渋谷駅がよく見える窓側の席でお子様ランチを喜んで食べていました。50年以上昔の渋谷食堂でのことです。わたしの弱視を診てもらうために母に連れられて行った病院からの帰りでした。
ケチャップライスでできた半球の小山、頂上には日の丸の旗、ふもとには千切りキャベツ、ナポリタン、から揚げ、ソーセージが豪華にならんでいたと記憶しています。日の丸がとくに嬉しい存在でした。数種類のおかずが盛り付けされ、飾りまである食事など、兄弟のだれも食べたことがないのです。夢のような、というのはおおげさですが、当時のわたしにとっては十分に非日常的な食事で、日の丸はその象徴でした。家に持ち帰って自慢したようで、「一人だけ、旗のついた食事をした」といまでも姉が言います。
そんな思い出のある食堂や病院の場所を、インターネット検索や渋谷区郷土博物館の資料でたどってみると、「渋谷の記憶 写真でみる今と昔」(2007年12月渋谷区教育委員会発行)に「渋谷食堂」の看板が左端に写っている昭和31年当時の写真がありました。昔の地図を郷土博物館で調べているときに、館員の方が教えてくれたのです。TVの天気予報などでよくみる渋谷駅前のスクランブル交差点に面したところでした。
病院は坂の途中にありました。坂を下りたところに食堂があったので、スクランブル交差点から伸びる道玄坂がその坂だったようです。しかし、当時の地図をみても、道玄坂の古くからの商店で尋ねても、結局それらしい病院の手がかりは見つかりませんでした。道玄坂を歩きながら、この坂の傾斜や曲がりぐわいこそ子供のころに歩いたものだ、などと思いをめぐらせることであきらめたのです。
少し疲れた足取りで道玄坂を下りるとき、渋谷食堂のあった場所を眺めながら母のことを考えました。わたしの視力の弱さをとても気にしていた母、一緒に出かけると、先にある電信柱広告の文字をわたしによく質問していました。それは視力検査のようで、大きな文字からしだいに小さな文字へと質問が移っていきます。いい眼科医がいるときけば、電車に乗り、坂を上り、診てもらう、でも進展はありませんでした。そんな子を思ってのお子様ランチだったのかもしれません。外食といえば、プロレスのTV中継を見るために近所のおそば屋さんでたぬきうどんを食べさせてもらうのがせいぜいでしたから、とにかく特別の外食だったのです。お子様ランチを喜んで食べているわたしを、母はどんな思いで見つめていたか、そして、そのとき母がなにを食べたのかなどを、坂を下りながら考えていました。
渋谷食堂が安さをうりにした大衆食堂であることを、今回、インターネットではじめて知りました。子供ひと筋の母がわたしのためにできる精一杯のことが、ここでの食事だったにちがいなく、そんなことを子供心に感じていたからこそ、いまでも忘れられない思い出となっているのかもしれません。わたしにとってはどこよりも素晴らしいレストランであり、なによりも高級なお子様ランチでした。