定年後、財布の厚みが倍以上になりました。原因は電車の回数券で、残念ながら、お金ではありません。毎週決まっている出かけ先は、母が入院している病院と会社で、それぞれ2電鉄づつ計4電鉄を利用しています。昼間だけ使える時差回数券や休日だけ使える土休回数券などを使い分けて運賃の10%-40%を節約しているので、全部で8種類となり、最大で94枚の回数券が財布に入ることになります。
便利だけど割引のないスイカは「もったいない」ので使いません。種類が多いので、休日なのに平日の回数券で入ってしまうこともあり、そんなときは駅員さんに誤入挟印を押してもらい後日使います。健康のためのウォーキングも「もったいない」生活に貢献しています。通勤時は11km歩いて2電鉄乗るところを1電鉄で済ませているし、新宿と秋葉原に用事があった先日は新宿から秋葉原までを歩きました。本は図書館で借りて読みますし、古いパソコンも工夫しながら使っています。暇人だからこそできるのですが、結構楽しく、充実感すらあるのです。私の中にある「もったいない」精神が生きいきと活動しているからでしょうか。
「もったいない」という言葉は環境保護の視点から見直されています。資源の無駄使いをしないリデュース、修理して使い切るリペア、人が使ったものをまた使うリユース、再生して使うリサイクル、といったエコの概念を一語で表すこのような言葉は他言語には見当たらないそうです。この「もったいない」の模範生は江戸時代の人々でしょう。日の出とともに活動し、日の入とともに休んで油などの照明用資源の消費を抑え、炬燵(こたつ)、算盤(そろばん)、下駄、鍋、瀬戸物といった日用品ごとの専門修理業が成り立つほど修理が盛んで、中古も多く流通し、古着販売などは業者も多く、主要産業ともいえる繁盛ぶりだったし、人の排泄物のほぼ100%が有機肥料として再生利用されていたのです。これらのことは石川英輔(いしかわ えいすけ)氏著による「大江戸リサイクル事情(1994年講談社刊)」で詳しく紹介されています。
使える資源が少なかった江戸時代ではこういった「もったいない」は当然だったのでしょう。それに対して、一人当たりのエネルギー消費が江戸時代の100倍と言われ、資源を湯水のごとく使い、捨てている現代では、電灯をつけて夜活動したり、壊れたら捨てて新品を買ったり、他人の古着を嫌がったり、化学肥料を利用したりすることが、当然のこととなっています。江戸時代には考えられないような、高い生産性と利便性を追い求めた結果なのでしょうが、あまりにも違う「当然」です。経済成長が、250年以上にわたってほとんどゼロだった江戸時代と常に成長し続ける現代、それは、成長なしでも成り立った江戸時代と成長なしでは成り立たない現代でもあり、ゆっくりとした江戸時代にこそ、常に何かに追われる現代にはない心の豊かさがあったのではないでしょうか。個人的なゼロ成長となる定年後、江戸時代の暮らしはできませんが、その心は見直してもいいでしょう。「もったいない」もその一つです。独断と偏見の私なりの「もったいない」生活ですが、これからも楽しくまい進して行こうと考えています。