我家の前にある広場の端に、高さ3mぐらいの円錐状のものが数本の丸太で組み立てられた。それから何人かの男女が毎日集ってきて
「おとちゃんのためなら、えーんやこーら。おかちゃんのためなら、えーんやこーら」とやり始めた。井戸を掘っているのだ。
円錐状の中央にある重しが、滑車を通した綱で引き上げられて落され、その衝撃で井戸のパイプが地中にめり込んでいく、
そんな仕組みだったはずだ。重しを上げるためにみんながで綱を引っぱるときにこの掛声をかける。力強い大人の姿、
重しの落ちるドスンという音が印象に残っている。
数日で井戸が完成した。手漕ぎ式の井戸で、野球にはじゃまだったが、
冷たい水が飲めるのが嬉しかった。我家の目の前にあるため、我家が一番使っていたようだ。たらいを持ちこんでスイカなどを冷していた。
消防住宅の最近の写真をおふくろに見せたら「井戸はどこだい?」と真先に尋ねた。我家の必需品だったのだろう。
我家の前にある広場の向こう側はバス通りで、左方向への下り坂となっており、広場の左側を通る別の道と坂下で交差している。ある日その交差点を見下ろす広場の端に人が集まった。
バス通り十字路での交通事故だった。
自転車が転がり、十字路の中央で人が四つん這いになっている。映画フィルムの大きい缶が
2、3個ころがっており、どうやら映画館から映画館にフィルムを運ぶ運び屋さんらしい。その四つん這いの人が立ちあがろうとしたのをみて、
誰かが「フィルムを届けないと映画館で映画上映ができないんだ」と言っている。四つん這いのまま、うなだれた額から流れ出た血が
道路に拡がり始めているのが見え、おれは力が抜けてそのまま家に帰ってしまった。足が震えていたかも知れない。
血を見ることの怖さをそれまで知らなかった。それ以降できるだけ血を見ないようにしている。社会人になってから、
駅で電車を待っていて飛込み自殺に出会ったことがある。そのときは、人間とはいえないものを一瞬見ただけですぐに現場を立ち去った。
身近で血を見ずに済んだ幸せな人生だったのかもしれない。
我家は消防住宅と呼ばれる敷地内にあり、9,000平米程度の敷地にはたくさんの家が建っていた。低い土地とつながっている南側は3mぐらいの崖で、崖下には崖に沿った道が通っている。その道に面したこんにゃく屋さんで週1回「日真名氏飛びだす」(1955-1962)というサスペンス
TV番組を見せてもらっていた。
電信柱を伝って崖をおり、番組開始時間までにTVの前に座りこんで準備完了、カメラマンが
フラッシュをたく、タイトルがでる、夢中でくいいるように画面をみる。2週連続の30分番組で、画面に「つづき」がでると「あー、
もう終っちゃった」とがっかりしたものだ。おふくろに訊いたら、ここのおやじさんが元消防庁勤務だったのでTVをみせてくれたそうだ。
消防住宅の南側は3m程度低い土地が広がっていて、家々の屋根が良く見えた。火事などがあれば立上る黒い煙がよく見える。
屋根に上がれば見晴らしはもっとよくなる。
我家は背中合わせで裏の家とくっついており、裏の家との間にある塀を伝わって簡単に屋根に
上がれる。屋根はちょっとした遊び場だった。裏の家のお兄さんに写生を教えてもらったのも屋根の上だった。煙突に書いてある銭湯名を
はっきり書かずにぼかして文字らしく四角ぽく描くことや、煙突の半分を影にして丸みを表すことなどを教えてもらった。今の消防住宅に
その面影はない。消防住宅自体が4階建のアパート群となり、周囲の住宅も平屋などはほとんどない。よく見えるのは背の高い都庁だけだ。
中学校への通学には1時間15分ぐらいかかった。近所にある高校の300mはある長い塀に沿ってバス停まで歩く。
家からバス停までは600mぐらいで姉が毎日付添った、と姉は言うが記憶にない。バスから電車に乗り換え下車駅から約1km歩くと学校だ。
毎日往復で3.2kmは歩いていた。小学生の頃はちょっとしたことで骨折していたが、中学生になってからは骨折しなくなった。
この通学が体を丈夫にしてくれたのかも知れない。
中学では夏休みの宿題もなく、工業高校付属中学だったので高校受験のプレッシャー
もなく、カトリックの外国人神父さんたちの方針で個性を重んじる教育を受け、宗教も学んだ。小学校ではふるわなかった成績も、
