友人

No.026:司馬遼太郎記念館

 東大阪市にある司馬遼太郎記念館を見学しました。司馬遼太郎氏の小説をさかんに読んだのは入社したてのころです。そのころは時間があり、早い帰宅の途中で本を買っては家で読んでいました。

 入社した1971年の私の「1ヵ月生活プラン」には、スローガン「良き書に親しむ」、本代月3,000円とあります。大卒初任給統計データ1971年43,000円と2004年198,300円(「経済統計は語る」)の4.6倍を考えると、いまでいえば本代月13,800円相当となります。このプランに対する実績記録はありませんが、かなりの本を買って読んでいたことは確かで、そのうち最も多かったのが司馬氏の歴史小説でした。

 その「1ヵ月プラン」には、「(手取り約5万円+残業代)最低必要経費4万円、残り(10,000円以上)は半分貯金、半分がこずかい、ただしこずかいは1万円を超えない。1万円以上になったら残りは貯金」とあります。こずかいは友人たちとの飲み代や行楽代です。本代は別勘定で必要経費内なのですが、これがこずかい(5,000円以上)と勝負できる額であることからも、つつましい暮らしの中で、読書が大切な娯楽だったことがわかります。司馬遼太郎氏の、まだ読んでいない本や連続ものの本を買って帰るときのわくわく感は格別のものでした。

司馬遼太郎記念館
司馬遼太郎氏ご自宅の書斎

 記念館は司馬氏宅の庭に建てられており、庭からは、ご自宅にある書斎を窓越しに見ることができます。その書斎の書棚には、未完に終わった『街道をゆく 濃尾参州記』で参考となるべき資料がそのままの状態で保存されています。3面の壁を覆う書棚いっぱいの資料、多くの資料を参考にして執筆する、それが氏の執筆スタイルであることがわかります。

 氏の蔵書は6万冊だそうで、そのうちの2万冊が、記念館の高さ11メートルの書棚いっぱいに展示されています。これらの蔵書が、小説に視野の広さと深みをもたらし、質の高い楽しさを与えてくれた大きな要因だったのでしょう。氏の小説を読んだ後に他の著者の時代小説などを読むと、とても薄っぺらく、物足りなさを感じたりしたものです。

 司馬氏が「街道をゆく 台湾紀行」(1993-94年『週刊朝日』)を書くときに、台湾での案内役となり、すっかり親しくなった司馬氏から「老台北」と呼ばれた蔡焜燦(サイ・コンサン)さんが「台湾人と日本精神」(1990年日本教文社刊)という本を書いています。そのなかで、司馬氏が「小生は七十になって、自分は『街道をゆく』の『台湾紀行』を書くために生まれてきたのかな、と思ったりしています」と何度か語っていた、と書き記しています。このことを最近知り、台湾への興味を持つようになったこともあって、以前から考えていた記念館訪問を決めました。

 『台湾紀行』で司馬氏は、「帰途、日本にはもう居ないかもしれない戦前風の日本人に邂逅(かいこう:思いがけなく出あうこと)し、しかも再び会えないかもしれないという思いが、胸に満ちた。このさびしさの始末に、しばらくこまった」という記述があります。台湾取材を終えて、台湾人・蔡さんという元日本兵と別れたあとの感想でしょう。最後の台湾からの帰国は1994年4月2日でした。このときすでに通院していた司馬氏は、その約2年後の1996年2月12日に亡くなります。72歳でした。

 戦前、戦中、戦後を体験し、日本とは、国家とは、日本人とは、いったい何なのかを追い求めた司馬氏、膨大な資料をさぐり、多くの土地を訪ね、数え切れない人と会い、思いを綴り続けた生涯で、若いころにもっていた価値観を共有できる同胞ともいえる人々と台湾で出会い、書かずにはいられない気持ちで書いたのが「台湾紀行」だったのでしょう。

司馬遼太郎記念館
還暦後の同期会は今年で3回目、比叡山延暦寺では雪景色が楽しめました。

 ちょうど、同期入社仲間との年1回の宴が京都で開催されるタイミングでした。ちなみに昨年7人だったこの宴参加者は、今年は8人となりました。まだまだ続けていけそうです。若いころの価値観を共有している仲間との宴は楽しく、これに似た楽しさや心地良さを司馬氏も味わい、それが「台湾紀行」を書く原動力となったのではないか、そんなことをふと考えたりしていました。

の記事

No.212:LINEグループ (2024年09月30日)

