「犬のようちえん」を見学しました。そこは、そのネーミングから想像する可愛くて楽しいイメージとは異なり、 ときには緊張すら感じられる犬のしつけの現場でした。 トイレのしつけでは、トイレの場所を教えるためにその気配があるたびに何回でもトイレの場所に連れて行きます。 犬同士の遊びでは、常に犬の表情を見ながら喧嘩とならないように介入しなくてはなりません。 トレーナーの方々に笑顔はあまりないのです。トレーニングの場である以上は当然なのかもしれません。 笑顔で愛犬と接する楽しい時間が持てる飼い主の幸せを改めて感じました。
お話を伺ったのはトレーナー暦5年の北澤雪乃さんで、とても慣れた様子で犬たちと接していました。 犬とのコミュニケーションには目を使うようで、犬たちはトレーナーの目を一生懸命に追いながら指令にけなげに従っています。 そういった姿は一見哀れにも見えるのですが、犬の世界ではそれが心の安定と幸せを得る行動となっているのでしょう。 トレーナーと犬との一体感がそこにあることからもそう思います。 そんな犬の世界観を理解し一体感を飼い主も持たないとトレーニングの意味はありません。 どうやら飼い主も笑顔だけで犬と接するわけにはいかないようです。
しつけの大変さと飼い主の責任といったものを感じた見学となったのですが、 原稿を送付した後に、料金が高くてここへの入園を諦めた、というブログを見つけました。 確かにあれだけのスタッフがいたら料金も高いだろうと思います。 そこで料金について調べてみるとカーネ保育園( http://tripletta.com/hoikuen01.html )というところが半分の料金(3ヶ月間週2回通園で約11万円)でした。 1日のプログラムを比較しても大差ありません。この料金差がなぜでるのかを機会があれば探ってみたいと思っています。
「愛犬と同伴の温泉旅館」という雑誌の記事タイトルを見ながら、温泉ネタもコラムにいいかも、 と考えモモに体験してもらうことにしました。前回のセルフシャンプーといい、にわかに忙しくなったモモです。 温泉ネタといっても、贅沢な温泉旅館ではなく、お台場の「綱吉の湯」といった近場の天然温泉でもなく、 最寄のトリミングサロンでの入浴剤による温泉浴サービスです。 普段の質素な生活ぶりからも、このあたりが我家には分相応ということになります。
実際に行ってみても「温泉浴だけならこれで十分」という感じでした。 まあ、温泉旅館に行くような人は温泉浴だけが目的ではないでしょうから、十分とはいえないでしょうが。 入浴剤といっても別府温泉の温泉ガスから生成される天然入浴剤だし、モモ専用の使い捨て温泉なので安心というメリットがあります。 湯船が小さいのも、人間のように広いローマ風呂で手足を伸ばすわけでもなく、じっとしているモモには十分でしょう。 それに大変なのは温泉浴前のシャンプーや温泉浴後の乾燥で、その点トリミングサロンの方が便利です。
このトリミングサロンはとても繁盛していて、次から次へと犬がやってきて、4人のトリマーの方はフル稼働なのですが、 この日、温泉浴サービスを受けた犬はモモ以外には1匹のパピヨンだけでした。 その犬はお腹にできた湿疹が温泉浴で治ってからはトリミングのたびにこのサービスを受けているそうです。 温泉浴、泥パック、アロマテラピー、マッサージといった癒し系サービスは、 犬本人ではなく飼い主がそのメリットを見出さない限り受けることはありません。 ですから、人間の場合のように、健康な人が健康増進や楽しみのために受けるというよりも、 問題を抱えた犬が半ば治療のように受けることが多いのではないでしょうか。 そう考えると、サービスを受けずに済む犬の方が幸せなのかもしれません。モモの温泉浴もこれが最初で最後になるでしょう。 そういうモモは幸せな犬に違いない、と勝手に思っています。
愛犬モモの我家でのシャンプーが重労働なので、 安くてよい方法はないかと探し出したのが犬の全自動洗浄乾燥機とトリミングサロンでのセルフシャンプーでした。 全自動洗浄乾燥機は見学までさせていただいたのですが、臆病なモモには使えそうもなく、 セルフシャンプーは実体験してみて我家でのシャンプーよりも大変なことが分かり、 結局、我家での重労働シャンプーはこれからも続くという結論になりました。
