家族

No.035:実家に続く道

 実家間近にある線路沿いの細い道、毎週、電車から眺めています。ここを過ぎるとやがて下車駅、以前であればその駅から実家へとここを歩くのですが、いまは別の電車に乗り換えて母が入居している施設に向かいます。もうほとんど歩くことがなくなった、懐かしい、とさえなりつつある道、電車が減速し駅に入り始めるころには見えなくなるのですが、それでも目で追いかけているときもあります。さまざまな思いを抱きながら歩いた道です。

実家に続く道
この先を曲がると実家が見える

 1971年に社会人となり実家を出てからほぼ40年、いったい何回この道を歩いたことでしょう。ここまで来ると家はすぐそこ、おやじやおふくろがどんな顔をして迎えてくれるかが楽しみでした。就職先は京都、東京にある実家には出張や正月のときに帰ります。おやじに相談するために帰ったことが1度だけありました。入社数年後でしたが、研究職から営業職への異動の内示を突然受けたときです。不本意な異動への怒りと不安を胸にこの道を実家に向かいました。京都に戻って数日後、「営業の心得」という本だったと思うのですが、おやじが手紙とともに送ってきました。父親として何かできることはないか、考えた末のことだったと思います。離れて暮らしているだけに心配もひとしおだったにちがいありません。結局この内示は取り消しとなり、本は読まずじまいでした。

 京都に家を買う報告で帰ったときは、この道を誇らしげに歩いていたでしょう。その後の新婚旅行では成田到着後すぐに実家へ、和食に飢え、おふくろの美味しいおでんを欠食児童のようにがつがつと食べ、旅行の疲れですぐに寝てしまいました。翌日、独りの時は帰すのが嫌だったけど二人なら安心だよ、と言うおふくろの笑顔を後にこの道を駅へと歩いています。いままではいつ何があってもすぐ京都へ行けるようにたんすにお金を入れておいたんだよ、とも聞きました。2軒目の自宅を買ったときは、駅に隣接した新築マンションだったので、自慢げに説明書を持参しています。

 1991年に、所属する研究部門が横浜に移転し横浜住まいとなります。そのときの両親の喜びようは大変なものでした。京都に永住、と決めて就職し、両親も覚悟していたのですが、20年後の思いがけない横浜、同じ仕事での、同じ仲間とのロケーション移動でわたしも嬉しく、息子が喜んで首都圏に戻ってきて、両親としては嬉しくかつ心強く感じたことでしょう。そんな報告の往き帰りにも通った道です。横浜に住むようになってからは、京都時代の年数回を挽回すべく月数回通いました。時間に遅れがちな妻と険悪なムードでこの道を歩いたのもたびたびです。

 1994年に赴任したアメリカ・シカゴからは年数回帰りましたが、おやじが入院がちだったこともあって、会う楽しみだけでなく不安もありました。シカゴに戻るときは、おふくろが食料品を目いっぱい詰め込んでくれた大きな麻のバックを持ってここを歩いています。あまりの荷物に、成田エクスプレスの新宿ホームまでおふくろが見送ってくれたこともあります。駐在中におやじが亡くなり、知らせを受けてから数時間後に乗り込んだ成田行きの飛行機で「もうおやじとは話ができないんだ」と沈み込み、いよいよ実家間近となるこの道では「落着かなくては」と自分に言い聞かせていたように思います。

 おやじが亡くなった年にシカゴから横浜に戻り、数年後にいまの自宅を購入し入居しました。しかし、以前のような高揚感はあまりありません。3回目の自宅購入ということもあるのでしょうが、自慢したいおやじがいないことも影響していたのでしょう。入居の年に出向というかたちで別会社に移りましたが、このときも淡々とおふくろに報告しています。まもなく仔犬のモモをもらい、おふくろを喜ばせようとせっせと連れて行きました。3年半ほど前におふくろが脳内出血で倒れてからはこの道を歩くことはほとんどなくなり、電車の窓から眺めるだけとなっています。

 こうしてふり返ってみると、ほとんどのことが会社とつながっています。会社なしの生活はあり得ず、深い感謝の気持ちは言葉では簡単に表現できません。その会社を来月退社します。39年間お世話になりました。いろいろなものに出会い、そして過ぎ去っていく、いままでも、これからも。この道からも会社からも離れたその先には、どんな出会いがあるのでしょうか。良い出会いがあるように頑張らなくては、と心新たにしています。

 12月なので、今年の総決算として、ウォーキング結果を報告します。地図上で距離を確認した公式記録で4,739km、1日平均13km、昨年と比べると1%ダウンです。昨年のNo.017で紹介した歩数計「日本一周歩数計の旅」では、羽田を出発して海岸に沿って、本州太平洋側、北海道、本州日本海側と進み、現在は新潟県直江津を歩いています。557日目で8,451km、今年分だけですと365日で5,551km、1日平均15kmとなります。日本一周は18,880kmなので、2011年11月には羽田に戻れそうです。