中学入学と同時に上位となり、強い自信と精神的な安定を与えてくれた。そういったことも丈夫になった一因だろう。
新宿の坂の途中にあった喫茶店でコカコーラを1回だけ兄貴におごってもらった。50円。高価な買物であり、
後々までこのことを兄貴に言われるはめになる。確かに、飲物に50円というのは破格の値段だ。30円でたぬきうどんが食べれるんだから。
どんなに美味しいものかと期待したが、でてきたものを見てびっくり、さらに飲んでびっくりである。黒土のような色、薬のような味、
こんなものにお金を払うなんてどういうことなんだろうと、がっかりするやら、悲しくなるやら。見みると兄貴も同じ思いのようだ。
それでも50円の手前全部飲んだように思う。このときに「もう二度と飲まないぞ」と思ったコーラが、その後いつのまにか美味しく感じるように
なっている。タバコと同じなんだろう。
我家の前が小さな広場でその向こうがバス通り、バス通りにはこちらを向いて商店が並んでいる。我家の正面は氷屋さんだ。
冬は練炭や炭を売っていた。
我家には氷で冷す冷蔵庫があり、この氷屋さんから氷を買って冷蔵庫の一番上の段に入れる。
おふくろが氷を買って我家に向って来るのを見ながらじっと待つ、氷が着くやいなや触りに行く、舐めに行く。おふくろも氷が好きなので、
冷蔵庫に入れる前に少し割ってみんなで食べる、時には買った半分近くを食べてしまうこともあったそうだ。
氷屋さんの氷は口の中に入れてもなかなか溶けない。冷たい氷を口の中で転がしながら、冷たすぎる口の中と、
暑すぎる空気が夏の記憶の一つともなっている。氷以外に冷蔵庫に何が入っていたのか憶えていない。
バス通りに面した商店街におそば屋さんができた。TVのプロレスを観るために、たまにうどんを食べに行く。 プロレス放送当日に「たぬきうどん食べるの」と母に言うと「たぬきでも、きつねでも食べておいで」と笑いながら30円くれる。それから一目散におそば屋さんに向う。プロレスを観る楽しみだけではなく、外食という楽しみでもある。 おそらく誇らしげにたぬきうどんを注文しているはずだ。かけうどんでは寂しく、天ぷらうどんは高くて言えなかったのだろう。 母が笑いながらお金をくれたのは、そんなおれの気持を見透かしてのことだったのかも知しれない。みりん味の、家とは違う美味しさがあった。 社会人になって京都に住むようになると東京のたぬきうどんが懐かしく、出張などで東京に来ると必ずたぬきうどんを食べた。 50年ほど過ぎた今でも天ぷらうどんよりもたぬきうどんが好きだ。
小学6年生のときに担任の先生の自宅で直接指導を受けた。週2回、8ヶ月ぐらい2、3人で通った。この指導のおかげで良い成績で
中学に入れたと思う。
家からバス通り沿いに600m程度歩いたところにあるアパートの2階に奥さんと2人で先生は住んでいた。
新婚だったそうだ。高い声の奥さんが妙な抑揚で喋るのを聞くたびに可笑しさがこみ上げてきたのを憶えている。
2時間の勉強だった。帰りには、バス通りの肉屋さんで売っている5円のコロッケを買って歩きながら食べる。勉強が終った開放感、
夕食前の空腹、揚げたてのコロッケ、絶妙のコンビネーションで満ち足りた瞬間だった。
コロッケ一つでこれほどの充実感を味わったことはそれ以降なくなった。
新宿にはときどき歩いて遊びに行った。家から3km以上あり結構遠出の遊びだった。 京王線が新宿駅に入る手前で路面電車となり広い甲州街道を斜めに横切るのを見ながら伊勢丹へ向かう。 伊勢丹のエレベータに乗るのが目的だ。なにしろお金なしで乗れる乗物なのだ。あちこちでエレベータのお姉さんに 追い出され、乗るエレベータがなくなると帰る。いかに怒られずに乗るかに知恵を絞る。1つのエレベータに連続しては 乗らない、1つのエレベータで上がったら、隣もしくは別の場所のエレベータで下りる。エレベータのお姉さんとは 目を合わせないようにしていたはずだ。しかし、親が付き添っていない子供がエレベータに乗れば遊びだというのは明白だ。 同じエレベータに2回ぐらい乗ると追いだされるので、この遊びはそんなには長続きしない。 でも毎回わくわくしながら新宿に向ったものだ。
