1945年3月10日(土)の東京大空襲では、東京下町約40k平米に70万発もの焼夷弾が投下され、広島や長崎の原爆に匹敵する10万人以上(推定)の死者が出た。当時浅草に住んでいた叔母は、約17坪に1個という異常な高密度で落下してくる焼夷弾の “雨”の中で助かった1人だ。生死を分けるような未曾有の事態に陥ったとき、何がその人を救うのだろうか。運や偶然とともに、考え方や性格からくる行動の僅かな差が生死を分けてしまうこともある。叔母の体験談はそんなことを示唆している。
その夜、叔母は熟睡していた。東京町田にある私の父の実家から帰ったばかりで、しかも日中の空襲のために電車が止まり中野から浅草まで歩いて帰ってきたのだ。実家でもらった餅や大きな八つ頭などの食料が詰まったリュックを玄関に置くなり、そのまま寝込んだ。玄関をたたく音とともに「誰かいるのか?」という声で目がさめ、玄関にでると「たかちゃん、まだいたのか。早く逃げないと焼け死ぬぞ」と言われた。外に出ると玄関前の長屋に火がついている。「どこに逃げるんだい?」と訊くと「どこでも逃げろ」と見放されてしまう。避難場所に指定されている富士小学校の方向はすでに火の手が上がっており、というよりも炎の壁となっており、反対側の隅田川の方に向かった。父親の位牌を胸に、熱さを防ぐための布団を持って家をあとにした。
この東京大空襲は10日午前零時8分、深川に投下された焼夷弾から始まった。7分後にやっと空襲警報が発令され、その直後ぐらいから浅草への爆撃が始まっている。空襲警報によって天皇を深夜に起こし地下壕に避難させることへの躊躇があり、警報が遅れたのだ。このことが叔母には幸いした。空襲警報がもっと早かったら町内の人に起こされて、まだ爆撃されていない富士小学校に避難したに違いない。富士小学校に避難した人はほとんど死亡した。プールだけでも800人が死亡し、「(後日、)富士小学校のプールは(亡くなった人の服の)ボタンでいっぱいだった」そうだ。
熟睡していたことも幸いした。浅草爆撃直前に発令された空襲警報で避難していたら、まだ大きな火災にはなっていない富士小学校の方に逃げただろう。熟睡のために、「まだいたのか?」と言われるほど気が付くのが遅く、そのときはすでに富士小学校方面は燃えていたのだ。当時近所の長屋に住んでいた私の父に美味しいものを食べさせようと、食料を詰め込んだ重いリュックを担いで中野から浅草まで歩いたことが熟睡を誘い、その熟睡が彼女を助けた。余談だが、父の実家を出るときに、食料の上を杉の皮で覆い、杉の皮でいっぱいのリュックを運んでいるふりをして駅まで行くように言われ、重い荷物を軽くみせて歩くのに苦労したそうだ。食料統制下で周りに気を使う必要があったのだ。それでもまだ平和なひと時だった。そんな日の夜に炎の地獄にいきなり放り込まれることとなる。
位牌だけを持って逃げたことも幸いした。荷物を持っていたために亡くなった人も多い。隅田公園や言問橋の上では満員電車のように身動きの取れなくなった人々の荷物に火がつきほとんどの人が焼死した。橋の上は燃える人と荷物で、イルミネーションのように輝いていた、という目撃談がある。川の中で荷物を最後まで放さずに溺死した人もいる。筏の上から溺れている人を助けようと「荷物を捨てろ」と言ったが荷物を放さず、そのうち水の中に消えてしまった、との体験談もある。荷物は逃げる自由も奪ったはずで、荷物を持たなかったことが叔母を救った1つの要因となった。
叔母は隅田川沿いにある隅田公園まで逃げ、そこで夜明けを迎える。叔母の家からは、隅田川に流れ込む山谷堀に沿って500mぐらいのところだが、焼夷弾が落ち、強風が吹き、火災の熱に煽られ、「道は避難する人で溢れて縁日のようだった」という状況で、それは長い道のりだったに違いない。「(家を出てすぐの市電通りでは、)市電のレールが火花を散らし、丸まりながら動いていた」というほどの火と高熱の中での避難だったのだ。途中、隅田公園手前の高台にある聖天様周辺の木立下が安全そうだったのでそこに行こうとしたが、人混みによって公園の方に押し流されてしまう。その直後、ヒュルヒュルという音が後ろから聞こえ、振り向くと今さっき行こうとした場所に焼夷弾が落下し、青白い炎柱が立っていた。隅田公園沿いの道に出て、電話ボックスのところにいたグループに入り一緒にうずくまり、やがて夜明けを迎える。15人ぐらいだったグループは5人ほどに減っていた。
