家族

No.036:母のこと

 「沼津の学校に行くかい?」、母が尋ねたのはわたしが小学生のときです。電車の中でした。外の景色をドアのガラス越しに見つめながら「うん」と同意したのを覚えています。虚弱体質の子どもや知恵遅れの子どもを寄宿舎生活で鍛える沼津の学校と知っての返事でしたから、それ以前に母から説明を受けていたのでしょうが、このときのことしか覚えていません。子ども心にも、それだけ深刻な決意の瞬間だったのでしょう。

 自転車にぶつかっては骨折、姉と相撲をとっては骨折、といった弱い身体、それに弱視、成績も悪い、そんなわたしを心配しての母の決断です。結局、「そこまで必要ありませんよ」という担任の先生の意見によって、取りやめとなったのですが。先日、兄弟4人全員が集まったとき母の昔話となり、この話も出て、兄から「それで担任の先生が、黒板の字がよく見えるようにと席を一番前にしてくれたんだ」と初めて聞きました。そういえば一番前の席だったことは、数少ない小学校での記憶のひとつです。先生の顔が迫り、はっきり見えたのを覚えています。きっと字もよく見えたことでしょう。それ以降、授業に集中できるようになり、成績も上がったと記憶しています。そんな席替えのきっかけが母の強い思いだったとは、いままで知りませんでした。気付かない多くのところで母に守られていた、あらためてそう思います。

母のこと
お正月の一家だんらん(高校時代)

 その後中学受験を経て、私立の工業高校付属中学へと進み、高校卒業まで上位5位以内の成績だったのも、この席替えが1つの契機だったような気がします。みんな公立中学卒の兄弟のなかでわたしだけが私立中学卒、わたしのことを「工業高校を卒業したら電気屋でもやらせるから、弟の面倒をみるんだよ」と兄二人に母が頼んでいたことも先日の兄弟での話題となりました。結局、電気屋とはならず、工業高校、大学、大学院を経て電機メーカに入社、兄弟の世話になることもなく今日を迎えています。兄弟で集まったその前日が63歳の誕生日、前々日が39年間勤めた電機メーカ退職日でした。ここまでこれたのも子どもを思い、その将来をいつも考えていた母のおかげです。

 その母が今月3日に永眠しました。92歳でした。11月3日に肺炎で入院、すぐに熱も下がり比較的元気だったのですが、1月2日午後に突然40度の高熱を出し、激しい心拍数が続き、翌3日夜亡くなりました。熱でうなされるように息が少し荒くなることがわずかにはあったものの、ほとんどはとても安らかな顔つきで、すやすやと眠るような最後でした。3年半前に脳内出血で倒れてからは、認知症なども出て、本人としては不本意な日々だったとは思いますが、「歩かないと寝たきりになっちゃうよ」と言うと「歩くよ」とわたしにつかまって歩き出す、強い意志と根性は最後まで変わりませんでした。

 葬儀では、親戚やご近所からの別れを惜しむ方々の多さに、母の面倒見の良さを思い、子ども全員、ニューヨークにいる孫娘を除く孫全員がそろい、小さな曾孫が斎場をうろうろする姿からは、母から子ども、孫、曾孫へと引き継がれる命を思い、母の生きる力の強さを思う、そんなときとなりました。母のことを思い返すと、そこには感謝、感謝、感謝があるのみです。これからは、いつでも、どこにいても、母がしっかり見守っていてくれる、そう信じています。

の記事

No.176:兄弟仲 (2021年09月30日)

 「おにいちゃん、おにいちゃん、、、、」と叫びとも泣き声ともとれる悲痛な響きが、マンション廊下側の少し開いた窓から聞こえます。お隣玄関ドアのところからのようです。男2人兄弟、新学期初日で学校に行く小1の兄を、3歳下の弟が引き留めようとしている様子です。夏休みでずっと一緒だったおにいちゃんが出かけるので、寂しかったのでしょう。

No.158:長兄の死 (2020年03月31日)