我家の前にある2階建アパートには鉄製の外付階段があり、その階段で遊んでいて一番上から落ちたことがある。 なにもできずにただ転げ落ちていくなかで、まるで映画のスローモーションを観ているような不思議な感覚を味わった。 階段の下まで落ち、しばらくジーとして何が起きたのかを考えた。怪我はなかった。初めての経験でドキドキしながらすぐ家に帰って 大人しくしていたと思う。
京王線の踏切での遊びは剣作り。釘を電車に轢かせて平たくする。ただそれだけだが結構遊べる。
電車が通り過ぎると釘をレールの上に置き、次の電車を待ち、電車が通り過ぎると、飛んだ釘を探し出し、
ピカピカになった平らな部分をさわり、滑らかな感触と生暖かさの感触を楽しみながら剣の出来をみる。
飛んだ釘がなかなか見つからないときもある。友達と二人で線路に上がって飛んだ釘を探していたら、
いつのまにかおやじが立ってこっちを見ている。その踏切はおやじの通勤路だったのだ。しまった、と思ったがもう遅い。
でも「こんなところで遊ぶんじゃない」と言われただけで済んだように思う。1kmぐらいの家への道のりをおやじと一緒に帰った。
手をつないでもらったかもしれない。
おやじが勤務する消防学校に遊びに行ったことがある。家から1.5kmぐらいあり、小学生にとっては遠出の遊びとなる。 高いところからロープで下りる訓練などが見れるのを期待していたのかもしれないし、あるいはおやじに会えるのを期待していたのかもしれない。 訓練場の淵を川が流れており、川に入って遊び、川から這い上がって見つからないようにそっと訓練場を覗き込む。 おやじの職場であり、消防学校の歌も歌えるのだから見つかっても大丈夫、などと勝手に納得しながら。 しばらくして見つかり「そんなところで危ないだろう」と言われ、慌てて逃げ帰った。その夜おやじに「消防学校に行った」と言うと、 「そうか来たのか」と嬉しそうだった。
夕方になるとおふくろが何人かの仲間と買物から帰ってくる。いっぱい買物をして。きゅうりなどをバケツで買ってくることもあったそうだ。 川島通りが安いらしくよく行っていたと思う。川島通りは近所にある高校を過ぎたところにあり家からは800mぐらいある。 便利な近くの商店街には行かずに、安い遠くの商店街に行く。子供たちはそんな親の姿をみながら育った。
小さい頃はよく足を骨折した。小学校への通学時に自転車とぶつかり足の骨を折ったのが2回、姉と相撲をしていて折ったのがたぶん1回、 そのたびにギブスをして学校に行った。おふくろは自転車での送り迎え、途中でのトイレさせなどで忙しく学校を往復したようだ。 確かに松葉杖をついた記憶があまりない。病院は決まっていて、喉の手術や巨大な耳垢の除去などもやってもらった、 甲州街道近くのクロスさんだ。病院でギブスを取ってもらい、軽くなった足で帰るときは最高の気分となる。 中学生になってからは骨折しなくなった。
虚弱体質の子供をあずかる施設におれを入れる相談を小学校の担任の先生にしたら担任の先生が自ら指導することを申し出たこと、 担任の個人指導を受けるのはおかしいと周りから言われたこと、おれが入学した私立の中学校よりももっと良い中学校を先生が勧めたこと、 工業高校付属中学でしかもカトリックの学校だったのでおれを入学させたこと、高校を卒業したら電気屋をやらせようとしたこと、 などをおふくろが話してくれた。子供一筋のおふくろのおかげで今のおれがある。
東京郊外で牧畜と農業を営んでいたおやじの実家には石でできた五右衛門風呂があった。おれが3つになるまではその実家から数km離れた ところに我家があって、夕方になるとおれが入った籠を背負っておふくろが実家に風呂をもらいに行く。井戸から何回も水を運び、 蒔きで風呂を沸かしてはおれを風呂に入れていた。「一番風呂に入れてもらっていたんだよ」と感謝の面持ちで話すおふくろ。 実家との道のりで「いささんは?」とおれに話しかけると「おりこうよ」と背負った籠の中のおれが答えていたそうだ。 おふくろの幸せなひと時だったに違いない。
おやじは新しもの好きで、氷で冷す冷蔵庫、手で振る洗濯機、手ぬぐいで背中を洗う要領で使うマッサージ器などを買ってくる。
TVは近所で最初に買ったはずだ。近所の子供達が窓の外からTVを観ていたのを憶えている。