全自動洗浄乾燥機はガラス戸から中が見える洗浄乾燥室に犬を入れ、上下左右後ろから洗剤入り温水を噴射して犬を洗い、 温風で犬を乾かすスペイン製の機械です。見学した設置店の30歳代の若いオーナーはこの機械の輸入販売も手がけており、 自信に満ちたはきはきとした話しっぷりでいくつかの質問に答えてくれました。 臆病なモモには無理かな、と思いつつ試しに洗浄乾燥室に押し込んでみると、やはり小刻みに震えガラス戸を背にして座り込んでいます。 可哀相なのですぐに出してやりました。これではコラムに書けません。 その後も続くオーナーの熱心な説明を、申し訳ないという気持ちで聞くこととなり、とても気疲れしました。
トリミングサロンでのセルフシャンプーの大変さは立ちっぱなしの作業だったことです。 慣れた若いトリマーの方々にとっては何でもないことでも、日頃そんな作業のない私には大きな負担でした。 それに、トリマーの方の視線を感じるとあまりいい加減な作業はできません。 家ではいい加減にやっていたシャンプー前の毛玉取りブラッシングやシャンプー後のスリッカー(ピンブラシの一種)でのブロー乾燥を、 隅々の毛まできっちりやるのは大変でした。根気と体力のいる作業で、トリマーの方々の苦労を実感しました。
全自動洗浄乾燥機見学とセルフシャンプー体験は同じ日だったのでとても疲れる1日となりました。 見学での気疲れ、シャンプーでの立ち疲れ、駅との往復での歩き疲れなどが重なり、 モモを連れての駅までの帰り道では足がもつれ気味になるほどでした。 私の場合は行動しないと執筆できない、行動するためには体力が必要で、結局体力無しには執筆もできないということになります。 必要なのは知力よりも体力です。
文章がすんなり頭に入ってこない、何が飛び出してくるのか予測がつかず、まるで混ぜご飯を食べているようだ。 というのが会社の同僚の感想だった。何の前触れもなく、しかもまるで前述の人名のように新しい人名が出てくる。 1つの段落に1つの主題、という原則も崩れている。
最初の文章は、犬と暮した女の子が成長して、世間でも認められるアーティストとなったこと、子供のころの犬との思い出、 現在の作品に犬が描かれていることなどが関連付けすることなく並べただけになっていて、段落間でのつながりがない混ぜご飯状態となっている。また、 「タローは昨年暮れ、タローを選んだおばあちゃんのお葬式のその日に18年間の生涯を閉じました。」と、 それまで一言も触れていなかったおばあちゃんがいきなり出てくる。印象に残った話なので無理やり入れたのだが、このため段落内でも混ぜご飯状態となった。
まずテーマを「犬が感受性豊かな子供を育てる」に絞った。並べた各事象とこのテーマとの関連を考察し、 テーマに関連した事象を補強していく。テーマと関連付けできない事象は捨てる。そして残った事象をつないで1つの文章として仕上げる。 それは料理のようでもある。テーマ選択が最も大切で、お寿司にするのかステーキにするのかといった選択となる。取材事象は食材で、 執筆がその調理ということになる。どれが欠けても読者には喜んでもらえない。
山田ズーニー氏の
「おとなの小論文教室。-Lesson110 汚しのある表現-」
にも、取材後に悩む氏の友人からのメールが紹介されている。私のレベルはこのような高度なものではないが、共感できるメール内容だ。
*****「Lesson 139」からの抜粋*****
取材から帰ってくると私は毎回、書けなくなります。
取材前は自分なりの仮説があって、原稿の構成もだいたい決まっている。
でも取材に出ると、仮説からそれた情報(魅力的な!)をわんさともらってしまって、より書けなくなる。
書くために取材に行くのに、取材に行くと書けなくなる。
そしてそこからが一番苦しい勝負です。
この情報(事実)の中から何と何を選んで、何を捨てて、どんな物語を引き出すのか。
冷蔵庫の中を見てこの材料で何をつくろうか?
