「沼津の学校に行くかい?」、母が尋ねたのはわたしが小学生のときです。電車の中でした。外の景色をドアのガラス越しに見つめながら「うん」と同意したのを覚えています。虚弱体質の子どもや知恵遅れの子どもを寄宿舎生活で鍛える沼津の学校と知っての返事でしたから、それ以前に母から説明を受けていたのでしょうが、このときのことしか覚えていません。子ども心にも、それだけ深刻な決意の瞬間だったのでしょう。
自転車にぶつかっては骨折、姉と相撲をとっては骨折、といった弱い身体、それに弱視、成績も悪い、そんなわたしを心配しての母の決断です。結局、「そこまで必要ありませんよ」という担任の先生の意見によって、取りやめとなったのですが。先日、兄弟4人全員が集まったとき母の昔話となり、この話も出て、兄から「それで担任の先生が、黒板の字がよく見えるようにと席を一番前にしてくれたんだ」と初めて聞きました。そういえば一番前の席だったことは、数少ない小学校での記憶のひとつです。先生の顔が迫り、はっきり見えたのを覚えています。きっと字もよく見えたことでしょう。それ以降、授業に集中できるようになり、成績も上がったと記憶しています。そんな席替えのきっかけが母の強い思いだったとは、いままで知りませんでした。気付かない多くのところで母に守られていた、あらためてそう思います。
その後中学受験を経て、私立の工業高校付属中学へと進み、高校卒業まで上位5位以内の成績だったのも、この席替えが1つの契機だったような気がします。みんな公立中学卒の兄弟のなかでわたしだけが私立中学卒、わたしのことを「工業高校を卒業したら電気屋でもやらせるから、弟の面倒をみるんだよ」と兄二人に母が頼んでいたことも先日の兄弟での話題となりました。結局、電気屋とはならず、工業高校、大学、大学院を経て電機メーカに入社、兄弟の世話になることもなく今日を迎えています。兄弟で集まったその前日が63歳の誕生日、前々日が39年間勤めた電機メーカ退職日でした。ここまでこれたのも子どもを思い、その将来をいつも考えていた母のおかげです。
その母が今月3日に永眠しました。92歳でした。11月3日に肺炎で入院、すぐに熱も下がり比較的元気だったのですが、1月2日午後に突然40度の高熱を出し、激しい心拍数が続き、翌3日夜亡くなりました。熱でうなされるように息が少し荒くなることがわずかにはあったものの、ほとんどはとても安らかな顔つきで、すやすやと眠るような最後でした。3年半前に脳内出血で倒れてからは、認知症なども出て、本人としては不本意な日々だったとは思いますが、「歩かないと寝たきりになっちゃうよ」と言うと「歩くよ」とわたしにつかまって歩き出す、強い意志と根性は最後まで変わりませんでした。
葬儀では、親戚やご近所からの別れを惜しむ方々の多さに、母の面倒見の良さを思い、子ども全員、ニューヨークにいる孫娘を除く孫全員がそろい、小さな曾孫が斎場をうろうろする姿からは、母から子ども、孫、曾孫へと引き継がれる命を思い、母の生きる力の強さを思う、そんなときとなりました。母のことを思い返すと、そこには感謝、感謝、感謝があるのみです。これからは、いつでも、どこにいても、母がしっかり見守っていてくれる、そう信じています。