TVの場面で雨が降りだすと、「雨だ」と言って家に帰ってしまう子がいたぐらいTVはめずらしかった。
偉くなってからのおやじはあまり物を買わなくなったように思う。買うチャンスがなくなったのかも知れないが、
それよりも子供が大きくなって、新しいものを買っても喜ぶ人がいなくなったからではないかと思う。
そのほうが子供一筋のおやじらしい。
おやじには可愛がってもらった。肩車をして風呂に連れてってもらったのは兄弟でおれだけだったようだ。
おやじが出勤するときに手を振って見送るのもおふくろに抱かれたおれだった。おやじに貯金箱をもらったことがある。
透明なプラスチック製で高さ5cmぐらいの硬貨径の筒4つが、上から見ると桜の花びらのように円形状につながっていて、
横に銀行名が書いてあったように思う。一つの筒に同じ種類の硬貨を入れる。おやじがこまめに小銭を入れてくれた。
貯金箱が一杯近くになると、兄弟みんなが集まってきて「このお金を何に使うか」をまるで自分達のお金のように話し始めた。
「どうせお父さんが入れた金だろう」というのがみんなの言い分だ。おれも大人しくうなずいていたと思う。昔から欲のない人間だったのだ。
でも何に使ったのか思い出せない。あまり欲しくもないものを買ったに違いない、いや買わされたに違いない。
おやじに可愛がられておっとり育ったのかも知れない。
小学校から1kmぐらいのところにおやじが勤めている消防学校があり、課外授業での見学会があった。最初に消防学校の説明があり、 おやじが説明役だった。消防学校の門を入ったところにある少し広いところでみんなを集めて説明する、そんなおやじの姿をみてとても誇らし かった。あふくろのおやじをたてる姿を日ごろ見ているため、おやじが偉いのは疑いのないことだったが、この日はそれを目の前にしてドキドキした ものだ。おやじがPTAの役員をやっていたので、この見学会となったのかも知れない。職場での凛々しいおやじを見て何かが心の中に残った ように思う。おやじが消防署長になってからはおやじの職場近くにいつもいたにもかかわらずが、おやじの働く姿はあまり見ていない。 この日の印象だけが残っている。
3歳から13歳まで住んでいた消防庁の職員住宅は消防住宅と呼ばれ広い敷地内に多くの家があった。敷地入口には石の門があり、 門を入ると小さな広場で、その広場を囲むように右側が2階建アパート、左側が偉い人たちの大きな住宅、正面が我々の小さな住宅群 となっていた。門を入ってすぐ左側に街灯があり、碍子製のスイッチを右に廻すと明りが点く。おやじがおれを銭湯に連れて行くときスイッチを 回す。その手元をじっと見つめ、点灯の権限を持つおやじってかっこいいと思ったものだ。おれもスイッチを回してみたいと考えたのが電気への 興味の最初だったかも知れない。
1945年3月10日(土)の東京大空襲では、東京下町約40k平米に70万発もの焼夷弾が投下され、広島や長崎の原爆に匹敵する 10万人以上(推定)の死者が出た。当時浅草に住んでいた叔母は、約17坪に1個という異常な高密度で落下してくる焼夷弾の "雨"の中で助かった1人だ。生死を分けるような未曾有の事態に陥ったとき、何がその人を救うのだろうか。運や偶然とともに、 考え方や性格からくる行動の僅かな差が生死を分けてしまうこともある。叔母の体験談はそんなことを示唆している。
その夜、叔母は熟睡していた。東京町田にある私の父の実家から帰ったばかりで、 しかも日中の空襲のために電車が止まり中野から浅草まで歩いて帰ってきたのだ。 実家でもらった餅や大きな八つ頭などの食料が詰まったリュックを玄関に置くなり、そのまま寝込んだ。 玄関をたたく音とともに「誰かいるのか?」という声で目がさめ、玄関にでると「たかちゃん、まだいたのか。 早く逃げないと焼け死ぬぞ」と言われた。外に出ると玄関前の長屋に火がついている。 「どこに逃げるんだい?」と訊くと「どこでも逃げろ」と見放されてしまう。 避難場所に指定されている富士小学校の方向はすでに火の手が上がっており、というよりも炎の壁となっており、 反対側の隅田川の方に向かった。父親の位牌を胸に、熱さを防ぐための布団を持って家をあとにした。
