日本だけでなく世界でも名の知られたジャーナリスト江川紹子(えがわ しょうこ:1958年東京生まれ)氏は簡素な服装で、言葉を選びながら静かに語る。TVでの印象そのままの人だ。麻原彰晃について語ったときは「彼はオウムの被害者をつくっただけでなく、加害者もつくった」「『救う会』で一緒に活動した方の息子さんがオウムでの実行犯となり死刑判決を受けた。複雑な気持ちだ」と激しい口調となり、今でも怒りが納まらないという印象を受けた。ジャーナリストとして、また坂本弁護士という友人を殺された当事者として当然なのかもしれない。
オウムの追求はごく私的なことから始まり、ジャーナリストとして注目していたわけではなかった。「人権問題に関心のある江川紹子」と載った新聞記事を見て、オウムに入って消息不明となった娘さんを捜しているお母さんが相談してきたのがきっかけだった。当時オウムのことは知らなかった。友人の坂本弁護士がその親御さんの相談に応じ、そして、それから半年後に行方不明となる。友人弁護士の行方の手がかりを求めて半ば当事者としてオウムに関わっていった江川氏は、やがてオウムによってまかれたガスで声が一時でなくなる。いやがらせ、ぐらいに考えていた江川氏だが、後でそれが殺人目的だったことを知ると「え~、本気だったの」と思ったそうだ。友人の失踪事件ということで、前だけを見ながら進み、自分のことには鈍だったようだ。だからこそあそこまで追求できたのかもしれない。
1989年11月4日の坂本弁護士失踪事件、1994年6月27日の松本サリン事件そして1995年3月20日の地下鉄サリン事件と続くなかでオウムを追っていた江川氏は、同3月22日のオウム強制捜査から7月中旬まで、TV出演要請に可能な限り全て応じた。この機を逃したらもう次はないと考えたという。ジャーナリストとして1人でも多くの人に真実を伝えたいという想いが一気にかなったのではないだろうか。
娘さんを捜すお母さんから相談を受けたときは、まさかこんな大事件に遭遇するとは考えてもみなかったようだ。ジャーナリストの使命感や正義感といった大上段に構えての行動からではなく、人権問題や友人の失踪といった身近な問題に、熱心に、粘り強く取り組んできた結果、日本でも有数のジャーナリストとなった、という感じだ。悩みや迷いを持つ若者に言い切り型の答えを与えることで拡大したオウム、そんな団体が今後も生れる可能性はある。そんなとき、真実を伝えることができるジャーナリストはやはり江川氏のような人なのだろう。