家族

No.015:渋谷のお子様ランチ

 渋谷駅がよく見える窓側の席でお子様ランチを喜んで食べていました。50年以上昔の渋谷食堂でのことです。わたしの弱視を診てもらうために母に連れられて行った病院からの帰りでした。

 ケチャップライスでできた半球の小山、頂上には日の丸の旗、ふもとには千切りキャベツ、ナポリタン、から揚げ、ソーセージが豪華にならんでいたと記憶しています。日の丸がとくに嬉しい存在でした。数種類のおかずが盛り付けされ、飾りまである食事など、兄弟のだれも食べたことがないのです。夢のような、というのはおおげさですが、当時のわたしにとっては十分に非日常的な食事で、日の丸はその象徴でした。家に持ち帰って自慢したようで、「一人だけ、旗のついた食事をした」といまでも姉が言います。

お子様ランチ
写真右端の「TSUTAYA」のところに渋谷食堂がありました。左正面が道玄坂で、「109」のあたりから左にカーブしています。

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 そんな思い出のある食堂や病院の場所を、インターネット検索や渋谷区郷土博物館の資料でたどってみると、「渋谷の記憶 写真でみる今と昔」(2007年12月渋谷区教育委員会発行)に「渋谷食堂」の看板が左端に写っている昭和31年当時の写真がありました。昔の地図を郷土博物館で調べているときに、館員の方が教えてくれたのです。TVの天気予報などでよくみる渋谷駅前のスクランブル交差点に面したところでした。

 病院は坂の途中にありました。坂を下りたところに食堂があったので、スクランブル交差点から伸びる道玄坂がその坂だったようです。しかし、当時の地図をみても、道玄坂の古くからの商店で尋ねても、結局それらしい病院の手がかりは見つかりませんでした。道玄坂を歩きながら、この坂の傾斜や曲がりぐわいこそ子供のころに歩いたものだ、などと思いをめぐらせることであきらめたのです。

 少し疲れた足取りで道玄坂を下りるとき、渋谷食堂のあった場所を眺めながら母のことを考えました。わたしの視力の弱さをとても気にしていた母、一緒に出かけると、先にある電信柱広告の文字をわたしによく質問していました。それは視力検査のようで、大きな文字からしだいに小さな文字へと質問が移っていきます。いい眼科医がいるときけば、電車に乗り、坂を上り、診てもらう、でも進展はありませんでした。そんな子を思ってのお子様ランチだったのかもしれません。外食といえば、プロレスのTV中継を見るために近所のおそば屋さんでたぬきうどんを食べさせてもらうのがせいぜいでしたから、とにかく特別の外食だったのです。お子様ランチを喜んで食べているわたしを、母はどんな思いで見つめていたか、そして、そのとき母がなにを食べたのかなどを、坂を下りながら考えていました。

 渋谷食堂が安さをうりにした大衆食堂であることを、今回、インターネットではじめて知りました。子供ひと筋の母がわたしのためにできる精一杯のことが、ここでの食事だったにちがいなく、そんなことを子供心に感じていたからこそ、いまでも忘れられない思い出となっているのかもしれません。わたしにとってはどこよりも素晴らしいレストランであり、なによりも高級なお子様ランチでした。

の記事

No.176:兄弟仲 (2021年09月30日)

 「おにいちゃん、おにいちゃん、、、、」と叫びとも泣き声ともとれる悲痛な響きが、マンション廊下側の少し開いた窓から聞こえます。お隣玄関ドアのところからのようです。男2人兄弟、新学期初日で学校に行く小1の兄を、3歳下の弟が引き留めようとしている様子です。夏休みでずっと一緒だったおにいちゃんが出かけるので、寂しかったのでしょう。

No.158:長兄の死 (2020年03月31日)

 長兄が亡くなりました。79歳、平均寿命に届かない早すぎる死です。2年前の手術で肝臓癌を100%摘出し、「命拾いした」と喜んでいたのですが、術後も嚥下機能改善手術を受けるなどして入院が続き、1年前に病室で倒れて脳を損傷、自分の意思では身体を動かすことができなくなりました。手をわずかに動かせる程度です。見舞いの帰り際、長兄が手を振るしぐさをするだけで、みんなが喜ぶ、そんな闘病の日々でいくつかの臓器の機能が低下し、先日亡くなりました。