この東京大空襲は10日午前零時8分、深川に投下された焼夷弾から始まった。7分後にやっと空襲警報が発令され、 その直後ぐらいから浅草への爆撃が始まっている。空襲警報によって天皇を深夜に起こし地下壕に避難させることへの躊躇があり、 警報が遅れたのだ。このことが叔母には幸いした。空襲警報がもっと早かったら町内の人に起こされて、 まだ爆撃されていない富士小学校に避難したに違いない。富士小学校に避難した人はほとんど死亡した。プールだけでも800人が死亡し、 「(後日、)富士小学校のプールは(亡くなった人の服の)ボタンでいっぱいだった」そうだ。
熟睡していたことも幸いした。浅草爆撃直前に発令された空襲警報で避難していたら、 まだ大きな火災にはなっていない富士小学校の方に逃げただろう。熟睡のために、「まだいたのか?」と言われるほど気が付くのが遅く、 そのときはすでに富士小学校方面は燃えていたのだ。当時近所の長屋に住んでいた私の父に美味しいものを食べさせようと、 食料を詰め込んだ重いリュックを担いで中野から浅草まで歩いたことが熟睡を誘い、その熟睡が彼女を助けた。余談だが、 父の実家を出るときに、食料の上を杉の皮で覆い、杉の皮でいっぱいのリュックを運んでいるふりをして駅まで行くように言われ、 重い荷物を軽くみせて歩くのに苦労したそうだ。食料統制下で周りに気を使う必要があったのだ。それでもまだ平和なひと時だった。 そんな日の夜に炎の地獄にいきなり放り込まれることとなる。
位牌だけを持って逃げたことも幸いした。荷物を持っていたために亡くなった人も多い。 隅田公園や言問橋の上では満員電車のように身動きの取れなくなった人々の荷物に火がつきほとんどの人が焼死した。 橋の上は燃える人と荷物で、イルミネーションのように輝いていた、という目撃談がある。川の中で荷物を最後まで放さずに溺死した人もいる。 筏の上から溺れている人を助けようと「荷物を捨てろ」と言ったが荷物を放さず、そのうち水の中に消えてしまった、との体験談もある。 荷物は逃げる自由も奪ったはずで、荷物を持たなかったことが叔母を救った1つの要因となった。
叔母は隅田川沿いにある隅田公園まで逃げ、そこで夜明けを迎える。 叔母の家からは、隅田川に流れ込む山谷堀に沿って500mぐらいのところだが、焼夷弾が落ち、強風が吹き、火災の熱に煽られ、 「道は避難する人で溢れて縁日のようだった」という状況で、それは長い道のりだったに違いない。「(家を出てすぐの市電通りでは、) 市電のレールが火花を散らし、丸まりながら動いていた」というほどの火と高熱の中での避難だったのだ。 途中、隅田公園手前の高台にある聖天様周辺の木立下が安全そうだったのでそこに行こうとしたが、人混みによって公園の方に押し流されてしまう。 その直後、ヒュルヒュルという音が後ろから聞こえ、振り向くと今さっき行こうとした場所に焼夷弾が落下し、青白い炎柱が立っていた。 隅田公園沿いの道に出て、電話ボックスのところにいたグループに入り一緒にうずくまり、やがて夜明けを迎える。 15人ぐらいだったグループは5人ほどに減っていた。
避難したかった聖天様高台下の木立の方に行けなかったことが幸いした。 自己主張が強く「おれがおれが」の性格だったら、人を押しのけてでも木立に向かったかもしれない。 その後、その高台にあった聖天様は激しく炎上しその柱や梁が炎の塊となって、強風に煽られ飛び散り、 隅田公園に避難していた人々の上に降り注いだ。隅田公園の中には入らず、 手前の電話ボックスのところに留まったのも幸いしている。 隅田公園では身動きの取れなくなった人混みのなかで荷物に火がつき多くの人が焼け死んだ。 避難するのが遅かった叔母は、すでに人で一杯だった公園には入れなかったのだろう。 避難したところは比較的すいていて、誰かの荷物に火がついてもその荷物を捨てることができる空間的な余裕があった。 夜明けを迎え、持って出た布団はすでになくなり、かぶっていた防空頭巾も焼け、 髪もクリップ周辺を残して焼けてしまい、服には多くの焦げ跡が残ったが、火傷を負うことはなかった。
