井戸掘り
我家の前にある広場の端に、高さ3mぐらいの円錐状のものが数本の丸太で組み立てられた。それから何人かの男女が毎日集ってきて「おとちゃんのためなら、えーんやこーら。おかちゃんのためなら、えーんやこーら」とやり始めた。井戸を掘っているのだ。円錐状の中央にある重しが、滑車を通した綱で引き上げられて落され、その衝撃で井戸のパイプが地中にめり込んでいく、そんな仕組みだったはずだ。重しを上げるためにみんながで綱を引っぱるときにこの掛声をかける。力強い大人の姿、重しの落ちるドスンという音が印象に残っている。
数日で井戸が完成した。手漕ぎ式の井戸で、野球にはじゃまだったが、冷たい水が飲めるのが嬉しかった。我家の目の前にあるため、我家が一番使っていたようだ。たらいを持ちこんでスイカなどを冷していた。消防住宅の最近の写真をおふくろに見せたら「井戸はどこだい?」と真先に尋ねた。我家の必需品だったのだろう。
交通事故
我家の前にある広場の向こう側はバス通りで、左方向への下り坂となっており、広場の左側を通る別の道と坂下で交差している。ある日その交差点を見下ろす広場の端に人が集まった。バス通り十字路での交通事故だった。
自転車が転がり、十字路の中央で人が四つん這いになっている。映画フィルムの大きい缶が2、3個ころがっており、どうやら映画館から映画館にフィルムを運ぶ運び屋さんらしい。その四つん這いの人が立ちあがろうとしたのをみて、誰かが「フィルムを届けないと映画館で映画上映ができないんだ」と言っている。四つん這いのまま、うなだれた額から流れ出た血が道路に拡がり始めているのが見え、おれは力が抜けてそのまま家に帰ってしまった。足が震えていたかも知れない。
血を見ることの怖さをそれまで知らなかった。それ以降できるだけ血を見ないようにしている。社会人になってから、駅で電車を待っていて飛込み自殺に出会ったことがある。そのときは、人間とはいえないものを一瞬見ただけですぐに現場を立ち去った。身近で血を見ずに済んだ幸せな人生だったのかもしれない。
日真名氏飛びだす
我家は消防住宅と呼ばれる敷地内にあり、9,000平米程度の敷地にはたくさんの家が建っていた。低い土地とつながっている南側は3mぐらいの崖で、崖下には崖に沿った道が通っている。その道に面したこんにゃく屋さんで週1回「日真名氏飛びだす」(1955-1962)というサスペンスTV番組を見せてもらっていた。
電信柱を伝って崖をおり、番組開始時間までにTVの前に座りこんで準備完了、カメラマンがフラッシュをたく、タイトルがでる、夢中でくいいるように画面をみる。2週連続の30分番組で、画面に「つづき」がでると「あー、もう終っちゃった」とがっかりしたものだ。おふくろに訊いたら、ここのおやじさんが元消防庁勤務だったのでTVをみせてくれたそうだ。
見晴らし
消防住宅の南側は3m程度低い土地が広がっていて、家々の屋根が良く見えた。火事などがあれば立上る黒い煙がよく見える。屋根に上がれば見晴らしはもっとよくなる。
我家は背中合わせで裏の家とくっついており、裏の家との間にある塀を伝わって簡単に屋根に上がれる。屋根はちょっとした遊び場だった。裏の家のお兄さんに写生を教えてもらったのも屋根の上だった。煙突に書いてある銭湯名をはっきり書かずにぼかして文字らしく四角ぽく描くことや、煙突の半分を影にして丸みを表すことなどを教えてもらった。今の消防住宅にその面影はない。消防住宅自体が4階建のアパート群となり、周囲の住宅も平屋などはほとんどない。よく見えるのは背の高い都庁だけだ。
中学校
中学校への通学には1時間15分ぐらいかかった。近所にある高校の300mはある長い塀に沿ってバス停まで歩く。家からバス停までは600mぐらいで姉が毎日付添った、と姉は言うが記憶にない。バスから電車に乗り換え下車駅から約1km歩くと学校だ。毎日往復で3.2kmは歩いていた。小学生の頃はちょっとしたことで骨折していたが、中学生になってからは骨折しなくなった。この通学が体を丈夫にしてくれたのかも知れない。
中学では夏休みの宿題もなく、工業高校付属中学だったので高校受験のプレッシャーもなく、カトリックの外国人神父さんたちの方針で個性を重んじる教育を受け、宗教も学んだ。小学校ではふるわなかった成績も、中学入学と同時に上位となり、強い自信と精神的な安定を与えてくれた。そういったことも丈夫になった一因だろう。