というのと似ています。
こう組み合わせると3品できるけど、どれもメインにはならない。
これを組み合わせるとメインになるけどあまりに平凡だとか。
そして何とか献立が決まるのですが、他にもありえた献立を思って、いつもさみしくなります。
レストランの食事ではあるけど栄養バランスのよい家庭の食卓ではない、美しすぎてホンモノじゃない感じなのです。
まぁ、新聞が雑多な情報だと読者が忙しいですけど・・。
整理しつくすと、途端に自分にとってもう魅力的でなくなってたりもしますし。
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相変わらず書き手の顔が見えない文章を書いている。そこで、 最初の段落に自分の考え方をできるだけ入れることにした。 でも「老犬介護」って何だ、とあらためて自分の考えを整理してみると、 悲しいとか辛いとかのネガティブなことしか頭に浮かばない。
ポジティブなことは、せいぜい「飼い主なしには食事もできない犬を世話する『やりがい』のようなものがある」といった説明の長い、 しかもあいまいなものだ。何回か自分の考えを整理していく中で「生きることの大切さ、について教えてくれる」ということにたどり着き、 そこを考え方の基本において最初の段落を書いた。いつも厳しい会社の同僚から「まあまあ」との評価をもらう。
老犬介護に関するブログやホームページを読んで「かなり辛いのだろう」と想像していたが、 実際に話を聞くと「辛い日々」の印象は薄く、「緊張の日々」の印象だった。 後から考えるともっともなのだが、その時は意外に感じた。 事前調査は重要だが、インタビューでは白紙の心で臨むことが重要だと改めて思う。 小松成美氏の「インタビュー前は『世界で一番この人のことを知っているインタビューアーでありたい』とありとあらゆる資料を読み、 インタビューではこれらの資料によってフィルターがかからないように白紙の心で『世界で一番この人のことを知りたい』と臨む」(2005年11月18日の講座)の言葉を思い出す。
書き手の立ち位置の分からない文章は、冷たく無機質で得体の知れない不安を読み手に与える。 最初の文章を会社の同僚に読んでもらったときの感想が「書き手の顔が見えない、感情のない内容」とさんざんな評価だった。
どんな人がどんな想いで書いたのかが見えるようにしないと読んではもらえない。 見た事実を淡々と書いた最初の文章から、見た人たちの心の中を自分なりに考察した内容の文章に書き換えた。 それは書き手の理解なので、書き手の考え方が当然入ってきて、書き手の立ち位置がある程度見える。
品田英雄氏の「自分の立ち位置によって(文章の)商品価値が上る」(2006年2月24日の講座)、 佐野眞一氏「(取材で)最も大切なことは『聞き手の立ち位置』」(2005年12月3日の講座)という言葉と共に、 山田ズーニー氏の 「おとなの小論文教室。-Lesson 299 立脚点-」 にある、書き手の顔が見えることの大切さを実感する。
*****「立脚点」からの抜粋*****
彼女が、どこからきて、なぜ、どんな問題意識を持ち、どんな立場でこの作品を撮るのかが、それ以上でも、以下でもなく、見る人に、よくわかる。
「立脚点」。
作品の最後まで、この、彼女の立ち位置は、ブレることはなかった。
私は、このことに打たれた。
**(中略)**
ともだち(彼女)は、素人として、過酷な挑戦を志したときの、自分の立脚点を、見失わず、
よく忍耐してキープして、常にそこから、観客に対してものを言っていた。
だから、彼女の表現は、素直に受け入れられたのだ。
ともだちが、自作に、はっきりと顔を出したことには、どんな自分がこの作品をとるのか、彼女自身ちゃんと知っていて、
引き受けていて、そこから逃げも隠れもしない、覚悟の表れだと、わたしにはうつった。
自分が立っているところがわかれば、新人でも、情報発信はできるし、伝わるんだということ。
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最初に書いた文章は、ドッグランを愛犬家のコミュニティの場と位置づけ、そのコミュニティへの参加を勧める内容だった。 会社の同僚からは「不快だ」、妻からも「最低」といった評価を受ける。 そんなコミュニティ経験もないのに、「あれいいんじゃない」などと書いても読むほうは不快になるだけということだ。
そこで、私の初めてのドッグラン経験から感じたことを書いた。良いことばかりだった最初の内容から、良くないことも含めて分かったこと、 感じたことを素直に書き、何回か書き直して会社の同僚に見せると、ある程度の及第点をもらうことができた。
轡田隆史氏の「文章は体験だ」(2006年2月4日の講座) 、奈良原敦子氏の「自分自身の経験をディテールとして盛り込むことが説得力を増すポイント」(2006年2月18日の講座) は、体験の大切さと同時に、体験を通して何を考えたかの大切さを言っている、と思った。