夜が明けてから叔母が見た光景は壮絶なものだ。火傷のために立ち上がろうとしても立ち上がれない人、 火傷で皮膚がひらひらとして浴衣を着ているように見える人、焼け死んだ人は焦げたマネキンのようにいたるところに転がっていた。 この日以前の日本本土空爆は軍事施設を主な目標としたもので、この日が民間人を目標とした最初の空爆だった。 荒川と隅田川に挟まれた人口密集地帯が最初に狙われたのだ。武器は、破壊を目的とした爆弾から火災を目的とした焼夷弾に変わった。 それまでとは違う大量の焼夷弾による激しい空爆のなかで、どうしたらよいか見当もつかず多くの人が死んでいった。その後の4月13日夜、 15日夜の赤坂、渋谷、日本橋、品川などへの東京空襲でも、 3月10日の東京大空襲の27万戸焼失に匹敵する22万戸焼失という被害を受けたが、死者は9,766人と、 3月10日の10万人の1割弱となっている。 3月10日以前にこのような大量の焼夷弾による空爆が想定できていたら3月10日の9割の人は死なずにすんだかもしれなかったのだ。 その当時の日本はそのような米国の力を予想すらできなかったのだろうか。
叔母は私の父の安否を確認しようと、父が勤めていた消防署へ向かった。途中、消防自動車が丸焦げになり、 その周辺に消防士らしき人が亡くなっているのを見て、 私の父はダメだったのではないかと考えながら消防署を訪ねると「総長は田中町へ視察に行きました」と聞かされ父の無事を知る。 その後しばらくしてから私の父の実家で暮すようになった叔母は、 「見るものが時々燃えて見える」状態が続いたが1年余りで元の元気を取り戻した。当時23歳だった叔母も今では82歳となり、 東京郊外で元気に暮らしている。優しいなかにも芯の通った叔母だ。3月10日を生き抜いた人なのだから当然だろう。
平和地蔵尊
碑文
第二次世界大戦はその規模においてもその被害においてもまことに甚大であった。
ことに昭和20年3月10日の大空襲には、この付近の横死者の屍が累として山をなし、その血潮は川となって流れた。
その惨状はこの世の姿ではない。これらの戦争犠牲者の霊を慰めることこそ世界平和建設の基となるものである。
ここに平和地蔵尊を祭り、その悲願を祈るため昭和24年4月ここに安置された次第である
大平和塔
建設趣意書
思い出づる調べも哀し昭和20年3月9日の夜、
B29百五十機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と、秒速30米をこす烈風にあふられ、
親は子を呼び、子は親を求むれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、
悪夢の如き夜が去れば・・・・・・眼にうつるものは一面の焦土にて一木一草の生づるもなく、
あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、
敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、
二度とあやまちを繰返すことなく英英に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。以って瞑せられよ。
東京大空襲戦災犠牲者追悼碑
碑文
隅田公園のこの一帯は、
昭和20年3月10日の東京大空襲により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後荼毘に付され東京慰霊堂(隅田区)に納骨された。
戦後四十年、この不幸な出来事や忌まわしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調整するとともに、この地に碑を建立した。
碑の横に置いてあるのが「言問橋の縁石(橋の左右端にあったふち石)」
説明文
ここに置かれているコンクリート塊は1992年言問橋の欄干を改修した際に、
その基部の縁石を切り取ったものです。1945年3月10日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、
大勢の人が犠牲になりました。この縁石は当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。