような木桶が使われていたのでしょう。出土した木桶を使うなんて、ユニークな看板からも想像できますが、みゝづくで象徴される知恵を持ったアイディア店主だったに違いありません。
7.日本橋川
神田川が外堀となる飯田橋近くから少し下流の右岸で日本橋川に分流します。江戸市街の中心部を流れる重要な運河で、神田川が外堀となってからは神田川から現在の掘留橋(靖国通りと交差するところから少し上流)までが埋め立てられました。防衛上の理由のようです。再び神田川とつながるのは明治36年になります。
8.御茶の水懸樋(かけひ)
水道橋の少し下流で神田上水が川を渡っていました。御茶の水懸樋(かけひ)と呼ばれ、総延長33.6m、銅張屋根付きの樋(とい)の内径は、幅180cm、深さ150cmと相当大きなもので、普通の橋と同じように頑丈に作られていました(江戸 東京の神田川(坂田正次(さかた・しょうじ)著、論創社1987年刊)。この懸樋が見える橋という意味で水道橋となったそうです。御茶の水懸樋を通った上水は地下の樋を通り、分岐し、各所の溜桝(ます)で溜められ、汲みあげられていました。上水は当時最先端の設備であり、「水道の水で産湯(うぶゆ)をつかった」というのが江戸っ子の自慢にもなったそうです。
9.茗渓(めいけい)
神田山を切り崩して開削されたこの外堀はまるで渓谷のようで、江戸時代は茗渓(めいけい:茗はお茶の意)とも呼ばれ、広重の「名所江戸百景」にもでてきます。御茶の水駅ホームからの景観は、川面はかなり下にあり、川を渡る聖橋はかなり上にあって、東京に何でこんな谷のような所があるのだろう、と不思議に思った記憶があります。開削とその後の拡張整備を担当した仙台藩の財政は疲労し、それが伊達騒動の原因にもなったと言われています。人手だけで掘り進む当時としては、実高100万石の藩をも揺るがすほどの大工事だったのです。
10.柳橋
柳橋は、江戸時代から昭和の中頃まで花街として栄えました。
神田川が隅田川と合流するところで、江戸市街からのアクセス、そして吉原へのアクセスがよかったので繁栄したと言われています。江戸での移動手段は、歩き、駕籠(かご)、船であり、酒宴のための移動であれば船、酒宴後の移動も船、ということだったのでしょう。歩きが主流の江戸時代ですら、酒宴や遊びに歩きは似合わなかったようです。座敷にせまる川、その美しい眺望や爽やかな川風が酒宴をより盛り立てたに違いありません。昭和になって川の濁りや悪臭がひどくなるにしたがい衰退し、昭和の中頃にはほとんどの料亭や船宿が廃業に追い込まれました。川によって繁栄し、川によって衰退していったのです。川が生き返りつつある現在は、姿を消していた屋形船が戻ってきています。