「遅かったじゃないか」、5時からの食事会に5時少し前に現れた姉に叔母が文句を言ったそうです。
叔母は4時前から会場で待っていたのです。
叔母の姉である私の母も同様の時間感覚で、一緒に旅行するときに待合せ時刻の1時間ぐらい前から待っていたときもあります。周りが迷惑です。そんな母の不思議な時間感覚を理解するのは難しいのですが、歳とともに母の性格を引き継いでいる自分を発見しつつある私としては気になるところです。
日本人の時間厳守の気質、母のそれは度を越してはいますが、それは必要性から生れてきているのでしょう。世界に類を見ない日本の鉄道の定時運転のルーツは江戸時代にある、と「定刻発車」(交通新聞社)の著者清瀬六朗氏は推定しているようですが、そうなると時間厳守気質のルーツも江戸時代にありそうです。江戸時代以前の時刻の共通認識は天体観測による不確実なものでした。江戸時代になってから時の鐘などの時報システムによりかなり正確な時刻の共通認識が可能となったのです。特に江戸では全国で唯一複数の時の鐘が設置され、江戸府内全域に24時間時刻を告げていました。当時世界でも有数な大都市となった江戸ではそういったシステムを必要としていたのです。それは人々の生活や仕事を効率よく進めるために必要で、少ない資源でより多くの人々が暮らしていくための知恵だったのではないでしょうか。より正確な時刻の共通認識が必要だったということは遅刻や時間厳守といった概念も江戸時代に確立したと考えられます。
若くして父親を亡くし一家の稼ぎ手となった母は、稼ぎを少しでも増やすために常に効率を追っていたようです。自宅での鼻緒のミシン縫いで稼いでいた母は、お棚(元締め)が用意する翌日の鼻緒の布地を夜叔母に偵察に行かせ、その報告で翌日もらってくる布地を叔母に指示し、翌朝叔母がもらって帰ってくるとすでに布地に合った色の糸をミシンに通して待っていたそうです。母の段取りのよさ、効率のよさは小さい頃から見ています。食事のときの手際のよさはかなりのものです。そんな母の効率の追求が少し度を越した時間厳守を生んだのに違いありません。全国に先駆けて時報システムが充実した江戸、その中心ともいえる浅草で育った母であればなおさら納得できそうです。
定年後、それまであった多くの枠組みがはずれ、本来の自分が現れてきているように感じています。それは多くの部分で母の性格と重なるのです。今後ますます母に似てくるような気がしています。そんなこれからの自分を理解するためにも母の時間感覚の不思議を考えてみました。母親譲りの身勝手な解釈かもしれませんが、自分で勝手に納得しています。