No.152:叔母の葬儀 (2019年09月30日)

 「お墓を引き継ぐ人がいなければ、納骨はできません。更地にして返していただきます」といきなり言われました。叔母の葬儀をお寺さんに相談したときのことです。親も、兄弟も、子供もいない叔母は、このままでは、夫のいるお墓に入れないのです。お袋の妹で、享年96歳、小さいころから可愛がってもらった我々兄弟で、葬儀をして、姉がお墓を守ることとなりました。

No.148:長兄の病 (2019年05月31日)

 78歳になる長兄が肝臓癌で大きな手術を受けました。手術は成功し、癌を全て取り除き転移もないとのことでひと安心だったのですが、術後の経過が思わしくありません。もう、1年以上入院しています。手術後、誤嚥するようになり、嚥下機能改善手術を受けたり、転倒で頭を打ち開頭手術を受けたりしているのです。

No.113:実家の売却 (2016年06月30日)

 部屋に入るなりいきなり、「タヌキはどうしたの!!」と驚いたように姪が尋ねました。背丈70センチほどの信楽焼きのタヌキ、実家の玄関に26年間鎮座し、来訪者を歓迎していましたが、いなくなったのです。実家の売却が決まり、取り壊されることとなり、兄貴家族全員と我々夫婦が実家に集まったときのことです。

No.110:小学生時代の通信簿 (2016年03月31日)

 「幾分気が弱いのではないかと思われる。そのために栄養も良くない。つとめて健康に留意されたい。勉強の方はあまりあせらずにいてよいと思います」、小学1年1学期の通信簿通信欄での記述です。私は、虚弱体質で勉強のできない子でした。最近実家で見つかったこの通信簿を見ながらつくづく思うのは、よくぞここまで無事これたものだ、ということです。今は、健康に恵まれ、今のところお金に困ることもなく、生活を楽しんでおり、まあまあ幸せな日々と言えます。

No.036:母のこと (2010年01月31日)

 「沼津の学校に行くかい?」、母が尋ねたのはわたしが小学生のときです。電車の中でした。外の景色をドアのガラス越しに見つめながら「うん」と同意したのを覚えています。虚弱体質の子どもや知恵遅れの子どもを寄宿舎生活で鍛える沼津の学校と知っての返事でしたから、それ以前に母から説明を受けていたのでしょうが、このときのことしか覚えていません。子ども心にも、それだけ深刻な決意の瞬間だったのでしょう。

No.035:実家に続く道 (2009年12月31日)

 実家間近にある線路沿いの細い道、毎週、電車から眺めています。ここを過ぎるとやがて下車駅、以前であればその駅から実家へとここを歩くのですが、いまは別の電車に乗り換えて母が入居している施設に向かいます。もうほとんど歩くことがなくなった、懐かしい、とさえなりつつある道、電車が減速し駅に入り始めるころには見えなくなるのですが、それでも目で追いかけているときもあります。さまざまな思いを抱きながら歩いた道です。

No.005:時間感覚 (2007年06月30日)

 「遅かったじゃないか」、5時からの食事会に5時少し前に現れた姉に叔母が文句を言ったそうです。叔母は4時前から会場で待っていたのです。叔母の姉である私の母も同様の時間感覚で、一緒に旅行するときに待合せ時刻の1時間ぐらい前から待っていたときもあります。周りが迷惑です。そんな母の不思議な時間感覚を理解するのは難しいのですが、歳とともに母の性格を引き継いでいる自分を発見しつつある私としては気になるところです。

No.004:両親のこと (2007年05月31日)

 「団塊格差」(三浦展著、文春新書)を読んで両親への感謝の気持ちが更に強くなりました。団塊世代の大学卒業者は22%だそうです。文部科学省「2006年学校基本調査報告」では、私が大学進学した1965年の高等教育機関(大学・短大・専門学校)への進学率は18%程度で、現在の76.2%(2006年)とは進学状況に大きな違いがあったのです。兄2人が大学に進学しており、それを当たり前のように考えていましたが、世間一般以上の両親の努力があったことをあらためて知りました。


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