第二の人生の達人は第一の人生の達人でもありました。49歳の隠居後に天文・歴学を学び始め、55歳から14年間、日本全国を歩いて精度の高い日本地図を完成させ、当時の平均寿命が40-50歳といわれるなかで73歳の長寿をまっとうした、第二の人生の達人、伊能忠敬のことです。
伊能家に婿入りしたかれは、家業の酒造業を中心に事業を盛んにし、名主・村方後見などを務めた第一の人生の達人でもありました。隠居後に学び始めた天文・歴学では、観測機器の製作や書籍の購入に多額の私財を投入し、さらに蝦夷への測量の旅には、現在のお金にして3,000万円ほどの自費負担をしています。第一の人生の成功ぶりがうかがえます。
わたしの第一の人生は「まずまず」だと勝手に考えていますから、うまくすれば第二の人生も「まずまず」まではいけるのでしょう。そうなるために忠敬から学ぶべきことは大いにありそうです。
天文・歴学を学び始めた忠敬は、隠居宅に天文観測施設を設置し、歴作りに必要な太陽や恒星の動きを観測していました。日が暮れてくると自分の荷物も置き忘れて浅草天文台を飛び出すように隠居宅に帰ってしまったり、隠居宅では寝る間も惜しんで観測に励んだりしていたといいます。隠居後、夢中になれるものが見つかったのです。
正確な歴作りのために地球の大きさを測ろうとした蝦夷への測量の旅は、その地図が高く評価されたことで、かれの大きな転機となりました。細部にわたって実測にこだわったかれの地図は、精度よりも地名や地形を重視したそれまでのあいまいな地図とは違う、科学的で次世代を予見させる新たな地図と評価されたようです。そこには科学者的な精度へのこだわりがありました。強いこだわりと粘り強い実践力がかれに転機をもたらしたのです。
この蝦夷海岸地図がきっかけとなり、全国海岸地図の作成へと進んでいきます。全国測量中、天文学の第一人者でかれの師である高橋至時(よしとき)から「いま天下の学者は、あなたの地図が完成するときを日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の歴学の盛衰にかかっています」と手紙で励まされています。熱中できるものとの出会い、そこに導いてくれる師との出会い、その価値を認めてくれる人々との出会い、そしてそういった出会いをものにしていくこだわりと実践力がかれを第二の人生の達人にした大きな要因でありエッセンスのような気がします。
熱中できるものを、その価値を共有できる人々を、大切にしていくことが第二の人生を成功に、わたしの場合は「まずまず」にしていくコツなのかもしれません。そして、こだわりと実践力を持つこと、そこに他の人とは違う個性や存在価値が生まれてくる、忠敬からそんなことを学びとることができるようです。