川崎の自宅から京都まで、11日間連続で歩いて合計510km、1日平均46kmの旅が終わりました。1日の最高は56.6km、宿の確保ができずに先にあるホテルまで15kmほど予定外で歩いたときです。最低は36.5km、雨が降ったりやんだりで、雨宿りしながらの歩きとなった日です。江戸時代であれば14日前後の旅、今回11日ですから、江戸時代の人を追い越した、といったところでしょうか。
江戸時代にはなかった「電気」が現代の最大の強みのような気がします。ほとんどの道で夜でも歩けるので、宿がないとか雨とかいった予定外の事態でも夜の歩きで対応できます。雨雲の動向予測で効率よく歩けるし、GPS機器で間違いのない最短の道を進める、ホテルの検索や予約、ホテルのコインランドリーでの洗濯、などあらゆるところで「電気」に助けられています。
こういった高い効率や便利さの代償でしょうか、人との関わりはほとんどありません。その必要がないのです。江戸時代であれば、地元の人に道を尋ねたり、水をもらったり、その土地の情報を得たり、旅の情報を与えたり、といったことで、そこに人と人の交流があったにちがいないのです。ホテルでも、食堂でも、コンビニでも、お互い無機的な関わりだけで、気持ちが通うような交わりはありません。静岡県袋井のレストランで食事を終えて出ようとしたとき、「ペットボトルにお茶でも入れましょうか?」とわざわざ声をかけてくれました。こんなこと初めてです。思わず嬉しさがこみ上げたのを覚えています。それが印象に残るほど、人との関わりが少ないのです。
安全性にも課題ありです。静岡県の島田市内を歩いているときに後ろからきた自転車に引っ掛けられて転びました。大きな道路の、広い歩道を歩いていたときです。男子高校生は通学電車の時間に間に合わせようと急いでいました。瞬間の出来事で、気がつくと倒れていて何が起きたのかすぐには理解できません。顔を怪我して血がでていたので、病院で手当てを受け、歩きを再開しました。歩道のないところはもちろん、歩道であっても気を緩めることができません。交通事故は現代の大きなリスク、車の排気ガスの健康リスクとともに、江戸時代にはなかったことです。
江戸時代は京都まで歩いたんだ、すごいなぁ、できるのだろうか、と考えていました。今回歩いてみると、歩きが少々辛かったのは4日目のみ、その他の日々は疲れはするものの、翌朝にはとれてまた元気に歩ける、京都に着いたときも、まだまだ歩ける、といった感じでした。平均で毎日15kmは歩いていたという江戸時代の人にとって、歩き旅はごく日常的なことで、特別なことではなかったのでしょう。もちろん、旅先での健康や治安への不安、出会う風景や人への期待などは非日常的で特別なものだったのでしょうが。江戸時代を実感できた旅でした。(大江戸ウォーキングに写真を掲載しましたのでご覧ください。)