仕事が閑散期に入って暇となり、読書の時間が増えました。繁忙期になれば少しは忙しい生活にもどるので、いまは仕事が完全になくなる将来の疑似体験期間といえそうです。だらだらした張りのない生活を想像していましたが、そうでもなさそうです。
「のんびり」はしていますが、「だらだら」はしていません。読書とウォーキングで一応はやりたいことがあるからでしょうか。「張りのなさ」はある程度あるようです。何しろ膨大な時間をかけてきた仕事がなくなってしまうのですから。予想外だったのは気持ちの変化です。普段であれば見逃してしまうような小さな変化なのですが、疑似体験中の身としては気になります。それは散歩で出会う人々への印象の変化で気付きました。
道路工事で汗まみれで働いている人をみると、ろくに働いていない負い目からか、「ご苦労様です」の気持ちが自然と湧いてきます。いままでは、こんなところで工事なんかするなよ、ぐらいに思っていたのに。不自由な身体を引きずるように休みながら歩くお年寄りをみると、明日はわが身と身近に感じるのか、懸命さに心打たれます。「お婆さん、じゃまだよ」ぐらいに思ったときもあったのに。散歩している同年代とおぼしき男性をみると、競争心からか、俺はあんたより歩いているとおもうよ、と心のなかで意味のない虚勢をはったりします。いままではさして気にもとめなかったのに。気弱にもなっているのか、タバコの煙をまき散らしながら歩いている男性への怒りは以前よりも弱まり、楽しそうに話しながら手をつないで歩いている小さい子とお母さんへのほほえましい気持ちに、ああいう子供時代が自分にもあったんだとの感傷的な気持ちが入り込むようになりました。
全体的に気持ちが萎えているような気がします。仕事を失うということはそういことなのでしょうか。長い間かけて積み重ねてきた仕事の代わりはありません。別の仕事では代わりにはならないでしょう。ましてや、読書やウォーキングといった私の軟弱な趣味ではとても代わりになりそうもありません。でも、仕事に限らず何でも、失ったものの代わりなどない場合がほとんどでしょう。代替のない大切なものをいくつか失いながらもこの歳まで無事に暮してきたのですから、時間がたてばこの萎えを超えて十分な気力がよみがえってくるはずだ、と楽観的に考えてはいるものの、自立してからの仕事無しの暮らしは初めてなので気になっています。まあ、じたばたしてもしかたなく、しばらくはこののんびりした暮らしを楽しんでいればいいのかもしれません。取り戻せない、大きなものを失ったときは「時が薬」ともいいますから。