 LINEグループが便利です。中・高校同期と大学同期の2つのLINEグループがあり、日常的に話をしています。たわいもない話ですが、それぞれの暮らしの断片が見えたりして、参考になるときもあります。話題に無理に入る必要はなく、聴くだけのときもあり、逆に、言うだけで反応のないときもあり、どちらも、気心の知れた数人の仲間なので気楽に楽しんでいます。

No.210:友人が帯状疱疹になりました (2024年07月31日)

 先月、友人から「顔の右半分に何ヶ所か疱疹ができておりこれがかなり痛い」とのLINE報告、受診したとき「帯状疱疹ですか?」と訊ねると、「いえ、単純疱疹です」と明言されたとのこと。でも、1ヶ月経っても治まらないので別の病院で診てもらったら、「帯状疱疹です。いまからでは薬の効果はないので、自然治癒を待つしかありません」と言われたそうです。最短であと1ヶ月はかかるとも。

No.209:「ありがとう 秀吉さん」の長浜 (2024年06月30日)

 今月は長浜へ、秀吉が初めて一国一城の主となり、城を造り、城下町を作りました。周辺から商人を集め、楽市楽座などの施策で町の経済を発展させた秀吉は、町衆に慕われ続けていたようです。天下人となって作った城下町、大阪の原点とも言える町なのでしょう。

No.206:日本海に蟹を食べに行きました (2024年03月31日)

 「(福井県の)小浜に蟹を食べに行くけど・・・(行かないか?)」と京都在住の友人からメールが届きました。京都に住んでいた若いころ、日本海での蟹といえば、蟹、蟹、蟹の蟹尽くしのイメージがあって、しかも、今回のメンバー5人全員が会社の元同僚で、内2人は私と同じ大学、これは行かなくては、と即決しました。

No.201:14回目の会社同期会 (2023年10月31日)

 同期入社を中心とした、かつての遊び仲間が岐阜・下呂温泉に集まりました。関西在住6名、関東在住6名の12名のうち、今回は8名、同伴奥さん4名で計12名の参加でした。会社在籍中から家族ぐるみでの付き合いです。

No.200:恐山と奥入瀬渓流 (2023年09月30日)

 友人夫妻との旅行、今回は恐山と奥入瀬渓流でした。我々夫婦だと電車、バス、徒歩での旅行なので、車を運転する友人との旅行は、車でしか行けないところ、あるいは車でないと便が悪いところ、となります。今回は、新幹線と在来線で下北半島のむつ市に、そこからレンタカーで、霊場恐山、本州最北端大間崎、下風呂温泉、車で南下して、ミシュラン・グリーンガイド二つ星の奥入瀬渓流、カルデラ湖の十和田湖、田沢湖近くの国見温泉、そして盛岡から新幹線で東京、という行程でした。

No.196:伊豆大島G7 (2023年05月31日)

 今月、伊豆大島にG(爺)7が集結しました。大学同期の部活仲間7人、島を観光し、椿油での贅沢なフォンデュをいただき、濃厚な大島牛乳やそのアイスを味わい、夜の勉強会では2人の真剣な議論を子守歌に4人が眠りに陥りました。昨年11月の新潟県松之山温泉での53年ぶりの合宿、その楽しさがまたまた再現されたのです。

No.190:53年ぶりの合宿 (2022年11月30日)

 大学同期の部活仲間との53年ぶりの宿泊旅行です。卒業後はほとんど会うことがありませんでしたが、定年間近になってから数カ月に1回程度会うようになりました。そのころ始めたこのブログ、名前「リタイア間近組」はこの仲間のことです。コロナ禍では、オンラインでの飲み会を毎月のように開催していました。3年ぶりのリアル飲み会、しかも泊り、です。

No.161:会社仲間とのオンライン飲み会 (2020年06月30日)

「この中で、誰が一番早く(10万円の特別給付金を)受け取るか、楽しみだ」、行政の効率の悪さ、IT化の遅れをみんなで嘆いていたときの一言です。会社仲間とのオンライン飲み会でのこと。毎週金曜日、夜6時から10時頃までの4時間ほど、いろいろな...

No.159:オンライン飲み会 (2020年04月30日)

 人から人に感染する新型コロナウイルス、無症状の感染者がいるので、自分も含めて、人はコロナ、だと思っての行動が必要です。このため、日々のウォーキングで人と1m以内ですれ違うときは息を止めています。数秒で、ソーシャルディスタンスの2mは確実に離れます。ジョギングしている人のときはもう少し長く息を止め、かつ道の反対側に移動します。


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