 今年は海外旅行はありませんでした。7月から妻が大忙しで海外どころではなく、来春までは忙しそうです。今年はどこも行かなかった、と義理の母がつぶやいていたとのこと、来年はまたみんなで旅行を、と考えています。

の記事

No.176:兄弟仲 (2021年09月30日)

 「おにいちゃん、おにいちゃん、、、、」と叫びとも泣き声ともとれる悲痛な響きが、マンション廊下側の少し開いた窓から聞こえます。お隣玄関ドアのところからのようです。男2人兄弟、新学期初日で学校に行く小1の兄を、3歳下の弟が引き留めようとしている様子です。夏休みでずっと一緒だったおにいちゃんが出かけるので、寂しかったのでしょう。

No.158:長兄の死 (2020年03月31日)

 長兄が亡くなりました。79歳、平均寿命に届かない早すぎる死です。2年前の手術で肝臓癌を100%摘出し、「命拾いした」と喜んでいたのですが、術後も嚥下機能改善手術を受けるなどして入院が続き、1年前に病室で倒れて脳を損傷、自分の意思では身体を動かすことができなくなりました。手をわずかに動かせる程度です。見舞いの帰り際、長兄が手を振るしぐさをするだけで、みんなが喜ぶ、そんな闘病の日々でいくつかの臓器の機能が低下し、先日亡くなりました。

No.152:叔母の葬儀 (2019年09月30日)

 「お墓を引き継ぐ人がいなければ、納骨はできません。更地にして返していただきます」といきなり言われました。叔母の葬儀をお寺さんに相談したときのことです。親も、兄弟も、子供もいない叔母は、このままでは、夫のいるお墓に入れないのです。お袋の妹で、享年96歳、小さいころから可愛がってもらった我々兄弟で、葬儀をして、姉がお墓を守ることとなりました。

No.148:長兄の病 (2019年05月31日)

 78歳になる長兄が肝臓癌で大きな手術を受けました。手術は成功し、癌を全て取り除き転移もないとのことでひと安心だったのですが、術後の経過が思わしくありません。もう、1年以上入院しています。手術後、誤嚥するようになり、嚥下機能改善手術を受けたり、転倒で頭を打ち開頭手術を受けたりしているのです。

No.113:実家の売却 (2016年06月30日)

 部屋に入るなりいきなり、「タヌキはどうしたの!!」と驚いたように姪が尋ねました。背丈70センチほどの信楽焼きのタヌキ、実家の玄関に26年間鎮座し、来訪者を歓迎していましたが、いなくなったのです。実家の売却が決まり、取り壊されることとなり、兄貴家族全員と我々夫婦が実家に集まったときのことです。

No.110:小学生時代の通信簿 (2016年03月31日)

 「幾分気が弱いのではないかと思われる。そのために栄養も良くない。つとめて健康に留意されたい。勉強の方はあまりあせらずにいてよいと思います」、小学1年1学期の通信簿通信欄での記述です。私は、虚弱体質で勉強のできない子でした。最近実家で見つかったこの通信簿を見ながらつくづく思うのは、よくぞここまで無事これたものだ、ということです。今は、健康に恵まれ、今のところお金に困ることもなく、生活を楽しんでおり、まあまあ幸せな日々と言えます。

No.036:母のこと (2010年01月31日)

 「沼津の学校に行くかい?」、母が尋ねたのはわたしが小学生のときです。電車の中でした。外の景色をドアのガラス越しに見つめながら「うん」と同意したのを覚えています。虚弱体質の子どもや知恵遅れの子どもを寄宿舎生活で鍛える沼津の学校と知っての返事でしたから、それ以前に母から説明を受けていたのでしょうが、このときのことしか覚えていません。子ども心にも、それだけ深刻な決意の瞬間だったのでしょう。

No.015:渋谷のお子様ランチ (2008年04月30日)

 渋谷駅がよく見える窓側の席でお子様ランチを喜んで食べていました。50年以上昔の渋谷食堂でのことです。わたしの弱視を診てもらうために母に連れられて行った病院からの帰りでした。

No.005:時間感覚 (2007年06月30日)

 「遅かったじゃないか」、5時からの食事会に5時少し前に現れた姉に叔母が文句を言ったそうです。叔母は4時前から会場で待っていたのです。叔母の姉である私の母も同様の時間感覚で、一緒に旅行するときに待合せ時刻の1時間ぐらい前から待っていたときもあります。周りが迷惑です。そんな母の不思議な時間感覚を理解するのは難しいのですが、歳とともに母の性格を引き継いでいる自分を発見しつつある私としては気になるところです。

No.004:両親のこと (2007年05月31日)

 「団塊格差」(三浦展著、文春新書)を読んで両親への感謝の気持ちが更に強くなりました。団塊世代の大学卒業者は22%だそうです。文部科学省「2006年学校基本調査報告」では、私が大学進学した1965年の高等教育機関(大学・短大・専門学校)への進学率は18%程度で、現在の76.2%(2006年)とは進学状況に大きな違いがあったのです。兄2人が大学に進学しており、それを当たり前のように考えていましたが、世間一般以上の両親の努力があったことをあらためて知りました。


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