読み手に伝わらないどころか読む気にもならない文章、それが最初の文章だった。 身内の話なので思いつくままをだらだらと書き連ね、自分にとって分かりきったことは省き、嘘すらついている。 このときも何回も書き直し、しだいにまとめていった。 最初にやったのは「嘘をつかない」こと。格好をつけたり、面倒な説明を省くために嘘をつく、それをやめた。 次に、自分だけが分かっていて省いたことを丁寧に文章にして、事情の分からない人でも理解できる文章にすること、 そして、思いつくままに書いた文章のほとんどを捨てて、話題を1つのテーマに絞り込んだ。
テーマは「我家の愛犬モモが叔母を元気付ける」で、1回目の文章には「モモを相手に遊ぶ楽しい時間」などと書いてあるが、 モモは一緒に遊んだりしないので、それは嘘であり、必然的に薄っぺらな表現となっている。 また、「迷い犬を捨てに行ったが、自分よりも早く家に帰って待っていた」という叔母から聞いた話が面白く、 全体との関連付けもないままだらだらと長く書いてある。何回か書き直して、これらがほぼなくなって少し伝わる文章となったように思う。
山田ズーニー氏の「伝わる、伝わらないの境は嘘のない言葉か否かだ」(2006年1月21日の講座)の「嘘のない言葉」とは「根本思想と言葉の一致」という高い次元でのことだが、 私の場合は、現実とは違う「嘘」という低い次元からまず脱する必要がありそうだ。
7、8回は書き直した。書いた直後は「やった」と思うが、しばらくして読み直すと気にいらない、そんな繰り返しだ。 書き直すたびに内容が収束する感覚があったので、書き直し作業を続けた。 この書き直しがテーマをより深く考え、少しは読める文章にできた要因だと思う。 このように「書きながら考える」のではなく、「考えてから書く」ほうが効率的だとは思うが、 そんな能力がないのだから仕方がない。
考えないと文章は書けない、ということを自分なりに再認識した。 マスコミの学校で鈴木洋嗣氏が「執筆のための『見立て』は、考えて、考えて、考え抜くことが重要」 (2006年2月17日の講座)と言っていた。 この場合の『見立て』とは、執筆者の理解、考え方だと思うが、『見立て』が弱いと文章も弱いし、まとまらない。だから考え抜く。 考えるときに大切なことは、山田ズーニー氏の「『良い問い』というスコップを使って自分自身の心の中を何回も掘り下げることによって自分自身を発掘し表現する」 (2005年11月12日の講座) にある『良い問い』なのだろう。
今回のテーマは「長女を失った友人の奥さんが犬に慰められた」だった。何回か書き直していく中で、 「犬はなぜ人を慰めることができるのか?」という問いが出てきて、それを考えるころから、テーマを書き切る自信が湧いてきた。 佐野眞一氏の「書くことは『知の格闘技』」(2005年12月3日の講座)、 轡田隆史氏の「自覚があれば小さな体験であっても素晴らしい文章が生まれる。 『自覚』のための有力な方法が、どんなことにも『なぜ』という疑問を持つことなのだ」(2006年2月4日の講座)というマスコミの学校での講義内容の意味が少し理解できた気がする。
出だしの大切さも痛感した。入稿直後に会社の同僚に読んでもらうと、最初にインパクトのある文章が欲しい、出だしが大切という。 大下英治氏の「出だし3行で読者を引きつける」(2006年2月25日の講座)とか、 轡田隆史氏の「いきなり本題から入り、説明は後から」(2006年2月4日の講座)といった言葉を思い出す。 午後9時ごろ帰宅して、朝4時ごろまでかけて書き直すと、少し引き締まった原稿となる。 同僚に「ぐっとよくなったょ」と言ってもらい、嬉しい気持ちで再入稿した。
「マスコミの学校」仲間からライター募集のメールが仲間全員に入ったのが3月15日だった。 団塊の世代をターゲットにしたサイトをYahoo!が4月1日に開設するので、40歳以上の犬好きでコラムを書く人が欲しいという。 チャンスだ。学校仲間で40歳以上というと私以外は70歳になる方が一人おられるだけのようだし、我家には愛犬モモがいて私は大の犬好きだ。 しかも、まもなくサイト開設というのに今頃ライターを捜しているということは、執筆者が見つからず編集者も困っているに違いない。
翌16日朝一番に応募申込みのメールを送ると、17日金曜日の夕方に編集の方から「ネタはあるのか」との問合せメールが入った。 言葉は丁寧だが、「できるの?」と疑っている感じだ。 当然だろう、書籍などの実績はなく、自作ホームページにつたない文章を書いているだけの者に、ターゲットである団塊の世代で家に犬がいるという理由だけで執筆を依頼すわけがない。 帰宅後徹夜で企画書を作り翌18日土曜日の朝に送ると、20日月曜日に6回各1,200字原稿の執筆依頼があった。
こうして、私の初めてのライター稼業が始まることとなる。 仕事をもらうためとはいえ、最初に徹夜という、その後の何回かの徹夜作業を予見させるものがあったのだが、 そのときは1,200字原稿なんて楽勝だ、と単純に喜んでいただけだった。