 長兄が亡くなりました。79歳、平均寿命に届かない早すぎる死です。2年前の手術で肝臓癌を100%摘出し、「命拾いした」と喜んでいたのですが、術後も嚥下機能改善手術を受けるなどして入院が続き、1年前に病室で倒れて脳を損傷、自分の意思では身体を動かすことができなくなりました。手をわずかに動かせる程度です。見舞いの帰り際、長兄が手を振るしぐさをするだけで、みんなが喜ぶ、そんな闘病の日々でいくつかの臓器の機能が低下し、先日亡くなりました。

No.152:叔母の葬儀 (2019年09月30日)

 「お墓を引き継ぐ人がいなければ、納骨はできません。更地にして返していただきます」といきなり言われました。叔母の葬儀をお寺さんに相談したときのことです。親も、兄弟も、子供もいない叔母は、このままでは、夫のいるお墓に入れないのです。お袋の妹で、享年96歳、小さいころから可愛がってもらった我々兄弟で、葬儀をして、姉がお墓を守ることとなりました。

No.148:長兄の病 (2019年05月31日)

 78歳になる長兄が肝臓癌で大きな手術を受けました。手術は成功し、癌を全て取り除き転移もないとのことでひと安心だったのですが、術後の経過が思わしくありません。もう、1年以上入院しています。手術後、誤嚥するようになり、嚥下機能改善手術を受けたり、転倒で頭を打ち開頭手術を受けたりしているのです。

No.113:実家の売却 (2016年06月30日)

 部屋に入るなりいきなり、「タヌキはどうしたの!!」と驚いたように姪が尋ねました。背丈70センチほどの信楽焼きのタヌキ、実家の玄関に26年間鎮座し、来訪者を歓迎していましたが、いなくなったのです。実家の売却が決まり、取り壊されることとなり、兄貴家族全員と我々夫婦が実家に集まったときのことです。

No.110:小学生時代の通信簿 (2016年03月31日)

 「幾分気が弱いのではないかと思われる。そのために栄養も良くない。つとめて健康に留意されたい。勉強の方はあまりあせらずにいてよいと思います」、小学1年1学期の通信簿通信欄での記述です。私は、虚弱体質で勉強のできない子でした。最近実家で見つかったこの通信簿を見ながらつくづく思うのは、よくぞここまで無事これたものだ、ということです。今は、健康に恵まれ、今のところお金に困ることもなく、生活を楽しんでおり、まあまあ幸せな日々と言えます。

No.035:実家に続く道 (2009年12月31日)

 実家間近にある線路沿いの細い道、毎週、電車から眺めています。ここを過ぎるとやがて下車駅、以前であればその駅から実家へとここを歩くのですが、いまは別の電車に乗り換えて母が入居している施設に向かいます。もうほとんど歩くことがなくなった、懐かしい、とさえなりつつある道、電車が減速し駅に入り始めるころには見えなくなるのですが、それでも目で追いかけているときもあります。さまざまな思いを抱きながら歩いた道です。

No.015:渋谷のお子様ランチ (2008年04月30日)

 渋谷駅がよく見える窓側の席でお子様ランチを喜んで食べていました。50年以上昔の渋谷食堂でのことです。わたしの弱視を診てもらうために母に連れられて行った病院からの帰りでした。

No.005:時間感覚 (2007年06月30日)

 「遅かったじゃないか」、5時からの食事会に5時少し前に現れた姉に叔母が文句を言ったそうです。叔母は4時前から会場で待っていたのです。叔母の姉である私の母も同様の時間感覚で、一緒に旅行するときに待合せ時刻の1時間ぐらい前から待っていたときもあります。周りが迷惑です。そんな母の不思議な時間感覚を理解するのは難しいのですが、歳とともに母の性格を引き継いでいる自分を発見しつつある私としては気になるところです。

No.004:両親のこと (2007年05月31日)

 「団塊格差」(三浦展著、文春新書)を読んで両親への感謝の気持ちが更に強くなりました。団塊世代の大学卒業者は22%だそうです。文部科学省「2006年学校基本調査報告」では、私が大学進学した1965年の高等教育機関(大学・短大・専門学校)への進学率は18%程度で、現在の76.2%(2006年)とは進学状況に大きな違いがあったのです。兄2人が大学に進学しており、それを当たり前のように考えていましたが、世間一般以上の両親の努力があったことをあらためて知りました。


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