会社仲間の集い、あわら温泉での宴の翌日、車3台で観光に出かけました。一緒に宿を出たのですが、内1台が集合場所に現れません。電話で、「どこにいるの?」と尋ねると、「第1駐車場」との答、ここの駐車場は1つ、第1も、第2もありません。結局、「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」集合を「一乗谷朝倉氏遺跡」集合と思い込んでいたようです。事前に決めた行程が狂い、「行程表を見ていない」と、幹事は少々お怒りでした。
思い込みは誰にでもあるのですが、それを疑わない、あるいは、それが正しいと考えるのは高齢になった証なのでは、と思ってしまいます。体力、気力、思考力が次第に衰える70歳代、越えるべき「80歳の壁」は高く厚いと言われています。我々にもその高い壁が迫っている、ということなのかもしれません。
あわら温泉で1泊し、夫婦で金沢に2泊して帰宅、その2週間後、紅葉を見ようと宿を予約したところ、痛風になってしまいました。歩くと少し痛みが出るようになって数日後、突然、歩けないほどの痛みとなったのです。
2年前に痛風予防の薬を止めてから、痛風発症リスクが高まる尿酸値8を超え、今年、9も超えたのですが、薬を飲む前の40歳から57歳まで同様の値だったので、まあ痛風にはならないだろう、と勝手に決めていました。もう若いころとは違う、まさに「80歳の壁」にぶち当たっていたのです。
会社仲間との集いの解散後、大野城を見物しました。天空の城として有名ですが、「わが殿」という福井新聞に連載された畠中恵さんの小説の舞台でもあります。藩主・土井利忠(どいとしただ)に、金を生む「打ち出の小槌」と言われた家臣・内山七郎衛門(うちやましちろうえもん)の物語で、その屋敷を見物しました。
幕末に黒字だった藩は全国で僅か2つ、そのうちの一つが大野藩4万石なのですが、物語は、藩が大赤字だった明治維新30年ほど前から始まります。4万石と言っても実質石高2万8千石、米を売って入る金は年1万2千両、借金が9万6千両で、利息だけで年9千両という大赤字藩だったのです。
そんな中でも藩主は藩校を作ると言いだし、七郎衛門はそのための金作に奔走します。藩校の次は洋医学の病院、軍の洋式化のための新式の銃や大砲の購入、更には蝦夷地開拓にまで手を出します。次々と必要となる金を工面しているうちに藩は黒字になっていくのです。80石の中級武士だった七郎衛門は、最後には家臣最高位の家老となります。
たとえ赤字であっても、藩の将来を見据えて必要なものは揃えようとする藩主と、その想いに応える七郎衛門、そこには、家柄よりも能力を重んじる藩主と、そういう藩主に忠義を尽くす藩士との、強い絆と信頼がありました。
藩直営の商店、大野屋などが最終的に全国40店舗、それに、北前船5隻、洋式船1隻を持ち、大野の特産品販売や交易などで稼ぎました。明治の廃藩後は、藩から切り離した大野屋からの利益で、生活に苦しむ旧藩士たちを助けたといいます。七郎衛門は明治14年、75歳で亡くなりました。平均寿命がせいぜい44歳ぐらいだった当時としてはかなりの長寿です。生涯現役、しかも藩や旧藩士の為に稼がなくてはならなかったからこその長寿だったのではないでしょうか。現在であれば、「80歳の壁」は優に超えたことでしょう。