避難したかった聖天様高台下の木立の方に行けなかったことが幸いした。自己主張が強く「おれがおれが」の性格だったら、人を押しのけてでも木立に向かったかもしれない。その後、その高台にあった聖天様は激しく炎上しその柱や梁が炎の塊となって、強風に煽られ飛び散り、隅田公園に避難していた人々の上に降り注いだ。隅田公園の中には入らず、手前の電話ボックスのところに留まったのも幸いしている。隅田公園では身動きの取れなくなった人混みのなかで荷物に火がつき多くの人が焼け死んだ。避難するのが遅かった叔母は、すでに人で一杯だった公園には入れなかったのだろう。避難したところは比較的すいていて、誰かの荷物に火がついてもその荷物を捨てることができる空間的な余裕があった。夜明けを迎え、持って出た布団はすでになくなり、かぶっていた防空頭巾も焼け、髪もクリップ周辺を残して焼けてしまい、服には多くの焦げ跡が残ったが、火傷を負うことはなかった。
夜が明けてから叔母が見た光景は壮絶なものだ。火傷のために立ち上がろうとしても立ち上がれない人、火傷で皮膚がひらひらとして浴衣を着ているように見える人、焼け死んだ人は焦げたマネキンのようにいたるところに転がっていた。この日以前の日本本土空爆は軍事施設を主な目標としたもので、この日が民間人を目標とした最初の空爆だった。荒川と隅田川に挟まれた人口密集地帯が最初に狙われたのだ。武器は、破壊を目的とした爆弾から火災を目的とした焼夷弾に変わった。それまでとは違う大量の焼夷弾による激しい空爆のなかで、どうしたらよいか見当もつかず多くの人が死んでいった。その後の4月13日夜、15日夜の赤坂、渋谷、日本橋、品川などへの東京空襲でも、3月10日の東京大空襲の27万戸焼失に匹敵する22万戸焼失という被害を受けたが、死者は9,766人と、3月10日の10万人の1割弱となっている。3月10日以前にこのような大量の焼夷弾による空爆が想定できていたら3月10日の9割の人は死なずにすんだかもしれなかったのだ。その当時の日本はそのような米国の力を予想すらできなかったのだろうか。
叔母は私の父の安否を確認しようと、父が勤めていた消防署へ向かった。途中、消防自動車が丸焦げになり、その周辺に消防士らしき人が亡くなっているのを見て、私の父はダメだったのではないかと考えながら消防署を訪ねると「総長は田中町へ視察に行きました」と聞かされ父の無事を知る。その後しばらくしてから私の父の実家で暮すようになった叔母は、「見るものが時々燃えて見える」状態が続いたが1年余りで元の元気を取り戻した。当時23歳だった叔母も今では82歳となり、東京郊外で元気に暮らしている。優しいなかにも芯の通った叔母だ。3月10日を生き抜いた人なのだから当然だろう。
東京大空襲(碑)
平和地蔵尊
碑文
第二次世界大戦はその規模においてもその被害においてもまことに甚大であった。ことに昭和20年3月10日の大空襲には、この付近の横死者の屍が累として山をなし、その血潮は川となって流れた。その惨状はこの世の姿ではない。これらの戦争犠牲者の霊を慰めることこそ世界平和建設の基となるものである。ここに平和地蔵尊を祭り、その悲願を祈るため昭和24年4月ここに安置された次第である
大平和塔
建設趣意書
思い出づる調べも哀し昭和20年3月9日の夜、B29百五十機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と、秒速30米をこす烈風にあふられ、親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば・・・・・・眼にうつるものは一面の焦土にて一木一草の生づるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく英英に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。以って瞑せられよ。
東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
碑文
隅田公園のこの一帯は、
昭和20年3月10日の東京大空襲により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後荼毘に付され東京慰霊堂(隅田区)に納骨された。戦後四十年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調整するとともに、この地に碑を建立した。
碑の横に置いてあるのが「言問橋の縁石(橋の左右端にあったふち石)」
説明文
ここに置かれているコンクリート塊は1992年言問橋の欄干を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲になりました。この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。