東大阪市にある司馬遼太郎記念館を見学しました。司馬遼太郎氏の小説をさかんに読んだのは入社したてのころです。そのころは時間があり、早い帰宅の途中で本を買っては家で読んでいました。
入社した1971年の私の「1ヵ月生活プラン」には、スローガン「良き書に親しむ」、本代月3,000円とあります。大卒初任給統計データ1971年43,000円と2004年198,300円(「経済統計は語る」)の4.6倍を考えると、いまでいえば本代月13,800円相当となります。このプランに対する実績記録はありませんが、かなりの本を買って読んでいたことは確かで、そのうち最も多かったのが司馬氏の歴史小説でした。
その「1ヵ月プラン」には、「(手取り約5万円+残業代)最低必要経費4万円、残り(10,000円以上)は半分貯金、半分がこずかい、ただしこずかいは1万円を超えない。1万円以上になったら残りは貯金」とあります。こずかいは友人たちとの飲み代や行楽代です。本代は別勘定で必要経費内なのですが、これがこずかい(5,000円以上)と勝負できる額であることからも、つつましい暮らしの中で、読書が大切な娯楽だったことがわかります。司馬遼太郎氏の、まだ読んでいない本や連続ものの本を買って帰るときのわくわく感は格別のものでした。
記念館は司馬氏宅の庭に建てられており、庭からは、ご自宅にある書斎を窓越しに見ることができます。その書斎の書棚には、未完に終わった『街道をゆく 濃尾参州記』で参考となるべき資料がそのままの状態で保存されています。3面の壁を覆う書棚いっぱいの資料、多くの資料を参考にして執筆する、それが氏の執筆スタイルであることがわかります。
氏の蔵書は6万冊だそうで、そのうちの2万冊が、記念館の高さ11メートルの書棚いっぱいに展示されています。これらの蔵書が、小説に視野の広さと深みをもたらし、質の高い楽しさを与えてくれた大きな要因だったのでしょう。氏の小説を読んだ後に他の著者の時代小説などを読むと、とても薄っぺらく、物足りなさを感じたりしたものです。
司馬氏が「街道をゆく 台湾紀行」(1993-94年『週刊朝日』)を書くときに、台湾での案内役となり、すっかり親しくなった司馬氏から「老台北」と呼ばれた蔡焜燦(サイ・コンサン)さんが「台湾人と日本精神」(1990年日本教文社刊)という本を書いています。そのなかで、司馬氏が「小生は七十になって、自分は『街道をゆく』の『台湾紀行』を書くために生まれてきたのかな、と思ったりしています」と何度か語っていた、と書き記しています。このことを最近知り、台湾への興味を持つようになったこともあって、以前から考えていた記念館訪問を決めました。
『台湾紀行』で司馬氏は、「帰途、日本にはもう居ないかもしれない戦前風の日本人に邂逅(かいこう:思いがけなく出あうこと)し、しかも再び会えないかもしれないという思いが、胸に満ちた。このさびしさの始末に、しばらくこまった」という記述があります。台湾取材を終えて、台湾人・蔡さんという元日本兵と別れたあとの感想でしょう。最後の台湾からの帰国は1994年4月2日でした。このときすでに通院していた司馬氏は、その約2年後の1996年2月12日に亡くなります。72歳でした。
戦前、戦中、戦後を体験し、日本とは、国家とは、日本人とは、いったい何なのかを追い求めた司馬氏、膨大な資料をさぐり、多くの土地を訪ね、数え切れない人と会い、思いを綴り続けた生涯で、若いころにもっていた価値観を共有できる同胞ともいえる人々と台湾で出会い、書かずにはいられない気持ちで書いたのが「台湾紀行」だったのでしょう。
ちょうど、同期入社仲間との年1回の宴が京都で開催されるタイミングでした。ちなみに昨年7人だったこの宴参加者は、今年は8人となりました。まだまだ続けていけそうです。若いころの価値観を共有している仲間との宴は楽しく、これに似た楽しさや心地良さを司馬氏も味わい、それが「台湾紀行」を書く原動力となったのではないか、そんなことをふと考えたりしていました。